★インカ
インカ帝国皇帝
パチャクテク
1438
クスコ王国をインカ帝国へ


大航海物語★
Peru
インカ皇帝パチャクテク

金の杖”タパク・ヤウリ”を持つ
ペルー 1998/7/17 発行

パチャクテク (生年不詳〜1471)
   Pacha Kutiq
、在位:1438〜1471
   英:Pachacuti、(ケチュア語:世界を震撼させる者、世界を造り変える者)
   インカ帝国の第9代サパ・インカ(皇帝)
   別名:アンデスのナポレオン
パチャクテクはインカ帝国の9代サパ・インカ(皇帝)で、クスコ王国(1197-1438)を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編しました。パチャクテク皇帝の在世中、クスコ王国は小さな村から、チャンチャンを王都とするチムー王国(Kingdom of Chimor 900-1470) と競い最終的に取って代わる帝国へと発展。パチャクテク皇帝はクスコの谷から南米の文明的な範囲のほぼ全体にインカの統治を広げることとなった3代続く征服の時代を始めた最初の皇帝でした。

父は8代インカ皇帝ウィラコチャ、妻はママ・アナワルキ(Mama Anawarkhi、又はコヤ・アナワルク, Coya Anahurque)の息子で、兄のアマル・ユパンキ(Amaru Yupanqui)と弟の10代トゥパック・インカ・ユパンキがいました。アマル・ユパンキは初めは共同摂政にして万一の際の後継者に選ばれるも、戦士としての資質に欠けていたため、後にトゥパック・インカ・ユパンキが後継者に選ばれました。というのは、パチャクテク皇帝の名は、初めはクシ・ユパンキ(Cusi Yupanqui)で、父帝ウィラコチャは兄ウルコ(Urco)を後継者に指名していましたが、インカの伝統的な大敵であったチャンカ族(Chanka people)によるクスコ侵入の時、彼は自分の才能を示す本当の機会を得ました。父と兄は共にクスコを放棄するも、クシ・ユパンキは軍を結集し、防衛するとともに敵を打ち負かしました。この勝利で、クシ・ユパンキは皇太子としての父の承認と臣民の助けを勝ちとりました。なお別説では、この勝利を父帝ウィラコチャの事績だとしています(父帝の勝利説有)。近年の研究で父帝ウィラコチャまでは祭祀を司る王族が祭政一致の皇帝でしたが、パチャクテク以降は俗権を掌握する王族が皇帝となったとして、この体制変革をパチャクテクによるクーデターではないかと推察する説があります(クーデター説有)。

1438年に父帝ウィラコチャが亡くなると、インカ帝国の唯一の統治者として第9代サパ・インカとなり、自らパチャクテク皇帝(世界を震撼させる者、世界を造り変える者)と名乗りました。その後、間もなくクスコ周辺の小国を恐るべき強国に再編する一連の軍事行動に着手。息子の皇太子トゥパック・インカ・ユパンキと共同しての征服が非常な成功を収めたので、パチャクテク皇帝は「アンデス山脈のナポレオン」と呼ばれるようになりました。1471年にパチャクテク皇帝が亡くなった時、帝国は南は現チリから北は現エクアドル、更にペルーボリビア、北アルゼンチンの大部分も含んだ大帝国となっていました。そしてパチャクテク皇帝は、これまでのクスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ(Tawantin Suyu)はインカ帝国の正式名称)に再編成しました。彼が創設した制度のもとで、アポ(Apu)と呼ばれる地方官がスウユ(suyu)毎に配置されてスウユを支配。これらの地方官の配下にトクリコクと呼ばれる地域の指導者がおり、各都市、谷、鉱山を運営しました。スペインによる征服以前には、各アポの配下に約15人のトクリコクがいるも、パチャクテク創設時にはより少なかったと想定されています。また、権力相互間の監視均衡を図るため、軍隊と聖職者を系列毎に別々の首飾り(官職の標章)を創設していました。パチャクテク皇帝は政治と軍事の才能に溢れていたとされているも、帝位継承法を改良せずに亡くなりました。彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキはパチャクテクが1471年に病状の悪化で没後、特に争いもなく帝位を継承。後の世代では、次代皇帝は内戦に勝つか他者を威圧するかして、地方官、聖職者、軍からの十分な支援を得ることで帝国の支配権を獲得しなければならなくなりました。

パチャクテクはまた、帝国の最遠部の占領のために大規模な移民計画により数十万人を移動させたとされています。これらの強制的な植民者は、インカ社会の最低階層におかれ、ミティマエと呼ばれました。ある意味では、インカ帝政は非常に専制的かつ抑圧的な王権独裁政権でした。マチュ・ピチュは彼の時代までのものであると信じられています。彼はまた、都市を浄化する儀式であるシテュアにおける神に捧げる歌や詩の作者でした。ガンボア船長は1つの詩:訳例「園に百合と生まれて 百合の如く育ち 齢を重ね。我は年老い 死すべきとき 萎びて死にたり」(I was born as a lily in the garden, and like the lily I grew, as my age advanced. I became old and had to die, and so I withered and died.)を臨終の床におけるパチャクテクの作であるとしています。

インカの伝説はインカ帝国をスペイン人が征服した直後に、クリストバル・ド・モリーナ神父が現地インカの人々がヨーロッパ文化の影響をあまり受けていない時期に採集された伝承と考えられているのを記録して発表した物が残っています。それによると、クスコ王国(1197-1438)は神話時代、クスコ王国の最後の8代ウィラコチャ王は、なかば歴史的、なかば伝説的な王とされて、神のビラコチャと混同されている面もあります。このビラコチャ神が生み出した太陽は農業に非常に影響があることから、インカ帝国では太陽神が最も崇拝されていたといわれています。そして、9代皇帝パチャクテクからが歴史上実在した皇帝だと考えられています。皇帝パチャクテクは、それまでの神話では重きをなしていなかった太陽の崇拝を推し進め、「太陽の神殿」や「砦」を各地に整備したとされています。インカ帝国はアンデスの各民族を支配して、パチャクテクと太陽による支配を正当なものとするために新しい神話を作り出しました。ユパンキと水晶の男が出会うこの神話でパチャクテクの父が太陽であることを示して、パチャクテクによる征服の正当性を裏付けたといわれています。

こちらで、
・インカ帝国の始祖マンコ・カパック(マンコ1世)
・インカ10代の皇帝トゥパック・ユパンキ(太平洋探検)
・インカ最後の皇帝アタワルパ
・インカの名目皇帝マンコ2世
を、お楽しみください。

参考HP:〜
インカ帝国の版図地図(1463-1532)
インカ帝国の版図地図(詳細地図)
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
チムー王国の場所地図
イースター島の地図(巨石モアイの設置場所有)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
エクアドルの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/3/5
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