★インカ インカ帝国皇帝、マンコ2世
1536、スペイン人への反乱に挙兵
1539、ビルカバンバに帝都を建設
大航海物語★

Peru
マンコ2世

金の杖”タパク・ヤウリ”を持つ
ペルー 1998/7/17 発行
マンコ2世

ペルー 通常切手 1896-1900 発行
スペイン人の来航を知らせた
インカの伝令”チャスキ”
Chasqui


ペルー 通常切手 1977 発行

マンコ・インカ・ユパンキ (1516〜在位1533〜1544)
 Manco Inca Yupanqui
 (ス:Manco Inka Yupanqui)
  第15代インカ帝国皇帝(君主号:サパ・インカ(Sapa Inca:ケチュア語で唯一の王)
  別名:マンコ・カパック2世 (Manco Capac II)、名目上のインカ帝国最後の皇帝説有
  略称:マンコ2世 (Manco II)
  兄:12代ワスカル、13代アタワルパ、14代トゥパック・ワルパ
  誕生の地:クスコ(Cusco、Peru)説有
  終焉の地:クスコ県ビトコス(Vitcos, Cusco Region)説有
マンコ2世はワスカルの父で広大な統一国家インカ帝国第11代皇帝ワイナ・カパクの子供で、妻の王妃クラ・オクロ(Cura Ocllo、生年不詳-1539没)はマンコ2世の姉妹でした。1539年に旧インカ帝国の帝都クスコの北西にあるビルカバンバの谷(Vilcabamba、1539-1572帝都)にインカ皇族の残党ともども落ち延び、”マンコ2世”として新インカ王朝(1533-1572)を開き、その後、40年(1532年から説有)に渡って続くスペイン人への抵抗を始めました。

ペルーのクスコで育ったマンコ2世はエクアドル・インカのアタワルパがスペイン人に処刑された後、14代トゥパク・ワルパが帝位に就いたがまもなく病没したので、フランシコ・ピサロの許可を受けて、スペイン騎兵50人とインディオ5,000人を率いてアタワルパ派の討伐に出撃し、凱旋した1533年12月末にクスコの広場で、古式にのとっり歴代インカ皇帝のミイラを並べて即位式を行いました。スペイン人の傀儡政権として即位していましたが、スペイン人のインディオに対する暴虐さを見て反乱を起し、1535/11月のある夜陰にまぎれてクスコから脱走しましたが、捕えられました。各地でスペイン人に対する抵抗が起っており30人のスペイン人がインディオに殺されました。マンコ2世はこの反スペイン感情を利用しょうと再び反乱を計画しクスコから各地へ兵力結集の命令を発し、1536/4/18に再度クスコを脱出してクスコ北西のウルバンバの谷のラレス(Lares, province of Urubamba, Cusco region)で、1536/5月に挙兵しました。マンコ2世が動員した兵力は10万人から20万人と言われていますが、クスコのスペイン人は190人でした。インカ軍は1536/5/6にサクサイワマンの砦からサクサイワマンの戦い(第2次クスコの戦い, 1536/5/6-1537/3)でクスコを包囲攻撃しましたが、クスコ陥落には至らず、インカの種まきの時期となり、また、インカの戦士の多くが天然痘で死亡したので、1536/9月(4ヵ月後)にクスコ北方を流れるウルバンバ川(Rio Urubamba)近辺のウルバンバ谷のオリャンタイタンポ(Ollantaytambo, Urubamba)に退き、オリャンタイタンボの戦い(1537/1)の後、1539年にはウルバンバのさらに奥でマチュピチュ近くアンデス山脈中ビルカバンバ(Vilcabamba, Peru)に退いて築城・道路建設を行い、スペイン人に対してはゲリラ戦を仕掛けました。

これより2年前に起こった征服者ディエゴ・ド・アルマグロとピサロ兄弟との紛争(チュパスの戦い)に際してはアルマグロ派を助け、敗退したアルマグロ派のスペイン人数人をビルカバンバに匿いました。ところが匿っていたスペイン人に殺されてしまいました。ハッキリした日付は不明で、1545年の中頃と推定されています。※アルマグロ残党のディエゴ・メンデスがマンコ2世をビトコス(Vitcos)で暗殺した説が有。

マンコ2世の殺害後、3人の子供が後をついで皇帝に即位しました。最初の幼帝サイリ・トゥパク(Sayri Tupac 1535頃-在位1545-1560)は1545年に12才(頃)で即位し、1556/9月に着任した副王アンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ(在任1551-52)に特赦とエンコミエンダ(インディオの割り当てを受けた一種の領主)を提供されて、1557/10/7ビルカバンバを去って、翌年1/5リマ(Lima)に入り副王の歓迎を受け、スペイン国王への服従と引替えにクスコ付近に大きなエンコミエンダを与えられました。そして1560年に25才(頃)で没するまでウルバンバの谷のユカイに居住していました。彼の後を継いだのは、ビルカバンバの秘密の居城に居たマンコ2世の庶子ティトゥ・クシ(17代)でしたので、スペイン植民地政府は改めて彼に帰順を促す交渉を行いました。しかし1571/5月に彼が急死しました。その時治療のため派遣されていたスペイン人修道士がクシの部下に殺されたので、クスコに滞在中のペルー副王フランシコ・ド・トレド(在任1569-81)は新インカ帝国征服を企ててビルカバンバへ攻め入り、マンコ2世の子で新インカ帝国皇帝トパク・アマル(15代)を捕えクスコで、1572/9/24に処刑しました。これにより40年続いたインカ帝国の抵抗は終わり、インカ帝国の完全な滅亡となりました。

※1544/6月にアルマグロ残党ディエゴ・メンデス・ド・セグラ(Diego Mendez de Segura 1475-1536)がマンコ2世をビトコスで暗殺して、後継にマンコ2世息子の幼帝サイトリ・トゥパクが新インカ帝国帝都ビルカバンバで名目上インカ帝国の皇帝になって、摂政のアトック・ソパ(Atoc Sopa)と共に、スペイン人支配を受入れながらも抵抗を継続したとする説があります。なお、このアルマグロ残党ディエゴ・メンデスはコンキスタドールのディエゴ・メンデスとは別人。

略年表:〜
1516年、マンコ2世がクスコで誕生
1533年、マンコ2世がピサロにより擁立された傀儡皇帝トゥパック・ワルパが天然痘での没後、
      王族が死に絶えていたインカ帝国を統治するための協定締結のため、カハマルカ
      でピサロとその同僚ディエゴ・ド・アルマグロに接近
1533/12月末、マンコ2世がクスコの広場で古式にのとっり即位式を挙行
1534年、マンコ2世がピサロによりクスコでインカ皇帝となる(スペイン人の傀儡政権)
1535年、皇太子サイリ・トゥパック誕生、後の16代皇帝
1535/11月、ある夜陰、マンコ2世がピサロ兄弟の不当な扱いでクスコを脱走
1535/12月、マンコ2世が捕らえられて入牢
1536/4/18、ピサロが新首都となったリマに行きアルマグロがチリ方面の探検に出ている間、
      マンコ2世がユカイ谷(Yucay valley)で宗教儀式に見せてクスコを脱出して、10万人
      のインカ戦士を集め、クスコに進撃。この戦役は10ヵ月続くもクスコは落ちず
1536/5月、クスコ北西のウルバンバの谷のラレスで挙兵してスペイン人に反乱を起こす
1536/5/6、サクサイワマンの戦い(第2次クスコの戦い, 1536/5/6-1537/3)クスコ包囲攻撃
1536/9月、ウルバンバの谷に退却
1537/1月、オリャンタイタンボの戦い、マンコ2世が勝利するも退却
1537/7月、ウルバンバ谷のオリャンタイタンポに退却
1537/7/12、ペルー内戦アバンカイの戦いで、ウルバンバの谷から戻ったピサロ軍が敗退
       勝利したアルマグロ軍がマンコ2世を追撃
1538年、マンコ2世がウルバンバのさらに奥のビルカバンバに後退
1539年、スペイン人がマンコ2世の王妃クラ・オクロを捕らえて殺害
1541年、アルマグロ一派による総督ピサロ殺害が起き、暗殺者とマンコ2世が合流
1542/9/16、 ペルー内戦チュパスの戦い勃発、総督軍の勝利で内戦が終る
1544/6月、アルマグロ残党が新総督の指示でマンコ2世をビトコスで殺害
1545年、16代サイリ・トゥパック即位
1560年、17代ティトゥ・クシ即位
1571/5月、ティトゥ・クシが急死
       18代トパク・アマルが即位
1572/9/24、新インカ帝国皇帝トパク・アマルが処刑され、
        インカ帝国が完全に滅亡(注:日付は諸説有)。

こちらで、
・インカ帝国の始祖マンコ・カパック(マンコ1世)
・インカ最初の皇帝パチャクテク
・インカ10代の皇帝トゥパック・ユパンキ(太平洋探検航海)
・インカ最後の皇帝アタワルパ
を、お楽しみください。

参考HP:〜
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
ペルーの地図(24の県別地図)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
エクアドルの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/12/13追記、13/3/10、2017/2/28
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