Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍の提督 No.4
デ・ロイテル提督
1653
オランダ海軍司令官

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
デ・ロイテル提督


オランダ 1943-44 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行



NEDERLAND
オランダの地図

オランダ 1972 発行

デ・ロイテル提督(M.A.DE RUYTER)

1607 ロイテル生誕300年記念 1907
オランダ 明治40年 1907 発行
NEDERLAND
オランダの戦列艦、砲80、1666
デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号


オランダ 1957 発行

REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL
海戦の図

赤道ギニア 1975 発行

デ・ロイテル提督は第1次・第2次・第3次の蘭英戦争で縦横無尽に活躍して英仏連合軍のオランダ上陸を阻止しました。69才でスペイン軍支援へ往いてシシリー島沖のオーガスタの海戦で砲弾にて致命傷を負い、1 週間後にシラクサ(Syracuse, Sicily Island, Italy)で亡くなり、遺体はアムステルダムに戻って国葬にて新教会(Nieuwe Kerk Church)に埋葬されました。
・蘭提督ルテナント・アドミラル・ジェネラル・ミヒール・アドリアエンスゾーン・デ・ロイテル中将
  (Lieutenant Admiral General, Michiel Adriaenszoon de Ruyter, 1607/3/24-1676/4/29)
デ・ロイテル提督はスペイン領オランダのジーランド州フリシンゲン(Vlissingen, Zeeland province, Spanish Netherlands, 1556-1714)で船員の子供として生まれました。ジーランド州では通常11才から海にでるのが普通だったのでデ・ロイテル少年も11才になると、ボ−スン(水夫長:Boatswain)見習いで船に乗り、商船・捕鯨船・私掠船に乗り組んで豊富な経験を積みました。1631/3/16に農家の娘マイケ・ベルダース(Maayke Velders)と結婚して、1631/12/31に娘が生まれて亡くなり、子供も間もなく亡くなりました。1636年夏に裕福な市民の娘ニールチェ・エンゲルス(Neeltje Engels)と再婚して最初の子供は直ぐ亡くなり、後に3人の子供アドリアエン(Adriaen, 1637)ニールチェ(Neeltje, 1639)エルケン(Aelken,1642:エンゲル説有) が誕生しました。1637年にオランダ反乱(八十年戦争:1568-1648)の 水夫長見習い少年

ジャージー 1985 発行
間にフランスのオー・ド・フランス地域ノルド州ダンケルク区ダンケルク港(Dunkirk Port, Nord Department, Hauts-de-France Region, France)から出帆してオランダ商船を襲撃していたスペインの私掠船ダンケルカー(Dunkirkers)ダンケルク艦隊の取り締まりの任務に従事するために武装商船々長になって、1640年までこの任務を遂行しました。1641年34才でオランダのジーランド海軍本部からオランダ海軍々艦ヘイズ号(Haze 26gn)の艦長に指名されました。
第1次蘭英戦争
(1652-1654、45才勃発)では司令官トロンプ提督のもとで副司令官を務め、各地の海戦で目覚しい活躍をしました。1653年トロンプ提督の没後、オランダ海軍の司令官に昇進しました。戦後は地中海方面の海賊船や私掠船の掃討作戦に従軍して指揮しました。また、仏ダンケルク解放(ダンケルクの海戦(Action of 18 February 1639/2/18)、ポルトガルの海上封鎖(ポルトガル王政復古戦争, 1640/12/1-1668/2/13)、スェ−デンへの遠征(第二次北方戦争,1655-1660)などと大活躍をしました。1664年にはアフリカのシエラレオーネのタッソ島にあるイギリス城砦をデ・ロイテル提督率いるオランダ艦隊が攻撃しました。第2次蘭英戦争(1665-1667、58才勃発)ではオランダ海軍提督に就任し、”四日海戦”や、”テームズ河の奇襲”などで勝利しました。1666/6月、デ・ロイテル提督率いるオランダ艦隊がイギリスの海岸に迫り、これを迎え撃つモンク提督指揮のイギリス艦隊との間で極めて激しい戦闘が展開されました。このノースファランド沖の海戦は4日間にわたって激戦が続いたので4日海戦といわれるようになりました。4日目の戦闘ではデ・ロイテル提督の指揮するオランダ艦隊が、イギリス艦隊の中央にあったモンク艦隊めがけて突進してイギリス軍艦20隻を撃沈・6隻を捕獲しましたが、オランダ艦隊の損害は4隻が沈没しただけで、オランダ艦隊の大勝利となりました。敗北したイギリス艦隊はモンク提督の優秀な指揮のもと、混乱することもなく艦隊の規律を維持し続けて退却することができました。第3次蘭英戦争(1672-1674、65才勃発)では英仏を敵にまわして戦い、1673年には英仏連合軍がオランダへの上陸を試みましたが、デ・ロイテル提督の率いるオランダ艦隊が撃退して上陸を阻止しました。1675年スペインへの援助のため地中海でフランス軍と戦い、翌年4月シシリー島沖オーガスタの海戦(1676/4/22)で重症を負って一週間後に亡くなりました。生前にフランスからは聖ミカエル勲章(Order of Saint Michael)を、スペインやデンマークからは貴族の、オランダからは提督・将軍の称号を贈られました。

<デ・ロイテル提督の主な従軍戦歴:1637〜1676>
・八十年戦争(Eighty Years' War, c1566/1568-1648)
 ・ベルゲン・オプ・ゾーム包囲戦(Siege of Bergen op Zoom, 1622/7/8-1622/10/2)
・オランダ・ポルトガル戦争(Dutch Portuguese War, 1602-1663)
・ポルトガル王政復古戦争(Portuguese Restoration War, 1640/12/1-1668/2/13)
 ・セントビンセント岬の海戦(Battle of Cape St. Vincent, 1641/11/4)
・第一次蘭英戦争(1652-1654)
 ・プリマスの海戦(1652/8/16)
 ・ケンティッシュ・ノックの海戦(1652/9/28)
 ・ダンジネスの海戦(1652/11/30)
 ・ポートランド沖の海戦(1653/2/18)
 ・ガッバードの海戦(1653/6/2)
 ・スヘフェニンゲンの海戦(1653/7/31)
・第二次北方戦争(Second Northern War, 1655-1660)
 ・ダンツィヒ包囲戦(Siege of Danzig, 1655-1660)
 ・ナイボルグの海戦(Battle of Nyborg, 1659/11/14)
・第二次蘭英戦争(Second Anglo-Dutch War, 1665-1667)
 ・バルバドスの海戦(Battle of Barbados, 1665/4/29)
 ・四日海戦(Four Days' Battle, 1666/6/1-6/4)
 ・セントジェームズデーの海戦(St. James's Day Battle, 1666/7/25)
 ・メドウェイの襲撃(Raid on the Medway, 1667/6/19)
 ・ランドガード砦の戦い(Battle of Landguard Fort, 1667/7/2)
・仏蘭戦争(Franco-Dutch War, 1672/4/6-1678/9/17)
 ・ソールベイの海戦(Battle of Solebay, 1672/6/7)
 ・スホーネヴェルトの海戦(1673/6/7 & 6/14)
 ・テクセルの海戦(1673/8/21)
 ・マルティニークの侵略(Invasion of Martinique, 1674/7/19-7/21)
 ・ストロンボリの海戦(Battle of Stromboli, 1676/1/8)
 ・オーガスタの海戦(Battle of Augusta, 1676/4/22)重傷を負った後に没。
・子息
 ・中将エンゲル・デ・ロイテル(Vice-admiral Engel de Ruyter, 1649/5/2-1683/2/27)。

※称号:ルテナント・アドミラル・ジェネラル
 (Lieutenant Admiral General)提督・将軍
この称号は他の中将(Lieutenant Admiral)と区別するため将軍(General)をつけたもので、
デ・ロイテル提督とトロンプ提督(父)にだけ授与されました。

・デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号の装備:〜
  De Zeven Provincien
、1665
   オランダ(ロイテル)艦隊の旗艦、(Seven Provinces:7つの州)
船 型 オランダ戦列艦(Dutch ship of the line) デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号

オランダ 1957/7/2 発行
帆 柱 3本
全 長 46m
全 幅 12.2m
喫 水 4.6m
重 量 (1000屯、推定)
乗組員 (300人、砲兵80人、兵120人、推定)
進 水 1665年、ロッテルダム(Maas Rotterdam)
最 後 1694年、数々の海戦で傷んで解体処理
武 装 36-pdr砲12門、24-pdr砲16門=下甲板
18-pdr砲14門、12-pdr砲12門=上甲板
06-pdr砲26門=艦首楼甲板(forecastle、8)、後甲板(quarterdeck、12)
          艦尾楼甲板(poop deck、6)、合計:砲80門
デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号は第2次蘭英戦争(1665-67)で旗艦となり、「4日海戦」でマストを失うも勝利、「セント・ジェイムズの海戦」は苦戦の末に敗戦、「メドウェイ川襲撃」でテムズ川封鎖に成功など多くの戦果を挙げ、第3次蘭英戦争(1672-1673)も旗艦、イングランドとフランスを相手にした「ソールベイの海戦」、「スホーネヴェルトの海戦」2回、「テセル島の海戦」の4つの主要な海戦にも従軍。

参考HP:〜
オランダの地図(1672)
オランダの区分地図(フランスの進撃図、1672)

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成22年 2010/6/27追記、令和5年 2023/4/25
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止