Netherland

国連 1989 発行
 切手で綴る カリブ海の島国シリーズ No.13(Dutch Islands)
シント・ユースタティウス
 Sint Eustatius Island

大航海物語
  地図編

NEDERLANDSE ANTILLEN

1666 ロイテルのセント・ユースタティウス島訪問300年記念 1966
オランダ領アンティール 1966/6/19 発行

シント・ユースタティウス島
 Sint Eustatius Island(英:Saint Eustace)
オランダ
 別名サン・スターティア島(Saint Statia Island)
・面積:約21ku日本の愛媛県松山市中島(約21ku、人口:2,938人2015)とほぼ同じ
・人口:約2,498人2004、約3,100人2006、約4,020人2013
・通貨:アメリカ合衆国ドル(旧:アンチール・ギルダ−(ANG)Netherlands Antillean guilder)
・中心地:オラニェスタッド(Oranjestad,英:オレンジタウン:Orangetown) 2,292人2001。

シント・ユースタティウス島はカリブ海リーワード諸島にあって、西にあるサバ島、北にあるシント・マールテン島とともにオランダ領のいわゆるSSS諸島の一つで、かつてはともにオランダ領アンチールを構成していました。火山性の小島でサバ島の南にあり、セントクリストファー・ネイビスのセントクリストファー島の西北近くにあります。島で一番高い所はクイール山(Mt. Quill、別名マジンガ山:Mt. Mazinga, 601m)で、アフリカ系の黒人がほとんどで、残りはヨーロッパ系白人と、黒人や白人及び先住民アラワク族との混血など。ヤムイモ、サツマイモなどを生産。

シント・ユースタティウス島は先住民のアラワク族が住んでいた所へ
1493 コロンブスが到達・発見
1625 フランス人が入植
1632 オランダ領
1636 オランダ西インド会社のゼーラント支社が植民地化
1666 オランダロイテル提督がオランダ艦隊とともに訪問
1678 サバ島、シント・マールテン島と共にオランダ西インド会社の直轄地となる
行政官(commander)がシント・ユースタティウス島に駐在してこれら3島を統治
砂糖の生産地となり、プランテーションの労働力としてアフリカ黒人奴隷が移入される
1776 /11/16、米独立を祝してオラニエ砦の礼砲で米艦アンドリュー・ドリア号を歓迎
1780 10月グレートハリケーンで島は壊滅的な被害を受け、犠牲者4000人以上
1781 セインツの海戦の前哨戦で、2/3ロドニー艦隊が攻撃、島が降伏して占領され
占領後まもなく島のユダヤ人たちは24時間の猶予を与えられたのみで強制追放され、
ユダヤ教会シナゴーグはロドニー提督によって放火・破壊される
10ヵ月後、フランスによって島は占領される
1784 オランダに戻る
1816 オランダ領、確定
その間に22回も島の領有をめぐっての争奪戦が繰り返される
1818 サバ島、シント・マールテン島とでシント・ユースタティウス植民地となる
1828 キュラソーとともにパラマリボを首都とする西インド植民地に統合
1845 西インド植民地は分割され、キュラソー植民地の一部となる
1939 アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が戦艦ワイオミングで島を訪問
アメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたシント・ユースタティウス島総督を表敬訪問
1946 空港が開港して、F・D・ルーズベルト飛行場と命名
1954 オランダ領アンチール
2010 オランダ領アンティルが解体され、オランダの特別自治体となる
2018 オランダの直接統治が決定。

島の中心地であるオラニェスタットは18世紀に商業の中心地で「ゴールデンロック」(経済的な繁栄のピークは1795年ごろ)として知られているも、1795年のフランスの占領はシントユースタティウスの大繁栄の終わりの始まりで、島の繁栄はその後停滞し価値は無くなりました。オラニェスタートは現在でも半分海に浸かりながら、残る昔の商業地区の建造物や倉庫跡は当時の繁栄を物語っている。

シント・ユースタティウス島は、アメリカ独立戦争(American Revolutionary War, 1775/4/19-1783/9/3)時に、武器や弾薬をアメリカ独立派へ販売して、13植民地の独立派にとって貴重な武器の供給地であった。1776/7/4、アメリカ独立宣言が採択され、独立宣言を携えた大陸海軍所属のブリッグ(帆船)アンドリュー・ドリア号 (Andrew Doria, 1775 brig) は、1776/10/23に出港、11月16日にシント・ユースタティウス島に到着した。島の総督ヨハネス・デグラーフ (Johannes de Graeff) は、アンドリュー・ドリア号に対してオラニエ砦から礼砲を放った。これはアメリカ合衆国がはじめて国際的承認を受けた出来事で、アメリカ合衆国では「最初の礼砲」(First Salute)といわれている。 アメリカ独立戦争

ドミニカ 1978 発行
この出来事については歴史家バーバラ・タックマンが1988年に発表した「最初の礼砲―アメリカ独立をめぐる世界戦争」(The First Salute: A View of the American Revolution)で描いている。こうしたシント・ユースタティウス島の対米貿易は、第四次英蘭戦争 (Fourth Anglo-Dutch War, 1780-1784) 開戦の大きな理由となった。

参考HP:〜
シント・ユースタティウス島の地図
シント・ユースタティウス島の場所地図

こちらで
・オランダ領アンチール諸島
・オランダ領キュラソー島
・フランス領サン・マルタン
・フランス領サンバルテルミ島
世界遺産
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
パルテノン神殿ギリシャ
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/10/182021/8/11
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