France

国連 1980 発行
切手で綴る 冒険大航海(Aventure Voyages)
デュルヴィル提督
1820 〜 ミロのヴィーナス
1840 〜 南極アデリー海岸


大航海物語
フランス編

TERRES AUSTRALES ET ANTARCTIQUES FRANCAISES
デュモン・デュルヴィル提督
アストロラ
|
ベ号

|

|
フランス南極地方 1968 発行

1840 デュルヴィル提督のジオロジー群島発見130年記念 1970
フランス南極ジオロジー群島

1956 デュモン・デュルヴィル基地建設15年記念 1971
(ジオロジー群島地図切手発行の初日カバー)
FSAT TAAF Cape Geology Archipelago Map

フランス南極地方 1971/1/1 発行


REPUBLIQUE FRANCAIES
デュルヴィル提督と南極方面航海図

DUMOST D'URVILLE 1790ー1842
フランス 1988/2/20 発行

南極条約20年記念
 ヂュルヴィルの
最南端の到達点
  140.01(E)東経
   60.48(S)南緯
2.0+0.5=2.5f 寄付金付 フランス南極地方 1981/6/23 発行

Vanuatu

デュルヴィル と アストロラーベ号
1838年の探検航海でヴァヌアツ寄航

ヴァヌアツ 1999 発行
ル・アストロラーベ号

フランス南極地方 1972/1/31 発行

ΕΛΛΑΣ
ミロのヴィーナスを獲得
Venus of Melos


ギリシャ  昭和12年 1937/11/1 発行
アデリー夫人

フランス南極地方 1972/1/31 発行


フランスのデュルヴィル提督は1820年にギリシャ方面への遠征航海中にミロ島のヴィーナス像の購入に成功し、ルイ18世に献上しました。1840年には南極方面の探検航海中に”南緯 66°48′の地点に到達、アデリー海岸を発見し、彼の妻の名をとって命名しました。
デュモン・デュルヴィル提督  (1790/5/23〜1842/5/8)
 Admiral Jules-Sebastien-Cesar Dumont d'Urville

 ジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィル(姓:デュモン・デュルヴィル)
 生地:フランス北西部ノルマンディー地方カルヴァドス県コンデ=シュル=ノワロー生
 (Conde-sur-Noireau, Calvados department, Normandy region, France)
デュルヴィル提督はフランス・ノルマンディのカルヴァドス(Calvados)で生まれました。彼はフランスの海軍提督で探検家で、生涯に3度の世界1周航海を成し遂げ、西太平洋と南太平洋と南極の探検航海をしました。17才で海軍学校へ入隊し、トップの成績で卒業しました.英語、ドイツ語、スペイン語、ギリシャ語を流暢に話していて、イタリー語、ヘブライ語、天文学、地質学、昆虫学、植物学の研究をもしていたと伝えられています。

デュルヴィル提督の大航海
・エーゲ海の航海〜ミロのィーナスの発見・獲得(1819)
・コッキル号の世界1周航海〜太平洋の探検調査(1822-25)
・アストロラーベ号の第1回世界1周航海〜太平洋の探検調査(1826-29)
・アストロラーベ号の第2回世界1周航海〜南極磁極点の探検調査(1837-1840)

1819年ギリシャのミルトアン(Mirtoan)海の調査で、シェヴレット号(CHEVRETTE号)がミロ島沖に投錨した時に、ミロ島のフランス領事の係官と話していて、デュルヴィル少尉は島で近ごろ発掘された「像」についての話を聞きました。そして、その像を見て、その美しさ、素晴らしさに圧倒されました。彼は行政当局にその像の購入を提案し全権を委託され、トルコのフランス大使に購入を依頼して、1820年にトルコ政府から購入することに成功、時のフランス国王ルイ18世に献上しました。それが現在パリのルーブル美術館にある「ミロのヴィーナス」像なのです。フランス国王シャルル10世は、デュルヴィル士官に勲章(Cross of St. Louis)を与え、海軍大佐(Lieutenant de Vaisseau)に昇進させました。

1822/8/11に彼は地理学と植物学の調査遠征航海のため、デュペリイ船長(Louis Isidore Duperrey 1786-1865)のもとで、コッキル号(Cooquille、後のアストロラーベ号:Astrolabe)に乗船してツーロン港(Toulon)を出帆。フォークランド諸島から太平洋へ回航して、チリペルーの海岸を探検航海後、ギルバート諸島カロリン諸島タヒチ島、そしてニューオランダとして知られていた西オーストラリア方面へと遠征航海に出帆しました。31ヵ月と13日の後に、彼は沢山のヒットチャート、地図、スケッチ、見本、およびサンプルの見事なコレクションをフランスに持ち帰りました。帰港の後にデュルヴィルは、さらなる南大洋の研究(調査)の計画を提出しました。新しい発見と外国の領海のより安全な通行を可能にする向上された地理学上の技術を約束して、彼のプランは1825/12に承認されました。

1826/4/22にデュルヴィル艦長は副官チャールズ・ヘクトール(又はジャックノウJacquinot)のジーリー号(Zelee)とアストロラーベ号でツーロン港を出帆しました。彼の実績はフィージー島のマツク島(Matuku)の発見、トトヤ(Totoya)島、ニューカレドニアのロイヤルティ諸島の図表作成、ニューギニア島の海岸線の測量、ソロモン諸島、カロリン諸島、ニューヘブリデス諸島のヴァヌアツトンガ島マルク(モルッカ)諸島のマッピングなどと探検調査しました。その記録は散在する島々がメラネシアポリネシアミクロネシアの3つの主要なグループへ初めて分けられるほど詳細でした。ここは後にポリネシア文化圏となりました。またラ・ペルーズの遭難場所(ソロモン諸島のサンタクルーズ諸島中のヴァニコロ島)の発見にも成功しました。アストロラーベ号とジーリー号は1829/3/25にフランスに帰りました。帰港後に、これが世界第2の成功している世界一周であることを知りました。

1837/9/7に乗組員一人当たり金貨で100フランの成功ボーナスを賭けて、南極地方の探検へとツーロン港を出帆しました。月末にカナリア諸島に寄航して、12/10に大西洋の霧に悩まされながらも、1838/1/8にマゼラン海峡のフエゴ島(Tierra del Fuego)をへて、凍るような霧の中を通過しました。怯えている乗組員に夜に何度も起こされながら、長い氷の壁を見つけました。2月27日にサウスシェットランド諸島に達し、そこをフランス国王領土と宣言しました。3/27にはアストロラーペ号に21人の壊血病患者が発生し、犠牲者を出しながら、4/6にチリに達しました。タスマニアのホーバート港から1838/2/2にもう一度南極へと出帆、探検調査の後に帰港しました。1839/5月にホーバート港を出帆して南極へと向かいました。多くの犠牲(壊血病など)を出しながら、1840/1/2に氷山に取り囲まれながらも陸地を発見しました。

1/20には陸地に上陸し、彼の妻の名に因んでアデリー海岸(Terre Adelie=フランス南極地方)と命名しました。1840/1/22にアデリー海岸(ランド)のジオロジー群島デュムリン諸島のランディング・ロック(Landing Rock, Dumoulin Islands)に上陸しました。その前の海は、現在デュルヴィル海と呼ばれています。8ヵ月以上の氷海での探検調査の後にタスマニア島のホーバート港に帰り、その後はニュージランドからトンガ、北部ニューギニアチモールを周って (インド洋からケープタウンをへて) セント・ヘレナから大西洋を越えて、1840/11/6に2隻の船ジーリー号とアストロラーベ号はツーロン港に帰港しました。フランス政府は報奨金として金貨で15000フランを与え、デュルヴィルは生存者130人と喜んで分けました。そして、その探検航海の功績により、デュルヴィルはフランス地理学会
から、1841年に最高栄誉賞の金十字勲章(Grande Medaille d'Or des Explorations)を与えられ、フランス海軍では海軍少将(rear admiral)に昇進しました。

1842/5/8にベルサイユ(Meudon説有)の近くで鉄道事故により妻子と共に亡くなり、パリのモンパルナス(Cimetiere du Montparnasse)に葬られました。

1841年のデュルヴィル・レポートが1854年に「アストロラーベ号の大航海」(Voyage au pole Sud et dans l'Oceanie sur les corvettes l'Astrolabe et la Zelee 1837-1840)として、地図などの図版付で24巻が出版されました。

デュルヴィルの生涯年表
 記  事
1790 ノルマンディのカルヴァドスで誕生
1807 17 海軍学校に入隊、トップで卒業
1820 30 ミロのヴィーナスの購入に成功、その功績によりルテノンとなる
1822 32 南太平洋の探検航海
1825 35 太平洋の探検航海計画が承認される
1826 36 太平洋の探検航海にツーロン港を出帆。ラ・ペルーズの遭難場所を発見
1829 39 太平洋の探検航海からツーロン港に帰港
1837 47 南極方面の探検航海にツーロンを出帆
1840 50 南極方面の探検航海からツーロンに帰港。提督となる
1842 52 パリ近郷で亡くなる

ル・アストロラーベ号の装備:〜:
  Le Astrolabe
、1826
船 型 フリュート型輸送艦(Fluyt) フランス艦ル・アストロラーベ号
帆 柱 3本マスト
長 さ 31.57m
18.48m
重 量 380屯
乗組員 110人(内士官10人)
武 装 6ポンド砲15門

<参 考>
仏領南極ジオロジー群島
  (Geology Archipelago)
 ジオロジー群島ペトレル島(Ile des Petrels)に 仏デュモン・デュルヴィル南極観測基地が有。

・地名
デュルヴィル提督の没後多くさんの地名が彼の名前にちなんで命名されました。
南極のデュルヴィル海(D'Urville Sea)、南極のデュルヴィル島(D'Urville Island)、
インドネシアの西ニューギニアのデュルヴィル岬(Cape d'Urville Irian Jaya)
ニュージランドのデュヴィリエ島(D'Urville Island)、南極のデュルヴィル基地(Dumont d'Urville Station)フランス南極のヂュモン・デュルヴィル基地は 南緯 64°40'、東経 140°1' に現在も継続されています。パリのシャンゼリゼの近くにはデュルヴィル通(Rue Dumont d'Urville)が有ります。

・ルイ18世 (1755〜在位1814〜1824)
  Louis XVIII de France

ルイ18世は1814年に復活したブルボン朝第六代の国王。妃ルイーズ・マリー・ジョセフとの間に子供は無く、フランス革命(1789/7/14-7/27”テルミドール9日”)が起こるとイギリスに亡命。ナポレオン戦争(1803年-1815年ナポレオン・ボナパルト支配下のフランスと、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ諸国との戦争)、1814年にナポレオン1世が対フランス連合軍によって追われ、その後のウィーン会議で諸外国からブルボン朝の王政復古が支持されたため、フランスに戻って即位した。ただし当初は、連合国から生死のはっきりしないルイ17世(兄)の摂政に過ぎないとされ、2年間は名目上の王位とされた。しかし、ナポレオンが再起を謀ってフランスに舞い戻ると、
フランスの大航海

フランス 1965 発行
再びルイ18世はフランスを追われた。その後、ナポレオンが再び敗れてセントヘレナ島に流されると、再びフランスに戻って即位し、親政を開始した。ルイ18世は、ルイ16世の時代に追放された貴族の復帰を助ける一方で、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取ることで、国内の安定に努めた。また、財政面では世界で初めて会計年度の概念の取り入れてその適正化を図った。

・シャルル10世 (1757〜1836〜在位1824〜1830)
  Charles X de France

シャルル10世はルイ16世とルイ18世の弟で、ブルボン朝最後の国王。1789年にフランス革命が起こるとイギリスに亡命して反革命派とともに各地を転戦。亡命中は、反ナポレオンの旗手となり、ナポレオン失脚の為の援助と刺客をフランスに送り込んだ。有名なのが、1800/12/24に起きた王党派によるナポレオン暗殺未遂事件「地獄の仕掛け事件」である。しかし結局ナポレオンを失脚に追い込むことは出来ず、ナポレオン戦争でも兄同様、大きな影響力を誇示することが出来なかった。1814年にナポレオン失脚後にフランスへ帰国するも、ナポレオンの百日天下では、再び亡命を余儀なくされる。この様にブルボン家の兄弟はナポレオンに対して無力であった。このため、ボルドー
シャルル10世

アジマン 1972 発行
反ナポレオンの挙兵演説をしたアングレーム公妃マリー・テレーズ(ルイ16世王女)を、ナポレオンから「ブルボン家唯一の男性」と揶揄されたりもした。1824年に兄が死去すると国王として即位したが、議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すなど、兄以上の反動的な親政を行なったため、1830年、不満をもったフランス国民により革命が起こされた。いわゆるフランス7月革命である。この革命によってシャルル10世はイギリスに亡命。名実ともにブルボン朝は滅亡した。 ボルドー(Bordeaux)

フランス 1949 発行

こちらで
フランス大革命
フランス七月革命
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2006/7/31、2019/8/18追記令和 R.4/4/15(2022)
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁