Pirates of Caribbian
Cross Bone
海賊スティード・ボネット船長
1717
海賊となる

大航海物語
 ★カリブ海
GUINE-BISSAU
海賊スティード・ボネット船長
Captain Stede Bonnet


ギニアビサウ 2009 発行

Turks Caicos Islands
商船を襲うカリブの海賊船

タークスカイコス 1971/7/17 発行
海賊の旗印 ”クロスボーン”

イギリス 1971 発行

CUBA
スペインの軍艦サンテズマ・トリニダード号
Santisima Trinidad 4950t 1769


1620 キューバ海軍造船360年記念 1980
キューバン 1980/9/15 発行
St.VINCENT
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海、大西洋の地図

太平洋
ヨ|ロ
ッパ


アフリカ
セントヴィンセント 1980/12/4 発行

ボネット船長はバルバドス島生まれのバルバドス海賊でしたが、海賊になる前にはそこそこの地主だったので海賊紳士と呼ばれました。民兵になって陸上で働いていたので、海の経験は全然無いのに、1717年に海賊になろうと決めて海賊船を作って乗組員を集め、急ごしらえの海賊になりました。当時、貿易で賑わっていた北米東岸を荒らし回り、カリブ海に戻る途中でスペイン軍艦と遭遇して重傷を負うも、ナッソーで悪名たかかった海賊黒髭と出会い、行を共にしました。1718年に海賊の横行に手を焼いたノースカロライナ総督が恩赦を与えるとの申し出を受けて受諾しましたが、間も無く海賊に戻りました。海賊討伐のイギリス艦隊との戦いに敗れ、捕らえられて縛り首になり、30才の波乱に飛んだ生涯を閉じました。
海賊スティード・ボネット船長 (1688〜1718/12/10)
 Pirate Captain Stede Bonnet
  別  名:海賊紳士(Gentleman Pirate)、バルバドス海賊(Barbadian pirate)
  乗   船:6門スループ帆船リヴェンジ号(sloop Revenge)、
     改名:ロイアル・ジェームス号(Royal James)
  活動場所:北米東部沿岸の大西洋、カリブ海
  活動期間:1717〜1718
  海賊仲間:海賊黒ひげ船長
  最   期:サリヴァンズ島で捕縛、チャールストンで処刑
スティード・ボネット船長は、1628年にイギリスが建設した植民地バルバドス島の首都ブリッジタウン(Bridgetown)でイギリス系移民の裕福な家に生まれ、1688/7/29に洗礼を受けました。1694年に6才で父エドワード(Edward)が亡くなると財産400エーカー(1.6ku)以上の土地を相続ました。1709/11/21にメアリー・アランビー(Mary Allamby)と結婚して、海での経験がなかったので、民兵(militia service)として働きました。3人の息子アランビー(Allamby)、エドワード(Edward)、ステッド(Stede)と娘のメアリー(Mary)が生れ、長男は1715年に亡くなりましたが、その他はボネット船長が恩赦で赦免になった1718年には生存が確認されています。ボネット船長は民兵で少佐(Major)となって、スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession、1701-1714)の北米版アン女王戦争(Queen Anne's War、1702-1713:ビーバー戦争の一部)のスペイン領フロリダとイギリス領カロライナ植民地での戦いに従軍したと言われていますが、その軍歴は定かではありません。

海賊船リヴェンジ号の航海
1717年の春に海での経験がないのに、何故か海賊になろうと決めて、地方の造船所で大砲6門船60屯のスループ帆船を造って、リヴェンジ号(sloop Revenge 6gun 60t)と名付け、ほとんど信頼できない70人の船乗りを略奪品分配型ではなく、給料制で雇って、アメリカ合衆国東海岸(Eastern Seaboard of USA)へと海賊稼業の航海に、バルバドス島のカーライルベイ(Carlisle Bay, Barbados)を出帆しました。最初の航海での獲物は北米ヴァージニアのチェサピーク湾口(Chesapeake Bay, Virginia)近くで、4隻の商船を捕らえて略奪し、バルバドス商船タルベット号(Barbadian ship Turbet)を焼打ちしました。其処から北上航海して、ニュー 商船を襲うカリブの海賊船
ヨークで2隻の商船から海軍補給物資を略奪後、ニューヨークのロングアイランド(Long Isand)東端ガーディナーズ湾のガーディナーズ島(Gardiners Island)で、捕えていた捕虜を解放しました。1717/8月迄にカロライナ(Carolinas)に戻って、ボストン(Boston)からのブリガティン商船
(brigantine)とバルバドスのスループ商船(Barbadian sloop)を攻撃。ブリガティン船の積荷全てを奪い、それをバルバドスのスループ船に積み込んで、ノースカロライナ沖のある入江(inlet)で、そのスループ船を解体した木材を利用してリヴェンジ号の傾船修理(careen)と船体補修を実施し、残った木材は焼き捨てました。1717/9月に悪名高い海賊の巣窟バハマ諸島ニュープロヴィデンス島ナッソー(Nassau, Island of New Providence Bahamas)へと航海するも、航海途中でマン・オブ・ウォー(man of war)と呼ばれるスペインの強力なフリゲート型軍艦を避ける航路を航海するも、運悪く遭遇して戦いになりました。劣勢な海 スペインのフリゲート型軍艦

ソロモン 19813/23 発行
賊船は乗組員の半数が戦死傷者となり、ボネット船長も重傷を負い、リヴェンジ号は大破しました。ほうほうの体でナッソーに逃げ込んで、リヴェンジ号を12門船に改装して、乗組員の死傷者は活きの良い野郎どもと交換・補充しました。

海賊黒髭との航海
ボネット船長はナッソーで海賊ベンジャミン・ホーニゴールド船長(Captain Benjamin Hornigold 1719没)とその手下の悪名高い海賊黒髭ことティーチ船長(Edward Teach)に出会いました。負傷していたボネット船長は経験豊かな海賊黒髭の仲間になり、リヴェンジ号を提供して彼の指揮下に入り、海賊黒髭はホーニゴールド船長の船からリヴェンジ号に乗り換えました。ボネット船長と海賊黒髭はカリブ海から北米のデラウェア湾(Delaware Bay)へと出帆。其処では11隻の船を略奪。1717/9/29に海賊黒ひげ船長のリヴェンジ号がマデイラ・ワイン(Madeira wine)を満載のスループ商船ベッティ号(sloop Betty)を略奪。10/12に略奪した商船のコッド船長(Captain Codd)が、古傷で気分が優れないボネット船長が誰もいない甲板を寝巻き姿で
ディズニーが描く海賊・黒髭

タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行
歩き回っていたと話したと伝わっています。リヴェンジ号がフィラデルフィア(Philadelphia)を出帆したスポッフォード号(Spofford)とシー・ニンフ号(Sea Nymph:海の妖精号)を捕らえて略奪。10/22にロバート号(Robert)とグッド・インテント号(Good Intent)を停戦させて、積荷を奪いました。
ボネット船長と海賊黒髭はデラウェア湾を後にしてカリブ海へ戻って、海賊稼業を成功させました。1717/11/28に奴隷輸送でカリブ海を航行中の元イギリスのフリゲート艦で、フランスが拿捕して奴隷船に改装されたラ・コンコード号(La Concorde 300t)をマルティニーク島(Martinique)の160km沖で発見。120人乗組の12門船と30人乗組の8門船(8gun 30men)の海賊船2隻で攻撃。ラ・コンコード号は反撃するも、両海賊船からの大砲とマスケット銃(musketry)の一斉射撃の前に降伏。海賊黒髭はコンコード号を奪って南へと航海してグレナディーン諸島(Grenadines)に着くと、其処でコンコード号をイギリス国王ジョージ1世(King George I of Great Britain 1660-1727)への反感から、クイーン・アンズ・リベンジ号(Queen Anne's Revenge:アン女王の復讐号)と改名し、大砲40門の重武装船に改装しました。1717/12/19にボネット船長は海賊黒髭と別れ、西カリブ海へ航海。1718/3月に400屯商船プロテスタント・シーザー号(Protestant Caesar 400t)とホンジュラス(Honduras)沖で遭遇するも、逃亡され拿捕に失敗しました。その後間も無く海賊黒髭と再会すると、ボンネット船長の乗組員が彼を見限り、黒髭の海賊船クイーン・アンズ・リベン 奴隷船の積荷の奴隷

リベリア 2000 発行
ジ号に乗り換えました。ボネット船長も黒髭の海賊船に乗船すると、客人(guest)扱いで部下を指揮することはできませんでした。リヴェンジ号は黒髭一味のリチャーズ(Richards)が船長になって指揮を執りました。リヴェンジ号リチャーズ船長がジャマイカのスループ船アドヴェンチャー号(Jamaican sloop, Adventure)デヴィッド・ヘリオット船長(David Herriot)を拿捕すると、ヘリオット船長が海賊の仲間になりましたので、海賊黒髭自身の船隊は3隻になりました。ボネット船長は海賊黒髭と共にサウスカロライナへと航海し、1718/5月に黒髭はサウスカロライナのチャールストン港(port of Charleston)を海上封鎖し、チャールストン港に出入りする船を対象に約1週間にわたって略奪を繰り返しました。封鎖を解いた後に海賊黒髭は船体の修理のため、海賊船隊を率いてビューフォート(Beaufort, North Carolina)のトップセイル入江(Topsail Inlet)に停泊させました。ところが同入江でクイーン・アンズ・リベンジ号が座礁し、黒髭は他の船隊で引き出そうとするも、逆にさらに1隻(アドベンチャー号)が座礁したので、クイーン・アンズ・リベンジ号の物資をより小型のリベンジ号などに移して同船を放棄しました。ボネット船長と海賊黒髭は船隊を同入江に残して陸に上がり、ノースカロライナの首都バス(Bath, North Carolina)へ行きました。

恩赦で赦免となる
ボネット船長と海賊黒髭に対し、第2代カロライナ植民地(Colony of North Carolina 1729-1776:Province of Carolina)総督で黄熱病(Yellow fever)で亡くなったチャールス・イーデン(Charles Eden 1673-1722/3/26:在任1713-1722)が国王(King George's Act of Grace)の恩赦(King's Pardon)の申し出をしました。ボネット船長は恩赦を受諾しましたが、海賊黒髭はそれを拒絶して直ちにトップセイル入江に戻りました。ボネット船長はバスに留まって、デンマークの植民地(1666-1917、現:米領ヴァージン諸島)のセント・トーマス
サウスカロナイナの地図

バルバドス 1976 発行
島(St. Thomas)へ行く計画を立てました。それは私掠免許状(letter of marque)を買って、リヴェンジ号でスペイン船に対する私掠船(privateer:海賊)行為をする計画で、イーデン総督の承諾を得ました。

海賊に逆戻り
ボネット船長はバスを離れてトップセイル入江に行くと、リヴェンジ号はいましたが、海賊黒髭の姿はありませんでした。その後二度と黒髭に会うことはありませんでした。1718/7月に、ボネット船長は恩赦を受けたのに、トーマス船長(Captain Thomas)と名を変え、船名もロイアル・ジェームス号(Royal James)と変えて、再び海賊稼業に戻り、北へと航海してデラウェアー湾(Delaware Bay)で、11隻の商船を略奪ました。幾人かを捕虜として仲間に加え、捕らえたスループ船フランシス号
カリブ海を航行する海賊船

セントクリストファー 1970 発行
(sloop Francis)とフォーチュン号(sloop Fortune)とで、3隻の船隊を作りました。1718/8/1に3隻の船隊で再びデラウェアー湾を襲って、略奪金£11ポンドを仲間に分配しました。ボネット船長は給料を払っていて、略奪金を仲間に分けたのは、この時だけだったと伝えられています。其処を出帆して12日後にケープフェアー川(Cape Fear River 325km North Carolina)河口のケープフェアー岬砂洲の浅瀬でロイアル・ジェームス号他を投錨して、虫食いで水漏れがひどい船底の傾船修理と船体の修理をしました。ハリケーン(hurricane)の季節で、修理後45日間そこに留りました。

ケープフェア川の海戦(Battle of Cape Fear River 1718)
  英軍艦2隻が海賊船3隻を攻撃、英の勝利
1718/8末にサウスカロライナ植民地(Colony of South Carolina 1729-1776)総督ロバート・ジョンソン(Robert Johnson 1682-1735)の所に、海賊ボネット船長の船隊がケープフェアー岬砂洲に停泊しているとの知らせが届きました。ジョンソン総督の命でウィリアム・レット大佐(Colonel William Rhett)が海賊ボネット船隊の討伐に出帆するも、チャールストン近郷で別の海賊に遭遇しました。それでケープフェアー岬には、9/26夜に到着。レット大佐艦隊はスループ型8門艦のヘンリー号(sloop Henry 8gun)とセント・ジェームス号(sloop Saint James 8gun)に兵130
イギリスのスループ型軍艦

セントヘレナ 1998/8/25 発行
人で、海賊ボンネット船長の3隻の海賊船隊を攻撃して、ケープフェア川の海戦(Battle of Cape Fear River 1718)が勃発。お互いに艦砲射撃の後、相合に接舷乗船しての白兵戦となりました。一時は不運にもレット大佐の旗艦ヘンリー号がケープフェアー河口の浅瀬に乗り上げ座礁するも、満潮時に離礁できて海戦に加わり、激しく抵抗した海賊どもも仕舞いには降伏しました。
海賊の処刑
1718/10/3にレット大佐は生き残った海賊どもをチャールストンに連行。10/24にボネット船長と甲板長イグナティウス・ペル(boatswain, Ignatius Pell)、航海長デヴィッド・ヘリオット(sailing master, David Herriott)が、2人の奴隷と現地人と地方商人リチャード・ツーカマン(Richard Tookerman)に助けられて脱走するも、ジョンソン総督が生死に関わらず賞金£700ポンドをかけると、チャールストン港口東端のサリヴァンズ島(Sullivan's Island, South Carolina)で捕まりました。11/10に裁判が開かれ、判事ニコラス・トロット(Judge Nicholas Trott)が死刑を宣告しました。海賊ボネット船長はジョンソン総督に寛大なる処置を嘆願するも、総督は判事を支持、1718/12/10に海賊ボネット船長はチャールストンで、縛り首の刑で吊るされ処刑されました。
海賊ボネットの処刑

図案:海賊キッド処刑
ネヴィス 2000 発行
参考:〜
カリブ海の地図(日本語)
バルバドス島の場所地図(カリブ海の地図、赤マルがバルバドス島)
バルバドス島の地図
ブリッジタウンとカーライルベイの場所地図
ノースカロライナ植民地の場所地図
トップセイルインレットの場所地図
ガーディナーズ島の場所地図
ケープフェアー岬の場所地図
サリヴァンズ島の場所地図(チャールストン地区の地図)
グレナディーン諸島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        12/9/20、12/11/21

スタンプ・メイツ
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