★フランス
vsイギリス
フランス革命戦争
キブロンの戦い
1795
王党派がフランスへ侵攻

大航海物語★
JERJY
チャネル諸島  ジャージー島オルグル山城の港から出撃

Mission from Mount Orgueil, 1795












ジャージー島





ジャージー1982/4/20発行
フランス


フランス王党派がフランスのギブロンに上陸
フランス王党派をドーヴェルニュ艦長が支援
1789 フランス革命200年記念 1989
ジャージー 1989/7/7 発行



イギリス
ジャージー島の場所地図

ジャージー 1976-77 発行




フランス
英仏海峡→


ジャージー島オルグル山城
オルグル山城

ジャージー 1978/5/1 発行
オルグル山城の場所地図

ジャージー 1980/2/5 発行

キブロンの戦い、1795/6/23-7/21
  Invasion of France 1795 (Combat de Quiberon)
  フランス王党派遠征軍が敗退
  フランス共和派の勝利
キブロンの戦いは、フランス革命戦争(1792-1802)中の1795/6/23にフランス西海岸沖のグロワ島付近で行われたイギリス海軍(戦列艦14隻)とフランス海軍(戦列艦12隻)とのグロワ島の海戦で、イギリス艦隊が勝利したので、1795/7/21にドーヴェルニュ艦長がフランスのブルターニュ地域圏モルビアン県キブロン半島の南端キブロン(Quiberon)に上陸して攻撃するフランス王党派(Royalist forces)の軍勢を支援しました。

フランス王党派ジャージー移住者約750人がイギリス領ジャージー島オルグル港から出帆して、フランス王党派軍と共にフランスのキブロン半島に何の支障もなく上陸しました。ところが、イギリス亡命中の革命後の王政復古でフランス王シャルル10世(Charles X、1757-在位1824/9/16-1830/8/2-1836、ブルボン朝最後の国王)になったアルトワ伯爵(comtes d'Artois, コント・ダルトワ, Comte d'Artois of the House of Bourbon)自身が半島に上陸する予定なるも、土壇場で取りやめ、代わりに1本の剣を贈っただけになりました。

そのため意気消沈した遠征隊は、フランス共和国軍(French Republican forces)の反撃にあって撤退し、失敗に終わりました。

1795年
6/23、王党派がキブロンに上陸
6/27、共和派が反撃
6/28、ブルターニュ地域圏モルビアン県カルナック(Carnac)にフランス王党派軍8,000人が上陸、
    カルナック 、ランデヴァント(Landevant)、ロコール・メンドン(Locoal-Mendon)を占領
7/03、キブロン半島中部フォートパンティエーヴル(Fort de Penthievre)の共和派が守るサンセリフキュ
    ロット城の包囲攻撃戦(Siege of Fort Sans-culotte)で守備隊700人が降伏
7/04、共和派13,000人がキブロンに到着
7/06-7、共和派がキブロン半島を奪回
7/10-11、サルジュー(Sarzeau)に王党派6,000人が上陸
7/15、王党派増援部隊2000人がキブロンに到着
7/20、フォートパンティエーヴル城塞の共和派守備隊4,000人を攻撃
7/21、王党派と移住者の戦死傷者多数の上に、6,332人が捕虜となり、
    王党派が撤退。

こちらで
フィリップ・ドーヴェルニュ提督
ロングアイランド戦い (1776/8/22〜8/30)
ジャージー島の戦い (1781/1/6)
ポルトプラヤ海戦 (1781/4/16)
パリ条約 (1783)
米英戦争 (1812)
エリー湖の戦い (1813/9/10)
ワーテルローの戦い (1815)
をお楽しみください。

参考HP:〜
キブロンの場所地図
キブロン湾付近の地図
キブロンの広域場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/11/3
スタンプ・メイツ
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