★スペイン
アブラハム・ザクート師
1492頃
金属製アストロラーベを製作

大航海物語★
SIERA LEONE
アストロラーベ、 ピンタ号、 ザクート

Astrolabe、 Pinta 、 Zacuto
Abraham Zacuto、Astronomer 1452−1515
コロンブスの新大陸発見 500年 記念
シェラレオーネ 1992 発行 (200%)
ANGOLA
ポルトガルのカラベル船、 アストロラーベ

Caravel、 Astrolabe
コロンブスの新大陸発見 500年 記念
アンゴラ 1991/11/8 発行 (200%)

アブラハム・ザクートは16世紀ポルトガルの天文学・数学・歴史学の教授で、ジョアン2世の王立天文学所で教鞭をとっていました。ヨーロッパで最初の金属製アストロラーベ製作者といわれています。月面にザクート・クレーター(Zagut crater)が有ります。

ラビ・アブラハム・ザクート  (1450頃〜1510)
 Rabbi Abraham Zacuto
、Astronomer
アブラハム・ザクートはディアスポラでセファルディムといわれたスペイン・ポルトガルに定住したユダヤ人の一族で、スペインを代表する有名な大学都市のサラマンカで1450年ごろに生まれました。

スペイン時代:−
サラマンカ大学で天文学を学び、長じて同大学で教授となり、また、サラゴザやカルタヘナ(Zaragoza、Cartagena)でも教鞭をとりました。ユダヤ法にも精通していて、一族のラビ(Rabbi)になりました。天体暦、エフェメリス(ephemeris)を刊行しました。1492年42才の時に、スペインでユダヤ人追放(Alhambra Decree)が起こると、リスボンへ避難しました。

ポルトガル時代:−
既に高名な天文学者となっていたザクートは、ポルトガル宮廷に招かれて、天文学と歴史学を教えました。ジョアン2世(Joao II 1455-1495,)時代から早期のマヌエル1世(1469-1521)時代に安定した地位を与えられ、ポルトガルでのユダヤ人排斥前の良い時代をリスボンで過ごしました。ポルトガルでは、持ち運べる金属製の小型のアストロラーベと極めて正確な「星と緯(緯?)度」の換算表(Almanach Perpetuum)を製作しました。それがポルトガル・カラベル船の船長たちによって、外洋での自分の船の位置を知るために使用されて、インド航路開拓に大きく貢献しました。ヴァスコダ・ガマペドロ・カブラルも持参していたと伝えられています。

トルコ時代:−
ポルトガルでも、ユダヤ人への差別が激しくなり、ザクートは何時のころからか、オスマン帝国(Ottoman Empire)のイスタンブールに移住して、1510年ごろに60才で亡くなったと伝えられています。

参考:〜:
・アストロラーベ(Astrolabe)とは:〜
平面アストロラーベとも呼ばれ、古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の機器であり、アナログコンピュータでもある。用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われた。イスラムとヨーロッパの天文学では天宮図を作成するのに用いられた。

アストロラーベの発明者は知られていないが、18世紀に六分儀が発明されるまでは航海における主要な測定機器であった。アストロラーベの発明者としてヒッパルコスやヒュパティアを挙げる歴史学者もいる。
ヵラベル船とアストロラーベ

・ディアスポラ(διασπορ)とは、
ギリシャ語で「散らされたもの」という意味の言葉で、特にパレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人の内、セファルディム(Sephardim)というスペインやポルトガルに定住したユダヤ人。

・サラマンカ(Salamanca)は、
1218年にレオン王国のアルフォンソ9世のもとでスペイン最古の大学サラマンカ大学が建てられ、この大学で「新大陸」の統治にむけての法的整備や、対抗宗教改革(反宗教改革)の諸思想が形成され、また、 20世紀のスペイン内戦では、フランコ側の重要な拠点となった街。

・ラビ(Rabbi)とは、
ユダヤ教に於いて宗教的指導者であり学者でもあるような存在。

・ユダヤ教徒の強制改宗:
隣国スペイン(カスティーリャ)では、1492年にユダヤ人追放令が出され、少なくとも10万人のユダヤ人が陸路でポルトガルに逃れた。ジョアン2世は、わずかな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。マヌエル1世(Manuel I、1469-1521)は即位するや、これらのユダヤ人を奴隷身分から解放した。しかし、マヌエルはカトリック両王の王女イサベル(事故死したアフォンソ王太子の未亡人)を妃として迎えるに当たって、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、1496年にマヌエルもこれに応じた。ポルトガルでもキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出された。

しかし、商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放することは、ポルトガルの経済上大損失であることを認識していたマヌエルは、彼らを国内に引き留めるために、形式的な強制改宗を断行する。1497/3/19をもってポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒はキリスト教に改宗したことにして、内心での信仰の調査は20年間猶予するというものである。この期間は、さらに延長され、マヌエルの治世下では結局行われなかった。しかし、表面的にキリスト教徒となったユダヤ教徒たちは、「新キリスト教徒」と呼ばれ、さまざまな場面で差別を受けた。14才未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出すことが義務づけられ、そこでキリスト教の価値観や習慣を身につけさせようとした。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/2/29

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