United States

国連 1980 発行
探検大航海
ウィルクス艦長
1839
南極探検・バリー諸島西発見

大航海物語
  アメリカ★
Kiribati

ウィルクス と ヴィンセンス号
キリバス 2002/3/25 発行
Girlbert Islandas

ウィルクス と ヴィンセンス号
ギルバート諸島 1977/6/1 発行

USA

ウィルクスの航海地図
USA 1986 発行
US

南極条約 10年 記念
USA 1971 発行

ウィルクス艦長は1839年にシドニーを出帆し、南極海へと帆走、
バリー諸島の西を発見、南緯66°55′の地点に到達しました。
海軍少将チャールス・ウィルクス艦長
 (Captain Rear Admiral Charles Wilkes、1798/4/3〜1877/2/8)
ウィルクス艦長はアメリカニューヨークで生れました。彼の叔父はロンドン市長だった”ジョン・ウィルクス”(John Wilkes、1725-1797)でした。彼が3才(1802)の時に母親メアリー・シ-トン(Mary Seton)が亡くなったので、叔母のエリザベス・アン・シ-トン (Elizabeth Ann Bayley Seton, 1774-182)に預けられました。まもなく彼女が5人の子供を抱えて未亡人となったので、ウィルクス艦長は寄宿学校(Boarding school)へ送られ、その後コロンビア大学(Columbia College)で学びました。彼は1818年に20才で、アメリカ海軍に士官(少尉)候補生(Midshipman)として入隊し、1826年(28才)には海軍大尉(lieutenant)になりました。

1833年に海軍観測所による、ロードアイランド州を東西に二分する長さ約45km、幅約5〜20kmのロードアイランド海峡の北側に面した湾及び広大な入り江のロードアイランド砂洲(Rhode Island Sound)北岸にあるナラガンセット湾(Narragansett Bay)の調査に従事しました。1838〜1842年はアメリカ海洋学の権威(父と呼ばれる)モーリー(Matthew Fontaine Maury、1806−73)博士による学術探検航海(ウィルクス遠征隊)に従事しました。

1838年に海軍将校の仕事ではないが、政府から南海洋(South Seas expedition)の未確認島や未知の危険な岩礁の探検調査のための南太平洋遠征艦隊の指揮を執るように命じられました。同行者として乗船したのは、自然主義者、植物学者、鉱物学者、剥製師、画家、言語学者などの一般市民の科学者でした。1838/5/18にUS議会承認で調査探検隊が正式に認可されました。

・ウィルクス遠征艦隊
 (Wilkes Exploring Squadron of South Seas expedition)
彼は8隻の探検艦隊を編成し、探検艦隊(U.S. Exploring Squadron)の総司令官に就任、1838/8/18に旗艦ヴィンセンス号に乗船、南部ヴァージニアのハンプトン(Hampton)港を出帆しました。寄航地は
マデイラ島
・リオデジャネイロ(ブラジル
フェゴ島チリ
ペルー
サモア
ポリネシア
・ニューサウスウェール(オーストラリア)
・シドニー(ニュージーランド)
などでした。
・1839年12月にシドニーを出帆し、南極海へと帆走し、
 バリー諸島(Balleny Islands)の
 西(南緯66°55′、西経 163°45′)に到達し、
 南極大陸にウィルクスランド(Wilkes Land)の名を残しました。
1840年に
フィジー諸島
ハワイ諸島に寄港し、

ィルクスランド
1841年には
・ジャンデフッカ海峡(Strait of Juan de Fuca)
・プゲット砂州(Puget Sound)
・コロンビア河
・サンフランシスコ湾
・サクラメント河を調査しました。
そして
フィリッピンへ戻り、南西フィリッピンの島々の連なり(スールー諸島、Sulu Archipelago)
・ボルネオ
シンガポール
ポリネシアから
喜望峰を回って
・1842/6/10にニューヨークへ帰港しました。
この海軍帆船による最後の地球一周大航海で、ウィルクス艦長は4年1ヵ月で87,000マイル(約14万km)におよぶ航海をなし、2隻の船と28人の乗組員を失ったので、軍法会議で裁かれましたが、無罪になりました。

その後、しばらくの間は海岸調査の任務を命じられて調査任務に従事しました。1844〜61年の間は南太平洋遠征艦隊での探検調査のレポートを執筆し、1844年に5巻本("Narrative of the United States Exploring Expedition" Philadelphia)として発刊されました。

南北戦争(1861-1865)が勃発した時、ウィルクス艦長は海軍中佐(commander)に昇進(1843)し、1855年には海軍大佐(captain)に昇進していました。そして、1853年からは通商破壊作戦をサムター号(CSS Sumter 473t)に乗艦して、サンジャシント号(USS San Jacinto 1567t)艦隊の編成艦の一艦として戦いました。

1861/11/8にウィルクス艦長はイギリスの郵便船トレント号(RMS Trent 1,856t)を停船、臨検し、イギリス同盟の委員を逮捕しました。「トレント号事件」(Trent Affair)と呼ばれました。その後の海軍省との不仲説で、彼は海軍少将で退役将校名簿に載せられ、1866/7/26(68才)で海軍を退役しました。後世の歴史家に、ウィルクス艦長はその勇敢さと大胆な作戦指揮、部下思いの冷静沈着な性格ではあるも、まれにカンシャク玉を破裂される姿を、”メルヴィル(Herman Melville、1819-1891)”作の「白鯨」(Moby Dick)のエイハブ船長(Captain Ahab)と比べられました。

彼は海軍での業績に加えて、海軍探検航海での「科学的探査記録」を執筆発行し、また自叙伝も書きました。ウィルクス海軍少将(Rear Admiral)は1877年にワシントンDCで亡くなりました。1909年8月には、アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)に葬られるという栄誉を与えられました。

・ヴィンセンス号の装備:〜
  USS Vincennes
、1826
船 型 スループ型、Sloop-of-war ヴィンセンス号、1838
帆 柱 3本マスト、(18.5ノット=34.3km/h)
全 長 39m:(127ft)
全 幅 10.29m:(ビーム Beam)
深 さ 5.03m(喫水:ドラフト Draft)
重 量 780屯
武 装 砲18門
乗組員 80人
造 船 ブルックリン海軍工廠(Brooklyn Navy Yard)
進 水 1826、ニューヨーク(NewYork, NY)
最 後 1867、(Boston, Mass)売却

・8隻の探検艦隊(U.S. Exploring Expedition Squadron):1838〜1842
スループ型:
 ・ヴィンセンス号(sloops;USS Vincennes 780t)
  ブカナン艦長(Franklin Buchanan、1800-1874)
 ・ピーコック号USS Peacock 650t)
  ハドソン艦長(William L. Hudson)
スループ型
ブリッグ型:
 ・パーパス号(brig:Porpoise 230t)
  リンゴールド艦長
   (Cadwalader Ringgold、1802-1867)
ブリッグ型
スクーナー型:
 ・シーガル号(schooner:Sea Gull 110t)
  レイド艦長(James W. E. Reid, commanding officer)
 ・フライイングフィッシュ号(Flying Fish 96t)
  ノックス艦長(Samuel R. Knox, commanding officer)
スクーナー型
支 援 艦:レリエット号(store-ship:Relief)
         ロング艦長(A. K. Long, commanding officer)
その他2隻。

参考HP〜
 ・スールー諸島の地図
 ・南極周辺の島の一覧

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      06/11/5、令和元年 2019/11/23追記
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