クスコ
Cusco
標高3600mにある街
PERU
クスコの
サクサイワマン遺跡


ペルー 1961/9/11 発行
南アメリカの地図
クスコの段々畑

ペルー 1952-53 発行



ペルー
ペルーの 200海里
排他的経済水域を表す地図
ペルー 1983/3/25 発行

インカの土器とインカ道地図
リ マ





チャンチャン


パチャカマック→

イカ→
ナスカ








カハマルカ

←チャヴィン

クスコ

←プカラ





アレキパ



プーノ
ペルー 2011 発行 (200%)


クスコ
  Cusco

  市域人口:319,422人(2000)
クスコはペルー南東のクスコ県々都(Cusco City, Cusco Province, Cuzco Region, Peru)でアンデス山脈中の標高3600mにあって、「クスコ」はケチュア語(Quechua)で「へそ」を意味しています。インカ帝国の正式名称のタワンティン・スウユ(Tawantin Suyu:4つの州)の首都で、文化の中心地でした。1532年にスペインの征服者フランシスコ・ピサロが征服してインカ帝国が終わりを告げた後、スペインの侵略者コンキスタドール(征服者)がインカの都市を侵略・破壊して、スペイン風の新しい街を建設しました。

インカの伝説では、クスコは1200年頃にマンコ1世のマンコ・カパック(将軍)がクスコを建設して、1438年に即位したサパ・インカ(Sapa Inca:唯一の王)の皇帝パチャクテククスコ王国(1197-1438)を活気のない王国から巨大なインカ帝国(タワンティン・スウユ帝国、1438-1533)へとは発展させました。考古学的な証拠では、マンコ1世時代からクスコの町は徐々に有機的に発展していました。町は決められた計画によって建設され、2つの川は町を取り囲むように注ぎ変えられ、クスコの都市計画は帝国の他の町に模倣されました。クスコはインカ帝国の首都(1200頃-1532)で、街はウリン(Urin)とハナン(Hanan)の2地区に分かれ
それぞれが更に2つに分けられていていました。4つの地区名と場所は、
 ・チンチャスウユ(Chinchasuyu)〜北西
 ・アンチスウユ(Antisuyu)〜北東
 ・クォンチスウユ(Qontisuyu)〜南西
 ・コラスウユ(Collasuyu)〜南東
クスコの町並みは、聖なる動物であるピューマをかたどったものとの説があるも、証明はされていません。道路はそれぞれの地区から対応する帝国のエリアに伸びていました。それぞれの地区の指導者は町に家を建て、毎年、一定期間クスコに住まなければなりませんでした。皇帝パチャクテクの統治後、インカ人が亡くなるとその敬称サパ・インカは息子が引き継ぎ、その財産はその親戚により支配される自治体に与えられました。敬称を保持する者は、自分の死後に家族を扶養するための土地を所有するために新しい家を建て、新しい土地を帝国に加える必要がありました。

900〜1200年、キルケ人がこの地域を支配
1100年頃、キルケ文化でクスコ郊外のサクサイワマン要塞が建設される
       遺跡を炭素14法(放射性炭素年代測定)で分析して判明
1200年頃、マンコ1世がクスコ建設、以降インカ人勢力がクスコ地方を占拠・移住して来る
1200年代〜1532年、クスコがインカ帝国の帝都となる
1527年、ワイナ・カパックが没する、クスコはワスカルの支配領域となる
1532/4、キパンパンの戦いでインカ内戦に勝利したアタワルパが占領
1533/11/15、(その19ヵ月後)第1次クスコの戦い後にスペイン人に占領される
1533/11/15、最初のスペイン人(ピサロの先遣部隊)がクスコに到着
1534/03/23、征服者のフランシスコ・ピサロが公式に到着した日
1536/5/6-1537/3上旬、第2次クスコの戦い (サクサイワマンの戦い)でマンコ2世が敗退
1537/2/14、ガスパル・ド・エスピノザが没する
1538/4/26、オルガネスラスサリナスの戦いでゴンサロ軍に敗れてエルナンドに処刑される
1542/9/16、アルマグロ2世がクスコ市広場で処刑される
1548/4/10、ガスカ副王が捕虜のゴンサロ・ピサロフランシスコ・ド・カルヴァハ−ルを処刑
1548/7/18、パスクアレ・ド・アンダゴヤがクスコで亡くなる
1572年、副王トレドがインカ最後の皇帝トゥパク・アマルを処刑、インカ帝国滅亡
1879年、スペインがペルーの独立を認める
1983/12/9、クスコの旧市街がユネスコ文化遺産に登録される
2008/03/13、考古学者が古代の寺院、道路、導水設備の遺跡をサクサイワマンで発見
2007年、発掘調査で、寺院がサクサイワマン要塞の脇で発見される
      要塞には軍事的な機能だけでなく、宗教的な機能があったことが示される。

インカ帝国の中心地として栄えた太陽の都クスコはスペイン植民地化の結果、都市の建築がスペイン風に変えられました。クスコ侵略の後、スペイン人植民者は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊。彼らは破壊で残った壁を、新都市建設の土台として使用。そして数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区を建設。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物になりました。スペイン人は土着の寺院をカトリック教会に、宮殿を彼ら侵略者の住居に変え、キルケ構造のターワンティンスーユ (w:Tawantinsuyu) を伴うなど、クスコの建造物は重厚な文化が融合しました。インカ人がキルケ構造の上に建造物を建てたように、スペイン人はインカ人によって建てられた巨大な石の上に建造物を建築。スペインの建物はインカによって建設された巨大な石の壁の上に作られました。これらインカ時代の石積みは、石と石の間に「カミソリの刃一枚通さない」といわれる巧さです。また、周囲にはサクサイワマン遺跡やケンコー遺跡など、数多くの遺跡が点在しています。

クスコはスペイン植民地の時代にアンデス地域で、スペイン植民地とキリスト教布教の中心でした。農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげで、クスコはおおいに繁栄しました。現在はマチュ・ピチュ遺跡との間、およびチチカカ湖のほとりのプーノ(Puno) との間に高山鉄道で有名なペルー南部鉄道が走っている他、首都リマからは空路で接続されています。バスも各地との間に運行されているも、道が悪く、特に雨期は空路・鉄道と比べて確実ではないので注意を要します。

・世界遺産に登録
1983/12/9にクスコの旧市街(City of CUSCO)がユネスコ文化遺産に登録されました。

クスコの観光名所:〜
・カテドラル
・ラ・コンパーニャ教会
・ラ・メルセー教会
・サン・フランシスコ教会・修道院
・サント・ドミンゴ教会
・インカ博物館
・宗教芸術博物館
・サンタ・カタリナ博物館、など
クスコの1月は雨季の真っ只中で、一日中雨が降り続く日が多く観光には向きませんので、注意しましょう。クスコへの交通 飛行機:リマから所要約1時間。 バス:リマからアレキパ経由で約32時間。

12角の石
  La Piedra de Los Doce Augulos
クスコには大きさ・形が異なる切り石が寸分の狂いもなく積み上げられたインカ時代の石組みが残っています。その中で特に驚異的な12の角を持つ巨石。すき間なくぴったりと収められ接ぎ目に薄刃も通らないほどです。

インカの石組みには、12角だけでなく、13角、14角の石もあります。
第6代皇帝インカ・ロカの宮殿跡を利用して造られた「宗教美術博物館」。この博物館の外壁にはあの有名な「12角の石」がある。アトゥンルミヨック通りに並ぶこの壁の石はその表面が少し盛り上がっており、陽射しが当たると立体感が増して美しい。また博物館裏手の路地には「13角の石」が、南西側のエラヘス通りには「14角の石」がある。多くの観光客は12角の石を見た後立ち去ってしまうが、それはあまりにもったいない。例えば13角の石側の壁はスペイン人の無謀な破壊行為によってインカの石が割られたり取り除かれたりしているが、そのおかげで石に施された凹凸部分が露見しており、驚異的な石工技術を間近でじっくりと見学することができる。インカ時代ではなく、スペイン支配直後に造られたのではとも言われている「14角の石」もあります。

・幾何学的な美しさが魅力のロレト通り
次は「ロレト通り」だ。太陽の乙女の館「アクリャ・ワシ(現在のサンタ・カタリナ修道院)」の裏手に位置するこの長さ200mほどの路地は、その美しさからクスコの観光パンフレットやポスターにたびたび登場している。大きさの揃った四角い石が整然と並ぶアクリャ・ワシの石組みには統一感があって美しい。狭い路地に凛と建つその姿は、まさに神秘的ですらある。こうした石壁を眺めながら、外部との接触を断たれ、ただひたすらに神への貢物を作っていた太陽の乙女たちの生活は一体どのようなものだったのだろう、などと想像するのもクスコ探訪の楽しみの一つ。残された石壁の数だけ、そこに暮らした人々の物語がある

・石組みに隠された動物たちを探せ!
クスコ中心部にはインカの石組みがまだ何ヶ所も残っている。現在はホテルや博物館、土産物屋などの壁として利用されているため見落としがちだが、そんな中から自分だけのお気に入りの石組みを探してみてはいかがだろうか。また前述の宗教美術博物館の裏手、土産物屋が並ぶインカ・ロカ通りの石組みには、ピューマとヘビの姿が隠し絵のように組み込まれている。ただし、豊かな想像力と鋭い観察力の持ち主でなければ、それらの石を自力で探し出すのは難しい。土産物屋で売られている絵ハガキやポスターと見比べながら探すのがいいだろう。歩くたびに新しい発見があるクスコの歴史地区。できれば1日、何の目的も持たずぷらぷらと散歩を楽しみたい街だ。インカ・ロカ通りには「ピューマの石」が有。

アルマス広場
  Plaza de Armas
市街の中心です。インカ時代も町の中心地でした。当時は、300km離れた海岸から運んだ砂が敷き詰められ、金銀の像がいくつも立っていたそうです。現在のアルマス広場は、カテドラル・レストラン・旅行会社・お土産屋が集まる観光の拠点になっています。

カテドラル
  Catedral
インカ時代のビラコチャ神殿の跡にたっています。1550年から100年間も掛けて建てられました。主祭壇は、銀300トンを使ったといわる素晴らしいものです。屋根には、南米最大の鐘があります。

サクサイワマン城塞の遺跡
  La Fortaleza de Sacsayhuaman
サクサイワマン遺跡は、赤屋根のクスコ市街を見下す丘の上に巨石で構築された城塞跡です。3層からなる巨石層は22回のジグザグ(Zigzag)を描きながら360mも続き、中には推定360屯の巨石もあります。1536年にインカ帝国とスペイン人征服者の戦いで戦場になった所です。

サント・ドミンゴ教会(太陽の神殿)
  Iglesia de Santo Domingo
インカ帝国時代、政治と宗教の中心である太陽の神殿:コリカンチャ があった場所です。当時この神殿には黄金が満ち光り輝いていました。スペイン人は黄金を全て持ち去った後、石積土台だけを残し教会を建てました。クスコに大地震があったとき上部の教会は崩れ落ちましたが、石積土台はビクともしなかったという逸話が残っています。インカの石組技術をものがっています。教会の所々で美しい石組みを見ることが出来ます。教会の裏手では、現在でも発掘・復元作業が行われています。

タンボ・マチャイ沐浴場
  Tambo Machay
クスコ近郊のウルバンバ渓谷にあるインカ時代の沐浴場。4段からなる石壁から2本の水流が下の石桶に小滝のように落下しています。豊かな湧き水の量は年中変りませんが、水源は不明です。水神の祭礼場でした。

インティ・ライミ祭
  Festival "Inti Raymi"
スペインに征服されてから約400年間も禁止され、1950年に復活して(冬至の日)
毎年6/24にサクサイワマンで開催されるクスコのインティ・ライミ祭(Inti Raimi、太陽の祭り)は
毎年2〜3月頃に開催されるリオデジャネイロのカーニバル、
毎年2月末頃に開催されるボリビア・オルロのカーニバルと並んで、
南米三大カーニバルの一つと言われています。

・インカ遺跡・クスコの段々畑
クスコはアンデス山脈中の標高3600mにあり、クスコとは、ケチュア語(Quechua)で、「へそ」を意味し、タワンティン・スウユ(Tawantinsuyu、インカ帝国の正式名称)の首都で、文化の中心だった。1532年にスペインの征服者フランシスコ・ピサロによってインカ帝国が終わりを告げた後、スペインのコンキスタドール(侵略者)がインカの都市を侵略・破壊して、スペイン風の新しい街を建設。
そのインカ時代からクスコの食料を生産していたのがクスコ周辺の急勾配の土地を利用した広大な段々畑で、トマトやトウガラシは低い土地に、トウモロコシ、寒冷地を好むジャガイモは高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行い、ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕と、リャマやアルパカによる牧畜を行って、インカ時代の人々は自給自足していたと考えられています。

参考HP:〜
クスコの場所地図(日本語)
ペルーの地図(日本語、クスコ周辺地名、オリャンタイポ等有)
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/12/8

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