★スペイン バスチダス
1500
南米北岸を探検航海
大航海物語★

ESPANA
バスチダス

スペイン 1965 発行
Jamaica
コロンブスの第2回航海地図
1493〜1496

往路の航海地図
ジャマイカ 1992 発行
フロリダ→



キューバ島→

ジャマイカ島→





ニカラガ→
コスタ・リカ→
パナマ→
ポルトベロ(赤丸)→

カリブ海沿岸の地図

ジャマイカ 1992 発行
←イスパニョーラ島
←プエルトリコ島






←カルタヘナ(赤丸)
←ギヤナ
←南米大陸


バスティダスはコロンブスの第2回航海に参加し、次いで1499年スペインの航海の自由化で、1500年に大遠征隊をひきいて新世界へと大西洋を横断しました。その探検船隊には、後に新世界の功労者となる人たちが多数参加していました。

ロドリゴ・ド・バスチダス
 Rodorigo de Bastidas (1460〜1527/7/28)

1492年4月コロンブスの権利を守る「サンタ・フェの協約」がスペイン国王イサベラ女王夫妻と締結されていましたが、スペイン国王はポルトガルの東回りインド到達やイギリスによる1497年ヴェネツィア人ジョン・カボットのカナダ・ニューファウンドランド到達などを知り、1499年インディアスへの航海の自由化令を公布しました。そしてこの航海の自由化で、カスティーリヤ国内でも、自費でのインディアスへの航海の許可を求める要望があり、次々に航海が許可され、コロンブスが第4回航海に出る(1502/5/9)までの間に8つの航海が許可されました。

バスティダスの大航海;
1493年コロンブスの第二回航海に参加。
1500年カディスから南米北岸のマグダレナ川の大きな河口に達し、イスパニョーラ島へ航海。
1503年スペインへ戻り、国王に献金をして、家族とサント・ドミンゴに戻る。
1504年イスパニョーラ島サントドミンゴを出帆し、ティエラ・フィルメに航海。
1524年イスパニョーラ島サントドミンゴを出帆し、コロンビアへと航海。

バスチダスは1493年のコロンブスの第2回航海に参加し、スペインに帰港後に自費でのインディアスへの航海を計画して国王に許可を願い出ました。1500/6/5バスチダスはインディアス(新大陸)への航海許可(新大陸で得た富の4分の1を国王に献上することになっていた)を取り付けました。1500年10月バステイダスは大探検船団を編制して、アロンソ・ド・オヘ−ダの遠征から帰ったばかりのファン・デ・ラ・コーサを伴って、スペイン・カスティリャ王国カディス港から新大陸へと出帆しました。そこにはバスコ・ヌーニェス・ド・バルボアが参加しており、バルボアの隊にはフランシスコ・ピサロが参加していました。その船隊はサンアントン(San Anton)号、サンタマリア・デ・ガルシア(Santa Maria de Gracia)号、その他で、カナリヤ諸島のゴメラ島で飲料水の補給をして大西洋を横断、ベネズエラからコロンビアそしてパナマの東海岸北部にかけての沿岸地方で、オヘーダやコーサが1499年の航海で発見していたヴェラ岬からティエラ・フィルメ(Tierra Firme)まで西へと探検航海しました。彼らはカリブ海のシェラネヴァダ・デ・サンタマリア(Sierra Nevada de Santa Marta)の海岸へ上陸しました。それはスペインによる侵略の第1歩となりました。原住民と交易(小さな装身具と交換)して金やパールを得ました。付近を探検航海した後に船団は現地のティエラ・フィルメで解散しました。後日、バスティダスは現サンタマルタの原住民がロス・インディオス・コロナド(los indios coronados)と呼んでいた所に都市を建設し”サンタマルタ”と命名しました。

バスチダスはコーサを伴ってさらに航海を続け、1501年3月コロンビアのマグダレナ川の大きな河口に達し上陸しました。そこは現カルタヘナでコーサが都市建設を提案しました。さらに航海を続けアレナス(Arenas,)諸島に着き、さらに航海を続けて現ダリエン湾デイエゴ・フィルメで上陸し飲料水を補給して、その味の良さにゴルフォ・ダルス(Golfo Dulce)湾(現ダリエン湾)と命名し、またその付近一帯(中央アメリカ・パナマ)の沿岸地方をノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios)と命名しました。その後、熱帯の暖かい海の”船喰い虫”のせいで船体の外皮が痛み、水が漏れ出したので、急遽イスパニョーラ島へ戻ろうとしましたが、あいにくの風でジャマイカ島へ流されてしまいました。そこで応急修理した後、出帆しましたが、今度は嵐に遭って、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴへの航海は無理とコーサが判断して、島の西部のジャラグア(Jaragua、現ハイチ西端)へ向かい、船が沈む前に積荷を降ろすことが出来ませんでしたが、かなりの金やパールなどの財宝を身に着けて持ち出し上陸(1502年)しました。するとバスティダスは富を生存者に分け、少数のグループごとにサント・ドミンゴへ向かい、途中で財宝と食料を交換できて飢えることなく町に到着できました。町に着くとバスチダスは、許可無く原住民と交易した罪で、イスパニョーラ島総督ボバヂィリャ(Francisco de Bobadilla)に捕らえられて牢獄に監禁されました。

1502年4月15日新総督オバンド(Nicolas de Ovando)がサント・ドミンゴに大船団で大勢の移住者(1/3が女性)を伴って赴任してきて、バスチダスは釈放されました。同年6月29日コロンブスが第4回の航海でサント・ドミンゴに到着し、嵐を避けるための寄航(オザマ川での)許可を求めてきましたが総督は許しませんでしたので、翌日に出帆してハリーケーンに遭遇しました。7/1にはオバンド総督が連れてきていた大艦隊の29隻がスペイン・カスティーリャへ向け出帆しましたが、ハリケーンに襲われ大部分の船は大破、沈没して多くの金銀財宝が失われました。その中にはコロンブスの政敵だったボバリヤ(Bobadilla,)やロルダン(Francisco Roldan)などがいて遭難して亡くなりました。1503年にバスティダスはスペインへ戻り、国王に多額の献金をして罪を許されました。彼は家族とサント・ドミンゴに戻って、家畜牧場(8000頭)の経営者になりました。

1504年には2隻の船でティエラ・フィルメに航海して、600人の原住民を捕らえてイスパニョウラ島で売りさばきました。1520年スペイン国王カルロス1世(在位1516−56)はバスチダスにトリニダード総督(Adelantado of Trinidad)の称号を与えましたが、ディエゴ・コロンが、そこは彼の父のコロンブスが発見した土地であるから自分が相続していると抗議・反対して、その権利を得ました。その代わりとして翌年(1521)国王はバスチダスをコロンビアのヴェラ岬からマグダレナ川までの間の総督(開拓定住する権利)に任命しました。

1524年バスチダスは5隻のカラヴェル船に450人の移住者を乗船させて、イスパニョーラ島サントドミンゴを出帆し、コロンビアへと航海しました。1524年7月29日彼はサンタ・マルタ市を建設しました。その付近で原住民の村を発見したので、彼らをもてなして友好的な絆を作るように命じました。そして交易をして金を手に入れましたが、その分け前での内輪もめがもとで反乱が起こり、バスティダスは夜に寝ている時に毒矢で打たれましたが、幸い一命をとりとめ、反乱者らを逮捕処刑しました。しかし身体の不調が続きましたので、サント・ドミンゴへ戻ろうと出帆しましたが、折悪しく順風に恵まれず、キューバへ流されサンチャゴ港に入港し上陸しました。そこでの介抱の甲斐も無く、バスチダスはサンティアゴ市で”反乱の毒矢がもと”で67才で亡くなりました。遺体は彼の息子がサント・ドミンゴへ移して手厚く葬りました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。
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