大航海物語
マニラ(スパニッシュ)ガレオン船
1565〜1821
Manila-Acapulco Galleon


参考資料
PILIPINAS
ルソン(スペイン領フィリピン)から
スペイン(メキシコ)へお宝を運んだ
マニラ・ガレオン船
Manila Galeon


新スペインからは人と物資を輸送
Manila(Spanish)Galleon

フィリピン 2010 発行
琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図
日本



フィリピン
昭和38年1963/9/16 発行

MEXICO
メキシコの地図

バハ半島
メキシコ湾
メキシコ 1915-16 発行



マニラ・ガレオン船の航海地図
マニラ・ガレオン船 上が太平洋のウルダネータ航路

マニラ→


←アカプルコ


ガレオン船の日 2010 記念(Dia del Galeon)
フィリピン 2010/10/8 発行

マニラ・ガレオン船 (別名:アカプルコ・ガレオン船)
  Manila-Acapulco Galleon Ship
マニラ・ガレオン船はスペインの貿易船のことで、1〜2年をかけて太平洋を横断して渡り、フィリピンのマニラと新大陸のヌエバ・エスパーニャ(新スペイン、現:メキシコ)のアカプルコを往復し、1565年から19世紀初頭まで続きました。メキシコ独立戦争(1810-1821)とナポレオン戦争(1803-1815)で終わりました。コロンブスの没後60年近く経ってから就航するも、マニラ・ガレオン船は「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」というコロンブスの夢を現実のものにしました。また、この貿易を「ガレオン貿易」もしくは「アカプルコ貿易」ということもあります。

▼マニラ・ガレオン船の貿易航路の発見
・西行:往路(アカプルコ〜マニラ)〜1521年マゼラン船長が発見
・東行:復路(マニラ〜アカプルコ)〜1565年ウルダネータ船長が発見
マニラ・ガレオン船の貿易航路は、マゼランの船隊が世界1周航海の途上で1521年に太平洋を西へと横断して往路の航路を発見しました。復路となるセブ島からメキシコへの航路は
1529年、アルヴァロ・ド・サァヴェドラが試みるも遭難して亡くなり失敗。
1543年、ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス船隊のベルナルド・ド・トーレ船長(Bernardo de la Torre)
     が試みるも遭難して失敗。トーレ船長は1543/8月にサン・ファン・デ・ラテラン号(San Juan
     de Letran、英:St. John of Lateran)でアカプルコを出帆。マニラ到着後、アカプルコへと出
     帆するも、日本近海で嵐に遭遇して失敗してマニラに帰港しましたが、小笠原諸島(Bonin
     Islands)などを探検航海しました。そして、沖ノ鳥島をパレス・ヴェラ(Parece Vela)と呼び
     ましたが、それは日本本州から1,800 km離れた南鳥島(Marcus Island)ではないかといわ
     れており、また、本州から1,000 km離れた小笠原諸島をイスラス・デル・アルゾビスポ(大司
     教島:Islas del Arzobispo:英:Archbishop Islands)、父島諸島をファルファナ(Farfama)、硫
     黄列島をロス・ヴォルカイノス(Los Volcanes)と呼びました。
1565年、ミゲル・ド・レガスピ提督の下でアンドレ・ド・ウルダネータ船長がマニラ湾に突き出た半島にあるキャビヴィテ(Cavite)を出帆して太平洋を北上する探検航海をなし、太平洋の貿易風を捉えてアカプルコに到達・発見しました。

▼東廻り香辛料貿易の開始
太平洋の貿易航路が発見されると欧州から西廻り香辛料貿易が始められ、それが東廻りのポルトガルやオランダに充分に対抗できるようになって、マニラのスペイン人移民に職を与え、マニラ・アカプルコ・ガレオン船は250年間(1565-1815)で合計110隻に達しました。1593年までは、両港から毎年3隻以上の船が出帆しました。マニラ貿易が有利になると、イタリアのセビリャ商人達は自分達の損失をフェリペ2世に申し立て、1593年の法律で両港から年間2隻ずつの運航に制限されました。また両港に1隻ずつ予備船を置くとされ、武装護衛艦を付属させることも認められました。

▼マニラ・ガレオン船の建造
・マニラ〜ほとんどの船
・アカプルコ〜8隻
マニラ・ガレオン船の便数が制限されたので、可能な限り大きな船を建造する必要が生じ、当時最大級の船となりました。16世紀ではガレオン船は平均1700〜2000屯で、フィリピンの木材で建造され、1000人の乗客を運ぶことができるのもありました。1638年に沈んだコンセプション号(Galeon Concepcion)は全長45m、排水量2000屯で、サンティズマ・トリニダード号(Galeon Santisima Trinidad 1751)は長さ51.05m、2000屯でした。18世紀のサンティズマ・トリニダード号はこちら
帆船の造船所

キューバ 1980/9/15 発行

▼マニラ・ガレオン船の終了
マニラ・ガレオンは1821年のメキシコ独立で終りました。1800年代半ばには、蒸気船発明とスエズ運河開通でスペインからフィリピンまでは40日で行くことができるようになり、統治は容易になり、以後フィリピンはスペイン王の直接統治領となりました。

▼マニラ・ガレオン船の貿易
マニラ・ガレオン船は香料諸島の香辛料、中国・東南アジアの磁器、象牙、漆器、絹製品を新大陸(中南米)に運びました。中でも中国産の絹織物が多くの割合を占めたため、アカプルコ行きの船は「絹船」と呼ばれることもありました。日本が1638年に鎖国するまでは、日本との貿易も行われました。積荷はアカプルコからメキシコを横断し、カリブ海に面した港ベラクルスまで陸送され、そこからスペイン王国のインディアス船団に積み込まれスペインに到着。この航路では、インド洋を渡り、オランダ制海権下にあった喜望峰を回るという危険な行程を避けることができました。スペイン人は、メキシコを横断するよりも、パナマ地峡の方が遙かに陸路が短距離で済むことを知っており、彼らはパナマ地峡に輸送路を整えようとするも、うっそうと茂るジャングルとマラリアに行く手を遮られました。ヨーロッパでは中国製品が珍重されるも、中国市場は自給自足が成立しており、中国で求められた唯一のものが、メキシコのサカテカス(Zacatecas)とボリビア南部のポトシ(Potosi)で産出するアメリカの銀でした。銀はアカプルコからマニラに運ばれ、マニラ行きの船を「銀船」と呼ぶこともありました。新大陸の銀のおよそ1/3が、この航路で中国に運ばれたと考えられる。また、布教を目的とした宣教師が多く乗り込んでいた為、「ガレオン船は銀と宣教師を運んでいる」ともいわれました。マニラから太平洋を渡ってアカプルコに着くまで、4ヵ月もかかりました。マニラ・ガレオン船はフィリピンとメキシコ副王領の首都メキシコシティとを結ぶ連絡経路の中心で、フィリピンのスペイン人の多くはメキシコの流れをくみ、また実際フィリピンにおけるスペイン文化はメキシコのそれに近いものといわれています。メキシコ独立後も、米西戦争(1898/4/25-8/12)中を除いて、貿易は続けられ、マニラ・ガレオン船は3世紀近くにわたり太平洋を行き来し、財宝・利益・文化をスペインにもたらしました。

▼マニラ・ガレオン船の宝物
1587年、イギリスのトーマス・キャベンディッシュ船長の襲撃を受ける
1743年、イギリスのジョージ・アンソン提督の襲撃を受ける
また、難破したマニラ・ガレオン船はカリブ海に沈んだ財宝船に次ぐ伝説といわれています。1568年にレガスピ提督所有のサン・パブロ号(300tns)がメキシコに向かう途中で難破したのが、マニラ・ガレオン船最初の難破船でした。1576年のエスピリトゥ・サント号(Espiritu Santo)、1798年のサン・クリストバル号(San Cristobal)などもあります。

参考HP:〜
小笠原諸島付近の地図(沖ノ鳥島が有)
大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃)
太平洋の地図

参考:〜
ドン・ロドリゴ総督 (Don Rodrigo、1564〜1636)
  初代バリエ・デ・オリザバ伯爵ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルシア
  Rodrigo de Vivero y Aberrucia, 1st Count of Valle de Orizaba
ドン・ロドリゴはスペイン人貴族・植民地政治家で、江戸時代初期に日本を訪れた人物。父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(Rodrigo de Vivero y Velasco、1563頃没)の任地のヌエバ・エスパーニャ(Nueva Espana:新スペイン、現:メキシコ)で生まれ、スペイン本国カンタブリア州ラレード(Laredo, Cantabria)で成長。フェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリア(Ana de Austria 1549-1580)の小姓などを勤めて、その後にヌエバ・エスパーニャ副王(Viceroy、在任1590−1595)だった伯父サリナス侯爵ルイス・デ・ベラスコ(Luis de Velasco, marques de Salinas 1534-1617)に重用され、1595年にメキシコのベラクルス港付近の島にあるサン・フアン・デ・ウルア要塞(San Juan de Ulua)守備隊長兼市長、
スペインの貴族

スペイン1972/10/12発行
1597年にメキシコ・シティ郊外の山あいにある美しい街タスコ(Taxco)の市長、1599年にはヌエバ・ビスカヤ(Nueva Vizcaya, New Spain)地方長官兼軍司令官に就任。前フィリピン総督(Gobernador y Capitan General de las Islas Filipinas)ペドロ・アクーニャ(Cristobal Tellez de Almanza在任1606-1608)が在任中に亡くなった時に、伯父のルイス・デ・ベラスコが2期目(在任1607-1611)のヌエバ・エスパーニャ副王に在任していたので、1608年に第13代フィリピン総督(Governor-General of the Philippines 1608-1609)としてフィリピンに派遣されました。フィリピン総督在任中にマニラで起こった日本人暴動に際して、暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求しました。徳川家康の外交顧問だった三浦按針(ウィリアム・アダムス)が訪れた時に会見して家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まりました。その後はパナマ地方長官兼軍司令官を勤め、1627年フェリペ3世(Felipe III, 1578-在位1598-1621)が新スペイン(Orizaba, Veracruz)のバリエ・デ・オリザバ伯爵(Count of Valle de Orizaba)に叙爵し、72才で亡くなりました。

・サン・フランシスコ号の遭難
スペイン領フィリピンの第13代フィリピン総督兼軍司令官ドン・ロドリゴ総督は、次期総督フアン・デ・シルパ(Juan de Silva 在任1609−1616没)が着任したので、ヌエバ・エスパーニャへ帰国することになりました。1609/7/25(慶長14/6/24)にマニラのキャビデ港からアカプルコ港に向けて出帆。68日目の1609/9/30(慶長14/9/3)に暴風雨に遭遇して艦隊3隻の内、ドン・ロドリゴ総督乗船の旗艦サン・フランシスコ号(Galeon San Francisco、1000tns)は遭難して上総国岩和田村(千葉県御宿町)の田尻浜に漂着・難破しました。僚船のサンタ・アナ号は1609/9/12(旧暦8/14)に豊後国臼杵中津浦(大分県臼杵市中津浦)に漂着、サン・アントニオ号だけは難を乗り切ってそのままアカプルコ港に向けて航海を続けました。

サン・フランシスコ号は夜の10時に岩和田村から2レグワ(約11キロ)離れた岩礁に乗り上げて座礁しました。乗船の司令官フアン・エスケルラ(Juan・Esquerura)、船長フアン・セビコス(Juan・Sevicos)など乗員373人の内56人が溺死して317人が漂流物に掴まって海岸に漂着しました。そこへ駆けつけた地元住民に助けられ大宮寺(御宿町岩和田786現:大宮神社)に寄宿しました。座礁したサン・フランシスコ号には家康の発行した朱印状が積まれていたので、藩主の大多喜城主本多忠朝(1582-1615)はロドリゴらを厚遇し、この村に37日間滞在させて食料一切などを支給しました。さらに、江戸城の将軍秀忠と駿府城の大御所家康の所へ使者を派遣して海難事故を報告し、帰国の嘆願をすることを許可しました。ドン・ロドリゴは下士官アントン・ペケニョ(Antonio・Pequeno)とフアン・セビコス船長に遭難経緯を記載した書簡を託して派遣すると、彼らは20日の内に帰ってきました。将軍秀忠からの書簡には、海岸に打ち上げられた船の物品を納めた倉庫の鍵を渡すので、直ちにこの鍵を 房総半島の地図

日本 1995/11/6 発行
伊能忠敬




受け取り、自分の意志で物品を処分すること。ドン・ロドリゴは将軍秀忠のいる江戸城および大御所家康のいる駿府城に行くこと。道中に於いては町奉行および藩主がドン・ロドリゴを歓待し、必需品を供給すること、などが書かれていました。ドン・ロドリゴは大多喜城に登城して藩主本多忠朝より饗宴を受け、翌日江戸城に向かい、各所で歓待を受けました。ドン・ロドリゴ総督が江戸に到着して2日の間に、将軍秀忠は船手方の向井兵庫頭正綱を2回訪問させました。その後ドン・ロドリゴは江戸城に行き、大広間で将軍秀忠に謁見。三浦按針(ウィリアム・アダムス)の通訳で会見30分余の後、宿舎に戻りました。ドン・ロドリゴ一行は日本滞在の後、家康から三浦按針の指導で建造されたガレオン船安針丸を金貨4,000ドゥカードで提供を受け、聖ボナヴェントゥラ(San Bonaventura 1217-1274)に因んでサン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けました。1610(慶長15)8/1にドン・ロドリゴ一行は、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父(Father Alonzo Munos)や京都商人の田中勝介ら家康の遣墨使節と共に日本を出帆。太平洋を大航海し、1610/11/13にアカプルコ港に到着・帰国しました。ドン・ロドリゴは日本滞在中の見聞録を「ドン・ロドリゴ日本見聞録」として執筆しました。なお、現在ではドン・ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、漂着した御宿町、いすみ市(旧大原町、夷隅町、岬町)、大多喜町で開催されています。

参考HP:〜
ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領メキシコ)の区分地図(Nueva Vizcaya有)
サン・フアン・デ・ウルアの場所地図(Veracruzの所に有)
サリナスの場所地図
オリザバの場所地図(Veracruzの所に有)
メキシコの区分地図

こちら日本製のガレオン船を、
こちらサン・フェリペ号の遭難をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/5/9、14/11/12
スタンプ・メイツ
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