★日 本

支 倉 常 長
1613、欧州へと出帆
慶長遣欧使節


大航海物語★
Republique du Mali
支倉常長

マリ共和国 2013 発行

スペイン国王フェリペ3世に謁見の図


ェリペ3世
慶長遣欧使節船サンフ
アンバウテ
ィスタ号
支倉常長と遣欧使節の一行、伊達政宗の親書をスペイン国王フェリペ3世に奉呈
1613 日本の慶長遣欧使節400年記念 2013
マリ 2013 発行

NIPPON 日本郵便
慶長遣欧使節400年
(ふるさと切手の宮城県)

伊達政宗公 遣欧使節船
伊達政宗と日本の南蛮船(慶長遣欧使節船)
日本 2013/5/15 発行
ESPANA
スペイン国王フェリペ3世

1000年紀の歴史シリーズ(2)
スペイン 2001/10/19 発行
ESPANA
ローマ法王とサン・ピエトロ大聖堂

スペイン 1962/12/29 発行

PILIPINAS
マニラ・ガレオン船 支倉常長の太平洋・大西洋航海地図
アカプルコ↓   ↓ハバナ
月浦→
長崎→


マニラ→

←パラメダ
←セビリヤ






ガレオン船の日 2010 記念(Dia del Galeon)より作成
フィリピン 2010/10/8 発行

17世紀の慶長年間(1613)に伊達政宗が支倉常長を正使とする使節をスペインなど、ヨーロッパに派遣しました。

それから400年の時が流れて、21世紀現在の日本とスペインは良好な友好関係で結ばれています。
・慶長遣欧使節 (1613〜1620)
  支倉 六衛門 常長

  ハセクラ ロクエモン ツネナガ (1571?〜1632)
  Tunenaga Hasekura
支倉常長の前半生は定かではありませんが、1613/10(慶弔18/9)42才頃に伊達政宗の命を受け、政宗の親書(書状)を携えて、スペインの宣教師ルイス・ソテロ神父と共に仙台藩で建造した日本船(500t、※)で太平洋を渡り、さらにメキシコから大西洋を横断してスペインに行きました。スペイン政府はこの使節の処遇に困惑しましたが、ソテロの熱意と敏腕がスペイン王フェリペ3世(Felipe III, ナポリ・シチリア王、ポルトガル王:1578-在位1598-1621)を感動させ、一行はその援助のもとでローマに向かいました。

それに先だち六衛門はマドリードの尼僧修道院の教会で洗礼を受け、フィリポ・フランシスコの教名を授けられました。立ち会った人は、彼は背は低いが威厳があり、容姿端麗にして沈着、聡明にして謙譲だったと賞賛しました。1615/11月に法王パウロ5世(Paulus V、1552-在位1605-1621)に謁見がかない、使命を果たすことができました。帰路は苦難の連続でしたが、出発から7年後の1620年(元和6年)に仙台に帰ることができました。

ところが、その直前に伊達政宗はキリシタン弾圧を始めていました。六衛門は数々の招来品を政宗に献上した後、2年後の元和8年7月に、ひっそりと亡くなりました。
(※サン・ファン・デ・バウチスタ号で出発し、8年後に帰国したとの説も有)。

支倉常長の大航海:〜
1613年
10/28、現:石巻市牡鹿半島の月浦を、積荷1,000梱(こおり)、乗船者180人で出帆
     乗船:サン・フアン・バウティスタ号(San Juan Bautista (伊達丸) 500tns、1613)
     海路、太平洋横断のウルダネータ航路を東進、メキシコへ向かう
12/26、アメリカの米国カリフォルニア州メドシノ岬(Cape Mendocino, California)沖に到達
1614年
01/28、海路、メキシコのアカプルコ港(Acapulco de Juarez, Guerrero, Mexico)に入港
     サン・フアン・バウティスタ号は、1516/4/28迄港内に係留
  ? 、 チルパンシンゴ(Chilpancingo de los Bravo, Guerrero)アカプルコ約90km南西
  ? 、 イグアラ(Iguala de la Independencia, Guerrero、標高約730m)
  ? 、 タスコ(Taxco de Alarcon, Guerrero)、コルテスが建設、後の銀産地
  ? 、 クェルナバカ(Cuernavaca, Morelos、標高1510m)
      フランシスコ会大聖堂(1592)で日本26聖人壁画を礼拝
03/24、メキシコシティー(Mexico City、標高2,250m)に到着
04/09、日本人20人がフランシコ会聖堂で受洗
04/20、日本人22人がフランシコ会聖堂で受洗
05/29、メキシコシティー、出発
  ? 、 プエブラ(Puebla, Puebla province、標高2,135m)
  ? 、 ハラパ(Xalapa, Veracruz、標高1,460m )
  ? 、 ベラクルス港(Port of Veracruz, Veracruz province)
07月、海路キューバハバナ港(Havana Harbor, Cuba)到着
10/05、スペインのサンルーカルデパラメダ港(Sanlucar de Barrameda, Cadiz, Andalusia)到着
     アルマダ海戦の元スペイン艦隊総司令官第7代シドニア公(Alonso Perez de Guzman,
     7th Duke of Medina Sidonia 在位1559-1615)の館に招かれる
  ? 、 シドニア公の船でグアダルキビル川(Rio Guadalquivir 657km)を遡上
  ? 、 コリア・デル・リオ(Coria del Rio, Seville, Andalusiae、現在ハポン姓の住民がいる)到着
10/21、朝、コリア・デル・リオを出発
     同日、15km離れたセビリア(Seville, Seville province, Andalusiae)到着
10/27、セビリア市庁舎で市の有力者に伊達政宗の親書を披露
11/25、セビリア出発
12/03、コルドバ(Cordoba, Cordoba province, Andalusia)に到着
     市長の案内でメスキータ(モスク)の「円柱の森」を訪問
12/05、大雪のマドリード(Madrid, Comunidad de Madrid, Spain)に到着(20日説有)
     フランシスコ会修道院で9ヵ月滞在後、王宮からの招請を受ける
1615年
01/30、フェリペ3世に謁見伊達政宗の親書を捧呈
02/17、ラス・デスカルサス・レアレス修道院でフェリペ3世隣席のもと支倉常長が受洗
04/28、サン・フアン・バウティスタ号がスペイン使節を乗せてアカプルコ港を日本へと出帆
     (8/15浦賀に着)
08/22、マドリードをスペイン援助金4000ドゥカード(現2億円か?)を持ってローマへ出発
08/22、夕方、セルバテスの生地で学園の街アルカラ・デ・エナレス(Alcala de Henares, Madrid)
08/23、イグナチオ・デ・ロヨラが住込んで働きアルカラス大に通った(1526-1528)フランシスコ会
     慈善病院を訪問すると、使節一行の2人滝野嘉兵衛と野間半兵衛が突然出家して残留
  ? 、 サラゴザ(Zaragoza, Zaragoza province, Aragon)
  ? 、 モンセラート(Montserrat, Catalonia)
9月末、バルセロナ(Barcelona, Catalonia)到着、(10月初説有)
  ? 、 海路フランスサントロペ港(Saint-Tropez)
  ? 、 海路、イタリアのサボナ港(Savona)
  ? 、 海路、イタリアのジェノバ港(Genova)
10/18、海路、ローマの外港チビタベッキア港(Civitavecchia, Rome province, Lazio)到着
10/25、午後、ローマ(Rome, Rome province, Lazio)に到着
10/29、午後3時ローマ市で入市式を挙行
11/01、サンピエトロ大聖堂のミサで支倉常長がローマ法王パウロ5世の祝福を受ける
11/03、バチカン法王庁の法王宮殿で支倉常長がパウロ5世に公式謁見
11/15、常長の秘書の小寺外記がサンジョバンニインラテラノ大聖堂で受洗
     伊丹宗味ら3人の巡礼者がパウロ5世に拝謁、嘆願書を奉呈
1616年
01/07、ローマを出発
  ? 、 チビタベッキア
  ? 、 リボルノ(Livorno, Livorno province, Tuscany)
  ? 、 フィレンツェ(Firenze, Firenze province, Tuscany)
  ? 、 リボルノ
02/03、ジェノバで常長が三日熱マラリアを発症
  ? 、 バルセロナ
04/17頃、マドリード到着
5月初旬、マドリード出発
06/22、セビリアで乗船した巡礼の伊丹宗味らが帰国の途に就く
09/30、迎えのサン・フアン・バウティスタ号が浦賀を出帆
1617年
03/07、サン・フアン・バウティスタ号がアカプルコに到着
07/04、 海路、常長がセビリアを出帆
10/20、 海路、常長がメキシコシティーに到着、滞在
1618年
04/02、 海路、常長がアカプルコを出帆
08/10、 海路、常長がフィリピンのマニラ(Manila)に到着
8月頃、 海路、常長がマニラから長崎港に到着
09/20、常長が仙台に到着。

なお、2007/12/12にNHK・TVで放送された「その時」によると、伊達政宗が徳川家康に対する天下取りの野望で、「スペインと同盟して、その援軍の派遣」を交渉させるために、慶長遣欧使節を派遣したと放送されていました。また、政宗は金山をその領土内に持っていて財政力は豊かであり、鉄砲の生産用に切支丹(キリスト教徒)の持つ製鉄技術を利用するために、切支丹を保護する必要もあったとも放送されていました。

また、河北新報社編で竹書房発行(2014/3/13)の慶長県欧使節船出帆400年記念「潮路はるかに」に、宮城県知事の村井嘉浩さんが「慶長遣欧使節団は、仙台藩に甚大な被害を及ぼした慶長三陸津波(1611)から2年後、復興のために貿易を実現しょうと考えた藩主伊達政宗によって派遣されたと考えられている。本書は、その偉業を余すところなく伝えている。政宗そして支倉常長の気概、勇気、努力を学び、東日本大震災からの復興に生かしていきたい」との一文を寄せておられます。

そして平成25(2013)年に、支倉常長が400年前ローマから日本に持ち帰った国宝(平成13年指定)の「支倉常長像」と「ローマ法王パウロ5世像」がユネスコ世界遺産(UNESCO World Heritage Site, Type:Memory、記憶遺産)に登録されました。それらは宮城県の仙台市立博物館に有。

参考:〜
こちらで
天正遣欧少年使節(1582-1590)
サン・ファン・デ・バウチスタ号(伊達丸)
サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸)
マニラ・ガレオン船
サン・フェリペ号事件
・「宮城県慶長遣欧使節船ミュージアム」サンファン館(写真集)
をお楽しみください。

参考HP:〜
支倉常長のローマ旅行地図(日本語)
サン・フアン・バウティスタ号(伊達丸)復元船(写真)
 (宮城県石巻市渡波字大森30番地2 の(サン・ファン館 )宮城県慶長使節船ミュージアム)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/4/26追記、13/10/1、14/8/28、14/11/14

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