★ロシア
オットー・フォン・コツェブー船長
1815年
チュクチ海でコツェブー・サウンドを発見

大航海物語★
St Helena
コツェブー船長 ブリッグ型帆船
リュ|リク号
セントヘレナ 1986/9/22 発行 セントヘレナ 1998/8/25 発行

ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

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FIJI
リューリク号で世界一周航海

太平洋と世界地図
フィジー 1977/4/12 発行

コツェブー船長はロシア帝国海軍士官学校を卒業して、15才でクルーゼンシュテルン提督のロシア最初の世界一周航海に参加しました。1815年に27才で北西航路探検隊の司令官に指名され、リューリク号でチュクチ海を探検後に世界一周探検航海を成し遂げ、1823年にはロシア帝国戦艦エンタプライズ号で世界一周航海を達成しました。

オットー・フォン・コツェブー船長 (1787/12/30〜1846/2/15)
 Otto von Kotzebue

コツェブーはロシア帝国海軍のバルト・ドイツ人の船長で、 アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue 1761-1819)の次男として、当時ロシア帝国領、現在はエストニア領のレヴァル(Reval、現タリン Tallinn, Estonia)にて生まれました。当時のロシア帝国首都サンクトペテルブルグのロシア帝国海軍士官学校を卒業しました。

コツェブーの大航海:〜:
第1回航海(1803〜1806)、クルーゼンシュテルン世界一周探検航海
第2回航海(1815〜1817)、北西航路探検で世界一周探検航海、リューリク号
第3回航海(1823〜1826)、第2回世界一周探検航海、エンタプライズ号

▼第1回航海(1803〜1806)
1803/7/18にクルーゼンシュテルン提督のロシア初の世界一周航海に参加、その艦隊に15才で士官候補生として乗り組んで、フィンランド湾のコトリン島にあるロシア海軍の軍港都市クロンシュタット軍港を出帆しました。世界一周航海を達成して、クロンシュタット軍港に帰港後、士官(海軍少尉)に任官しました。

▼第2回航海(1815〜1817)
1815年にロシア帝国首相ルミヤンツェフ伯爵(Count Nikolai Petrovich Rumyantsev 1754-1826)の準備した北西航路探検隊(北極海の向こう、すなわち極東アジアのカムチャッカ方面、そして少ししか知られていなかったオセアニアの探検航海)の司令官に27才で指名されました。

1815/7/30にリューリク号(brig Rurik)という27人乗組みのブリッグ型帆船での遠征隊の司令官となって出帆。その船には動物学・昆虫学者ヨハン・フリードリヒ・フォン・エッショルツ(Johann Friedrich Eschscholtz 1793-1831)や植物学者アーデルベルト・フォン・シャミッソー(Adelbert von Chamisso 1781-1838)、画家コリス(Louis Choris 1795-1828)などが参加・乗船していました。ホーン岬を経由して、1816年にマーシャル諸島のロマンツォフ島(Romanzov Islands、ティケイ環礁)、リューリク島(アルトゥア環礁)、およびポリネシア諸島のトゥアモツ諸島クルゼンシュテルン島(ティケハウ環礁)を発見した後、1816/7月中旬にカムチャツカ半島(Kamchatka)に向かって北アメリカ大陸の西海岸を北上し、ベーリング海峡を抜けチュクチ海(Chukchi Sea)に入り、コツェブー・サウンド(入江、Kotzebue Sound or Gulf)とクルーゼンシュテルン岬(Cape Krusenstern)を発見・命名しました。チュクチ海を経由して極東アジアの海岸に戻り、南方への航海に出帆。サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に3週間滞在し、1817/1/1にマーシャル諸島ノイヤール島(New Year Island、新年島、現メジット島)を発見。南太平洋を航海しながら、北へ回航しましたが、病気が悪化してきたので、ヨーロッパへ大西洋を越え、未だ未知で知られていない植物や民族学見本のコレクションを持って戻ることにしました。そして喜望峰を経て、1818/8/3にネヴァ川のサンクトペテルブルクに帰港しました。

1821年に「北東航路発見の探検航海」(A Voyage of Discovery into the South Sea and Bering’s Straits for the Purpose of exploring a North-East Passage, undertaken in the Years 1815-1818、3 vols. 1821)3巻が英訳されました。

▼第3回航海(1823〜1826)
1823年に36才で2隻の戦列艦で第2回世界一周探検航海に出帆。カムチャッカへの支援軍を運ぶ航海でしたが、ロシア海軍のエンタプライズ号(sailing sloop Enterprise)には地理学者や民族学者や地理学者も多数乗船していました。その遠征では、ホーン岬(Cape Horn)を回航して、マーシャル諸島のラタック諸島( Radak)とソシエテ諸島(Society Islands)に寄航し、1824/7月にカムチャツカ地方(Kamchatka Krai)ペトロパブロフスク港(Petropavlovsk-Kamchatsky)に入港しました。そして、カムチャツカ地方を探検調査して後、南太平洋へと出帆。サモア諸島(Navigator islands)に寄港し、マリアナ諸島(Marianas)、フィリピン(Philippines)、ニューカレドニア(New Caledonia)、ハワイ(Hawaiian Islands)、喜望峰を経て、1826/7/10にクロンシュタット軍港(Kronstadt)に帰港しました。

▼その後
1830年に「新世界一周航海」(A New Voyage Round the World in the Years 1823-1826)が英訳されました。

コツェブーは現エストニア領のレル(Reval、現タリン Tallinn, Estonia)で亡くなりました。59才でした。アラスカでコツェブー・サウンド(Kotzebue Sound)とコツェブー市(Kotzebue, Alaska)が彼に因んで名づけられました。

・参考HP:〜
 ベーリング海峡の地図
 チュクチ海の場所地図
 コツェブー市の場所地図
 コツェブー・サウンドの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    09/8/18
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