★オランダ
ウィレム・デ・フラミング船長
1697

西オーストラリア探検でスワン河を発見
大航海物語★
Christmas Island
船長室のフラミング船長

クリスマス島 1977-78 発行

Australia
オーストラリアの地図と国旗

オーストラリア 1981 発行
AUSTRALIA
オーストラリア黒鳥

オーストラリア 1984/8/2 発行

1694年に遭難したオランダ東インド会社のリデルシャップ・フォン・ホランド号の捜索のために、1696年にフレミングがデ・ギールヴィンク号でアムステルダム港を出帆し、西オーストラリア方面を捜索航海中に、スワン河とロットネスト島を発見してそれぞれ名付けました。
ウィレム・デ・フラミング (1640/11/28〜1698頃)
 Willem de Vlamingh

フラミング船長はベルギー北部のフランダース地方出身者でフレミッシュ(Flemish people)と呼ばれる民族の出身でした。1688年にオランダ東インド会社(VOC)へ参加しました。
1688/11/26に東インドのバタヴィア(現インドネシアのジャカルタ)への航海に従事し、
1690/5月にオランダのアムステルダム港に帰港しました。
1694/1/7に再度、バタヴィアへの航海に従事し、10ヵ月後の1694/11/13にバタヴィア到着、
1695/8/23にオランダのアムステルダム港に帰港しました。
1696年には、
1694年にバタヴィアへ325人の乗客を乗せて出帆したオランダ東インド会社船団のリデルシャップ・フォン・ホランド号(Ridderschap van Holland)が1694年の早い時期に喜望峰に到着しました。その後に行方不明と成り遭難したものと思われ、その救援と捜索のために西オーストラリアのニューホランド(New Holland)方面の捜索探検航海を命ぜられました。

フラミング船長の捜索探検大航海:〜1696〜1698
リデルシャップ・フォン・ホランド号の捜索でニューホランドを探検航海;
フラミング船長の乗船は新造のフリゲート艦デ・ギールヴィンク号(frigate De Geelvink)、コラーエスト船長(Gerrit Collaert)のフーカー艦デ・ニジプタン号(hooker De Nijptang)、フレミング船長の息子ジョシュア・デ・フラミング(Joshua de Vlamingh)が船長で乗組むガレオン船ウェセルジェ号(galiot Weseltje)の3隻で船団を編成しました。

1696/5/2にアムステルダム港を出帆。スコットランド沖から大西洋に出て、1696/8/17にトリスタン・ダ・クーニャ島に到着しました。喜望峰に寄航して数週間滞在し、1696/10/27に喜望峰を出帆。11/28にブラジルのセントピーター・セントポール群島(Saint Peter Paul Rocks)を望見し捜索隊をボートで上陸させましたが、捜索では何の成果も得られず飲料水とアザラシの肉などを補給後の12/5に出帆しました。

航海すること19日、西オーストラリアのニューホランド海岸を望見しましたが、激しい潮流で北方へと流されました。1696/12/29にフラミング船長が西オーストラリアの現パース沖(フリーマントル港沖)で島を発見、ネズミに良く似てワラビーそっくりの”クオッカ・ワラビー”(quokkas)がいるのを見てロットネスト島(Rottnest Island、鼠の巣"rat's nest)と名付けました。そして対岸の陸上に大きな河を発見しました。

1697/1/10、その「大きな河」に黒鳥(black swans)がいるのを見てスワン河(Zwaanenrivier、Swan River)と名付け、ボート(long-boats)で河を遡上して探検しました。上流20km付近で河が「ぬかるみ状」で浅くなったので、現ハリソン島(Heirisson Island)までで河の探検調査を打ち切りました。このスワン河は、その後フランスのニコラ・バウダン船長が1801年に現フリーマントル港(Fremantle)から探検して河の地図を作成しました。なお、スワン河とその北部海岸一帯の所がパース大都市圏(Perth, Western Australia)になっており、河の直ぐ上流にパース入り江(Perth Basin)があり、パース市(city of Perth)となります。

参考HP:〜
 ・フランダースの地図(14世紀)
 ・フランダース地方の場所地図
 ・スワン河の河口(フリーマントルの場所)地図
 ・スワン河の地図
 ・ロットネスト島、フリーマントル港、パース、スワン河の場所地図
 ・ハリソン島の地図(緑は南パース)






★フラミング物語
ウィレム・デ・フラミング船長
1697/3/20
クリスマス島に寄航

大航海物語
 オランダ★
CHRISTMAS ISLAND
フラミングの探検300年

クリスマス島 1996/10/27 発行
Cocos(Keeling)Islands
ココス島

ココス島1980/12/18発行

Christmas Island
クリスマス島

クリスマス島 1986/4/30 発行

その後、さらに西オーストラリア海岸の沿岸を北上航海し続け、1697/1/30に西オーストラリア西海岸中央部のシャーク湾にある現ダークハートッグ島(Dirk Hartog Island、オランダの探検家ハートッグ(Dirk Hartog、1582-1631”Hartog Plate”の考案者に因んで名付けられた島)に到着、2/11に上陸して捜索探検し、ピューター(Pewter:スズを主成分とする古くからある低融点合金)に取り付けてあったと思われるスズ板(Hartog's pewter plate)を見つけ拾いました。それはハートッグ船長のエンドラッグト号(De Eendragt)が1616/10/25に来島し27日に東インドのバンテンへと出帆した時の物と思われました。このハートッグ・ピューター・プレートはアムステルダムとフリーマントルの博物館(Rijksmuseum、West Australian Maritime Museum)に現在も保存されています。

1697/2/21に海図に南緯20°から、南緯 32°迄の調査記録を記入して航海日誌には西オーストラリア海岸地帯では遭難船を発見できなかったと書き込んで、西オーストラリアを離れ、ジャワ島バタヴィアへと向かいました。インド洋を北上航海して、1697/3/20にクリスマス島に寄航し、またココス島に寄航して、11ヵ月に及ぶ捜索航海後の1697/4月にバタヴィアに到着しました。そして、1698/2/3に東インドを出帆、1698/8/16にオランダのアムステルダム港に帰港しました。

1698年には、地図製作者のウィッツセン(Nicolaes Witsen、1641-1717)にオーストラリアのニューホランド(New Holland)の地図製作を依頼し、出版されました。

フラミング船長はこの捜索探検大航海からの帰国後にVOCを去り、その後の消息は定かではなく、大航海で健康を害して1698年48才頃に亡くなったとされています。

参考HP:〜
 ダークハートッグ島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        08/12/20 10/1/23追記
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