★インカ インカの記録
ポマ・デ・アヤラの書簡集
1615
「新しい記録と良き統治」

大航海物語★
ARGENTINA
インカのポマ・デ・アヤラ書簡集の挿絵
書簡集の題字
インカの街

スペイン船隊の到着
獰猛な犬を連れたスペイン人の上陸
1492 コロンブスのアメリカ発見500年記念 1992
アルゼンチン 1989 発行(寄付金付き)

・フェリペ・グァマン・ポマ・デ・アヤラ (1550頃-1616頃)
  Felipe Guaman Poma de Ayala

グァマン・ポマ・デ・アヤラは1615年に当時のスペイン国王フェリペ3世(Felipe III, 1578-在位1598-1621)宛てに、1000ページ・挿絵500点を超える膨大な書簡「新しい記録と良き統治」を書いた人物です。インカ帝国時代、あるいはそれ以前のアンデスの歴史、スペイン人による征服史などの記録と植民政策に対する提言がカスティーリャ語で書かれました。

グァマン・ポマの出生地および出生年については諸説あり ますが、自分の家系を書簡集で、父方の祖父ワマン・チャバ(Huaman Chapa)はインカ帝国成立以前にチンチャイスユ(Chinchay Suyu)を統治していたヤロビルカ家(Yarovilca)の君主で、第10代インカ皇帝トゥパック・インカ・ユパンキと和平同盟を締結し、インカのキトー方面征服に貢献した人物だったと記述。父親のグァマン・マルキ(Guaman Marqui)はインカ皇帝ワスカルの副官としてインカ帝国に仕え、フランシスコ・ピサロがトゥンベスに上陸した時にインカ側の代表としてスペイン人を出迎えた人物であると記述しています。また、ポマ自身は1615年の書簡で自分のことを「齢80の老人」などと記述しています。

ポマは幼年時代は出生地と考えられているアヤクーチョ州のサン・クリストバル・デ・ソンドンド村(San Cristobal de Sandondo village, Cabana district, Lucanas province, Ayacucho region, Peru)で過ごしました。一時期クスコへ移住し、1562年頃にアヤクーチョ州北部のワマンガ市(Huamanga city, Huamanga province, Ayacucho region)へと移りました。それから1571年まで巡察使クリストバル・デ・アルボルノス(Cristobal de Albornoz, 1530-?)の秘書としてインディオの改宗状況の調査の旅に同行し、ワマンガ地方を転々としました。この旅は各地のアンデスで暮らす人々の生活や習慣と触れる機会となりました。その後再びクスコへ戻り、インカ皇族や教会関係者に仕てスペイン語をはじめとする様々な知識教養を吸収。1582年頃に再びアルボルノスの秘書としてリマを訪れ、翌年同地で開催されたリマ教会会議の議事翻訳作業に従事するなど、どちらかといえばスペイン征服側の協力者の立場として過ごしました。

1590年後半に父親のグァマン・マルキが亡くなると、父親が所有していた土地が財産継承者であるポマの不在を理由に、スペイン人ドミンゴ・ヤウレス(Doming Yaulez)に明け渡されるという事件が起きました。これに対しポマは1597年に土地の所有権と受益権の返還を求める訴訟を起こすも、敗訴しました。1600/12月に虚言を弄し、土地を搾取しようとしたとして、ポマに対し鞭打ち200回、2年間のワマンガ市追放及び罰金200ペソの支払いの判決が出ました。この時のことをポマは作品上で「本来、インディオの権益を守るべき立場にある筈の地方官吏はその役割を果たそうとしていない」と激しく非難しました。この事件をきっかけとして、ポマはスペイン人支配下で現地人が非常に苦しんでいることを後世に伝えるため、これらの出来事を体験し、記録するために放浪の旅に出ることを決意しました。

その後ポマは現ワンカベリカ州カストロビレイナ県同郡同市(Castrovirreyna city, Castrovirreyna district, Castrovirreyna province, Huancavelica region)、イカ州ナスカ県同郡同市(Nazca city, Nazca district, Nazca province, Ica region)、イカ州同県同郡同市イカ(Ica city, Ica Department, Ica district, Ica province, Ica region)、イカ州ピスコ県同郡同市(Pisco city, Pisco district, Pisco province, Ica region)、リマ州南部のカニェテ県マラ郡マラ市(Mala city, Mala District, Canete province, Lima region、6郡有)などを歴訪し、首都リマ市(Lima city, Lima district, Lima province, Lima region)へ向かいました。そしてリマでしばらくの間滞在し、スペイン語を解さない現地人達の権利を守るために働いたと記述。数年後にポマは生地であるサン・クリストバル・デ・ソンドンド村へ戻るも、「みすぼらしさ故に家族や親族ですら自分を気付かなかった」ような状態でした。このため村の住民からは歓迎されず、結局長く滞在すること無くこの地を去りました。さらに放浪の旅を続け、1614年に当時滞在していたルカナス・アンダマルカス地方を発ち、再びリマへ向かいました。これは地方での惨状を綴った手稿をスペイン副王へ直接手渡し、現地人に対する保護を訴えることを目的としたものでしたが、リマでは副王に面会すら叶わず、1616年頃に亡くなりました。

その書簡は1615/2月サンティアゴ・デ・チアポ(Santiago de Chiapo, Lucanus province, Ayacucho region)からフェリペ3世宛てに送付されるも、これにフェリペ3世が目を通したかどうかは定かではなく、日の目を見るまで3世紀以上を待たねばならなりませんでした。(1908年コペンハーゲン発見、1912年ロンドン発表、1936年「新しき記録と良き統治」パリ公刊)

新しい記録と良き統治 (ポマ・デ・アヤラの書簡集)
  The First New Chronicle and Good Government

  ス:El primer nueva coronica y buen gobierno
インカ帝国出身のポマ・デ・アヤラの「新しい記録と良き統治」は、コペンハーゲンのデンマーク王立図書館の古記録コレクションと題された記録紙の中に埋もれていたのを、ドイツのゲッティンゲン大学教授リヒャルト・ピーチュマンが1908年に「発見」しました。ピーチュマンは1912年にロンドンで開催された「アメリカニスト会議」でこの手稿を発表、研究者の間にグァマン・ポマという人物の存在が知られることとなりました。その後、フランスのポール・リヴェー(Paul Rivet 1876-1958)が1936年に「新しき記録と良き統治」をパリで公刊しました。だが、この当時重要視されたのはポマが本当に訴えたかったスペイン征服史の裏側に潜んだ問題提起や証言ではなく、プレインカ時代に関するアンデスの歴史や文化に関しての部分で、それらを伝えるために豊富に用いられていたポマの挿絵でした。これに異を唱えたのがメキシコのミゲル・レオン(Miguel Leon)で、その独自の解釈で提唱された「征服の裏側」によって被征服者である現地人から見たスペイン征服を知
キープを持つ
インカの伝令を描く挿絵


ペルー 1981 発行
る上での重要な証跡史料としてその価値が見直されました。

「新しい記録と良き統治」は目次を含め1179ページから成り、そのうち456ページを挿絵が占めています。現地人がスペイン人の征服をどのように見てきたのかを示す重要な資料であるとともに、アンデス史研究のための史跡資料として注目を集めました。その作品は大きく2部で構成されており、435ページまでが「新しい記録」と名付けられた古代からスペイン人征服までのアンデスの歴史を綴るものです。以降が「良き統治」と名付けられたスペイン支配下で、現地人が受けた虐待行為や搾取の告発とその改革案から成っています。

こちらで、
・インカ帝国の始祖マンコ1世
・インカ最初の皇帝パチャクテク
・インカ10代の皇帝トゥパック・ユパンキ(太平洋探検)
・インカ最後の皇帝アタワルパ
・インカの名目皇帝マンコ2世
・スペインの征服者ピサロ(兄)
・スペインの征服者ピサロ(弟)
を、お楽しみください。

▼参考HP:〜
インカ帝国の版図地図(1463-1532)
インカ帝国の版図地図(詳細地図)
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
カハマルカの場所地図(Tumbes、Cajamarca、Cusco有)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
イカ州の区分地図(5県(Province)有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/12/10
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