★スペイン バルボア
1510、ダリエンを建設
1513、太平洋を発見
大航海物語★

ESPANA
ヴァスコ・ヌーニェス・ド・バルボア

新世界の建設者
Builders of the New World

スペイン 1963/10/12 発行
PALAU

パラオ 1992/5/25 発行
PANAMA
新世界へ航海するスペインの船隊

バスチダス船隊で新世界に渡航
パナマ 1968/5/7 発行
VENEZUELA
パナマ付近の地図

グラン・コロンビア150年記念
ヴェネズエラ 1969/12/16 発行
ベラルカサ| COLOMBIA
ケサーダ

1555 ボゴダ市建設400年記念 1955
コロンビア 1955/10/29 発行
バルボア
Republica de Panama
バルボア、太平洋を発見

パナマ 1942 発行
US POSTAGE
バルボア

パナマ太平洋博覧会記念
USA 大正1年 1913 発行
 
COOK ISLANDS
バルボアが太平洋を発見

16世紀の探検航海者5種sets
クック諸島 1975/2/3 発行
NORFOLK ISLAND
バルボア、太平洋、バルバラ号

Balboa first sighted
the Pacific Ocean
from the Isthmus Panama 1513

ノーフォーク 1994 発行

バルボアは25才でスペインから大西洋を越えて中央アメリカに赴き、1513年に太平洋を発見しましたが、同地で処刑されて44才頃に亡くなりました。

ヴァスコ・ヌーニェス・ド・バルボア
 Vasco Nunez de Balboa (1475頃〜1519/1/15)

  生地:スペインのエストレマドゥラ州バダホス県ヘレス・デ・ロスカバジェロス生
  没地:パナマのサン・ブラス、44才頃没
  肩書:探検家(エクスプローラー)、総督(ガヴァナー)、征服者(コンキスタドール)、
      居留地建設者(ファウンダー)、辺境未開地総督(アデランタード:国王下賜の称号)
      (Explorer, Governor, Cconquistador, Colonial settlement founder, Adelantado)
      (El Adelantado of the South Seas:南の海の辺境総督)
バルボアはスペインのエストレマドゥーラ州バダホス県々都バダホス市ヘレス・デ・ロスカバジェロス(Jerez de los Caballeros, Badajoz, Province of Badajoz, autonomous community of Extremadura, Spain)の由緒ある貧乏貴族の家柄で、4人兄弟の3番目に生まれました。少年時代はアンダルシア州ウエルバ県のモグエル卿ペドロ・ド・ポルトカレノ(Don Pedro de Portocarrero、lord of Moguer, 1600没)コルドバ司教(Bishop of Cordoba 1594-1597)で大尋問官Grand Inquisitor 1596-1599)にペイジ(page:小姓)、そしてエスクワイア (esquire:従者)として仕えていました。

1500年25才(※)で、故郷での貧しい生活に見切りをつけ、新大陸に渡る決心をして、ロドリゴ・ド・バスティダス指揮の探検艦隊に参加、ベネズエラからコロンビアそしてパナマの東海岸北部にかけての沿岸地方を探検した後、現地(ティエラ・フィルメ:Tierra Firme)で解散しました。バルボアはイスパニオラ島に渡り、サント・ドミンゴ市で農場経営を始めましたが、成功せず多大の借金を背負ってしまいました。(※1501年の説も有)

また、バステイダスの一行の内、アロンソ・ド・オヘーダディエゴ・ド・ニクエサはバステイダスが探検した地域を植民する権利をスペイン王室から獲得しまし
パナマ付近の地図
た。オヘーダは1509年末に300人を率いてコロンビアの北部海岸地帯を目指して出発。ニクエサは700人を超える人員を率いてパナマ地峡地帯へ向かいました。しかし2、3ヵ月もたたない内に、両隊共にインデイオの襲撃や病気や食料不足のため仲間をどんどん失い、ついには双方の人員を合わせても100人に満たない有様となりました。オヘーダはマルテイン・フェルナンデス・ド・エンシソの隊を救援隊として派遣することを約して、生き残りの一行をフランシコ・ピサロに預けてイスパニオラ島へ引き返しました。

このような状況の中で、1510年エンシソがデイエラ・フィルメへ救援に到着しました。彼が運んできた樽の中には借金を踏み倒して逃げて来たバルボアが隠れていました。当時35才のバルボアは人生で最も「アブラ(脂)」の乗り切った壮年期であり、肉体・精神共に強健であり、以前の航海と探検で得ていた経験と知識で、その当りの事情にも明るかったので、オヘーダが建設した非衛生的で住みにくい居留地のサン・セバスチャン・デ・ウラバーを引き払って、安全な土地に安全な居留地の建設を提案して、全員ウラバー湾を渡って対岸の地峡地帯へ移りました。そして1510年9月に新しい居留地、ダリエンを建設してサンタ・マリア・ラ・アンチグア・デル・ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)と呼んで、仲間の信望を得て一行の指導者になりました。この新しい居留地ダリエンで、バルボアはオヘーダの代理のエンシソの権限を無視したばかりか、スペインへ送り出してしまいました。残る競争相手のニクエサは地峡地帯で飢えやインデイオノの攻撃に遭って苦闘を続けていたところを救出されダリエンに連れて来られて捕えられ、非情にも浸水の危険の有る老朽船に乗せられて大海に放逐されました。

1510年末のバルボアの地位は本国スペイン(この時はアラゴン王国)のフェルナンド2世からダリエン軍司令官兼総督代理の認証を得ました。その後、バルボアはコンキスタドール(征服者)として活躍し、中央アメリカの海岸線をまず西へそして、内陸部へと征服を広げました。スペインやイスパニオラ島からは増援部隊が到着し、征服基盤が強化される中で、奪い取った黄金の装飾品も増えて行きました。パナマ地峡地帯を探検中に、土地のインデイオから山を越えると南の方向に海が開け、黄金の土地(ペルー)があると聞きました。一方、エンシソはスペインでバルボアを陥れる謀計をめぐらしました。フェルナンド2世はエンシソの話を聞き入れ、ダリエンの総督を老練なペドラリアス・ダビラに替え、1500人からなる大遠征隊を率いて出発させることにしました。

この情報を得たバルボアは自分の立場を守るため、急遽’南の海’発見の途に着きました。少人数のスペイン人と味方になった大勢のインデイオを同行して、パナマ地峡地帯(Isthmus of Panama)の最も幅の狭い所を進み、丘陵地や湿地帯にわけ入って踏破した末に、1513年9月25日にダリエン地帯で最も高い地点にたどり着き、その山頂からバルボアは南へ延び広がる広大な海「太平洋」を望見しました。そしてバルボアはサンミゲル湾の浜辺に下り、水に入り、’南の海’とその周辺の土地をスペイン王に代わって領有すると宣言しました。その近くでは真珠が採 バルボア、太平洋を発見
取され、物質的にも実りある旅を成し遂げました。これでバルボアがヨーロッパ人での最初の太平洋の発見者となった訳です。この朗報を本国に送りましたが、フェルナンド2世はダビラの総督任命の決定は取り消さず、バルボアを新たに、南の海の前線総督とパナマのコイパ総督としました。フェルナンド2世はバルボアからの献上品に満足したので、1514年赴任したダビラは総督とはいえ、以降5年間にわたりバルボアと歩調を合わさざるを得ませんでした。

バルボアはダビラとの確執の後、今一度、自分の力で道を切り開こうとパナマの南海岸でベルガンティン船を4隻建造し征服の航海に出ようとしていた、その矢先にダビラの呼び出しで話合いに行く途中で、国王に対する反逆の罪で、ピサロにより逮捕され、有罪判決の後、1519年1月、断頭台の露と消えました。44才頃でした。なお、バルボアは1515年にペトラリアス・ダヴィラが建設したパナマ北東岸のアクラ(Acla(Guna Yala)現:サン・ブラス San Blas)で処刑されたともいわれていますが、没地と日時は諸説が有ります。ダリエンは1519/8/15にダヴィラがパナマ市を建設すると放棄されました。 ベルガンティンの同型船

モザンビグ 196312/1 発行
なお、スペインの極刑は鉄環絞首刑(ガローテ)だったので、縛首で処刑されたという説もあります。

参考HP:〜
ティエラ・フィルメの場所地図
(インディアス(カスティリャ・デ・オーロ:Castilla de Oro, 1513、赤)地図上に”Tierra Firme”白で表示)
バルボアの探検航海地図(パナマの地図上に、1513年の探検2ルートを表示)
バルボアの場所地図(パナマの地図上の”Balboa”市)
”Salvador Puig Antich” 〜 残酷なガローテという死刑の場面なので注意してください。
 (スペイン映画(YouTube:ス語)「サルバドールの朝」のガローテという縛首の処刑場面)


・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/6/25追記、2017/2/27
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