Jordan

国連 1986 発行
 切手で綴る 中近東の国々
ヨルダン王国
The Hashemite Kingdom of The Jordan

大航海物語
  地図編

THE HASHEMITE KINGDAM OF JORDAN
イスラエルを認めないヨルダンの地図
ヨルダン川の西岸地域 ヨルダン川の東岸地域
アラブ諸国首脳会議カイロ開催記念
(アラブ・サミット 1964/1/13 会議)

ヨルダン 1964/9/5 発行

H.K.OF JORDAN


ヨルダンの地図
ヒジャーズ鉄道
ヨルダンを南北に縦断する鉄道

ヨルダン 1999/9/7 発行
鉄道博物館 ヨルダン川の古地図

1897 マダバ・モザイク・マップ発見100年記念 1997
ヨルダン 1997/4/7 発行

ヨルダン・ハシミテ王国
 Hashemite Kingdom of Jordan

・面積=92,300km2(日本外務省データ=8.9万km2日本の約4分の1)、
・2004年の人口=5,611,202人、首都”アンマン” で、通貨は ヨルダン・ディナール(JOD)。

1919年、英の委任統治領(Arab Kingdom of Syria, 1919-1920)の一部となる
1919年、英の委任統治領
    (イギリス委任統治領パレスチナ、British Mandate for Palestine, 1920-1948)
    (トランスヨルダン首長国、Emirate of Transjordan, 1921-1946)
1923年、トランス・ヨルダン王国(Kingdom of Transjordan)建国
1946年、トランス・ヨルダン王国(Kingdom of Transjordan)として独立
1950年、ヨルダン・ハシミテ(ハシェミット)王国(Hashemite Kingdom of Jordan)と改称

▼ヨルダンはヨルダン・ハシミテ王国、通称ヨルダンで、ハーシム家の王国ヨルダンという意味で、この国は第一次世界大戦後の1919年にトルコ領から、イギリスの委任統治領”トランスヨルダン”(Trance Jordan、ヨルダン川の向こうの意味)となりました。1923年にイスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻にさかのぼるハーシム家出身のヒジャーズ王国の王族の子孫アブドゥッラー・ビン=フサイン(アブドゥッラー1世, Abdullah al-Auwal bin al-Husain, 1882-1951)が迎え入れられてイギリス領のトランスヨルダン王国が成立しました。

トランスヨルダン王国は第2次世界大戦後の1946年にイギリスから独立し、1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めました。1950年にはエルサレムを含むヨルダン川西岸地区を領土に加えました。1952年に制定された憲法で立憲君主制をとっています。君主は世襲制で、国王は内閣と共に行政権を執行し、2院制の議会を持っています。

1967年の第3次中東戦争(Six-Day War(Third Arab-Israeli War), 1967/6/5-6/10)でヨルダン川西岸地区をイスラエルに占有され、その地域から大量のパレスチナ人難民が流入しました。1990年代以降には王国の民主化に伴い王室の近代化主義に反対する保守派やイスラム主義派が台頭して国内の不安定要因となってきています。

▼ヒジャーズ鉄道(Hejaz railway):〜1908/9/1にマディーナ(メディナ)まで開通、
1913年にダマスカス市街中心部に始発駅で新駅ヒジャーズ駅が竣工。
オスマン帝国によって建設されたヒジャーズ鉄道(Hejaz railway)は、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビアの聖地メディナまでの区間を、シリア、ヨルダン、およびアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断して連絡した鉄道。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部で、当初の計画では聖地マッカ(メッカ)を終着駅にしていました(マッカまではあと400kmを残していた)が、戦争で破壊され、特に第一次世界大戦中、アラビアのロレンス)に率いられたゲリラ部隊が鉄道を襲い破壊しました。現在は、
・「ヒジャーズ・ヨルダン鉄道」〜ヨルダンのアンマンからシリアのダマスカスに向かう
・「アカバ鉄道」〜ヨルダンのアンマンから南部への鉄道、特にマアーン近郊のリン酸塩の鉱山からアカバ湾に向かう、のが残存しています。

▼ヨルダン川
  (Jordan River, 251km)
ヘルモン山(Mount Hermon, 2,814m)やアンチレバノン山脈(Anti Lebanon Mountains)、ゴラン高原(Golan Heights、最高点2,814m)などに端を発し、途中ガリラヤ湖(Sea of Galilee)を通り、ヤルムーク川(Yarmouk River, 70 km)・ヤボク川(Zarqa River, 65km)・アルノン川(Arnon Stream(アルノンの奔流の谷, Wadi Mujib), 70km)などの支流をあわせて死海(Dead Sea, 湖面の海抜はマイナス430m)へ注ぐ。主に、ヨルダンとイスラエル・パレスチナとの国境になっている。

▼ヨルダン行政区画は12のムハファザ(muhafazah、県)に分かれている:〜
(1)アジュルン県 (Ajlun)〜県都アジュルン
(2)アカバ県 (Aqaba)〜県都アカバ
(3)バルカ県 (Balqa)〜県都サルト (Al-Salt)
(4)カラク県 (Karak)〜県都カラク(アル=カラク, Al-Kerak)
(5)マフラク県 (Mafraq)〜県都マフラク
(6)アンマン県 (Amman)〜県都アンマン
(7)タフィラ県 (Tafilah)〜県都タフィラ
(8)ザルカ県 (Zarqa)〜県都ザルカ
(9)イルビド県 (Irbid)〜県都イルビド
(10)ジェラシュ県 (Jerash)〜県都ジェラシュ
(11)マアーン県 (Ma'an)〜県都マアーン
(12)マダバ県 (Madaba)〜県都マダバ。

▼ヨルダンのユネスコ世界遺産〜5件
<文化遺産>
・ペトラ遺跡〜(Petra, 1985)
  ペトラ遺跡は死海とアカバ湾の間にある渓谷に有り、死海から約80km南の場所で、
  ペトラとはギリシャ語で岩の意味。1985/12/6に世界遺産へ登録
・アムラ城〜(Quseir Amra, 1985)
・ウム・アル=ラサス(ラサス地域の遺跡)〜(Um er-Rasas (Kastrom Mefa'a), 2004)
・洗礼の地「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」(アル=マグタス)〜
  (Baptism Site “Bethany Beyond the Jordan” (Al-Maghtas), 2015)
<複合遺産>
・ワディ・ラム保護地域〜(Wadi Rum, 2011)。

▼ヨルダンがイスラエルを認めない切手を発行:〜
右の「ヨルダンの地図切手」は1964年に発行されたもので、ヨルダン川西岸のパレスチナ地域から地中海岸までをヨルダン領と同じ色にして、あたかも自国の領土のように描いています。実はそのヨルダン川西岸地域と東エルサレムとは1967/6月に第3次中東戦争で、ヨルダンからのイスラエル占領地域になっています。当時のヨルダン川と死海を結ぶ線の西側すなわちパレスチナの状況は、イギリスのバルフォア宣言に基づいて世界各地からユダヤ人がこの地に帰還し、国連のパレスチナ分割案が可決された翌年にイスラエルの建国が宣言(1948/5/15)され、パレスチナ人の多くは周辺のアラブ諸国に難民として移動しました。この切手はイスラエル建国後の発行ですが、中東戦争を含むパレスチナ紛争の真っただ中で、アラブ国家としてイスラエルという国家を認めないという
ヨルダンの地図切手
強い意志が切手図案の地図にあらわれています。

なお、バルフォア宣言(Balfour Declaration, 1917/11/2)は、第一次世界大戦中にイギリスの外務大臣で初代バルフォア伯爵アーサー・ジェームス・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1848-1930、1902/7/11-1905/12/5の間イギリス首相)が、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーで第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルタ−・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild,2nd Baron Rothschild、1868-1937:イギリスの動物学者、貴族で英国ロスチャイルド家の第3代当主)に対して送った書簡で表明されたイギリス政府のシオニズム(Zionism:イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建する運動)支持表明のこと。

▼参考HP〜
ヨルダンの地図
ヨルダン川西岸地区の地図
ヨルダンの行政区画
地中海からスエズ湾・シナイ半島・アカバ湾と紅海の地図と、ヒジャーズ鉄道の路線図
・世界遺産「ペトラ」の場所地図

こちらで
ジャラシュ遺跡ヨルダン
ペトラ遺跡 (ヨルダン)世界遺産
ラスコー洞窟の岩絵フランス)世界遺産
ヌビア遺跡エジプト)世界遺産
パルテノン神殿ギリシャ)世界遺産
法隆寺 (日本)世界遺産
をお楽しみください。

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   09/2/3、11/8/11
スタンプ・メイツ
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