★スペイン
コロナード総督
1540
シボラ”7つの都”を発見

大航海物語★
USA
コロナード探検隊一行のテキサス到着

1540 コロナード探検隊400年記念 1940
アメリカ 1940/9/7 発行

REPUBULIQUE
de DJIBOUTI

コロナード

ジブチ 2010 発行
アリゾナのサボテン

アリゾナ50年記念
アメリカ 1962/2/14 発行

ニューメキシコの風景
Mesa、Llano Estacado


ニューメキシコ50年記念
アメリカ 1962/1/6 発行
グランドキャニオン

USA 1934/7/6 発行

ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579
ニュースペイン(メキシコ)


カリフォルニア半島
←スパニッシュ
   ガレオン船




←フロリダ


←キューバ

←ユカタン半島



メキシコ 1979 発行

スペインのサラマンカ生れのコロナードは、25才で新大陸ヌエヴァ・エスパーニャに渡りコンキスタドールとして、1540年から1542年の間に現アメリカ合衆国領南西部のニューメキシコ、コロラド、アリゾナ、テキサスを探検して、 最後の黄金郷と思われていた”シボラの7つの黄金の都”を発見しましたが、「それは幻に過ぎなかった!」のでした。なお、その探検でコロラド河、グランドキャニオン、リオグランデ河などが発見されました。

フランシスコ・バスケス・ド・コロナード (1510〜1554/9/22)
 Francisco Vasquez de Coronado y Lujan

コロナードはスペインのサラマンカ(Salamanca, Spain)で生まれ、新大陸に大航海して渡り、1535年に当時ヌエヴァ・エスパーニャ(New Spain)と呼ばれていたメキシコメンドーザ副王の側近になり、ビートリッズ・ド・エストラーダ(Beatriz de Estrada)と結婚し5人の子供に恵まれました。そしてニュー・ガリシア(現メキシコのナヤリット州シナロア)総督(adelantado (governor) of Nueva Galicia)になりました。

おりしもスペイン国王カルロス1世から新大陸フロリダの総督に任命されたパンフィロ・ド・ナルバエス(Panfilo de Narvaez, 1470-1528)率いるフロリダ遠征隊(Narvaez expedition 1527-1528)が、1527/6/17にスペインのアンダルシア州カディス県のサンルーカル・デ・バラメダ(Sanlucar de Barrameda)を5隻の船に700人の隊員で出帆しました。1528/4月にフロリダに到着した一行はフロリダのリオ・デ・ラス・パルマス(Rio de las Palmas、現タンパ湾:Tampa Bay)付近海岸で難破し、生存者300人で内陸部を北方へと探検しました。ところが金銀財宝は見つからす、その上に現地人の襲撃で難渋して、4隻の筏で海へ出ましたが、再びハリケーン(嵐)に遭い2隻が沈んで生存者は80人になりました。その後、陸路でメキシコへと進みましたが、終いには4人の生存者だけが8年かけてメキシコ北西部シナロア州(Estado de Sinaloa)の都市サン・ミゲル・デ・クリアカン(San Miguel de Culiacan)へ辿り着きました。その中にカベサ・ド・ヴァカとムーア人のエステバン(Estevanico, 1503-1539:ベルベル人の奴隷)がいました。

その頃、フランスのニース生れのフランシスコ会修道士マルコス・ドゥ・ニサ(Fray Marcos de Niza 1495-1558)が1531年に新大陸アメリカに渡ってきて、ペルー、グアテマラ、メキシコで熱心な布教活動をした後、メンドーザ副王にカベサ・ド・ヴァカの見聞物語「難破」の中に莫大な財宝があると描かれていた「ソノラ州北方の国」の探検を命じられました。マルコス修道士はムーア人のエステバンのガイドで、1539/3月にクリアカン(Culiacan)を出発し、米国アリゾナ州南東部を横切り、その「北方の国」を望見し、伝説の「シボラの七都市」(Seven Cities of Cibola)だと確信して、1539/9月にクリアカンに戻りました。マルコス修道士は見聞きした物語を「見聞録」(Descubrimiento de las siete ciudades)に記述し発刊しました。マルコス修道士はシボラを遠くから見ただけで、シボラがメキシコシティと同じ程度の大きさで、シボラ(Cibola)と呼ばれる黄金の都市であると記述しました。マルコス修道士の話を聞いたメンドーザ副王は、1539/11/17にメルキオル・ディアズ(Melchor Diaz、生年不詳-1541/1)をシボラへと騎兵15人が率いる遠征隊で出発させました。チチルチカリ(Chichilticalli)の廃墟で雪と強風(砂嵐)にはばまれてで引き返すことになり、ディアズは残り、仲間はクリアカンに、1540/3/20に戻ってメンドーザ副王に報告しました。ディアズは戻る途中のコラゾネス(Corazones)谷で滞在後に1541/1月頃に亡くなりました。

コロナード総督はマルコス修道士の見聞録を読み話を聞き、大いに興味を抱いて黄金を手に入れようと思い、ビートリッズ夫人の実家から70,000ペソ以上を借金して準備にとりかかりました。1540年に、フランシスコ会のメキシコ管区長に任命されていたマルコス神父とムーア人エステバンのガイドでの探検遠征隊をメンドーザ副王の承認のもとで、スペイン人335人、インディオ同盟者300人、現地人インディオと黒人奴隷1,000人、フランシスコ会管区長ファン・ド・パディリャ神父(Father Juan de Padilla 1500-1542)と3人の修道士(Franciscan monks)の一行からなる1600人以上の遠征隊に組織しました。

1540/2/23にコロナード遠征隊(Coronado's expedition 1540-1542)はニューガリシアのコンポステラ(Compostela)を出発しました。コロナード総督はコルテス海(Sea of Cortez、カリフォルニア湾:Gulf of California)をソノラ州(Sonora)の西方沿いに進み、1540/3/28にクリアカン着、1540/4/22に隊を分けてクリアカンを出発し、1540/9月にメルキオル・ディアズと70〜80人の弱った者をサン・エロイモ(San Hieronimo)に残しました。1540/4/22にシナルカ(Cinaloa)へと出発しました。アリゾナのコロナード国立森林(Coronado National Forest)のチリカファ山脈(Chiricahua Mountains、最高峰2,975m)に到着。コロラド川と合流するヒラ川(Rio Gila、1,014km、コロラド川支流)を合流点付近で渡り、モゴロン・リム(Mogollon Rim)着。リトルコロラド川(Little Colorado River、アリゾナ州を流れるコロラド川水系でペインテッド砂漠からの約507km)のズーニー川(Zuni River 145km、リトルコロラド川支流)沿いに進んで、ソノラ(Sonora)で上流に向かい、ヒラ川を横切って現在のニューメキシコ西部のズニ・プエブロ(Zuni Pueblo, New Mexico)にあるシボラ(Cibola)に到着しました。そのシボラはマルコス修道士が語ったような巨大な黄金都市ではなく、単なるズーニー族(Zuni)のプエブロ(Pueblo、メキシコ北部と米国南西部、特にニューメキシコ州やアリゾナ州に残るインディアンの伝統的な共同体・集落)にしかすぎない貧しい村落で、黄金はありませんでした。コロナード総督は失望し、マルコス神父は失意の内にメキシコに戻されました。マルコス修道士は、1541年に首都メキシコシティに戻り、1558年(63才)に亡くなりました。

コロナード総督はシボラの村落を征服し、他の6つのズーニー族のプエブロを調査しましたが金銀財宝は見つかりませんでしたので、各地へ様々な遠征隊を派遣しました。メルキオル・ディアス(Melchor Diaz)は、コロナード遠征隊に補給を行っているヘルナンド・ド・アラルコン(Hernando de Alarcon)の船団に会うためにコロラド川の河口に派遣されました。ペドロ・ド・トヴァー(Pedro de Tovar)は北西部に派遣され、西部に大河があるとの情報を得てシボラに帰還しました。

ドン・ガルシア・ロペス・ド・カルデナス(Don Garcia Lopez de Cardenas)はコロナード総督の命で、その大河を発見し黄金を見つけるために、1540/9月にシボラを出発しました。当時はスペイン領だったその地域を探検し、3分の1程サウス・リム(South Rim)を下り、河の水が無くなったために上流に戻り、80日に及ぶ苦しい旅程の後にグランド・キャニオンと、その南端(South Rim)からコロラド河(Colorado River 2,330km)を望見した最初のヨーロッパ人となりました。ところが、さらに進むこと20日の後に出会った原住民のホピ族(Hopi)が「金は出ない」と語ったので、カルデナス遠征隊はシボラへ戻りました。それ以降、その地域はヨーロッパ人から忘れ去られました。

ヘルナンド・ド・アルバラード(Hernando de Alvarado)は東部に派遣され、リオ・グランデ河(Rio Grande River 3,057km)の周りに村落を発見しました。コロナード総督はティグー(Tiguex、現ニューメキシコ州アルバカーキ(Albuquerque, New Mexico)近くのベルナリオ(Bernalillo County、郡)に冬期用幕舎を設営し越冬して、冬期間はインディアンによる攻撃に苦しみました。1540年にコロナード遠征隊と原住民との間で「ティグー戦争」の戦いが起りました。

コロナード総督はターク(Turk)と呼んだ原住民のインディアンに出会い、タークはキビラ(Quivira)という北西の豊かな国についてコロナードに話しましたので、タークをガイドにしてキビラを探すことを決定しました。彼はリャノ・エスタカード(Llano Estacado)と呼ばれる広大なメサ(Mesa:ニューメキシコ州東部とテキサス州北西部の一部を取り囲む台地)と現テキサス州東北部を横断し、北に向かって進みました。ところがタークが経路を偽りましたので、コロナードはタークを処刑しました。コロナード総督は他のガイドを立てて、さらにキビラを探し、ついに現カンザス州リンズボーグ付近の原住民の村”キビラ”に到着しました。キビラの原住民(ウィチタ族)は貧しく、村は藁葺きの小さな小屋ばかりで、少しの黄金さえ見つけることができませんでした。キビラ(村落)を探検の最東端として、コロナード総督はティグーに戻りました。本隊はそこに留まり、再び越冬しました。

1542年にコロナード総督は同じルートを通ってメキシコに戻りました。遠征隊員の内100人だけが一緒に帰還できましたが、遠征は完全な失敗でした。コロナード総督は1544年までニュー・ガリシアの総督を務め、辞任して首都メキシコ・シティに移り、首都で1554年に44才で亡くなりました。

コロナード絶頂(Coronado Heights)と呼ばれる丘がリンズボーグ(Lindsborg, Kansas)北方の近くにあります。現在コロナードの遠征を記念した小さなオベリスクが建てられています。

参考:〜
グランド・キャニオン
 Grand Canyon

こちらでグランド・キャニオンをお楽しみください。

ティグー戦争の戦い
  Battle of Tiguex Wa
r 1540-41
スペインのコロナード遠征隊とティワ族(Tiwa Indians)12村落(12 pueblos)との「ティグー戦争」(Tiguex War 1540-41)の戦いがリオ・グランデ河(Rio Grande River 3,057km)の河畔ベルナリオ(Bernalillo, New Mexico)で起りました。
ニューメキシコの風景
リャノ・エスタカード、メサ

シボラの七都市
  Seven Cities of Cibola


参考HP:〜
 ・スペイン・サラマンカの場所地図
 ・Nueva Espanaの地図
 ・Nueva Galiciaの場所地図
 ・クリアカン(Culiacan)の場所地図(シナロア州)
 ・コロナードの探検地図(1540-1542)
 ・コロナードの探検地図(詳細)
 ・コロラド川の地図
 ・ヒラ川の地図
 ・リオ・グランデ河の地図
 ・ナルヴァエズ遠征隊の探検地図
 ・世界遺産グランドキャニオンの場所地図
 ・メキシコの州別地図
 ・アメリカの州別地図
 ・アメリカの州別地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/9/9、12/11/15、2017/2/27

スタンプ・メイツ
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