★ポルトガル ルイス・デ・カモンイス
1547
セウタの戦い従軍
大航海物語★

ESTARD da INDIA Republica Portuguesa

ポルトガル領インド 1945/5/28 発行
セウタの戦い

1524 カモンイス生誕400年記念 1924
ポルトガル 大正13年 1924/11/11 発行

ESPANA
14世紀の海図 地中海西部の地図


イベリア半島




北アフリカ





ジブラルタル海峡→
    タンジール→

イベリア半島

北アフリカ

突き出している所が
←ジブラルタル
セウタ
スペイン地理学会議
50年記念

スペイン 1974/1/26 発行
地中海西部の地図とジブラルタル海峡
スペイン南部の三角網状況を示す地図切手

スペイン 地図測量制度100年記念 1970/10/20 発行

Mozambique
ポルトガル船、1511

ポルトガル領モザンビーク 1963/12/1 発行
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行

ポルトガルの伝説的な国民的叙事詩人で、ポルトガル詩聖の1人。ジョアン3世に仕え、1547年セウタへ行き、ムーア人との戦争に従軍して右目を失いました。上記右の切手にはその戦闘が描かれています。29才でインドに行き、17年間にわたる数奇な海外生活をゴア、マカオ、モザンビークでおくった後、無一文でポルトガルへ帰り、その間に書き上げていた代表作の叙事詩”ウス・ルジ−アダス”1572年にリスボンで出版して大成功しました。
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス (1525頃〜1580)
 Luis Vaz de Camoes

カモンイスはポルトガルを代表する叙事詩作家で、”ウズ・ルジーアダス”(OS LVSIADAS 1572年、ルシタニアの人々、または、ルススの子孫達の意味で、”ルスス”とは古代ローマ人がポルトガル周辺をルシタニアと呼んだ語源となった神話的英雄のこと)が代表作です。この中でポルトガルの探検航海者達のことを歌い上げていますが、なかでも1498年にインド航路を開拓した”ヴァスコ・ダ・ガマ”を英雄的に歌い上げています。スペインのセルバンテスはこの叙事詩を”ポルトガルの宝”と呼んだと言われています。イタリアのルネッサンス叙事詩の手法に従い10編に分わかれた1102のスタンザ(詩節)から成り、8連詩で書かれているとされています。

カモンイスの両親はコインブラ出身であったことは分っていますが、彼の出生地は不明で、色んな町が出生地の名乗りをあげています。リスボンが最も有力で、コインブラがその次だと言われています。生まれたのは1524年とされていますが、1517年説も有り、爵位の無い下級貴族であったそうですが、謎の多い人物です。ダ・ガマとは縁戚関係があったとも言われています。青少年時代は学都コインブラで過ごし、同地の大学で学びました。詩の中でコインブラでの生活を懐かしく追憶しており、ここで学んだ事を誇りに思っていたことを伺わせています。1543年(19才)頃リスボンに出て、大貴族のリニャレス伯爵ドン・フランシコ・デ・ノロニャの後援を得ることが出来、伯爵の息子ドン・アントニオの友人となり、慣習で家庭教師となり、ジョアン3世の宮廷へも出入りしました。この頃のカモンイスは伝説に包まれていますが、貧乏貴族の適職であった軍務に就いて、1547年(23才)まで北アフリカへ行っていた事は確かです。ポルトガルの最も重要な貿易中心地で軍事基地でもある”セウタ”の駐屯部隊で軍務に服して、「ムーア人との戦い」に従軍して右目を失いました。彼が何故”セウタ”へ行ったかについても謎に包まれていますが、彼の叙事詩から「恋愛事件により宮廷から追放された」といわれています。お相手は”ドナ・カテリナ・デ・アタイデ”といわれ、詩編の”ナテルシア”だとされています。

その後、カモンイスはポルトガル・リスボンに戻りました。謎の多い彼の生涯で最初の公式記録がこの時期に残されています。それはリスボンで発行された1553/3/7付(29才)国王サイン入りの”ルイス・カモンイスへの赦免状”です。それによるとカモンイスは貧乏であったが宮廷に出入りできる騎士で、1552/6/16(キリスト聖体の祝日、27才)に宮廷内で剣を抜き、出入り職人を傷つけたかどで逮捕されました。職人はその後結局彼を許しましたので、赦免が裁可されたのでした。そしてカモンイスがインドへ出発する事を伝えています。彼は後に手紙(インドからの4通の手紙が現存)で、リスボンでの生活を「全くの嫉妬に基づいた中傷と奸計と悪意の3000日」と書いています。

その後、カモンイスはポルトガル・リスボンに戻りました。謎の多い彼の生涯で最初の公式記録がこの時期に残されています。それはリスボンで発行された1553/3/7付(29才)国王サイン入りの”ルイス・カモンイスへの赦免状”です。それによるとカモンイスは貧乏であったが宮廷に出入りできる騎士で、1552/6/16(キリスト聖体の祝日、27才)に宮廷内で剣を抜き、出入り職人を傷つけたかどで逮捕されました。職人はその後結局彼を許しましたので、赦免が裁可されたのでした。そしてカモンイスがインドへ出発する事を伝えています。彼は後に手紙(インドからの4通の手紙が現存)で、リスボンでの生活を「全くの嫉妬に基づいた中傷と奸計と悪意の3000日」と書いています。

1553年3月(29才)カモンイスはサン・ベント号に乗船、6ヶ月かかって同年9月に”ポルトガル領インド”の商業、軍事上の首府であった”ゴア”に着きました。しばらく滞在して、インド副王ドン・アフォンゾ・デ・ノロニャのマラバル攻略が始ると同行しました。1553/11”マラバル香料王”の討伐遠征隊に副王がゴアを出発し、勝利を収めて帰ってきました。カモンイスは後年、詩編”悲歌第6”に「我々は死と火の劫罰を下した」と歌っています。1554年2月(30才)には副王の部下のドン・フェルナンド・メネゼスの指揮での探検航海に参加しました。艦隊は紅海に向って出帆、アラビアの沿岸を帆走しました。彼は後に”歌集第8”の中で、この旅を追想しているといわれています。遠征隊は紅海には入らず、11月にゴアに戻りました。1555年6月(31才)には新総督フランシスコ・バレドがゴアに就任し、カモンイスはその祝宴で叙事詩”フィロデモ”と”試合の風刺”を贈ったとされています。1558年にはマカオへ行き、ポルトガル人死亡者や不在者の中国での財産を管理をしていましたが、まもなく財産管理に失敗して告訴され、船でゴアへ送られました。1561年(37才)ゴアに着くと投獄されました。







★カモンイス物語 ルイス・デ・カモンイス
1567
ゴアからモザンビークへ
大航海物語★

ESTARD da INDIA
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス
Mozambique
モザンビーグ島、1572
ANGOLA
コンゴ河々口に停泊するガレオン船
1569 モザンビーク訪問400年 1969
ポルトガル領モザンピーク 1969/6/10 発行
1572 ウス・ルジ−アダス400年記念 1972
ポルトガル領モザンビーク 1972/5/25 発行

Mozambique
現在のモザンビーグの地図

ポルトガル領モザンビーク 1972/5/25 発行
Mozambique
モザンビーグ島古地図、1572

1569 カモンイス訪問400年 1969
ポルトガル領モザンピーク 1969/6/10 発行
ANGOLA
アンゴラの古地図とペレイラ総督

1617 ベンゲラ350年記念 1967
ポルトガル領アンゴラ 1967/5/13 発行

幾多の変遷の後、1567年に友人のペドロ・バレトがモザンビーク総督に就任したので、一緒にモザンビークへ行きました。同地での2年間は友人たちの施しで生活したと言われています。1569年11月(45才)歴史家ディオゴ・デ・コートたちの援助で、サンタ・クララ号に乗船、ようやくのこと故国へと出帆し、1570/4/7(46才)に17年ぶりにポルトガル・リスボンに帰ることが出来ました。

カモンイスは無一文で帰国し、”ウス・ルジ−アダス”の原稿だけが唯一の荷物だったと言われています。直ぐにも出版したかったのですが、当時リスボンではペストが大流行していました。何とか国王の出版許可を1571/9/24にとりつけ、翌年出版にこぎつけ大成功を収めました。彼の作品が国民的叙事詩であると認めたセバスチャン国王は、彼に年金を贈りました。1580年には2回目のスペイン語訳が発行されるにおよび、年金は更新され1580/6/10(55才)の彼の死去後は母親に引き継がれました。スペイン語訳詞は彼自身が書いたとも言われ、1580年のスペインによるポルトガル併合直前に亡くなっています。リスボンのアンナ教会に手厚く埋葬されましたが、1755年のリスボン大地震で破壊されました。

モンイスの”ウス・ルジ−アダス”に歌い上げられている人物:〜
ヴァスコ・ダ・ガマ
ガルシア・デ・ノローニャ
コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/7/7追記
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止