切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国(連合軍)の反攻>

第15章 カロライン

80 <米軍、トラック基地破戒>
1944/2/17


トラック環礁の地図

ミクロネシア 1984/7/12 発行
米軍、トラック環礁を空襲・基地を破壊
Japanese Defeated at Truk

マーシャル諸島 1994 発行
米グラマン機が飛行場を空襲・破壊

Feb 17-18 1944 Enemy Base at Truk destroyed
パラオ 1994 発行

米軍、トラック基地破戒、 1944/2/17〜2/18
  (帝国の海戦名呼称は無く、海軍丁(T)事件は有)
  別名(米軍呼称):ヘイルストーン作戦(Operation Hailstone)、米軍の勝利
     (エニウェトク環礁攻略キャッチポール作戦の支援作戦)
  場所:ミクロネシア連邦カロリン諸島チューク(旧名トラック)環礁の夏島(Dublon)など
     (Truk Island, Chuuk Atoll, Caroline Islands, Federated States of Micronesia)
トラック環礁(現チューク環礁)とは帝国の委任統治領当時の呼称で、太平洋の真中のミクロネシア群島カロリン諸島にあり、帝国から3,000kmほど南で、当時は船で9日間ほどかかりました。第1次大戦中の大正3年(1919)帝国はそれまでドイツ領であった南洋群島ドイツ領ミクロネシアを占領。第1次大戦後の大正4年国際連盟から委任統治領として承認され、「南洋群島」として支配していました。この南洋群島にサイパン、トラック、パラオ、ポナペなどが含まれています。トラック環礁は東西60km、南北50kmもある壮大なラグーン(環礁湖)内に9つの島(比較的小型の火山島群)を持ち、極小の珊瑚礁島が散らばってできています。火山島は春夏秋冬の名がつけられた四季諸島と、水曜、木曜など「曜日名」がつけられた七曜島の2群がありました。散在する極小の珊瑚礁島には、櫻島とか竹島とかの植物名がつけられていました。島数は250。環礁は、上の幅がほんの数mから数10mが海面すれすれに出ている超長大なリング状の珊瑚礁で、リングのところどころが死んだ珊瑚虫の殻が白い砂の堆積となって水面に現れた島になっています。堆積してできた島には数本の椰子が生えて、これらの環礁上の島々を、中心部にある火山島から見た方位に従って、子島(ねじま)とか午島(うまじま)とか、十二支名を付けていました。また環礁にはところどころ切れ目があり、船が航行できる個所は水道と呼ばれていました。

当時は南水道以外は機雷で閉鎖。トラック礁湖は広大で水深もあるので連合艦隊の停泊地としても、絶好の条件を備えていましたので、帝国海軍の大根拠地(泊地)となっていました。連合艦隊司令長官「山本大将」も戦艦「大和」に座場して指揮を取っていましたが、海軍甲事件(1943/4/18)で山本大将亡き後は、古賀峯一大将(1885-1944/3/31)が連合艦隊司令長官となって旗艦の戦艦武蔵に座乗して、1944/(S19)2/6に連合艦隊はトラックへの米軍の空襲を予想して水上艦主力をトラック島からパラオ諸島へ移動しました。

昭和19年2月17日、トラック環礁に米機動部隊が航空母艦9隻を持つ53隻の機動部隊で、2日間の大空襲をしました。当日は連合艦隊は在泊していませんでしたが、巡洋艦3(なか、かとり、あがの)、駆逐艦4、潜水艦1、駆潜艇2、船舶32隻(タンカー5、貨物船11、商船16の20万屯)が沈没しました。航空機の損失は359機にものぼり、根拠地に集積中の燃料、軍需品も7割が焼失、破戒されました。そしてトラック基地は使用不能となりました。米機動部隊の航空母艦はエセックス級27000トン正規空母なので航空機約720機で攻撃したことになります。

4/12、第二長安丸というトラック行きの最後の輸送船が横浜港大桟橋から出港。この船は2千トン位の、もと揚子江通いの客船に軽武装した船でした。通常の船員の他に、商船学校出の大尉を指揮官とする海軍の兵隊が乗組んでおり、前甲板に10cm位の大砲、ブリッジの上の指揮所に13mm対空機銃、船尾に対潜水艦用の爆雷を積み、潜水艦のスクリュー音を聞く水中聴音機(ソナー)をもっていました。10数隻の輸送船と船団を組み、これに海防艦、駆潜艇が護衛して、船団は円陣を作って7、8節の速度でジグザク航法で進み、横浜から11日目の4/23サイパン島着。4/29サイパン島を出港、翌30日グアム島着。5/9大宮島(グアム)発。グアム島を出た翌日5/10の早朝、船団が米潜水艦の攻撃を受け沈没・壊滅。これがトラックへの最後の輸送船団となりました。

4/30には、再び米軍機動部隊によるトラック島第2次大空襲がありトラック基地は、基地としてはその役割を果たすことはできなくなりました。その後、トラックには米軍は上陸せず、サイパン陥落後は全く補給が途絶えて、陸・海軍各1万人の計約2万人分の食糧自給のため、主としてサツマイモ栽培の農場が作られました。敗戦後は駆逐艦「柿」他の復員船で、途中グアムにより、9日間の航海で昭和20年11月頃、浦賀に着き、故国へ復員できました。

・トラックの戦い(空襲)
2/4 米軍が航空機、潜水艦でトラック周辺の偵察を開始
2/11 第五五一海軍航空隊の天山26機が空母 海鷹でトラックに到着、楓島に配備、
海鷹は揚陸後に出港
2/12 〜2/13米機動部隊が現マーシャル諸島共和国首都メジュロ環礁を出撃
2/16 軽巡 阿賀野が米潜スケート号 (USS Skate, SS-305) の魚雷攻撃で撃沈される
夜間 陸軍参謀本部の瀬島龍三や服部卓四郎らと海軍軍令部の伊藤整一次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄って、夏島の料理屋で宴会、各島の司令部が夏島に集まっていたため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れず、
2/17 払暁、米軍が攻撃隊発進点のトラック東部200海里地点に到達
    米軍が空母9隻の機動部隊53隻で、2日間大空襲を開始
    トラック第1次大空襲第1日、空襲9波
早朝、警戒体制が緩んで小林中将は遠方岩場で釣行、基地本部への帰還に遅れる
帝国軍最新の零戦52型100機も戦わずに破壊され、計270機を喪失
・軽巡 那珂、練習巡洋艦 香取、駆逐艦 追風・舞風、引揚船 赤城丸が沈没
・環礁内の補助艦船が次々と撃沈される
・トラックへ向う輸送船 辰羽丸・瑞海丸が沈没(陸兵約7,000人水没)
深夜 帝国の春島残存九七艦攻4機、米艦隊攻撃へ出撃
テニアンの七五三空・陸攻2機と七五五空・陸攻3機が出撃
七五五空の陸攻1機が空母イントレピッドに魚雷1本を命中、同艦は右舷艦尾破壊で舵停止、6隻の護衛でエニウェトクへ後退
米空母エンタープライズのレーダー装備TBF-1Cアベンジャー12機が夜間雷撃
二〇四空の修理・整備で零戦6機が使用可能となるも、側の不発弾が突然爆発、全機飛行不能となり、18日の帝国迎撃機は無くなる
2/18 トラック第1次大空襲第2日3波、両日計12波延べ1,200機で空襲攻撃
帝国軍の迎撃機無し、
駆逐艦 文月・太刀風、特設給油船 富士山丸、特設給油船 第三図南丸、特設潜水母艦 平安丸など補助艦船11隻が撃沈され、基地機能を喪失
3/16 〜9月末までの間に、B-24など大型機の来襲は延べ3,700機
4/4 伊号169潜水艦が空襲で潜航して事故沈没
4/30 トラック第2次大空襲
米TF58がホーランジア攻撃の帰途再度トラックに空襲、2日間攻撃で95機を破壊
5/4 第2日の丸・札幌丸が撃沈される
5/10 トラックへの最後の輸送船団がグアム島を出た翌日に米潜攻撃で沈没
7/3 第34号哨戒艇が撃沈される

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の兵力
・巡洋艦〜3隻
・駆逐艦〜8隻
・航空機〜159機
・保管機〜約200機
○米軍の兵力
・空  母〜9隻
・戦  艦〜7隻
・巡洋艦〜10隻
・駆逐艦〜28隻
・航空機〜589機
○帝国軍の損害
・巡洋艦〜3隻
・駆逐艦〜4隻
・輸送船〜5隻
・小型艇〜3隻
・商  船〜32隻
・航空機〜270機喪失
・地上で戦死〜400人
・陸兵海没戦死〜7,000人他
・トラック島全施設〜壊滅
○米軍の損害
・空  母〜1隻損傷
喪失機
・戦闘機〜12機
・急降下爆撃機〜6機
・雷撃機〜7機
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
・下記の帝国軍の損害を参照

○米軍の編成:〜
トラック空襲任務部隊(支援部隊)
・第50任務部隊
  司令官:レイモンド・スプルーアンス中将(Vice Admiral Raymond Ames Spruance, 1886-1969)
 ・空  母〜9隻
 ・戦  艦〜7隻
 ・巡洋艦〜10隻
 ・駆逐艦〜28隻
 ・旗艦:第3群の戦艦ニュージャージー号(空母から移動)
・第58任務部隊
 高速空母任務部隊
  司令官:マーク・ミッチャー(Rear Admiral Marc Andrew "Pete" Mitscher, 1887-1947)
 ・第1群司令官:ジョン・リーブス少将(リーブス隊
    (Rear Admiral Adm John Walter "Black Jack" Reeves, Jr, 1888-1967)
  ・空母〜3隻
   ・エンタープライズ号(USS Enterprise CV-6)
   ・ヨークタウンII号(USS Yorktown CV-10)
   ・軽空母ベロー・ウッド号(USS Belleau Wood CVL-24)
  ・重巡・軽巡〜計4隻、駆逐艦〜9隻
 ・第2群司令官:アルフレッド・モンゴメリー少将(モンゴメリー隊
  ・空母〜3隻
   ・エセックス号(USS Essex CV-9)
   ・イントレピッド号(USS Intrepid CV-11)〜大破
   ・軽空母キャボット号(USS Cabot CVL-28)
  ・重巡・軽巡〜計4隻、駆逐艦〜7隻
 ・第3群〜第58.3任務群(TG58.3)
    司令官:フォレスト・シャーマン少将(シャーマン隊
  ・空母〜3隻
   ・バンカー・ヒル号(USS Bunker Hill CV-17)
   ・軽空母モンテレー号(USS Monterey, CVL-26
   ・軽空母カウペンス号(USS Cowpens, CVL-25)
  ・戦艦〜6隻、本格攻撃開始後に第50.6任務群(TG50.6)
    司令官:ウィリス・オーガスタス・リー・ジュニア少将((Willis Augustus Lee Jr., 1888-1945病没)
   ・ニュージャージー号
   ・ノースカロライナ号
   ・サウスダコタ号
   ・マサチューセッツ号
   ・アラバマ号
   ・アイオワ号
  ・重  巡〜2隻
  ・駆逐艦〜11隻
・潜水艦〜9隻(トラック包囲)。

○帝国軍の損害:〜
▽沈没艦船:〜
・戦闘艦艇沈没
 ・軽  巡〜3隻
  ・軽  巡 阿賀野・那珂・練習巡洋艦 香取
 ・駆逐艦〜4隻
  ・駆逐艦 舞風・太刀風・追風・文月
 ・小型艇〜3隻
  ・小型艇 第24号駆潜艇、第29号駆潜艇、第10号魚雷艇
 ・タンカー〜4隻
・補助艦船(陸軍徴用船を含む)
 ・各種の特設艦船や陸軍徴用の軍隊輸送船など徴用商船〜29隻沈没
  ・特設巡洋艦 赤城丸
  ・特設潜水母艦 平安丸
  ・特設駆潜艇 第十五昭南丸
  ・海軍特設給油船 第三図南丸・神国丸・富士山丸・宝洋丸
  ・海軍特設給水船 日豊丸
  ・その他海軍輸送船
   ・愛国丸・清澄丸・りおでじゃねろ丸・瑞海丸・国永丸・伯耆丸・花川丸・桃川丸・松丹丸
   ・麗洋丸・大邦丸・西江丸・北洋丸・乾祥丸・桑港丸・五星丸・山霧丸・第六雲海丸
   ・山鬼山丸・富士川丸・天城山丸(航空燃料輸送)
  ・陸軍輸送船
   ・暁天丸・辰羽丸・夕映丸・長野丸など
  ・沈没商船〜計は20万総トン(当時の帝国保有船腹の4%)
▽損傷艦船
  ・正規戦闘艦艇
   ・水上機母艦 秋津洲(中破)
   ・駆逐艦 秋風松風(中破)春風(小破)時雨(小破)
   ・潜水艦 伊10(小破)・呂42(小破)
  ・補助艦船
   ・工作艦 明石(軽微)
   ・雑用運送艦 宗谷(座礁後も対空戦闘を続け小破するも自然離礁)
   ・その他
    中破〜特設掃海艇 羽衣丸
    座礁〜海軍特設運送船 白根丸、海軍特設気象観測船 白鳳丸
▽生存艦艇
 ・水上機母艦 秋津洲
 ・駆逐艦〜5隻(野分・時雨・春雨・秋風・藤波)など
 ・工作艦 明石、標的艦 波勝、第34号哨戒艇、特務艦 宗谷、病院船 天応丸、駆潜艇など

▽航空機
・航空機の喪失
 ・空中〜70機、地上破壊〜200機(所在機数の3/4)
損害の詳細不明、以下の可動機・保管機の70機撃墜、200機地上撃破。
・可動機所在機数(含:練成部隊)
  ・春島第一飛行場
   ・第二空襲部隊
    ・七五三空派遣隊(陸攻10機)
    ・五五二空(九九艦爆15機)
   ・第一練成部隊
    ・五八二空(九七艦攻9機)
    ・九〇二空派遣隊(水偵5機以上)
    ・第二航空戦隊残留隊(艦攻9機)他、計約50機
  ・竹島飛行場
   ・第一練成部隊
    ・二〇四空(戦闘機31機以上)
    ・二〇一空派遣隊(戦闘機8機)
    ・五〇一空(爆装機25機以上 艦爆2機(春島))
  ・楓島飛行場
   ・ 第二空襲部隊
    ・五五一空(天山26機)
   ・第一練成部隊
    ・二五一空本隊(夜間戦闘機9機以上)
    ・九三八空(戦闘機5機)
  ・春島第二飛行場
    ・九〇二空派遣隊(2座水偵5機)
   ・夏島水上飛行場
    ・九〇二空本隊(3座水偵約11機 2座水偵2機 水戦約10機その他)
    ・六艦隊偵察隊(小型水偵7機)
  ・保管機
   ・航空廠支所所管(竹島中央部に所在)〜保管機98機
   ・一〇一航空基地隊〜保管機78機
  ・その他地上施設等
   ・燃料タンク3基焼失〜燃料油約1.7万トン
    ・上記タンクを含め燃料物資等補給品の内75%を喪失
   ・人員400人戦死。

大本営発表
  (大本営発表昭和十九年二月二十一日)
「トラック諸島に来襲せる敵機動部隊は、同方面帝国陸海軍部隊の奮戦により之を撃退せり。本戦闘において敵巡洋艦二隻(内一隻戦艦なるやも知れず)撃沈、航空母艦一隻及び軍艦(艦種未詳)一隻撃破、飛行機五四機以上を撃墜せしも、我方も亦巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、輸送船一三隻、飛行機一二〇機を失いたる他、地上施設にも若干の損害あり。」

海軍丁(T)事件、1944/2/19
帝国はトラック島の被害は、「2/16-17に警戒を緩めさせた指揮官の判断ミス」として、海軍丁事件として処理しました。
2/19、現地指揮官の第四艦隊司令長官小林仁中将が原忠一中将と交代
    トラック管理の第4根拠地隊司令官若林清作中将が有馬馨少将と交代
2/21、参謀総長杉山元と軍令部総長永野修身が共に更迭され、
    陸軍大臣を兼務していた内閣総理大臣東条英機、
    海軍大臣嶋田繁太郎がそれぞれ兼務
2/31、持病で転勤予定だった小林中将が予備役編入。
3月、 T事件調査団(団長:海軍水雷学校長大森仙太郎少将)が派遣され、調査。
    結論「大局的に見て、この少ない兵力をもってあの攻撃に対処するには、誰が作戦指導をして
    も大同小異の結果であったろう」。

参考HP〜
チューク環礁の地図(旧名トラック環礁の日本語敢行案内地図、拡大有)
トラック環礁の地図(日本語)
トラック環礁の地図(日本語、飛行場配置図)
トラック環礁の場所地図(日本語)








81 <米軍、パラオ諸島、大空襲>
1944/3/30-31

US Forces in Palau・World War II
パラオ諸島を空襲する米軍B-24S爆撃機

B-24S Over Peleliu, 1944
パラオ 1994 発行
パラオ諸島を攻撃する米第1海兵師団

1st Mrine Division Attacks on Peleliu, 1944
パラオ 1994 発行
米軍を歓迎するパラオの子供

Palauns Welcome US Troops, 1944
パラオ 1994 発行
パラオの米軍建立の戦没者慰霊碑

Nov 17 1944 US Army Memorial
Emd of Fighting on PALAU Islands
パラオ 1994 発行

米軍、パラオ諸島、大空襲、1944/2/1〜2/3
  (Bombing of Palau Islands)
  別名(米軍呼称):ディセクレイト・ワン作戦、米軍の勝利
      (Operation Desecrate One)
      ディセクレイト・ツー作戦(上陸直接援護のホーランジア空襲)
      ( Operation Desecrate Two)
  場所:パラオ共和国ミクロネシア地域のパラオ諸島の島々
      (Republic of Palau)
      (バベルタオブ島・コロール島・ペリリュー環礁・アンガウル環礁など)
日本から約3,000km南にあるパラオ諸島は最も大きいバベルダオブ島とコロール島、さらに南のペリリュ−島とアンガウル島は海抜が高く、一方カヤンゲル島やゲルアングル島は海面に少しばかり頭を出しているサンゴ環礁です。パラオ諸島はロックアイランドと呼ばれる島々を含む大小200の島で構成されています。北に位置するカヤンゲル島とガルワングル島、アンガウル島から、南に位置する南西諸島のいくつかの島を除いてパラオの島々はひとつの堡礁の中にあり、帝国軍が軍艦の泊地として利用していました。現在は面積488km2(屋久島とほぼ同じ)、人口19,129人(2000年国勢調査)、首府をコロールに置く独立国です。1543年スペイン人が発見、1899年にドイツが買収。第1次大戦の時、ドイツ領であった南洋群島の一部として1920(大正4)年帝国の委任統治領となりました。帝国の敗戦1945年までの31年間自治が認められていました。帝国の敗戦により1947年、アメリカの信託統治下に置かれました。パラオでは、この四百年間のうち約30年間に過ぎない日本統治時代が一番良かったと現地人たちは回顧しているそうです。それは在留邦人が現地人を大切にしたことにもよりますが、それよりも強い印象を彼らに与えたのは大戦末期のペリリュー戦とアンガウル戦で両島とも島民を避難させ帝国軍だけで米軍と戦い最後は全員が戦死(玉砕)したからだといわれています。

昭和19年2月6日、帝国海軍水上艦主力をトラック島からパラオ島へ移動。パラオでは第2艦隊の旗艦「愛宕」にまだ軍楽隊を乗せていたので、愛宕艦内で司令長官(後の”栗田艦隊”の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まりました。勇ましい軍歌ではなく荘重なクラシックで、在りし日の帝国海軍の威容を語る懐かしの風景があったといわれています。

パラオ大空襲(昭和19(1944)年)
パラオ大空襲は、1944/3/30〜3/31に米海軍空母機動部隊がパラオの帝国軍へ大規模な航空攻撃を実施。また、4/1にはヤップ島・ウォレアイ環礁・ウルシー環礁も同時に攻撃しました。
2/6 帝国連合艦隊主力がトラック島からパラオ泊地(バベルダオブ島・コロール島)へ移動
3/19 米軍のパラオ大空襲が開始
3/20 米機動部隊の空襲を予想して在泊艦艇はパラオを退避
3/22 第58任務部隊は集結地点のメジュロ環礁を出撃、3/26と3/28に給油艦から洋上補給を受け、3任務群でパラオ攻撃隊発進地点へと向かう
3/26 夜、パラオ沖にて米潜タリビー号がパラオ入港中の帝国西松2号船団を襲撃するも、発射魚雷の自爆で沈没
3/29 ダバオへ退避中の連合艦隊旗艦 武蔵が待伏せ米潜タニー号の襲撃で魚雷1発を受け損傷
夕刻、陸攻10機・艦爆5機が出撃、重巡1隻撃沈や空母・戦艦各1隻撃破などの戦果を報じるも、米側記録では被害無く、陸攻6機・艦爆3機を喪失
3/30 米機動部隊が
・パラオ諸島・ヤップ島・ホランジャに来襲、本格的空襲
06:30、パラオ南方約167km地点で米機動部隊がパラオへ第一次攻撃隊を発進
パラオ本島での空襲被害
・第36号哨戒艇など
・ネ003船団(「あさしほ丸」以下加入船3隻)〜ほぼ全滅
・駆逐艦 若竹、第31号哨戒艇など
・パタ07船団(「五洲丸」以下加入船7隻)〜ほぼ全滅
・その他の船舶〜ほとんどが碇泊したまま撃沈される
アンガウル島〜小型艇9隻が撃沈される
3/31 米機動部隊がパラオへ第二次攻撃
午後8時、二式大艇2機がダバオから到着
午後10時、古賀司令長官など連合艦隊司令部要員が二式大艇2機に分乗してダバオへ向かって発進するも、悪天候のため2機とも遭難・消息不明(海軍乙事件
4/1 米機動部隊がウルシー環礁などを空襲
4/6 米機動部隊がメジュロ環礁へ帰投

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の兵力
・戦  艦〜1隻
・巡洋艦〜5隻
・駆逐艦〜8隻
・哨戒艇〜2隻
・駆潜艇〜2隻
・補助艦船〜多数
・海軍機〜約270機
○米軍の兵力
・空  母〜11隻
・戦  艦〜6隻
・巡洋艦〜15隻
・駆逐艦〜48隻
・潜水艦〜9隻
・航空機〜約700機
○帝国軍の損害
沈没・擱座
・駆逐艦〜1隻
・哨戒艇〜1隻
・駆潜艇〜1隻
・小型艇〜16隻
・支援艦〜9隻
・輸送船〜16隻
損傷
・戦  艦〜1隻
・哨戒艇〜1隻
・駆潜艇〜1隻
・支援艦〜1隻他
撃墜・全損
・航空機〜147機
○米軍の損害
沈没
・潜水艦〜1隻
損傷
・潜水艦〜1隻
撃墜・全損
・航空機〜25機
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
パラオ守備隊の第30根拠地隊

○米軍の編成:〜
第58任務部隊(高速空母任務部隊)
  司令官:マーク・ミッチャー(Rear Admiral Marc Andrew "Pete" Mitscher, 1887-1947)
 ・第1群司令官:ジョン・リーブス少将(リーブス隊
    (Rear Admiral Adm John Walter "Black Jack" Reeves, Jr, 1888-1967)
  ・大型(正規)空母〜5隻
   ・エンタープライズ
   ・ヨークタウン号(USS Yorktown CV-10)
   ・バンカー・ヒル号(USS Bunker Hill CV-17)
   ・ホーネットII号(USS Hornet CV-12)
   ・レキシントンII号(USS Lexington CV-16)
  ・小型(軽)空母〜6隻
   ・モンテレー号(USS Monterey, CVL-26)
   ・ベロー・ウッド(USS Belleau Wood CVL-24)
   ・カウペンス号(USS Cowpens, CVL-25)
   ・カボット(USS Cabot CVL-28)
   ・プリンストン号(USS Princeton CVL-23, 1944/10/24レイテ沖海戦沈没)
  ・戦艦〜6隻などの強力な護衛部隊が随伴。

帝国軍の艦船損害:〜
▽沈没・擱座(一部は後に復旧)
(戦闘艦艇)
・正規艦艇
 ・駆逐艦 若竹
 ・哨戒艇 第31号
 ・駆潜艇 第6号
・特務艇
 ・駆潜特務艇 第22号・第26号・第53号
・その他
 ・特設駆潜艇 第5昭和丸
 ・特設捕獲網艇 第5日正丸
 ・特設監視艇 第2勢栄丸・第1亀宝丸
(支援艦船)
 ・工作艦 明石
 ・特設工作船 浦上丸
 ・給油艦 石廊・佐多・大瀬
 ・特設給油船 あまつ丸・あさしほ丸・あけぼの丸
 ・特設水雷母艦 神風丸
(輸送船)
・海軍徴用
 ・特設航空機運搬艦 五洲丸・呉山丸・雷山丸・隆興丸・那岐山丸・第18真盛丸
・陸軍徴用
 ・第2運油丸(タンカー)、北泰丸、てしお丸、備中丸、吉備丸(日之出汽船)、吉備丸(栃木汽船)
 ・忠洋丸、昭勢丸、松栄丸
・小型艇(アンガウル島で沈没)
 ・No.3あきた丸、ちちぶ丸、やえ丸、とく丸、きく丸、ひので丸、やまと丸、うめ丸、あけぼの丸
▽損傷
・擱座に至らない損傷:〜(主要なもの)
 ・戦闘艦
  ・正規艦艇
   ・戦艦 武蔵、第36号哨戒艇、第35号駆潜艇
  ・その他
   ・特設監視艇 八紘丸
 ・支援艦
  ・駆特設給油船 第2菱丸など。

メレヨン島の戦い
  (ウォレアイ環礁、飢餓との戦い)、 1944/4/12〜1945/8/15)
  場所:ミクロネシア連邦ヤップ州ウォレアイ環礁(Woleai Atoll)小島22
  帝国呼称:カロライン諸島メレヨン島
ウォレアイ環礁はメレヨン島と呼ばれて帝国軍の基地となり、マリアナでの戦いに備えて1944/2月に海軍第44警備隊(宮田喜信海軍大佐)と第216設営隊が上陸して滑走路を建設。4/12に陸軍独立混成第50旅団(北村勝三陸軍少将)が合流。陸海軍合わせて6,426人となるも、直後から米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒されて、折角作った飛行場も殆ど使
米機が環礁島を空襲

パラオ 1994 発行
われず、食料の殆ど全てを揚陸直後に喪失してしまい、以後の帝国軍は敗戦まで極度の飢餓に苦しみました。島全体が標高の殆どない珊瑚礁で、農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなく、食糧生産もはかどりませんでした。小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源でした。潜水艦による4度の補給はあったものの、深刻な飢餓が発生し、終戦までに全体の7割に当たる4,493人の餓死病死者がでました。自殺して戦病扱いになった兵もあったといわれています。米軍も上陸せず放置しており、たまにB-24リベーレーター爆撃機の爆撃があるのみで、帝国軍の高角砲は体力不足から1発を発射するのがやっとでした。

1945/3/11にウルシー環礁への特攻作戦「丹作戦」で特攻隊を誘導した第五航空艦隊(宇垣纏海軍中将)所属の二式飛行艇1機が着水、修理も燃料補給も出来ず水没処理。宮田海軍守備隊司令は搭乗員に対し、内地との連絡が遮断されて1年が過ぎ、暗号も更新されていないと伝えました。基地の兵は「毎日10人が餓死する生き地獄の島」とも紹介。また北村陸軍少将が搭乗員に賜った黒塗りの箱にはサツマイモが入っていたが、これは同島最大級の褒章した。飛行艇搭乗員は5/7に伊号第369潜水艦に救助され、設営隊員50人と共に島を離れました。結果的に、帝国軍守備隊は飢餓で事実上全滅しており、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われています。

参考HP〜
パラオ諸島の地図(日本語、バベルダオブ・ペリリュウ・アンガウル島など有)
ウォレアイ環礁の地図(Woleai、帝国呼称メレヨン島有)
ヤップ州の地図(Woleai Atoll有)
オセアニアの地図(拡大有、パラオ・マリアナ・ミコロネシア・マーシャル等有)








82 <米軍、パラオ諸島・ペリリュ−上陸>
1944/9/15

水陸両用戦車を先頭に米海兵隊が上陸
US Marines Land on Peleliu 1944


マーシャル諸島 1993 発行
米強襲揚陸艦がロケット砲で上陸前の援護射撃
LCI Launches Rockets Toword Peleliu, 1944


LCI:Landing Craft Infantry
パラオ 1994 発行
ペリリュ−「血の川」
Battle of Blood Nose Ridge Peleliu

パラオ 1994 発行
米軍ペリリュ−上陸
SEPT.15 1944 US TROOP TAKE PELELIU


パラオ 1994 発行

米軍、パラオ諸島・ペリリュ−上陸、1944/9/15〜11/25
  (Battle of Peleliu)、米軍の勝利
  別名(米軍呼称):ステールメイトII作戦
     (Operation Stalemate II、stalemate)
  場所:パラオ共和国パラオ諸島ペリリュー島
      (Peleliu Island, Palau Islands, Republic of Palau)
パラオ諸島ペリリュー島では、守備隊長の中川大佐など約10,500人が守備していました。守備隊長は島民を避難させ、帝国軍だけで米軍と戦い、最後は全員が戦死(玉砕)しました。帝国は昭和19年11月24日をもってペリリュー島は玉砕したと発表しました。米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。「アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面が、オレンジ色に染ったから」といわれています。現在「オレンジ・ビーチ」はぺリリュー島の正式名になっています。

・ペリリュー島の戦い(1944年)
9/15 米軍がペリリュー島に上陸、ペリリュー島の戦い始まる
帝国軍が熾烈な戦闘を継続、昭和天皇から中川部隊へ嘉賞11度、上級部隊司令部から感状3度が与えられる
9/19 米軍、ペリリュー島の飛行場を制圧
9/22 帝国軍、ペリリュー島北部に逆上陸
10/1 米軍ペリリュ−飛行場を使用開始
11/24 司令部陣地の兵力弾薬も殆ど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川大佐が自決後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られる
11/25 根本甲子郎大尉など55人が万歳突撃、帝国軍の組織的抵抗は終わりる
11/27 島の帝国軍が全滅。中川大佐が2階級特進し陸軍中将となる
米軍がペリリュー島を占領

なお西海岸守備隊は米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い神出鬼没のゲリラ戦を続けて、山口小慰以下陸海軍の生き残り兵34人が、敗戦後の昭和22年4月22迄、約2年半戦闘を実行したという説も有。

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・兵力〜約10,500人
○米軍
・兵力〜48,740人
○帝国軍の損害
・戦死〜10,695人
・捕虜〜202人
○米軍の損害
・戦死〜2,336人
・戦傷〜8,450人
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜総員 約10,500人
<陸軍>
・第14師団歩兵第2連隊
   連隊長:中川州男 大佐(1898-1944/11/24没)
 ・第14師団派遣参謀:村井權治郎少将
・ペリリュー地区隊本部
 ・ペリリュー地区隊直轄部隊
  ・歩兵第2連隊 第1大隊:市岡秀衡大尉
  ・歩兵第2連隊 第3大隊:原田良男大尉
  ・歩兵第15連隊 第2大隊:飯田義栄少佐
   (増援で9/22〜24パラオ本島からペリリュー島へ逆上陸)
  ・第14師団戦車隊:天野国臣大尉
  ・歩兵第2連隊 砲兵大隊:小林与平少佐
  ・歩兵第2連隊 工兵中隊:五十畑貞重大尉
  ・歩兵第2連隊 通信中隊:岡田和雄中尉
  ・歩兵第2連隊 補給中隊:阿部善助中尉
  ・歩兵第2連隊 衛生中隊:安島良三中尉
  ・海上機動第1旅団輸送隊 第1中隊:金子啓一中尉
  ・第14師団経理勤務部:山本孝一少尉
  ・第14師団野戦病院:大塚高麿中尉
 ・西地区隊
  ・歩兵第2連隊 第2大隊:富田保二 大尉
 ・南地区隊
  ・歩兵第15連隊 第3大隊:千明武久大尉
 ・北区地区隊
  ・独立歩兵第346大隊 引野通廣少佐
<海軍>
 ・西カロリン航空隊司令:大谷龍蔵大佐
  ・西カロリン航空隊ペリリュー本隊
   ・第45警備隊ペリリュー派遣隊
   ・第3通信隊
   ・第214設営隊
   ・第30建設隊
   ・第30工作隊
   ・南方方面海軍航空隊
   ・特設第33、35、38機関砲隊(海軍配属陸軍部隊)
   ・朝鮮人労働者(当時帝国々籍)約3,000人含む)
・帝国軍装備:〜
  ・小銃〜5,066挺
  ・九六式軽機関銃〜200挺
  ・九二式重機関銃〜58挺
  ・九七式中迫撃砲(長)ほか火砲〜約200門
  ・九五式軽戦車〜16両。

○米軍の編成:〜総員 48,740人
 ・第1海兵師団 24,234人
 ・第81歩兵師団 19,741人
 ・付属海軍部隊 4,765人
・米軍装備
  ・小銃・自動小銃〜41,346挺
  ・機関銃〜1,434挺
  ・拳銃〜3,399挺
  ・火砲〜729門
  ・戦車117両
  ・バズーカ砲〜180基。

参考HP〜
ペリリュー島の地図(拡大付)
ペリリュー島の場所地図
ペリリュー島の戦いの地図(日本語)
ペリリュー島の米軍侵攻地図(拡大付)
マリアナ・カロライン・マーシャルの場所地図
 (マリアナ(サイパン)・カロライン(トラック)・マーシャル(エニウェトク)の場所地図)    16/1/25








83 <米軍、パラオ諸島・アンガウル上陸>
1944/9/17

米軍アンガウル掃討戦完了
Sept 17-22 1944 ANGAUR Secured Peleiiu 1944


パラオ 1994 発行

米軍、パラオ諸島・アンガウル上陸、1944/9/17
  (Battle of Angaur)、米軍の勝利
  別名:マリアナ・パラオ諸島の戦い
      (Mariana and Palau Islands campaign)
  米軍呼称:(Operation Forager)
  場所:パラオ共和国パラオ諸島アンガウル島
      (Angaur, Palau Islands, Republic of Palau)
第31軍司令官 小畑英良中将(1890-1944/8/11グアムで自決)が、昭和19(1944)年3月10日サイパンで統帥を発動以来、防衛担当地域の各部隊の作戦準備指導に努めていました。軍司令官は連合軍がビアク島に上陸した翌28日、パラオ地区集団作戦準備指導のため、空路サイパンを発ってパラオに到着。随行者は中部太平洋艦隊参謀副長田村少将(陸軍)橋田中佐、泉中佐、金重少佐の各参謀、各部長及び副官等でした。一行は5/28にぺリリュー飛行場に到着後、30日までぺリリュー守備隊の陣地を視察、以降アンガウル島などを視察の後ヤップ島に移動、独立混成第49旅団の作戦準備指導にあたる予定でした。その視察中に米軍のマリアナ作戦は開始され、米軍上陸時は制空権は米軍にあり、サイパン帰還は不可能となりました。そこで各視察同行の部長をパラオに残し、グアムまで進出し、そこで全般の指揮を執る事になり、サイパンでは井桁軍参謀長が軍司令官の指揮を代行しました。

昭和19年9月17日パラオ諸島アンガウル島へ米軍上陸。

帝国軍の守備隊は島民を安全な場所へ避難させた上で、後藤丑男少佐以下1、800人で抵抗しました。上陸してきた米軍は戦車を先頭に、火炎放射機攻撃や洞窟に対しては爆破攻撃をおこなって、徹底的に陣地に立てこもる帝国軍を掃討し、破壊しつくしました。ついに衆寡敵せず、最後は全員が戦死(玉砕)しました。

・アンガウルの戦い(1941年)
12/10 帝国軍がグアム島に上陸
1944
2/23 米軍がマリアナ諸島を空襲
3/30 〜31、米軍がパラオを空襲
5/28 第31軍司令官 小畑中将がぺリリュー飛行場に到着、5/30離島
6/15 米軍がサイパン島に上陸
6/19 〜20、マリアナ沖海戦
7/21 米軍がグアム島に上陸
7/24 米軍がテニアン島に上陸
9/15 米軍がペリリュー島とモロタイ島に上陸
9/11 米軍がアンガウル島侵攻前に空母ワスプ号発艦のドーントレス機で予備爆撃、戦艦テネシー号で艦砲射撃、帝国軍の通信施設は破壊される
9/17 米軍が戦艦1隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦5隻以上からの艦砲射撃の支援の下、
午前8時半過ぎ、米陸軍第81歩兵師団がアンガウル島の北東と南西の海岸へ上陸
夕方、上陸2地点から前進して内陸へ進出
夜襲 地区隊長の第1大隊長 後藤丑雄少佐が守備隊残存兵を再編して夜襲を決行
9/18 明け方、米軍を一旦は海岸近くまで押し戻す
夜が明けると米軍はM4中戦車やLVTを前面に、艦載機で銃爆撃を加えて反撃、
午前10時頃、帝国軍攻撃部隊が全滅
9/19 早朝、米軍が島の中心部サイパン村に突入、間もなく占領
9/25 米軍が目標の丘を占領
9/30 米軍がアンガウル島を全面占領
10/19 島守備隊は島東部の洞窟壕に籠り抵抗を続けるも、最後の斬り込みを行い玉砕。後藤大隊長以下、守備隊員の大半は戦死し、島は焦土と化す
10/28 アンガウル守備隊に昭和天皇の御嘉賞の言葉が出される
占領後 米軍の飛行場が築かれ10月に米陸軍航空軍第494爆撃隊(B-24編成)が到着して以降、フィリピンに空襲83回を行い、パラオ諸島のコロール、ヤップ、トルークにも数度爆撃。同爆撃隊は1945/5月までアンガウル島から出撃

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・守備隊〜1,250人
○米軍
・陸軍師団〜約21,000人
○帝国軍の損害
戦死
・陸軍〜1,185人
・海軍〜6人
・捕虜〜59人
○米軍の損害
・戦死〜260人
・戦傷〜1,354人
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
<陸軍>
アンガウル地区守備隊:〜
・第14歩兵師団第59連隊(宇都宮)第1大隊
  大隊長(守備隊長)後藤丑雄少佐(1909-1944/10/19負傷後自決)
 ・歩兵第59連隊第1大隊本部
  ・副官:鈴木恒中尉・鈴木安彦中尉・江口繁人中尉・宇佐美敏男中尉
  ・軍医:加藤武雄大尉・小林謙大尉
  ・主計:鴨志田芳松中尉
 ・第1中隊:小隊長:石原正良中尉
  ・伊澤健少尉・亀田隈太郎少尉・沼尾才次郎少尉・大沢龍雄少尉
 ・第2中隊:小隊長:佐藤光吉中尉
  ・大木久少尉・佐藤善太郎少尉・宮下義雄少尉・岡部守夫少尉・館野直吉准尉
 ・第3中隊:小隊長:島 武中尉
  ・矢野照美少尉・若井信夫少尉・伊矢野邦三少尉・浅田豊男少尉
 ・第1歩兵砲中隊:小隊長:日野清一中尉
  ・中嶋正巳中尉・小林米少尉
 ・砲兵第2中隊:芝崎省三郎中尉
 ・高射機関砲隊:柏原源吾少尉・高橋実少尉
 ・工兵第1小隊:星野善次郎少尉
 ・通信小隊:山根宗一少尉
 ・補給小隊:立原安雄少尉
 ・衛生小隊:野沢二一少尉
 ・第14師団野戦病院:斎藤健太郎中尉
 ・第14経理勤務部:岡田博吉中尉
 ・第3船舶輸送司令部パラオ支部
<海軍>
 ・第45警備隊アンガウル電探所
  ・所長:石倉芳太郎兵曹長。

○米軍の編成:〜
・第81歩兵師団(愛称(Wildcat)山猫部隊)
  (81st Infantry Division)
   司令官ポール・ミュラー少将(Paul John Mueller 1892-1964)
 ・歩兵〜2個連隊
 ・砲兵〜4個大隊(重砲〜50門)
 ・戦車〜1個大隊(M4戦車〜50輌)
  を基幹とする約21,000人。

参考HP〜
アンガウル島の地図(拡大付)
アンガウルの戦いの地図
パラオ諸島の場所地図

参考:〜
海軍「乙」事件
 連合艦隊司令長官古賀峯一大将殉職
、(連合艦隊司令長官殉職・海軍機密文書紛失・捕虜交換)
海軍乙事件は、1944(昭和19年)/3/31に飛行艇の二式大艇(水上機)でパラオから比島ダバオへ移動中の連合艦隊司令部一行が遭難し、連合艦隊司令長官 古賀峯一大将が搭乗機の墜落で殉職した事件で、「海軍乙事件」と呼ばれています。その時に、帝国軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡りました。また、2番機の生存者が捕虜交換で帰還できました。

・福留 繁 海軍中将、連合艦隊の副長官
  (1891(明治24)-1971) A級戦犯(シンガポール禁固3年、1950復員)
2月に帝国海軍連合艦隊はトラック泊地の旗艦で戦艦の「武蔵」からパラオ陸上へ司令部を移転しましたが、パラオへの米軍空襲激化に伴い、4/1にフィリピンのミンダナオ島ダバオへ移転することを決定。3/31午後9時35分、司令部一行は二式大艇2機に分乗してパラオ基地を出発しました。1・2番機は途中で低気圧に遭遇して遭難しました。1番機は行方不明になり、不時着した2番機搭乗の福留提督一行は現地ゲリラ隊の捕虜になり、機密文書を奪われました。
福留提督

トーゴ 1995 発行

・海軍乙事件の経緯
2/6 帝国海軍が水上艦主力をトラック島からパラオ島へ移動
帝国海軍連合艦隊はパラオ泊地の旗艦戦艦「武蔵」から島陸上へ司令部を移転
3/31 21:35 司令部一行は二式大艇2機に分乗してパラオ基地を出発
1・2番機は途中で低気圧に遭遇して遭難
1番機は行方不明となり、古賀大将以下全員殉職
4/1 02:50 2番機はセプ島沖に不時着(海面に激突)、2番機に搭乗していた司令部要員3人(福留参謀長・作戦参謀 山本中佐・通信長 山形中尉)と搭乗員10人、全員が岸に向かって泳ぎ始めるも、途中で重傷の搭乗員が死亡
04:56 司令部暗号員を載せた3番機がパラオ基地を離水
07:40 3番機、ダバオ着
ダバオの第32特別根拠地帯は司令部一行の行方不明を打電
マニラの第3南遣艦隊は空海からの捜索活動を開始、搭乗員2人を帝国軍が収容
司令部要員3人と岡村中尉以下搭乗員6人は米匪軍(ゲリラ隊)のバンカ(漁業用カヌー)に収容・セブ島のゲリラ隊基地へ連行される。9人がバンカに収容された時、福留参謀長と山本参謀が防水ケースに入っていた機密文書(昭和19年3月8日付「連合艦隊機密作戦命令第七十三号」(Z作戦計画書)と暗号関係の機密図書)を海中に投棄するもゲリラに回収されて、9人はゲリラのマルセリーノ・エレディアノ大尉に日本語で尋問を受け、エレディアノ大尉は全セブ地区ゲリラ隊長のジェームズ・M・クッシング中佐に伝令を使って連絡。クッシング中佐はマッカーサー将軍の司令部に捕虜と機密文書を入手したことを連絡
4/2 古賀長官行方不明で、南西方面艦隊 高須四郎大将が聯合艦隊の指揮をとる
4/9 福留参謀長ら9人はセブ市西方のトパス山中にあるクッシング中佐の根拠地に到着
4/10 クッシング中佐のゲリラ隊が帝国陸軍独立混成第31旅団独立歩兵第173大隊(大隊長 大西中佐に包囲される。クッシング中佐は伝令に機密文書をネグロス島に運ばせ、岡村中尉を軍使にして帝国軍の攻撃中止と捕虜交換を交渉
ネグロス島では米海軍潜水艦が機密文書を回収
オーストラリアの司令部で翻訳してコピー20部を配布。
11:00 頃に岡村中尉が帝国軍の前線にたどり着き、大西中佐と面会してクッシング中佐の手紙を渡す。大西中佐は独断で取引に応ずると回答。岡村中尉は大西中佐の返事を持って引き返す
4/11 11:00 双方が対峙するほぼ中間点のマンゴー樹の下で捕虜引き渡しが行われ、福留参謀長ら9人は海軍第31警備隊セブ派遣隊が収容
4/17 セブ水交社で第3南遣艦隊参謀 山本中佐が機密文書の行方を質され、司令部要員3人(福留中将・山本中佐・山形中尉)は飛行機で内地に帰還
3人が海軍大臣官邸で海軍次官 沢本中将ら6人の将官から事情聴取を受ける
4/22 捜索打ち切り
5/3 豊田副武大将が第3代連合艦隊司令長官に就任

参考HP〜
海軍「乙」事件の地図(パラオ・ダバオの飛行経路)


帝国軍の提督 将軍
山本五十六提督 東条英樹将軍 福留繁提督
山本提督
嶋田繁太郎提督
南雲忠一提督 田中静壱将軍
1945 第二次世界大戦勝利50周年記念 1995
トーゴ 1995 発行
令和元年 2019/11/22
こちらで
米軍、サイパン上陸(マリアナ諸島)
米軍、クェゼリン上陸(マーシャル諸島)
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    2016/2/16

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