ハワイ諸島
State of Hawaii

US Air Mail
カメハメハ大王、ハワイ諸島

USA 1959/8/21 発行
USA
ハワイ州旗

USA 1976/2/23 発行

UNITED STATES POSTAGE
ダイアモンド・ヘッド


USA 1952/3/26 発行
US POSTAGE
HAWAI
カメハメハ大王

ハワイ 1937/10/18 発行(州専用発行)

USA
ハワイ州花、ハイビスカス(Hibiscus)

ハワイ州鳥、ハワイ・ガン(Hawaiian Goose)

USA  発行
POLYNESE FRANCAISE
マオリ族 と ハワイ諸島

マオリ族移住者の定住地シリーズ
ポリネシア 1990/3/14 発行
←オアフ島

←マウイ島

←ハワイ島
ハワイ諸島

NICARAGUA
ハワイアン・ブルー切手」を描く切手

ニカラグア 1976/12 発行

ハワイ州
 (Hawai‘i HI。ハゥワァイイー)

面積総計:28,311ku(陸地:16,635ku)、人口:1,257,608人(2003)、1番切手:1851年発行、アメリカ合衆国加入:1959/8/21加入:50番目の州、州都:ホノルル。

ハワイ州(Hawai‘i HI。ハゥワァイイー)は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では布哇と書く。 ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島など主要な8つの島(うちニイハウ島は個人所有)と100以上の小島からなる諸島が丸ごとハワイ州に属している。州都はオアフ島のホノルル市。ちなみに、一年間に約8cm日本国に向かって移動している。

ハワイ諸島は、現在はアメリカ合衆国領で、かつてはマルケサス諸島やタヒチから航海カヌーで来住したポリネシア系の人々が幾つかの王国を作っていた。 最初にハワイ諸島への植民が行われた時期には諸説あるが、かつてコンピュータ・シミュレーションによって古代ポリネシア人の偶然漂流説をほぼ論破したことでも知られるポリネシア考古学の権威の一人、ジェフリー・アーウィンは8世紀ごろではないかとしている[1]。 記録に残っている限り、この諸島に最初にヨーロッパ人が来航したのは1778年で、やってきたのはキャプテン・クックに率いられた探検隊であった。彼らは当初、この諸島を「サンドイッチ諸島」と呼んでいた。

1778年、イギリスのキャプテン・クックが来航したのをきっかけに白人との接触が始まる。
1779年、キャプテン・クックが再来訪、1779/2/14ケアラケクア湾で戦死
      イギリスのチャールス・クラーク船長がラナイ島に上陸
1786年、フランスのラ・ぺルーズ船長が北西航路発見の航海の途上に寄港
1791年、イギリスのジョージ・ヴァンクーヴァー船長が来訪
      イギリスのウィリアム・ブロートン艦長が来訪
1795年、カメハメハ1世(Kamehameha I, 1758頃-1819、大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一してハワイ王国(1810-1893)を建国。
1817年、ロシアのコツェブー船長が寄港して3週間滞在
1818年、ロシアのゴローニン船長が寄港
1820年、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。また、アメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪がはじまる。 現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に"淫ら"だとして、宣教師が普及させたものと言われている。
1840年、憲法を公布して立憲君主制となる。
1840年、アメリカのウィルクス艦長がヴィンセンス号で寄航
1843年、イギリスがハワイの領有を宣言。
1849年、フランスがハワイの領有を宣言。ハワイを巡る列強の抗争は激しくなる。
1868年(明治元年)には「元年者」と呼ばれる日本人移民がハワイに移住していたが、元々徳川幕府と移民ブローカーとの協定で募集された移民だったため、発足直後の明治新政府から認められておらず、移民達はパスポートすら持っていない、いわば非合法状態であった。
1881年、カラカウア王が来日し、明治天皇と会見し、明治政府との間で移民協定が結ばれる。
1885年、初の官約移民が日本からハワイに渡る。
1891年、リリウオカラニ女王が即位。
1893年、アメリカ人農場主らが海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」(共和制)を樹立。この時、日本は邦人保護を理由に軍艦2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。「臨時政府」はアメリカに併合を求めるが、就任直後のクリーブランド大統領は海外進出に消極的な政策を採っており、併合を渋る。結局、クリーブランドは大統領の任期中、ハワイを併合しなかった。
1894/7/4、アメリカによる併合に時間が掛かると判断した臨時政府は、新憲法を発布しハワイ共和国を宣言し、サンフォード・ドールが最初で最後のハワイ共和国大統領となった。
1895/1/16、ハワイ人王政派が武装蜂起したが短期間で鎮圧される。この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が逮捕・幽閉される。
1895/1/22、リリウオカラニ女王廃位(ハワイ王国滅亡)。
1898年、アメリカ合衆国、ハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)となる。アメリカの大統領は、前任者と対照的に帝国主義政策を推し進めたウィリアム・マッキンリーである。 以後ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された(現在もアメリカ海軍太平洋艦隊の基地がある)。
1914年、第一次世界大戦勃発(1914-1918)

1939/9/1、ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦が勃発(1939-1945)
1941/12/7(日本時間12/8)、大日本帝国海軍が真珠湾を奇襲攻撃、アメリカと日本とが開戦。
大日本帝国海軍”ゼロ戦”の攻撃
真珠湾で炎上する米戦艦”アリゾナ”
真珠湾空襲、演習に非ず
開戦後間もなくアメリカ全土に住む日系アメリカ人と日本人は強制収容所に収容されたが、ハワイに住む日系アメリカ人および日本人は、日本人会会長や僧侶など、日系人社会を代表する一部の人々を除き強制収容所に収容されなかった。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと、アメリカ本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める日系人および日本人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようである。ハワイで生まれ育ち、合衆国の市民権を持つ日系アメリカ人の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとした。彼らハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後にアメリカ本土の日系人部隊と合流し442連隊となり、欧州戦線において多くの犠牲と引き換えに目覚ましい戦果を上げた。彼らの献身的で勇敢な戦いはすべてのアメリカ人に深い感銘を与え、ハワイのみならず戦後のアメリカ社会における日系人の地位向上に大きく貢献した。なお、日本軍による上陸と占領を恐れ、戦時中を通じてハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われた。
1945年、8/15:大日本帝国・無条件降伏(9/2:第2次世界大戦終結
1959年、アメリカ50番目の州に昇格し、本格的なリゾート開発となる。

主な島々:〜
・ハワイ島(Island of Hawai‘iまたはBig Island):〜キラウエア火山、カメハメハ大王の出身地
      1779年クック船長終焉の地ケアラケクア湾有、面積:10,432.5ku、
      日本の四国の約半分程度、岐阜県ほどの大きさの島で2番目に大きい島
・マウイ島(Maui Island):〜ハワイ王朝の首都だった港町ラハイナ有
・カホオラウェ島(Kaho‘olawe Island):〜(スター・ナヴィゲーションの復活)
・ラナイ島(Lana‘i Island):〜1779年チャールス・クラーク船長が上陸
・モロカイ島(Moloka‘i Island)
・オアフ島(O‘ahu Island):〜ホノルル市(Honolulu)、パール・ハーバー (Pearl Harbor) 有。
      ハワイ諸島で最大の島
・カウアイ島(Kaua‘i Island):〜1778年クック船長がハワイで最初に上陸した島
・ニイハウ島(Ni‘ihau Island):〜カウアイ島から南西27kmにある個人(ロビンソン家)所有の島

小さな島、環礁、及び暗礁など
・カウラ島(Kaula Island)
・ニホア島(Nihoa Island)
・ネッカー島(Necker Island)
・ディサピアリング島(Disappearing Island)
・フレンチフリゲート瀬(Frenchi Frigate Shoals)
・ガードナー尖礁(Gardner Pinnacles)
・マロ環礁(Maro Reef)
・レイサン島(Laysan Island)
・リシアンスキー島(Lisianski Island)
・パールアンドハーミーズ環礁(Pearl and Hermes Reef)
・ミッドウェー環礁(Midway Atoll)
・クレ環礁(Kure Atoll)
(※)ミッドウェー環礁以外は無人島でハワイ州に属している。
現在”ロアヒ島”という島が誕生中。

参考地図HP:〜
 ・ハワイ諸島
 ・ハワイ島の火山地帯区分地図     08/9/24

参考:〜
・贋作の多い切手「ハワイアン・ブルー」
「ハワイアン・ブルーの2セント切手」とは、1851年に当時のハワイ王朝が発行した「最初の切手」3種の内の一種で、青色一色で印刷されていることから、通称ハワイアン・ブルーと呼ばれていますが、発行数が少ないことから、その価値は1枚が、ん千万円だと言われています。米国の映画監督ヒッチコック作品「シャレード」にも登場している切手です。模造品が多いことでも有名で、映画に使われたのも「贋作」だそうです。
なお、英領ギアナ発行の「世界に一枚」しか現存していない切手「英領ギアナの1セント」切手を
こちらでお楽しみください。

・上記々述はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/10/20

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