Canada

国連 1983 発行
切手で綴る カナダ (Canada)
ヌトカ・サウンド
 Nootka Sound

大航海物語
   地図編

ESPANA
ヌトカ入江、1791
ホセ・エスピノーザ、1802発行地図アトラス
ヌトカ・サウンド

Nootka Sound, 1791
ヌトカ海岸の地図、1791
Nutka Inlet, 1791
Jose Espinosa y Tello, 1763-1815

スペイン 1976/3/1 発行

クック船長、ヌトカ・サウンド ”フレンドリー・コーヴ” 発見・上陸、1778
Captain Cook Nootka Sound

クック船長 バンクーバー島西岸・ヌトカ砂洲 発見
bicentenary of  anchorage near Anchorage
1778/6/1 アンカレッジ付近投錨 200年記念 1978
カナダ 1978/4/26 発行

カナダ太平洋岸の現地人の生活情景、18世紀頃
現地人集落

カナダ 1971 発行
現地人

カナダ 1974 発行

ヌトカ・サウンド
 Nootka Sound
, Nootka Island, Vancouver Island west coast, British Columbia, Canada
ヌトカ・サウンドは北米の太平洋岸カナダのブリティッシュ・コロンビア州(Canadian province of British Columbia)バンクーバー島西岸のほぼ中央部で北西航路の探検航海に重要な場所に有ったため、19世紀にイギリスとスペインとの間で紛争になりました。1794年のヌトカ協定(Nootka Convention)でフレンドリー・コーヴがイギリスに譲られ、戦争は回避されました。キングジョージ・サウンド(King George's Sound)でヴァンクーヴァー島と分離された面積(534ku )のヌトカ島(Nootka Island)に有。
当時はロシアアラスカ方面で毛皮取引を確立してアラスカを南下、アラスカ南部のスペインの基地シトカへ迫っていました。スペインはメキシコのサン・ブラス(San Blas)からシトカへ物資を補給していたため、その航海は大航海となり、ほぼ中間にあるヌトカ・サウンドは飲料水の補給などに重要な地点でした。 アラスカ南部のシトカ

スペイン 1976 発行
イギリスは、1579年にドレーク船長が付近を通過してヴァンクーバー島付近で投錨した所を、後年にドレーク湾と呼んでおり、クック船長が第3回航海でカリフォルニアから北米大陸沿いに太平洋を北上し、1778/3/29にバンクーバー島のヌトカ・サウンド(ヌトカ砂洲フレンドリー・コーヴ)に到達・発見、ブライ島(Bligh Island)に上陸して、その入江(inlet)をキング・ジョウージ・サウンド(King George's Sound)と名付け、現地のヌートカ族には、「ヌトカ」(Nutka or Nootka)と呼ばれていると航海日誌に記録しました。さらに探検航海を続け、1778/6/1にアラスカのアンカレッジ付近に投錨しました。

ところがスペインのペレス船長(Juan Perez、1725-1775)は、1774/8/8にスペイン海軍のサンチャゴ号(Santiago)でヌトカ・サウンドのヌトカ入江(Nootka Inlet)に投錨し船を停泊しましたが、上陸はしませんでした。すると、島の原住民がカヌーでやって来たので、カリフォルニア産のアワビ(鮑、abalone)などと現地の毛皮とを交換しました。ペレズ船長はそこ(Nootka Inlet)を「スルギデオ・デ・サン・ロレンゾ」(Surgidero de San Lorenzo)と呼びました。

1785/8月にイギリスの毛皮商人ジェームス・ハナ(James Hanna)が毛皮と鉄製品を交換し、また、1788年にジョン・メアーズ(John Meares、1756-1809)毛皮商人がポルトガルの便宜置籍船(Portuguese-flagged ships)で、1787年にはアメリカイングラハム船長などが、中国で毛皮を売って大儲けするためヌトカの交易場所へ来航しました。

以上の経緯のもと、ロシアやイギリスやアメリカの毛皮商人(Fur Trader)たちが現地人と毛皮取引を確立してきていましたので、スペインはその権益が損なわれるのを恐れて、ヌトカに前線基地を建設し、メキシコのサン・ブラスとアラスカ・シトカとの航海の安全を図ろうとしました。

ヌトカ事件(Nootka Incident)
スペインのエステヴァン・マルティネズ(Esteban Jose Martinez、1742-1798)がラ・プリンセサ号(La Princesa)とサン・カルロス号(San Carlos)で、1789/5/5にヌトカ・サウンドに到着し、サン・ミゲル砦(Fort San Miguel)を建設しました。到着すると3隻の船が停泊しているのを発見しました。2隻はイングラハム乗組みのケンドリック船長(John Kendrick 1740-1794)の毛皮取引(fur trade)船3本マストのフルリッグド・シップ(full rigged ship、全装帆船)
ラ・プリンセサ号

ソロモン 1981 発行
アメリカ船スループ型帆船コロンビア・レディヴィヴァ号(Columbia Rediviva、213tns 幅:25.45m)と、グレイ船長(Robert Gray 1755-1806)のブリッグ型レディイ・ワシントン号(Lady Washington、178tns 幅:34m、高さ:27m)で、イギリス船はウィリアム・ダグラス船長(William Douglas)のイフィジェニア号(Iphigenia)がヌトカ・サウンドで、越冬中でした。イギリス船は捕えられ、ウィリアム・ダグラス船長は逮捕されました。

そして、メアーズが来航してくると、マルティネズがエフィゲニア・ヌビアン号(Efigenia Nubiana)を押収しメアーズを捕え、2隻の船スループ型帆船のイギリス商船プリンセス・ロイヤル号(Princess Royal、sloop、65t、幅:13.11m、ビーム長:4.88m 、乗組員15、4ポンド砲1門と旋回銃8門装備)と他の船を拿捕しました。

6/8にロバート・ファンター船長(Robert Funter)のスループ型帆船ノース・ウェスト・アメリカ号(North West America)がヌトカ・サウンドに到着、マルティネズが拿捕しました。スループ型帆船はサンタ・ガルトルーディス・ラ・マグナ(Santa Gertrudis la Magna)と改名され、付近の探検調査に使用され、ホセ・ナルヴァエズ船長(Jose Maria Narvaez 1768-1840)の指揮のもとでファン・デ・フーカ海峡(アニアン海峡)の探検調査をしました。マルティネズはイフィジェニア号に補給物資を提供して、ダグラス船長がイギリス船と共に「2度と来ない」ことを条件に釈放しました。

7/2にイギリス船プリンセス・ロイヤル号(Princess Royal)とアルゴノート号(Argonaut)が到着。プリンセス・ロイヤル号のトーマス・ハドソン船長(Thomas Hudson)に対して、中国へ戻って2度と来るなと警告。後日到着のアルゴノート号を捕え、コルネット船長(Colnett)と乗組員および中国人の労働者を全員逮捕し、中国人の労働者をサン・ミゲル砦の補強工事の強制労働に従事させました。これは、スペインの主権の乱用でした。

7/12にハドソン船長がロイヤル号で舞い戻ってきましたので、スペインに捕えられました。それまでイギリスやアメリカの船と毛皮取引をして儲けていた現地人達は当惑しましたので、7/13に現地人マッキーナ酋長(Maquinna)の息子カリカム(Callicum)がマルティネズに面会を求めてきました。会見中にはずみで彼を殺害してしまいました(銃の暴発だとの説有)。息子を殺されたマッキーナ酋長はヌトカ・サウンドからクラヨクゥート・サウンド(Clayoquot Sound)へ逃れて、その地域の住民とスペインに対して決起しました。

7/14にアルゴノート号はイギリス人捕虜を乗せて、メキシコのスペイン海軍基地サン・ブラスへと出帆。2週間後にサン・カルロス号(San Carlos)に随伴されたプリンセス・ロイヤル号が出帆。2隻のアメリカ船は夏の間中毛皮交易をおこない、時にはフレンドリー・コーヴ(Friendly Cove)に寄りましたが、マルティネズは放置しました。ノース・ウェスト・アメリカ号の乗組員はアメリカのコロンビア号に移されて中国へと出帆しました。

2隻のアメリカ船トーマス・メットカフェ船長(Thomas Humphrey Metcalfe)のフェアー・アメリカン号(Fair American)とトーマスの父親サイモン・メットカフェ船長(Simon Metcalfe)のエレアノーラ号(Eleanora)が到着、マルティネズは拿捕しましたが、隙を見て逃亡しました。

1789/7/29にメキシコのサン・ブラス(San Blas)からスペインの補給船アランザス号(Aranzazu)が到着し、「年末までにヌトカ・サウンドのサン・ミゲル砦から撤退せよ」とのフローレス総督(Viceroy Flores)の命令書が届きました。10月末までにサン・ミゲル砦は放棄され、プリンセス・ロイヤル号とアルゴノート号は捕虜の船長と乗組員もろともに、フェア・アメリカン号もサン・ブラスへ回航されました。ノース・ウェスト・アメリカ号はサンタ・ゲルトルディス・ラ・マグナ号(Santa Gertrudis la Magna)と改名されて、別にサン・ブラスへ回航されました。1790年にフェア・アメリカン号は解放されました。こうして、ヌトカ事件はアメリカとの戦争は回避されました。

ヌトカ紛争(Nootka Crisis)
1789年夏にキューバ島ハバナ生れの新総督ファン・ヴィセンテ(Juan Vicente de Guemes、1740-1799)はヌトカ・サウンドの再占領と太平洋岸のスペイン領化を継続しょうと決意し、サン・ブラスの副司令官ボデガ・イ・クァドラ艦長を派遣。1790年にボデガ艦長はマルティネズをヌトカ・サウンドのサン・ミゲル砦へ戻しました。

1790/1月にスペインによるヌトカ・サウンドの再占領がロンドに伝わり、ときのイギリス首相はウィリアム・ピット相(William Pitt, the Younger、1759-1806)で、一方のスペインはホセ・モリノ・イ・レドンド(Don Jose Monino y Redondo 1728-1808)でした。フランス革命(1789/7/14)の勃発と、それに続くフランス革命戦争(French Revolution War 1789-1799)の影響で両国は強力な艦隊を派遣しながらも、 スペインがイギリスの毛皮取引を承認(Nootka Convention)することで、1790/10/28に両国がヌトカ協定に調印して戦争は回避されました。

1789年に大英帝国海軍が南太平洋捕鯨場探検航海を計画、ヘンリー・ロバート(Henry Roberts 1757-1796、クック船長の第2、3回探検航海に随行)司令官のもとで、新たにディスカヴァリー号が購入・準備され、ヴァンクーヴァーが航海長に指名されました。2人ともクック船長のメンターシップ(Mentorship)によって育てられた海の男でした。1789年夏にヌトカ紛争がスペイン帝国との間で発生したので、ヴァンクーヴァーは急ぎイギリスに帰港して、フリゲー艦カレイジャス号(HMS Courageux、32-gun frigate)に乗船して戻り、1790年にヌトカ協約(Nootka Convention)がスペインと締結して戦争は避けられました。(ヌトカ・コンベンション

ヌトカ協定(Nootka Conventions)
イギリスはヴァンクーヴァーを1791年に北西航路(North West Passege)の探査と、クック船長が1778年に発見したヌトカ沙洲探検の司令官に指名しました。ヴァンクーヴァーはヴァンクーヴァー探検航海遠征隊(Vancouver Expedition、1791-1795)を率いて探検航海を開始しました。北アメリカ太平洋岸のヴァバンクーバー島付近は1791年にスペインのホセ・マリア・ナルバエス(Jose Maria Narvaez)船長がジョージア海峡(Strait of Georgia)を探検し、1792年にヴァンクーヴァーが島の西岸から、クィーン・シャーロット海峡(Queen Charllote Strait)に入り、ジョージア海峡、そして現在のシアトルのあたりまで到達し、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)を通過して、それまで湾だと思われていた所が海峡だったことを発見し、島がカナダ本土と切り離されている事を発見・確認しましたので、後にその島がバンクーバー島と名付けられました。

1792年にスペインの前哨基地ヌトカ・サウンドをボデガ・イ・クァドラ艦長が指揮するスペイン船隊のフリゲート艦プリンセサ号(Princesa、13-gun salutes Spanish frigate)とアクティヴァ号(Activa )が出帆しました。

1792/4/16にヴァンクーヴァー船長は北緯39度の現サンフランシスコ北方に達し、同年6月にジョージア海峡(Strait of Georgia、カナダのブリティッシュコロンビア州本土とバンクーバー島間にある延長240km(150マイル)の海峡)の「バーチ湾」(Birch Bay)と呼んだ所に投錨しました。6/12にボートを降ろして探検調査に向かわせ、6/13にワシントン州の「ロバート・ポイント」(Point Roberts)、カナダ・バンクーバー市西端の「グレイ・ポイント」(Point Grey)、ブリティッシュコロンビア州南西部の入り江を、バンクーバーは彼の友人であったハリー・バラード卿の名にちなんで「バラード入り江」(Burrard Inlet)と名付け、ハウ提督(Admiral Richard Howe 1726-1799)にちなんで名付けたカナダ側のフィヨルド状の「ハウ・サウンド」(Howe Sound)、ジャービス提督(Admiral John Jervis 1735-1823)にちなんで名付けられたカナダ側の「ジャービス入り江」(Jervis Inlet)などなどを発見し海図に記録しました。6/13にブロートン艦長のチャタム号はロバート・ポイント付近でボデガ・イ・クァドラ艦長のスペイン探検隊と出会いました。

8/11にヴァンクーヴァー船長は南へと回航航海し、8/21にスペイン探検航海艦隊フリゲート艦プリンセサ号乗船のボデガ・イ・クァドラ艦長と出会い、ヴァンクーヴァーはイギリス代表として友好的に、スペイン代表のボデガ・イ・クァドラ艦長とヌトカ・サウンドで、その所有交渉を話合いました。さらに、1792/8/28にヴァンクーヴァー船長とボデガ・イ・クァドラ艦長がヌトカ協定に調印。しかし8/29に交渉は決裂し、それぞれの政府間交渉をロンドンかマドリッドで行うことを約して分かれました。その際にヌトカ付近を”クアドラ・ヴァンクーバー島”と名づけて、それぞれの海図に記入しました。

1792/8/29にブロートン艦長はアメリカのイングラハム乗組みのグレイ船長(Robert Gray 1755-1806)のスループ型帆船コロンビア・レッディヴィーヴァ号がコロンビア川(Columbia River、カナダのブリティッシュコロンビア州及びアメリカ合衆国太平洋岸北西部を流れる川)にまで太平洋岸を北上して来たのに出会いました。1793年には北緯59度のアラスカ(Alaska)まで到達して、冬季になったのでこれ以上の北上航海を断念して、スペイン領カリフォルニアを経由して、ハワイに戻りました。

1794/1/11にスペインがヌトカ島を放棄することで両国間での合意が成立し戦争は避けられました。(第3回ヌートカ・コンベンション)。1794/6/11にスペインがイギリスへフレンドリー・コーヴ(Friendly Cove)を割譲するヌトカ協定(Nootka Convention)に調印。

1795/3/28スペインのアルヴァ将軍(General Alava)とイギリスのピアース海軍大尉(Lieutenant Thomas Pearce)が「何びとも主権を確立しない」ということで調印。しかしマックィナ(Maquinna)には英国旗ユニオン・ジャックが翻りましたが、スペインは権益を放棄しませんでした。

▼スペインとイギリスとのヌトカ調印:〜
・1790/10/28に調印〜毛皮取引の承認
・1792/08/28に調印
・1794/01/11に調印〜スペインがヌトカ島を放棄する
・1794/06/11に調印〜スペインがフレンドリー・コーヴを割譲
こうしてイギリスとの戦争は回避されました。
しかし、スペインは権益を放棄すること無く、
1819年のアメリカとのアダムズ・オニス条約で決着するまで継続しました。

参考:〜
アダムズ・オニス条約(1819年)
 Adams-Onis Treaty
、別名:1819年大陸横断条約
アダムズ・オニス条約は、北アメリカの2国間国境論争に決着をつけた、アメリカ合衆国とスペインとの歴史的な条約のこと。条約は、当時新世界においてスペインの力が弱体化していた領土権に関して、米国とスペインの間の緊張を高める結果となった。フロリダを合衆国に与えることに加えて、条約はテキサスのサビーヌ川(Sabine River 、Texas-Louisiana)沿いの境界線紛争を解決し、ロッキー山脈と太平洋までのしっかりとした米国領土を確立した。 条約の正式名称は、”Treaty of Amity, Settlement, and Limits Between the United States of America and His Catholic Majesty”(アメリカ合衆国とスペイン間の親善、植民、境界条約)と言う。またはしばしば”Transcontinental Treaty of 1819”(1819年大陸横断条約)、”Florida Purchase Treaty”(フロリダ購入条約)とも言われる。

参考HP〜
 ・北米太平洋岸南部の地図(ドレーク湾を明示)
 ・北米太平洋岸北部の地図(ヌトカ・サウンドを明示)
 ・バンクーバー島の詳細地図(ヌトカ・サウンドを明示)
 ・ヌトカ島近郷のブライ島の場所地図(ヌトカ・サウンドのブライ島公式HP)
 ・クラヨクオート・サウンド地域の地図
 ・ハウ・サウンドの場所地図
 ・コロンビア川の場所地図

こちらで
ファン・デ・フーカ船長 (伝説のアニアン海峡を発見?)
アニアン海峡 (大西洋と太平洋を繋ぐ幻の天然運河)
マラスピナ船長 (マラスピナ遠征隊、1789)
世界遺産の
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記々述はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0112 09/12/25、令和 R.3/2/4 (2021)
スタンプ・メイツ
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