切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国(連合軍)の反攻>

第17章 ニューギニア
88 <米軍、ニューギニア上陸>
1944/4/22
米・豪軍が飛び石作戦でニューギニアの
中部北岸ホーランジアとアイタペに上陸


ニューギニアの密林を進軍する米軍

Allied forces retake New Guinies 1944
USA 1994 発行

ニューギニアの地図
下はオーストラリア北部の地図


パプアニューギニアの国旗
ツバル 1986 発行
パプアニューギニアの地図

パプアニューギニア 1952/10/30 発行



(1)ブーゲンビル島
(2)ニューアイルランド島
(3)ニューブリテン島
(4)ニューギニア島

Milne Bay
ミルン湾
揚陸中の輸送船を襲う米グラマン
Coast Wachers
コースト・ウオチャー
海岸を見張る米軍協力ゲリラ

Kokoda Trail

ココダ道を進軍する連合軍
パプアニューギニア 発行

1942/1/23の帝国軍のラバウル占領以来、オーストラリア領だったポートモレスビー攻撃が始まりました。それに伴いニューギニア各地への帝国軍の上陸がありましたが、珊瑚海々戦の結果、海上からのポートモレスビー攻略は断念されました。4,000m級のオーエンスタンレー山脈を越えての陸上からの攻略は、ポートモレスビーを目前にしながら、ガダルカナルの敗北その他により中止されました。その後、米軍の反抗により、一路敗退へとなってゆきました。

米軍、ニューギニア上陸、1944/4/22、米軍の勝利
 ・帝国呼称:ホーランジアの戦い、(Battle of Hollandia)、1944/4/22
  別名:西部ニューギニア作戦(Western New Guinea campaign、1944/4/22〜1945/8/15)
  米軍呼称(コードネーム):(Battle of Hollandia、code-name:Operations Reckless)
  場所:現インドネシア共和国パプア(イリアンジャヤ)州ホーランジア(現ジャヤプラ)
     (Kota Jayapura, Papua(Irian Jaya) Province, Republic of Indonesia)
 ・帝国呼称:アイタペの戦い、(Battle of Aitape)、1944/4/22
  別名(米軍呼称):アイタペ上陸(Landing at Aitape、code-name:Operation Persecution)
  場所:現パプアニューギニア国サンダウン州アイタペ
     (Aitape, Sandaun Province, Papua New Guinea)
 ・参考HP:〜
   ・ニューギニアの地図(Hollandia、Aitape有)
   ・ホーランジア付近の地図
   ・アイタペの地図
▼発端:〜
・ニューギニアの戦い、1942/3/7〜1943/8/15
  別名(米軍呼称):New Guinea campaign, 1942/1/23-1945/8
1942/3/8に帝国軍が東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領しました。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945/8/15の帝国敗戦まで戦いが続けられました。連合軍の優勢な戦力の前に帝国軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓やマラリアなどの熱病、過酷な自然環境とも戦わねばならならず、ニューギニアに上陸した20万人の帝国軍将兵の内、生還者は2万人に過ぎませんでした。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵も戦闘に参加しました。

太平洋戦争が始まると、帝国軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略して前進拠点とするも、ラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビー基地からの爆撃圏内でした。帝国軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦で、海路からポートモレスビーへ上陸して攻略する「MO作戦」を策定し、ニューギニア島東のフォン湾 (Huon Gulf)北岸ラエやサラモアに前進航空基地の設営を計画しました。ところが、1942/5/8サンゴ海々戦が勃発、1942/6/5にはミッドウェイ海戦で帝国海軍が敗北して「MO作戦」は中止になりました。

連合国軍とっては、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点でした。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る反撃ルートの起点でしたので、1942/5/25にマッカーサー大将はオーストラリア軍最高司令官トーマス・ブレーミー陸軍大将の指揮下にあるニューギニア部隊(ニューギニア・フォース)の司令官バジル・モリス少将にブナの確保を命じ、モリス少将は豪第39大隊を飛行場があるココダへ進撃さ、1942/8/22には連合軍がミルン湾に上陸しました。また、連合軍司令官マッカーサー陸軍大将と豪軍ブレーミー大将はポートモレスビーの帝国による攻略を恐れ、東部ニューギニア部隊司令官をモリス少将からシドニー・ラウェル中将に換え、ラウェル中将が1942/8/13ポートモレスビーに到着しました。1943/3/28には、アメリカ軍統合参謀本部がカートホイール作戦を発令し、ニューギニア方面からの反撃がマッカーサー将軍の下で本格的に開始されることになりました。

・主なニューギニアの戦い〜
東部ニューギニアの戦い
●ポートモレスビーをめぐる戦い(MO作戦)前哨戦:〜1942年 ポートダーウィン空襲

オーストラリア 1992 発行
1/23 帝国軍がニューブリテン島のラバウルを攻略
2/19 帝国軍がラバウルから豪州北部のポートダーウィンを初空襲
2/24 帝国軍がラバウルからポートモレスビー基地空襲を開始
3/7 帝国陸軍の南海支隊の1個大隊がサラモアに上陸
3/8 帝国海軍の陸戦隊がラエへ上陸
3/10 米空母機動部隊(ヨークタウン・レキシントン基幹)がラエとサラモアの帝国軍を空襲、帝国損害は艦船4隻沈没、中破小破14隻
4月末 帝国陸軍と海軍は協力してポートモレスビーを攻略するため、第一航空艦隊の一部と第四艦隊で「MO作戦」実施を決定
5/3 帝国軍がソロモン諸島ツラギを攻略、水上機基地を設営
5/8 珊瑚海々戦の帝国空母 翔鳳喪失などで帝国海軍が「MO作戦」を中止
5/25 連合軍がココダへ進出
6/5 ミッドウェイ海戦の帝国海軍敗北で、サモア諸島とフィジー諸島攻略(FS作戦)が中止となる
ソロモン諸島・ニューギニア方面の拠点ラバウル基地(航空隊)は一層重要度を増し、ラバウルの安全を脅かすポートモレスビーの攻略が重要となり、帝国陸軍は東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000m級)を越え、直線距離220kmを陸路で侵攻するポートモレスビー攻略作戦「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を実施のため、新設された第17軍に南海支隊(支隊長:堀井富太郎陸軍少将)を編入。南海支隊は第55師団一部の歩兵第144連隊(高知)と山砲兵第55連隊第1大隊などで編成され、FS作戦に投入予定の歩兵第41連隊(福山)とマレー作戦に投入された独立工兵第15連隊を編入して強化
6/25 連合軍がミルン湾ラビ上陸、飛行場建設、連合軍が反撃開始
7/14 南海支隊独立工兵15連隊(横山予助大佐)にニューギニア偵察へ出動命令
7/15 比島ダバオの17軍司令部に大本営の参謀辻政信中佐が到着、モレスビー攻略を督促
7/17 17軍司令部が南海支隊にポートモレスビー攻略を下令
7/20 横山第144工兵連隊第1大隊砲兵中隊が先遣隊としてラバウルを出発
7/21 先遣隊がニューギニア・ブナ北西5km付近のギルワに上陸、ココダへと前進。

●海上からのポートモレスビー(MO)作戦と珊瑚海々戦:〜1942年
 (帝国呼称:Operations Mo、1942/5/1〜1943/5/8) 珊瑚海の戦い

オーストラリア 1992 発行
4/30 帝国軍は海からのポートモレスビー攻略「MO作戦」を発動
5/1 帝国空母機動部隊と上陸部隊の南海支隊がトラック基地からポートモレスビーへ向かう
連合国軍もこれを阻止すべく空母機動部隊を投入
5/7 〜5/8、珊瑚海々戦
・米軍は空母レキシントン号を喪失
・帝国は空母 祥鳳と艦載機多数を喪失
・帝国は上陸部隊輸送船団護衛が困難で、MO作戦は7/3まで延期となる
・6月のミッドウェー海戦敗北で、海路からのポートモレスビー攻略を断念。

●陸路ポートモレスビー作戦(レ号作戦、別名:スタンレー作戦)
  (帝国呼称:Operations Re-Go、1942/3/7〜1943/1/23)
  1942/5/18、南海支隊を指揮下に置く第17軍が編成される
  (第17軍:ソロモン諸島方面と東部ニューギニア方面を担当)
<レ号作戦の経過>
ラビの戦い(ニューギニア島南東端ミルン湾北岸)、1942/8/24〜9/6
   (Battle of Milne Bay, 1942/8/25-1942/9/7)
ミルン湾の戦い

オーストラリア 1992 発行
6/25 米軍工兵中隊、豪軍などがミルン湾沿岸のラビに上陸、
飛行場建設を開始
8月 滑走路2本の飛行場が完成、
防衛隊ミルン・フォースが編成され、部隊が到着
8/4 帝国海軍偵察機がラビに連合軍飛行場を発見
8/22 ミルン湾北岸ギリ・ギリ(Gili Gili)に豪軍8,500、米軍1,300人上陸
8/24 帝国第8艦隊支援の海軍陸戦隊がラビへ上陸するも、2度の飛行場攻撃が失敗
9/5 帝国ラビ攻略部隊の海軍陸戦隊が撤収、作戦は失敗に終る。

ココダ道の戦いポートモレスビー作戦の前半
  (Kokoda Track campaign, 1942/7/21-11/16)
ココダ道の戦い

オーストラリア 1992 発行
7/21 ブナ近くのゴナに帝国の山越え部隊先遣隊(独立工兵第15連隊)が上陸。豪第39大隊はココダで防御を試みるも南海支隊に占領され、イスラバへ後退して防御
8/7 ガダルカナル島の戦いが始まる
8/18 南海支隊主力上陸、オーウェンスタンレー山脈の2,000m以上の峠越えへ進撃。南海支隊主力(歩兵第144連隊基幹)がブナ地区バサブアへ上陸、戦闘開始
8/19 第17軍司令部が一木支隊先遣隊のガダルカナル島上陸成功の報を海軍から受けるも上陸後の詳報が不明
8/21 一木支隊揚陸成功(8/18)で海軍独力でのラビ攻略が発令される
南海支隊は3,000m以上のオーウェンスタンレー山脈の峠を越える
8/23 南海支隊主力が先遣隊と合流、陸路ポートモレスビーへ進撃、戦闘開始
8/24 南海支隊(第55師団)主力が約2,000mのココダに到着
8/25 第17軍司令部が一木支隊全滅(8/21)の報を受信
8/26 第55師団第144連隊第1大隊がイスラバを攻撃するも負傷者が続出
ジャングルに不慣れな帝国軍の侵攻は難航
8/27 帝国軍の攻撃に豪軍1個大隊基幹の第30旅団は善戦
8/29 帝国軍の攻撃に豪第30旅団は善戦
8/30 帝国第55師団第41連隊主力がイスラバに到着
豪第39大隊は退路を断たれることを恐れて退却
8/31 帝国南海支隊がイスラバを占領
9/1 小岩井大隊を前衛でポートモレスビーへ前進開始
9/2 帝国軍がギャップに到着
9/4 帝国軍がスタンレー山脈の峠に到着、ラバウルの第17軍に峠への到達を報告
9/8 帝国軍がエフォギを占領
9/13 南海支隊がオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビー直線距離50kmのイオリバイワで豪第25旅団陣地へ攻撃開始
9/16 朝、豪州軍陣地を占領するも、食糧弾薬の補給が途絶
「パプア湾ポートモレスビーの灯が見えた」との勝利記事が、帝国の新聞に掲載される
9/17 南海支隊は食料が尽きたまま、先衛の歩兵第41連隊主力がココダに向け撤退を開始
9/20 41連隊主力がイオリバイワの144連隊後衛部隊を41連隊第2大隊とする
9/24 41連隊が後退命令で食糧欠乏と熱病などの病いをおして後方ココダへの撤退開始
41連隊第3大隊長 小林朝男少佐は転勤のため帰国
114連隊第2大隊長 堀江正少佐は陸軍大学校受験のため帰国
9/28 豪軍がイオリバイワを奪還、本格的に攻勢を開始
10/3 豪軍がギャップに着いて帝国ギャップ陣地を包囲、帝国軍の撤退は難航
10/4 イオリバイワを先発した南海支隊がココダに到着
10/8 物資、患者輸送の輜重隊が解体されて原隊に復帰、戦闘、防衛線は5日間、豪軍を阻止
10/10 ジャウレ道から米軍が進撃して、退路が断たれ堀井少将が撤退を決定
10/14 帝国スタンレー支隊がギャップ、イオラで抵抗するも、米第32歩兵師団一部が山脈を越えて空路到着、先回りでブナを窺う形勢となる
10/15 豪軍がボーフを占領、ワイロビから進出した豪第25旅団がゴナに到着
豪軍はワイロビのクムシ河橋を確保しバサブア、ギルワに達し、南海支隊はピンガで激流のクムシ河渡河とゴナへの退却で多数の行方不明者を出し、バサブア・ギルワ地区で乱戦
10月 下旬、豪軍がスタンレー支隊へ猛攻、第17軍は南海支隊へギルワ河右岸まで撤退を下令
11/10 南海支隊はココダからオイビへ、さらにオイビからも撤退
ピンガ(西方向)経由でバサブア(ゴナ)へ向かう
11/16 カヌーでクムシ河を下り海路ギルワへ向かう南海支隊長 堀井少将がカヌー転覆で溺死。

ブナとゴナの戦いポートモレスビー作戦の後半
  (Battle of Buna-Gona, 1942/11/16-1943/1/22)
11/16 連合軍がブナへと進撃、ブナ攻略を開始する
11/19 南海支隊がココダからクムシ河を渡河してパサブアへ到着
11/20 バサブア(ゴナ)の帝国軍が、連合軍の占領戦術(オキュペーション・タクティクス(Occupation Tactics)敵が居なくなってから占領する戦術)で包囲される
12/1 最後の駆逐艦輸送隊がラバウルを出港、パサブアへ向かうも、到着と同時に空襲で輸送兵員を乗せたまま避難、一部が北方のクムシ川河口に避難、400余の兵と21旅団の山県旅団長が上陸、小田南海支隊長はまたも上陸できず
12/8 豪軍(1個旅団数千人)が遠巻き銃砲撃攻撃という占領戦術で、飢えと病いに耐えた帝国パサブア(ブナとゴナ間帝国の兵員物資の揚陸地)守備隊約500人が約2ヵ月後、全滅(玉砕)
12/14 小田支隊長がブナ北80kmのマンバレー河口に上陸
12/17 小田支隊長が歩行可能な将兵をギルワから脱出させて、拳銃で自殺
1943
1/2 ブナの帝国守備隊が玉砕
1/13 第8方面軍が第18軍にギルワ、ブナ周辺の帝国軍撤収を下命。南海支隊は海陸から敵中をクムシ河口に後退、大発艇でラエ方面に転進。小田支隊長自殺後にブナ方面戦闘は終結。この作戦参加の陸海軍将兵は計15,900余人、オーエンスタンレー機動間に4,500余人、ブナ周辺陣地戦で8,000余人の将兵が戦死、撤収は3,400余人。

▽陸路ポートモレスビー作戦:〜、1942/3/7〜1943/1/23
<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
帝国軍〜11,000人
○連合軍の兵力
豪軍〜14,000人
米軍〜6,500人
○帝国軍の損害
・戦病死〜6,500人
○米軍の損害
・戦病死〜4,900人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
<陸軍>
・第17軍:司令官 百武晴吉中将(1888-1947病死)
・第18軍:司令官 安達二十三中将(1890-1947ウェワク北ムシュ島自殺)
 ・南海支隊(歩兵第144連隊基幹)
  ・支隊長:堀井富太郎少将(1890-1942/11/23クムシ河口溺死)
    後任:小田健作少将(1888-1943/1/21クムシ河畔自決)
  ・配属〜歩兵第41連隊、独立工兵第15連隊、独立高射砲第47大隊、高砂義勇隊ほか
 ・独立混成第21旅団主力(司令部及び歩兵第170連隊の2個大隊)
  ・旅団長:山県栗花生少将(1890-1945/2/15レイテ決戦輸送中海没)
・第38師団 歩兵第229連隊第3大隊
<海軍>
・横須賀第5特別陸戦隊主力、兵力〜285人
  ・司令:安田義達大佐(1898-1943/1/2ブナ戦死)
・佐世保第5特別陸戦隊一部〜兵力108人
・第15設営隊、警備兵〜約100人、軍属〜560人
・第二艦隊第十八戦隊
 ・軽巡洋艦 天龍、龍田など(1942/7月ブナ・ゴナ上陸支援)。

○連合軍の編成:〜(米豪軍)
米軍
・第1軍団
  司令官:ロバート・アイケルバーガー少将
 ・第32師団(U.S.Army 32nd Infantry Division)
 ・第41師団(U.S.Army 41st Infantry Division)
<豪軍>
・第7師団(Australian 7th Division)
  ・基幹〜第18旅団、第21旅団、第25旅団
・第6師団〜第16旅団、第30旅団(30th Brigade)。

●その他の東部ニューギニアの戦い
ワウの戦い、ラエ(フォン半島)をめぐる戦い
  (Battle of Wau, 1943/1/29-1/31)
米C-47輸送機

ツバル 1995 発行
1/5 ワウの飛行場が連合軍の攻勢拠点となる前に占領しようとして、第51師団のラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」が発令され、歩兵第102連隊基幹の岡部支隊(支隊長:第51歩兵団長岡部通少将)が輸送船5隻、護衛の陽炎型駆逐艦5隻(浦風、谷風、浜風、磯風、舞風)に分乗してラバウルを出発
1/6 朝から連合軍機が船団を空襲
1/7 船団がラエ泊地着、米機空襲で日龍丸が沈没、乗船の第3大隊は装備と兵員の一部を喪失。妙高丸も揚陸中に航行不能で海岸へ擱坐、輸送船2隻を失うも大半の約4,000人が上陸成功
1/16 岡部支隊が食糧10日分携行でサラモア南西60Km山間部の鉱山町ワウへとサラモアを出発
1/27 午前10時、岡部支隊主力がワウ飛行場一帯を見下ろす高地に到達、戦闘開始
1/28 朝、待望の好天に豪軍はワウ飛行場への緊急輸送で戦闘機護衛下にC-47輸送機7〜8機が1時間おきに着陸して増援の第2/5・第2/7大隊840人が到着
1/29 〜1/31、岡部支隊が夜襲などでワウを攻撃するも、連合軍の反撃と食糧不足のため大きな損害を出して攻撃は失敗
2/1 豪軍は兵員・物資の空輸を続け、戦力は将校201、下士官兵2,965人が増員される
2/14 帝国第18軍が後退を指示、岡部支隊は戦闘を中止してワウから撤退を開始
2/24 岡部支隊はムボ付近へ後退。戦闘による岡部支隊の死傷者は800人、山中機動と戦闘行動中の給養不足で将兵の体力は消耗、マラリアが続発、一時は戦力が皆無に近い状態となる。

こちらで
ビスマルク海々戦(ダンピール海峡の悲劇)、Battle of the Bismarck Sea, 1943/3/2-3/4
 ・ニューギニア増援の第51師団輸送船団がダンピール海峡で、ほとんど海没
・米軍のカートホイール作戦(車の両輪作戦)、1943/6/30〜1944/1/29(狭義)
 ・マッカーサー将軍とニミッツ提督の反撃路が決定(1943/3/28)され、
  連合軍の飛び石作戦で強力な帝国空軍の前線基地ラバウルなどを素通りして孤立化
・帝国のい号作戦、Operation I-Go、1943/4/7〜4/14を
お楽しみください。

ラエ・サラモアの戦い(Battle of Lae-Salamaua)
 別名(米軍呼称):(Salamaua-Lae campaign, 1943/4/22-9/16)
 ・1942/8/08、帝国第51師団約15,000人が東部ニューギニアの要地ラエとサラモアを占領
 ・1943/4/22、豪軍第2・第7大隊がサラモアに上陸
 ・1943/9/11、豪軍主体の連合軍がサラモアを奪還
 ・1943/9/16、豪軍主体の連合軍にラエを奪還されたので、
          帝国軍は標高4,100m級のサラワケット山系を越えて撤退を開始
          「サラワケット越え」でフォン半島北岸キアリへ向って敗退
 ・1943/10/5、帝国軍はラエ出発から約3週間でキアリに到着、多数の犠牲者を出す。
<ラエ・サラモアを巡る戦い>
・第1次・第2次ムボの戦い
 (First Battle of Mubo、1943/4/22-7/14)
・第1次・第2次ボブデュビの戦い
 (First Battle of Bobdubi、1943/4/22-8/19)
・ラバビア山麓の戦い
 (Battle of Lababia Ridge、1943/6/22-6/23)
・連合軍のナッソー湾上陸
 (Landing at Nassau Bay、1943/6/30-7/6)
・タンブ山の戦い
 (Battle of Mount Tambu、1943/7/16-8/18)
・ルーズベルト山麓の戦い
 (Battle of Roosevelt Ridge、1943/7/21-8/14)
・連合軍のラエ上陸
 (Landing at Lae、1943/9/4-9/16)
・連合軍のナザブ上陸(空挺作戦)
 (Landing at Nadzab、1943/9/5)

フィンシュハーフェンの戦い、1943/9/22〜1943/12月下旬
 (Battle of Finschhafen)
  別名:フォン半島の戦い(Huon Peninsula campaign、1943/9/22-1944/3/1)
 ・1942/03/10、帝国軍がフィンシュハーフェンへ上陸・占領
 ・1942/12/18、ウェワクに第20師団(兵力約1万3千人)が上陸(1943/1月下旬説有)
          マダンに航空基地を建設した後
          4月以降、マダンからラエまでの道路(300km)を建設中で、9月頃60km工事を終了
 ・1943/9月頃、フィンシュハーフェンに展開の帝国軍は第1船舶団司令部と第41師団歩兵第238連
          隊第1大隊基幹の750人、海軍第85警備隊の一部(435人)の他、第51師団第4野戦
          病院と入院中のラエ・サラモアの戦いでの傷病兵
8/10 第18軍安達中将が第20師団一部にフィンシュハーフェン移動を下令
8/26 第20師団歩兵第80連隊の約200人が舟艇機動でフィンシュハーフェンに到着
9/4 豪軍がラエへ上陸すると、第20師団主力のフィンシュハーフェン移動を決定
9/20 第80連隊残りと野砲兵第26連隊第3大隊(山砲編成)が陸上移動で到着。フィンシュハーフェン帝国軍は陸軍約4000人と海軍約450人となるも、師団主力の集結は10月上旬と予想
9/22 豪第9師団第20旅団がフィンシュハーヘン北方スカーレット海岸(アント岬)に上陸
帝国歩兵第80連隊がサテルベルグ高地へ後退
10/2 豪軍がフィンシュハーフェンを占領
10/11 第20師団長片桐茂中将と歩兵第79連隊ほか第20師団主力(1個連隊欠)が険しい山道を踏破、サテルベルク高地着。主力が陸上から侵攻する一方、歩兵第79連隊第3大隊の一部(杉野挺身隊)184人を海上機動して逆上陸させる総攻撃作戦が立案される
10/15 軍将校が落とした荷物から師団作戦命令書が連合軍に回収され、奇襲の筈の逆上陸は筒抜けとなる
10/17 未明に総攻撃開始、歩兵第79連隊杉野中隊は大発動艇3隻で出撃するも1隻は途中ではぐれ、2隻が午前1時30分に豪軍背後のスカーレット海岸へ奇襲のつもりで上陸するも、逆上陸を予知していた豪軍が海岸で待ち伏せをして多数の曳光弾が上陸直後の杉野挺身隊を襲い、兵184人中72人が戦死、杉野中尉以下18人が重傷を負い、第20師団本隊と連携不十分の上、待ち伏せされて攻撃困難で撤退。第20師団主力は戦闘の発生に気がつくも道に迷い、総攻撃開始に間に合わず
10/24 杉野挺身中隊が敵中横断して帝国軍本営にたどり着くも生還者は7人
11/27 豪軍がサテルベルグ高地を制圧
12/19 第20師団は転進(撤退)を命令、帝国軍残存将兵はフォン半島北岸キアリに向けて後退
1/2 (1944)米第126連隊戦闘団がマダンとキアリ中間のサイドル(グンビ岬)上陸、キアリ(シオ・ガリ地区)帝国第20師団と第51師団6,949人(サラワケット越え撤退の計約1万3千人)は退路を絶たれ、2度目の山越えでフィニステル山系中腹を横断してガリから撤退(ガリ転進
2/2 ガリ転進で1ヵ月後マダンに到着。

ラム河谷の戦い、1943年
  (Battle of Ramu-Valjey)
10月 帝国第20師団歩兵第78連隊がマダンから建設の道路を、豪軍が逆にたどってラム河谷へ進攻、フィニステル山系歓喜嶺守備の帝国軍と激戦となる
1月 シャギーリッジ(屏風山)では守備する片山中隊が頑強に抵抗し激戦となり、豪軍は陸空の攻撃を集中させ、片山中隊が全滅
1/31 帝国軍はフィニステル山系からマダンへ撤退
豪軍は帝国軍マダンの拠点へ迫る
※ラム川:ニューギニア島ビスマーク山脈から北岸でビスマーク海に注ぐ長さ約 640kmの川。
参考HP:〜
パプアニューギニア国の地図(Bismark Range、ラム川(Ramu)有)

西部ニューブリテン島の戦い 米軍機甲部隊がLSTで上陸

サモア 1995 発行
1943 マーカス岬アラウエ(グロセスター岬の戦い
12/15 未明、米第112騎兵連隊戦闘団(機甲部隊)がダンピール海峡フォン半島対岸アラウエに上陸、ニューブリテン島西部守備の帝国第8方面軍第65旅団と第17師団一部が激しく反撃
12/26 米海兵隊第1海兵師団がニューブリテン島西端のグロスター岬に上陸、島西部の帝国軍は島の東へと退却。これでダンピール海峡は突破されビスマーク海は連合軍の制圧下となり、ラバウルからのニューギニア方面への補給は絶望的となる。

アドミラルティ諸島の戦い、1944/2/29〜1944/5/31
  (Admiralty Islands campaign、1944/2/29-1944/5/18)
ロスネグロス島の戦い:〜
  (Battle of Los Negros)、1944/2/29-1944/3/7 上陸用舟艇LCVPで上陸

ヒギンズ・ボート
パラオ 1993 発行
2/27 偵察員5人がPBY飛行艇でロスネグロス島に潜入
2/29 朝、ブルーワー任務部隊がロスネグロス島南東部ハイン湾へ上陸開始。上陸用舟艇に気付いた帝国沿岸砲が発砲するも、艦砲射撃で制圧される
1600 マッカーサー大将とキンケイド中将が上陸、アドミラルティ諸島占領を決定し、後続部隊の派遣を下令。マッカーサー大将らは去り、以後の総指揮は第6軍司令官クルーガー中将となる
帝国歩兵第229連隊第1大隊が夜襲するも撃退され、多数戦死
3/3 帝国軍の全力夜襲で米軍に大損害(死傷305人)を与えるも、
独混第1連隊第2大隊は大隊長以下全滅状態となる
3/6 米軍は増援部隊を得て前進、モモテ飛行場(ハイン飛行場)を占領、豪P-40戦闘機が進出
3/7 ロスネグロス島ゼーアドラー湾各地に米軍が上陸
帝国第4航空軍が数度、上陸部隊攻撃や補給物資の空中投下を行うも、悪天候などで、さしたる成果は無し、帝国第8方面軍司令部は玉砕前提の最後の攻撃を現地部隊に指示するも、江崎大佐は命令無視で持久戦の方針を採り、ロスネグロス島での抵抗は止め、残存帝国軍部隊をマヌス島に集結。ロスネグロス島の陸軍備蓄食料は4月中旬までしか無く、マヌス島海軍部隊の物資を合わせれば7月上旬まで持久可能と判断。

マヌス島の戦い:〜
  (Battle of Manus)、1944/3/11-1944/5/31 上陸用舟艇LCVで上陸

サモア 1995 発行
3/11 マヌス島上陸事前偵察に米軍はゼーアドラー湾ハウウェイ(Hauwei)島など数か所へ上陸。ハウウェイ島守備の梅林隊所属海軍陸戦隊員43人が105mm沿岸砲などで応戦し、アメリカ軍の増強偵察小隊30人はカーター・ヴァーデン少佐以下11人が戦死・行方不明、残る全員が負傷して退却。乗ってきた上陸用舟艇(LCV)も撃沈され、魚雷艇が収容
3/12 米第7騎兵連隊第2大隊と戦車1両、支援砲兵1個大隊、豪空軍機などが攻撃
3/13 帝国守備隊が全滅するも、米は戦死8、負傷46人で上陸を延期
3/15 米第2騎兵旅団主力がマヌス島ロレンゴウ西方5km付近に無血上陸。上陸部隊は戦車数両と豪空軍P-40戦闘機の支援を受け、帝国守備隊の海軍第88警備隊と歩兵第229連隊の2個小隊がトーチカを火炎放射器や砲撃で潰され、人員の半数を失い、残存部隊はロレンゴウ南方ロッサムへ後退 魚雷艇 PT-Boatで救出

シエラレオーネ 1995 発行
3/18 米軍が飛行場などを占領
3/25 米軍の追撃でロッサムの帝国残存部隊も壊滅
3/28 手製のいかだなどでマヌス島に渡ったロスネグロス島残存兵約800人と大打撃を受けたマヌス島部隊は組織的な反撃はできず、期待の海軍物資はすでに米軍支配下
4/30 帝国軍は守備隊としての組織が解体し、小部隊ごとに各個撃破される
5/1 帝国残存兵力が陸軍1050、海軍500人、「全員装具食糧なく、守備隊の行動に関し、軍の指示を仰ぐ」との無線通信を最後に、島外の上級司令部との連絡が途絶
5/18 クルーガー中将はアドミラルティ諸島での作戦完了を宣言(以後も多少の戦闘は有)
5/31 帝国軍は全員玉砕とみなして処理。

エミラウ島の無血占領
 (Landing on Emirau, 1944/3/20-3/27)
   ・3/20、米第3両用戦部隊がニューアイルランド島カビエン北方のエミラウ島を確保
        飛行場を建設。

●連合軍の反撃:〜(1943-1944)
1942/6/25、連合軍がミルン湾ラビ上陸、飛行場建設、連合軍が反撃開始
・連合軍の進撃路:〜(上陸(攻撃)日)
<東部>
・42/06/25〜ミルン湾ラビ、43/1/29ワウ
・42/11/16〜ブナ
         パサブア、42/10/15豪軍がココダから山越えで到着
         ゴナ、42/10/15豪軍がココダから山越えで到着
・43/04/22〜サラモア
・43/09/04〜ラエ
         帝国のサラワケット越え(ラエ43/9/16→キアリ43/10/5)
・43/09/22〜フィッシュハーヘン
・43/12/05〜シオ
・44/01/02〜サイドル(マダンとキアリ中間)
         帝国のガリ転進(ガリ(キアリ)44/1/2→マダン44/2/2)
・44/02/29〜アドミラルティ諸島
<西部>
・44/4/22〜アイタペ
・通 過 〜 ウェワク
・44/4/22〜ホーランジア
・44/4/24〜マダン
・44/5/17〜ワケダ島
・44/5/17〜サルミ
・44/5/27〜ビアク島
・44/7/10〜ドリニュモール川(アイタペ・ウェワク間)
・44/9/15〜モロタイ島
・44/10/20〜比島(レイテ島へ上陸)。

西部ニューギニアの戦い
  (Western New Guinea campaign, 1944/4/22-1945/8/15)
・連合軍の飛び石作戦(西部ニューギニア)
飛び石作戦
連合軍はフィリピン攻略という戦略目標にとって価値がない帝国軍の拠点は放置して必要な拠点のみを攻略していく「飛び石作戦」に移って、マダン・ハンサ・ウェワクなどの帝国軍拠点を一気に通り越しました。
マッカーサー将軍
ホーランジアで指揮


カートホイール作戦
マッカーサーライン地図

トンガ 1992 発行
1943 帝国が第2方面軍を新設
10/30 帝国は豪北方面の防衛体制強化のため、満州チチハルの軍を転用して第2方面軍を新設
12/1 満州から転用の第2軍が新設され、西部ニューギニア(ホーランジアの少し西)以西を担当。司令官は豊嶋房太郎中将が新任されてニューギニアのマノクワリに到着
1944
1月 第2軍配属の第36師団(北支から転属)がニューギニアのサルミに到着、飛行場を建設。続いて第35師団(北支から)と海上機動第2旅団(満州で編成)が派遣されることになる
3/25 東部ニューギニア第18軍と第4航空軍がラバウル第8方面軍から第2方面軍指揮となる
4/26 北支から転属の第35師団が米潜の攻撃で多数水没(竹一船団の遭難)
4/27 第2方面軍司令官 阿南大将と軍司令部がセレベス島メナド着(第19軍と第2軍を指揮)
5/6 北支から転属の第35師団が米潜の攻撃で多数水没(竹一船団の遭難)
5/7 満州から転属の海上機動第2旅団が米潜の攻撃で多数水没(海上機動第2旅団の遭難)
下旬 帝国第35師団がニューギニア西端のソロンに到着
6月 上旬、海上機動第2旅団がニューギニア西端のソロン東方マノクワリ到着。

ホーランジアの戦い、1944/4/22〜6月下旬
  (Battle of Hollandia, 1944/3/30-4/3)
 別名(米軍呼称):ホーランジアの戦い(Battle of Hollandia、code-name:Operations Reckless)
  米軍作戦名:レックレスとパーセキューション作戦
  (code-name:Operations Reckless & Persecution, 1944/4/22)
 ・アイタペ上陸(Landing at Aitape)、1944/4/22
  米軍作戦名:パーセキューション作戦(code-name:Operation Persecution)
   ・アイタペ・ウェワク作戦
    (Aitape-Wewak campaign, 1944/11-1945/8)
   場所:ホーランジア(現ジャヤプラ)
1943 3月、帝国海軍がホーランジアに飛行場を建設 連合軍の空襲で地上に
撃破された帝国軍機


モルジブ諸島 1990 発行
1944
3月 帝国はウェワク方面第4航空軍をホーランジアへ後退
3/25 第4航空軍の司令部がウェワクからホーランジアに後退
3/30 連合軍の大空襲で帝国軍の130機余が地上撃破される
4/11 第6飛行師団長心得の稲田正純少将がホーランジアに到着
4/15 第4航空軍が南方軍の指揮下に入り、司令部をホーランジアから
セレベス島メナドに移動
4/20 第18軍兵站関係者約6,600人、第6飛行師団中心の第4航空軍関係者約7,000人、海軍第9艦隊関係者約1,000人の計約14,600人が駐留するも、兵站関係部隊と航空関係部隊が大部分で、地上戦闘員は少数の南洋第6支隊が守備隊として送られるも現地で兵員調達予定(500人弱)で幹部要員のみ、しかも輸送船を撃沈されて兵器弾薬を喪失した状態で到着
4/21 連合軍上陸前の空母部隊約600機大空襲でホーランジアの帝国軍航空機が壊滅
4/22 米軍第24・第41師団主力約4万人がフンボルト湾・タナメラ湾からホーランジア(ウェワク西約350Km)に上陸。同時に米軍約2万人がアイタペ(ウェワク西約150Km)に上陸
4/23 日没直後に帝国機1機が攻撃、弾薬庫を炎上させて補給物資に大損害を与える
4/26 飛行場などは連合軍の制圧下に入り、帝国軍は400km先のサルミへと撤退
(ニューギニア西部サルミ地区:サルミ・マッフィン湾岸ローンツリーヒル(入江山)・ワケダ島)
6/6 米軍の掃討戦が終る。

サルミの戦い
  (Battle of Sarm)、1944/6/14-9/1
  別名:ローンツリーヒル(入江山)の戦い(サルミ地区のマッフィン湾岸)
   (Battle of Lone Tree Hill、or Battle of Wakde-Sarmi)
1943/12月 帝国第36師団を基幹の1万4,000人が到着、サルミ・ワクデ島地区を守備
1944/5/17 サルミ東方のマッフィン湾へ米第31歩兵師団(1個連隊欠)、第123連隊戦闘団、第158連隊戦闘団が上陸。サルミ地マッフィン湾岸ローンツリーヒル(入江山)の帝国軍は米第158連隊戦闘団と激戦、米軍が大損害
9/1 帝国軍は後退・持久体制に入る
その後 連合軍は積極的な攻勢はせず兵力をしだいに縮小中に敗戦(1945/8/15)
帝国軍当初14,000人のうち生還者は約2,000人。

ワケダ島の戦い
  (Battle of Wakde Island, 1944/5/15-5/28)
5/15 フレッチャー艦隊が援護の空襲を開始
5/17 ワケダ島へ米第41師団主力第163連隊戦闘団と第2工兵大隊が上陸
5/18 3日間の戦闘後、米軍がワケダ島を占領
5/26 ワクデ島守備隊の歩兵第224連隊石塚中隊基幹800人が玉砕。

モロタイ島の戦い、1944/9/15〜1945/6月下旬
  (米軍呼称:Battle of Morotai Island, 1944/9/15-1944/10/4)
9/15 早朝、米海軍第77任務部隊は、豪軍艦2隻を含む巡洋艦5隻や護衛空母6隻などで、約2時間の事前砲爆撃をモルッカ諸島モロタイ島上陸地点に対して実施
0830 米軍はフィリピン反攻作戦の第一歩として飛行場など大規模な基地を建設するため、米地上軍4万人のうち、LST45隻などの輸送船団で米陸軍第31師団3個連隊戦闘団が上陸
9/18 帝国軍守備隊(主に高砂義勇兵の第2遊撃隊所属2個中隊)が地上反撃するも、撃退される
9/26 ハルマヘラ島から船舶工兵第18連隊の舟艇で歩兵第211連隊と212連隊の3個中隊の「斬込隊」が出発、うち2個中隊が逆上陸
10/4 米軍が島内の制圧を終え(帝国兵戦死104、捕虜13人。米軍損害は戦死・行方不明31、負傷85人)、1500m滑走路が完成して大型爆撃機がボルネオ島バリクパパン攻撃などに出撃
10月 上旬、ハルマヘラ島から歩兵第210連隊主力550人が大発動艇10隻で逆上陸に出撃するも、2隻が空襲で撃沈される
11/16 ハルマヘラ島から歩兵第211連隊主力の守田義輝連隊長以下500人が軍旗と共に上陸
10/17 第2滑走路2,100mが完成、航空機約250機が展開
燃料タンクや約3,000床の病院なども整備される
11/30 迄に後続の第10派遣隊1個大隊(180)など1,500人を守田連隊長が指揮
12/15 守田連隊長(享年50才)がピロー川付近で戦死
1945
1/10 歩兵第210連隊長の大内競大佐が上陸・着任
5月 下旬、ハルマヘラ島からの最後の補給舟艇が到着
6/23 帝国軍が最後の空襲
8/15 帝国の敗戦で大日本帝国陸軍第2軍の降伏式典がモロタイ島で挙行、帝国兵660人が投降
1956 元帝国兵9人が発見され、帰国
1974 年末、高砂義勇隊の中村輝夫(スニオン、李光輝)一等兵を発見、台湾に帰国(4年後没)。

ビアク島の戦い、1944/5/27-8/20
  (Battle of Biak Island, 1944/5/27-8/17)
  両軍の兵力:〜帝国軍14,900人、米軍30,000人
4/28 米軍がホーランジアの飛行場からニューギニアのマノクワリ沖ビアク島に空襲を開始
5/27 米軍の大船団がビアク島沖に出現、帝国軍陣地へ猛烈な砲爆撃後、米第41歩兵師団第162・第186歩兵連隊基幹の25,000人が南東方ボスネック海岸へ上陸
5/28 天然の要害に守られた帝国軍が上陸米軍へ反撃、M4中戦車を先頭に前進する米第162連隊第2・第3大隊へ十字砲火と歩兵の肉薄攻撃にて戦車3両を破壊。師団長ヒュラー少将は狼狽して第6軍司令官クルーガー中将へ増援要請、クルーガー中将は直ちに第163歩兵連隊の増派を指示
5/29 ビアク島に取り残されていた沼田中将は自ら第一線部隊を指揮し、アメリカ軍の先頭部隊への反撃を命じた。午前8時、岩佐洋中尉の率いる九五式軽戦車9両が突入、アメリカ軍も中戦車を繰り出して戦車戦が開始された。日本軍は戦車の大半を失い、岩佐中尉も戦死したが、アメリカ軍は包囲される危機に陥り後退を余儀なくされた。アメリカ軍は海岸を見下ろす台地を制圧しない限り飛行場地区の占領は困難と判断
5/31 米第163歩兵連隊がボスネックに上陸、時間をかけての迂回作戦を開始
6/2 帝国連合艦隊はビアク島支隊の善戦で渾作戦を発令、海上機動第2旅団を乗せた輸送船団と、左近允尚正少将の率いる戦艦 扶桑、重巡 妙高・羽黒・青葉を基幹の「渾部隊」がダバオを出撃するも、米キンケイド中将第7艦隊の重巡オーストラリア号、軽巡ボイシ号・フェニックス号基幹を、帝国は空母艦隊と誤認、渾部隊にニューギニア島ソロンへの退避を下令
6/8 左近允少将は渾部隊の快速の駆逐艦6隻に海上機動第2旅団将兵一部を乗せてソロンを出発。米軍機空襲で駆逐艦 春雨が沈没、他艦は20:00にビアク島近海に到達するもキンケイド艦隊と遭遇で脱出、第二次作戦が失敗
6/10 第三次作戦発令で、戦艦 大和・武蔵などをハルマヘラ島に集結
6/11 米機動部隊のマリアナ諸島来襲渾作戦は中止となる
6/15 前任の米第6軍司令官クルーガー中将は第41歩兵師団長ヒューラー少将を更迭し、新任の第1軍団長アイケルバーガー中将がビアク島攻略部隊の総指揮官としてビアク島へ飛来
6/18 増援の米第34歩兵連隊戦闘団がボスネックへ上陸、アイケルバーガー中将は部隊配置を一新、4コ連隊兵力で帝国軍の東西洞窟へ間断ない猛攻撃を開始
6/22 米軍がビアク島飛行場の使用を開始、マリアナ沖海戦(1944/6/19)には間に合わず
6/25 阿南方面軍司令官がビアク島への増援中止を決定、ビアク支隊に持久への転移を発令
6/27 3層の床を張り最大時には2,000人収容の巨大な鍾乳洞の西洞窟が陥落
同日、東洞窟の海軍19警も陣地を捨てて後方へ脱出
7/2 葛目支隊長が戦い疲れで自殺。支隊長代理大森正夫少佐と千田少将以下の将兵はビアク島各地のジャングルに逃げ込み分散して自活するも、次々と飢餓とマラリアに斃れる
7月 上旬、1回実施のビアク島空中補給が最後となる
7/15 大森少佐が分散持久の第2軍命令を海軍通信隊経由で受領、残存兵は1,600人
7/19 海軍の森機関兵曹ほか若干名がビアク島を脱出してマノクワリへ帰還を最後に
ビアク島と島外との連絡は途絶
8/20 米軍がビアク作戦の終結を発表
帝国軍の戦後生還者520人、米軍戦死471、戦傷者2,443人。

ヌムフォル島の戦い
  (Battle of Noemfoor, 1944/7/2-8/31)
  別名:ヌムホル島・サンサポール岬の戦い
7/2 米第158連隊戦闘団がヌンホル島(マノクワリ東方、ビアク島西方)の飛行場確保で上陸
7/3 米第503空挺連隊が降下、
帝国軍の飛行場守備隊歩兵第219連隊1個大隊と航空関係部隊約1,500人が反撃
8/31 米軍が完全制圧を発表、帝国の生存者12人が捕虜になる。

サンサポールの戦い
  (Battle of Sansapor)、1944/7/30〜1944/8/31
  米軍作戦名:グローブトロッター作戦 (Operation Globetrotter)
7/26 米高速輸送艦6隻、戦車揚陸艦(LST)8隻、歩兵揚陸艇(LCI)19隻が、駆逐艦11隻、哨戒艇4隻、艦隊曳船1隻の護衛で、米第6師団がサンサポール岬へとサルミを出撃、帝国機5機の爆撃を受けるも上空掩護のP-38が一掃
7/30 未明、ミッテルバーグ島、アムステルダム島、両島沖に到達
8:00、攻略部隊が艦砲射撃に続いて両島への上陸を開始、
マノクワリとソロン中間のミオス島(双子島)へ無血上陸、
マノクワリとソロン間は陸上、海上ともに遮断される
7/31 ミオス島対岸サンサポール岬へ上陸開始、弱小な帝国部隊がわずかな交戦後、後退
8/31 サンサポール地区での散発的陸上戦がおおむね終了
1945
1月 帝国第35師団はソロンの部隊をサンサポールに派遣し、2月から攻撃を開始するも、フィリピン上陸米軍はサンサポールの飛行場が無価値で積極的に防衛する意図はなく、飛行場を放棄
5月 帝国軍も作戦を打ち切り、監視部隊を残してソロンに撤収。

帝国のアイタペ攻撃
 ・別名:アイタペのドリニュモール川の戦い、1944/7/10〜8月上旬、米・豪の勝利
  (Battle of Driniumor River, 1944/7/10-8/25)
   場所:アイタペ・ウェワク間のドリニュモール川
7/10 21:30、帝国軍約35,000人がドリニュモール川の渡河攻撃を開始
7/13 米軍の増援が続々戦場へ到着、河畔で両軍が激戦
7/15 米軍が渡河点を奪回、帝国歩兵第237連隊は川向こうに取り残される
7/17 帝国歩兵第239連隊が渡河点の再奪取を試みるも撃退される
7/22 歩兵第237連隊が壊滅状態となって対岸から撤退
8/1 帝国軍がアフア陣地攻撃を開始するも、成功せず惨敗
8/4 帝国軍の各歩兵連隊の戦力は100人以下となり、弾薬も食料も尽き、
第41師団安達中将は作戦中止を決定・撤退を開始
8/10 ドリニュモール川付近での戦闘が帝国の敗戦で終了、この戦闘(7/10〜8/10)で
・帝国軍戦死〜約13,000人
・米軍戦死〜約450人(戦傷〜約2,550人)
・安達中将はウェワクでの持久戦に方針転換(アイタペの戦いは「口減らし作戦」となる)
帝国軍残存兵
・第20師団:約1700人、第41師団:1200人、第51師団:4300人、その他合計:約13000人。

ウェワクの戦い
  (Battle of Wewak)、1944/8/5〜1945/8/15
8/5頃 アイタペ決戦に敗れて1万人以上喪失の第18軍は補給なく飢餓状態でウェワクへ後退
各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散して米軍との散発的戦闘を繰り返しながら、現地人食糧を武力挑発したり、天然採取して自活
豪軍が米軍と交代すると帝国兵殲滅に乗りだすも、帝国兵は戦いを避けながら食糧を採取して自活。サクサク(サゴヤシ澱粉)、草の根、トカゲ、昆虫類など、食べられる物は何でも食べ、将兵は飢餓と感染症に倒れ、毒のある植物を食べて中毒死した兵も少なくなく、人肉食事件も発生
12月 第18軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告
1945
5/3 <竹永事件>帝国の竹永大隊残存兵(42人)が豪軍に投降
4/12、東部ニューギニア北岸アイタペ南東内陸のトリセリー山脈南側(山南地区)で追撃豪軍と交戦中の帝国陸軍第41師団歩兵第239連隊第2大隊残存兵(竹永部隊:竹永正治中佐など約50人)が、タウ村で食糧を探すも村人の抵抗で双方2人が死亡、村人は豪軍へ通報
4/24、通報で捜索に来た豪軍マイルズ小隊との戦いで竹永隊戦死2人
5/3、竹永部隊がウォムグラー集落で降伏して武装解除(軽機関銃5丁・小銃17丁・拳銃5丁・弾薬750発装備)され、竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官兵33人)が捕虜となり、マイルズ小隊に護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍後、アイタペへ空輸
5月 豪軍がウェワクに侵攻、帝国兵は内陸奥地へ逃走
8/15 第18軍主力の食料・弾薬は9月までには尽き果てると予想されて1ヵ月後の玉砕全滅を覚悟するも、終戦の知らせがニューギニアに届き停戦
9/13 東部ニューギニアの帝国軍はオーストラリア軍に降伏
武装解除後、ウェワク沖合いムッシュ島に陸海軍将兵11,197人が収容される
11/30 最初の復員船「鹿島」が到着、帰国が始まる
1946
1/31 最後の復員船が出港、帰国(衰弱などで1,148人没)。

イドレ死の行軍
  (Idore Death March)、1944/7/1〜
  場所:西部ニューギニアドベライ半島東部
1944 フォーヘルコップ半島(ドベライ半島)の帝国軍兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部などに約2万人。西端ソロンの第35師団司令部など陸海軍部隊約12,500人は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦までたえる
マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万人の自活は不可能と判断、約15,000人に、南方200kmのベラウ湾奥イドレへ転進して自活するよう下令
7/1に出発した帝国兵は、食糧補給の全くない中で熱帯雨林の横断や 3,000m級のアルファク山越えで1〜2か月を費やして、イドレに着いたのは6,000〜7,000人となるも、イドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在せず、将兵は終戦まで1年間、飢えとマラリアの生活を送る
1945
8/15 大日本帝国が無条件降伏・敗戦
戦後イドレ地区からの生還者は3,000人弱となる。

ニューギニアの主な戦い:〜
1942(昭和17)年
3/7 ポートモレスビー攻略作戦(1942/3/7〜1943/1/23失敗で終了)
5/9 珊瑚海々戦の勃発でポートモレスビー海路攻略を中止
6/5 ミッドウェイ海戦、帝国海軍敗北
8/7 ガダルカナル島の戦いが始まる
11/16 連合軍が反撃開始、ブナ方面の作戦(1942/11/16-1943/1/22)
・ブナ地区バサブアの戦い()
12/18 帝国軍がマダンとウェワクに上陸
(帝国軍がフォン半島の西側に初めて進出)
1943年(昭和18年)
1/2 帝国軍のブナ守備隊が玉砕
ガリ転進
1月 中旬、帝国軍がサラモア南西山間部のワウ攻略を開始(2月に失敗で撤退)
3/3 ラバウルからラエに向かう帝国輸送船団が壊滅(ダンピール海峡の悲劇
4/7 い号作戦 (ソロモン諸島と東部ニューギニア方面での帝国海軍航空作戦)始る
6/30 サラモア周辺の豪軍が積極攻勢に出るとともに、米軍がナッソー湾(サラモア南30Km)に上陸(連合軍がカートホイール作戦を開始、同日、中部ソロモンでも米軍がレンドバ島に上陸)
8/17 連合軍がウェワクとその西ブーツの帝国軍飛行場を奇襲空襲
帝国軍は約100機(半数以上)の航空機を失う
9/11 連合軍がサラモアを奪還
9/16 連合軍がラエを奪還
9月 中旬〜10月末、サラモア、ラエの残存帝国軍が山を越えてキアリに撤退(サラワケット越え)
10/2 豪軍がフィンシュハーフェンを占領
12/15 米軍がニューブリテン島西部(ダンピール海峡を挟んでフォン半島の対岸)マーカス岬に上陸
12/25 帝国軍(第2軍第36師団)がサルミに上陸
12/26 米軍がフォン半島対岸のグロスター岬に上陸
12/27 帝国第36師団ビアク支隊がビアク島に上陸
1944年(昭和19年)
1/2 米軍がマダンとキアリ間のサイドル(グンビ岬)に上陸(連合軍がフォン半島西側に進出)
1月 下旬〜2月下旬、キアリ等のグンビ岬以東の帝国軍が山中行軍でマダンに撤収
1/29 米軍がアドミラルティ諸島(ニューブリテン島の北西)に上陸。島の帝国軍は玉砕、米軍は5/6に作戦終結を宣言。アドミラルティ諸島は連合軍の基地として整備され、さらに西へ進撃する連合軍の重要拠点となり、連合軍のカートホイール作戦目標の「ラバウルの無力化」を達成
3月 中旬〜6月、マダン等のウェワク以東の帝国軍が大湿地帯を行軍してウェワクに撤収
3/30 〜31、ホーランジア上陸準備で米空母部隊がパラオ大空襲
3/30 〜4/3、連合軍がホーランジアの帝国飛行場を空襲。帝国軍は100機以上の航空機を失う
4/22 米軍がホーランジアとアイタペに上陸(連合軍が飛び石作戦を開始)
5/17 米軍がサルミ(ホーランジアとマノクワリの間)に上陸
5/18 米軍がサルミ沖合のワクデ島に上陸
5/27 米軍ががビアク島に上陸
6/4 帝国海上機動第2旅団は渾作戦でビアク島に向かうも果たせず、ソロンに上陸
7/1 イドレ死の行軍が始る
7/2 米軍がヌンホル島(マノクワリの東方沖)に上陸
7/10 〜8月、帝国ウェワクの第18軍はアイタペを攻撃するも失敗、8/4に撤退命令
7/30 米軍がサンサポール(マノクワリとソロンの間)に上陸
1945年(昭和20年)
8/15 大日本帝国が連合軍のボツダム宣言を受諾・無条件降伏(敗戦)
9/9 帝国第2軍が降伏
9/13 帝国第18軍が降伏。

参考HP:〜
ニューギニアの地図(日本語、キリウィナ島・マヌス島有)
ニューギニアの地図(日本語、Google Map)
ニューギニア東部の地図(日本語、ミルン湾からラエの地図)
東部フォン半島の地図(拡大付、Madang, Saidor, Kiari, Sio, Saruwaged Range, Finschhafen, Lae有)
東部ミルン湾の地図(GiliGili, Kilarbo, Rabi有)
トロブリアンド諸島の地図(Kiriwina(キリウィナ島)有)
ココダ道の場所地図(ポートモレスビー〜ココダ〜(ブナ)ゴナ)
サラワケット越えの場所地図(日本語)
パプアニューギニア国の地図(Bismark Range、ラム川(Ramu)有)
西部マノクワリ付近の地図(ソロン、マノクワリ、ビアク島、ホーランジア有)
西部ドベライ半島の地図(拡大付、ソロン、サンサポール、マノクワリ、イドレ有)

連合軍侵攻の地図(ニミッツ軍とマッカーサー軍の反撃路地図)
ニューギニア東部の地図
ニューギニア侵攻の地図(ラエから西への侵攻地図)   2016/2/10







89 <台湾沖航空戦>
幻の大戦果
1944/10/12

幻の米機動部隊に襲いかかる帝国の航空機隊

帝国空軍が幻の米機動部隊を撃滅
マーシャル 1994 発行
米:航空母艦サラトガ号

太平洋戦争終結50周年記念 小型シート地
ネヴィス 1995 発行

台湾沖航空戦、1944/10/12〜10/16、薄暮・夜戦
  (Formosa Air Battle)、帝国の「幻の大戦果」
  場所:台湾東方海域 (Western Philippine Sea)
昭和19年7月9日サイパン島が陥落。サイパンが米軍に占領されたことで、戦略爆撃機B−29による帝国本土空襲が可能になりました。そして米軍の次の目標は、そのまま硫黄島から本土に向かうコースと、フィリピンから沖縄へ向かうコースとに分かれましたが、結局マッカーサー将軍が強く主張した後者が採用され、フィリピン奪還に向かうことになりました。

7月24日帝国で「捷(しょう)号作戦」が裁可されました。捷号作戦は予想される決戦区域によって4つに区分され、大本営はそのいずれに敵が来攻しても陸海空戦力を総結集して起死回生の決戦を行うよう計画。本作戦は実施上特に陸海軍の航空戦力を統一運用することが必要でした。しかし連合艦隊の航空部隊は、「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)で参加600機の約2/3にあたる395機喪失という壊滅的打撃を受けており、本格的な再建は19年後半に予想される米軍進攻には間に合いませんでした。捷号作戦準備として、陸軍から第2・第4飛行師団が満州から逐次進出、海軍基地航空部隊としては第1航空艦隊が比島に展開しており決戦予想時までに整備し得る兵力は海軍1,300機、陸軍1,700機の計約3,000機と見込まれました。だが練度は低く米軍の正面兵力の1/3に過ぎませんでした。

幻の大戦果<台湾沖航空戦>
9月9日ハルゼー大将麾下の米機動部隊は、パラオ諸島から一転フィリピン・ダバオを中心にミンダナオ島に来襲。早朝ダバオではサランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近という誤報を発信し実在しない敵に対して捷1号作戦警戒を発令。12日になり米機動部隊は再度比島に来襲。その後9/21以降も空襲は続行。その結果9/23現在の1航艦の実働兵力は250機から63機に激減。またこれと協同する陸軍第4航空軍の約200機はほとんど全機を喪失。これによって航空兵力の温存という捷号作戦の前提が相当程度崩れました。さらに10/10には沖縄空襲、10/12からは米機動部隊の延べ2,700機による大空襲が台湾を襲いました。このとき帝国空軍はH6号電探装備の海陸協同の精鋭「T攻撃部隊」(指揮官:久野修三大佐、約150機)を中心とする航空総攻撃(鹿屋、沖縄などから計約400機)を薄暮から夜間にかけて実施して、膨大な戦果を挙げたとされました。帰還機は約100機。

<大本営発表>
 昭和19年10月20日付 朝日新聞など
  「赫々台湾沖航空戦」
  「空母19戦艦4等、撃沈破45隻」 敵兵力の過半を壊滅
我が方の戦果
・撃沈:空母11、戦艦2、ほか4隻
・撃破:空母 8、戦艦2、ほか5隻、艦種不詳13隻、その他火焔火柱を認めたもの12隻
・撃墜:112機、基地による撃墜を含まず
・飛行機未帰還:312機

帝国臣民を狂喜させた発表とは裏腹に実際には米艦艇で撃沈されたものは1隻もなく、空母1、軽巡2、駆逐艦2隻の損傷だけでした。帝国軍は航空機だけで300機以上を一挙に喪失し、再建途上の決戦兵力を再び失うこととなりました。さらにパラオ・沖縄・台湾の一連の空襲で帝国軍の航空兵力の損害は合計700機以上(米軍資料では1,200機以上)にのぼりました。大本営海軍部は10月16日の索敵(台湾東方洋上に空母7隻、戦艦7隻からなる大艦隊を発見との報告)で、この大戦果が虚報であることを知りましたが、陸軍にも小磯首相にも伝えられることはありませんでした。この結果、陸軍は台湾沖航空戦の戦果に基づき従来のルソン決戦の方針を変更して、レイテ決戦に踏み切ることとなりました。

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・航空機〜1,251機
○米軍
・空母〜17隻
・戦艦〜 6隻
・重巡〜 4隻
・軽巡〜10隻
・駆逐艦〜58隻
○帝国軍の損害
・航空機〜312機
○米軍の損害
・航空機〜89機喪失
・搭乗員戦死〜約100人
・大破〜重巡1隻、キャンベラ
・小破〜6隻
 ・空母2隻
 ・軽巡2隻、ヒューストン、他
 ・駆逐艦2隻
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
・第一航空艦隊(司令長官:寺岡謹平中将)〜約200機
  ・陸上基地航空機部隊
・第二航空艦隊(福留繁中将)〜約1,000機
  ・陸上基地航空機部隊
・第一機動艦隊(小沢治三郎中将)
  ・艦載機のみ(陸上基地で作戦)〜約200機
・第五艦隊(志摩清英中将)
  ・重巡洋艦 那智、足柄
  ・軽巡洋艦 阿武隈
  ・駆逐艦〜7隻
   (曙、潮、霞、不知火、若葉、初春、初霜)
   ※誤報戦果にて残敵掃蕩の任で帝国本土から出撃するも、会敵せず帰投。

○米軍の編成:〜
・第3艦隊
  司令長官:〜ハルゼー大将(Admiral William F Halsey)
 ・第38任務部隊(Task Force 38:シャーマン中将)シャーマン隊〜総数95隻、艦載機〜約1,000機
航空母艦>〜17隻
・第1空母群(1st Aircraft Carrier Group)
   (第38任務部隊第1群(Task Foce 38 Task Group 1)、略称:TF38.1)
  マッケーン空母機動部隊:〜(マッケイン隊
  司令官:マッケイン少将(Rear Admiral John Sidney "Slew" McCain Sr. 1884-1945/9/6)
 航空母艦:〜5隻
 ・空  母ホーネット2世号(USS Hornet, CV-12, 27,100t, 100p)
 ・空  母ワスプ2世号(USS USS Wasp, CV-18, 27,100t, 100p)
 ・軽空母カボット号(USS Cabot, CVL-28, 11,000t, 45p)
 ・軽空母カウペンス号(USS Cowpens, CVL-25, 11,000t, 45p)
 ・軽空母モンテレー号(USS Monterey, CVL-26, 11,000t, 45p)
 護衛艦隊:〜重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦
・第2空母群(2nd Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.2)
   ボーガン空母機動部隊:〜(ボーガン隊
   司令官:少将(Rear Admiral Gerald Francis Bogan 1894-1973)
 航空母艦:〜4隻
 ・空  母バンカー・ヒル号(USS Bunker Hill, CV-17, 27,100t, 90p)
 ・空  母ハンコック号(USS Hancock, CV-19, 27,100t, 100p)、小破
 ・空  母イントレピッド号(USS Intrepid, CV-11, 27,100t, 100p)
 ・軽空母インディペンデンス号(USS Independence, CVL-22, 11,000t, 45p)
 護衛艦隊:〜戦艦2隻、軽巡4隻、他
・第3空母群(3rd Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.3)
   空母機動部隊:〜(シャーマン隊
   司令官:シャーマン少将(Rear Admiral Frederick Sherman 1888-1957)
 航空母艦:〜4隻
 ・空  母エセックス号(USS Essex, CV-9, 27,100t, 90p)
 ・空  母レキシントン2世号(USS Lexington, CV-16, 27,100t, 110p)
 ・軽空母プリンストン号(USS Princeton, CVL-23, 13,000t, 45p)
 ・軽空母ラングレー号(USS Langley, CVL-27, 11,000t, 45p)
 護衛艦隊:〜戦艦4隻、軽巡4隻、駆逐艦
・第4空母群(4th Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.4)
   空母機動部隊:〜(デヴィソン隊
   司令官:デヴィソン少将(Rear Admiral Ralph Eugene Davison 1895-1972)
 航空母艦:〜4隻
 ・空  母エンタープライズ号(USS Enterprise, CV-6, 21,000t, 90p)、小破
 ・空  母フランクリン号(USS Franklin, CV-13, 27,100t, 90p)
 ・軽空母ベロー・ウッド号(USS Belleau Wood, CVL-24, 11,000t, 33p)
 ・軽空母サン・ジャシント号(USS San Jacinto, CVL-30, 11,000t, 45p)
 護衛艦隊:〜重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦。

参考HP〜
タラワ島の地図(飛行場と米軍突入海岸区分(RedBeach1,2,3)が有)
タラワ島の場所地図(米軍の担当区分地図が有)             2016/3/13

コルセヤF4-U1戦闘機の装備:〜初飛行:1940/5/29
  (US Vought F4U Corsair、アメリカ海兵隊の艦上戦闘機)運用開始:1942/12/28
略 称 コルセア(Corsair:海賊) コルセヤF4-U1戦闘機

ネヴィス 1995 発行


F4-U1Attaking with Rockets
モルジブ 1995 発行
機体略号 F4-U1(初期生産型)
全 長 10.16m
全 幅 12.50m
全 高 4.90m
全備重量 5,078kg、自重3,987kg
最高速度 636km/h(高度 6,949m)
上昇限度 実用上昇限度11,247m
エンジン R-2800-8エンジン搭載
レシプロ単発単座戦闘機
乗 員 1人
製造者 チャンス・ヴォート社
行動距離 2,438km、最大(増槽)3,444km
生産数 12,571機
武 装 AN/M2:12.7 mm重機関銃×6
(携行弾各銃400発×4、375発×2)
爆弾2,000lb(907kg)
※F2Aバッファロー艦上戦闘機などの後継機
※特徴:逆ガル翼、海兵隊使用で枠の多いキャノピーの形状から通称:バードケージ(鳥籠)。








90 <サブマリン(米潜水艦)>
帝国の通商破戒戦に活躍

サブマリン(米潜水艦タリビー号

March 1944 Operation DESCRATE SS284 Tullibee
パラオ 1994 発行
海中から米潜水艦が魚雷攻撃

ガイアナ 1993 発行

潜水艦内から潜望鏡を見る潜水艦長
Submarines in Pacific 1944


USA 1994 発行
潜水艦が魚雷攻撃・命中の潜望鏡写真

USA 1991 発行

サブマリン(米潜水艦)
  英米:Submarine、独:U-boot
  帝国の通商破戒戦に活躍(対日通商破壊戦)
  場所:太平洋、日本海など(Pacific Ocean、Japan Sea、etc)
サブマリン(米潜水艦)は作戦中の帝国軍艦はもとより、南方占領資源地帯と本土を結ぶ、シーレーンの輸送船への攻撃に活躍、太平洋戦争の早期終結に貢献しました。

シーレーンの商船を攻撃して多大な戦果を上げ、帝国への南方資源の輸送を停滞させました。昭和19年になると群狼作戦(ウルフ・パッキング)と呼ばれる、3隻一組のチームを作り集団攻撃をしました。まずレーダーで捕え、相互に連携を取っての攻撃で、帝国の船舶に多大の損害を与えました。

帝国の商船は開戦前に遠洋貨物船700隻・貨客船132隻・大型タンカー49隻が有りましたが、帝国海軍はこれらの保護には熱心でなく、艦隊決戦に熱をあげていましたので、サブマリンの餌食となりました。開戦1年間に120万トン、2年目260万トン、3年目350万トンの商船が沈められました。終いには1トン作って3トン沈む状況となりました。

※帝国軍の潜水艦は主として艦隊決戦に使用されました。

こちらで
米軍、レイテ上陸(フィリピンの戦い)
米軍、サイパン上陸(マリアナ諸島の戦い)
をお楽しみください。

参考〜
米潜水艦 タリビー号の装備:〜就役:1943/2/19
  (USS Tullibee, SS-284、アメリカ海軍ガトー級潜水艦)
潜水艦 ガトー級一番艦 米:米潜水艦 タリビー号

パラオ 1994 発行
建造所 サンフランシスコ近郷メア・アイランド海軍造船所
全 長 95.02m
全 幅 8.31m
吃 水 5.2m
排水量 水上1,525、水中2,424トン
最大速力 水上21kt(39km/h)水中9kt (17 km/h)
乗 員 平時:士官6、兵54人
武 装 竣工:4インチ砲1基、20ミリ機銃、50口径機銃2基、21インチ魚雷発射管10基
※1944/3/26、タリビー号は第58任務部隊(ミッチャー機動部隊)のパラオ大空襲(1944/3/30)支援任務で、レーダーで輸送船団の接近を探知。関東軍からマリアナ諸島やカロリン諸島防衛強化の陸軍部隊を輸送してきた、輸送船3隻と駆逐艦 若竹、敷設艇前島、第38号哨戒艇で構成された西松二号船団をタリビー号が浮上追跡するも、豪雨で見失い、さらに爆雷などで二度接近に失敗し、三度目の距離2,700mから艦首発射管の魚雷2本発射。約2分後にタリビー発射魚雷の1本が、円を描いて自らに命中・爆沈。当直者とブリッジ上見張り台にいた砲手のクリフォード・ウェルドン・カイケンダール2等兵曹(Gunner's Mate Clifford Weldon Kuykendall)が爆発で水中に飛ばされて若竹に救助され、捕虜として大船の捕虜収容所(神奈川県鎌倉郡大船町)に収容後、帝国敗戦後に解放されました。

参考HP〜
太平洋と連合軍の反抗地図

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。     2016/3/16

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