★ポルトガル コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ
1558〜1561

インド副王
大航海物語★

ESTADO da INDIA
ブラガンザ副王

ポ領インド 1956/3/24 発行
MOZAMBIQUE
ポルトガル・ナオ船、1520

ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行

インド洋の地図

SULTANATE of OMAN
オマーン 1981/11/23 発行
ダマンの地図

ポ領インド 1956/3/24 発行

ポルトガル貴族出身のブラガンザは19才で国王の慶祝大使としてフランスに渡航し、30才でインド副王となって、インドのゴアへ大航海後、現地サルタンからダマンを割譲させました。1560年にはセイロン島へ遠征軍を送り、マンナール諸島を占領しました。インドでの任期が終ると、ポルトガルに帰国し、1562年にカーボベルデ諸島の総督としてサント・アンタン島へ大航海しました。その後、ポルトガルに帰国して亡くなりました。
ドン・コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザ (1528〜1575)
 Don Constantino de Braganca
 (インド副王在任:1558/9/8〜1561/9)
コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザはブラガンザ公爵ジャイム(Jaime, Duke of Braganza, 1479-1532)の後妻の子供として、ポルトガルで生まれました。19才の時にポルトガル国王ジョアン3世から、フランス国王アンリ2世(Henry II 1519-1559)の子供の洗礼式に慶祝大使として列席することを命ぜら、フランスに渡航しました。なお、ブラガンサ公フェルナンド2世(Fernando II 1430?1483、マヌエル1世の姉イザベルの夫)は、1483年にポルトガル国土の3分の1を支配し権力をほしいままにしていた上、カスティーリャ王国と内通しており、ジョアン2世の中央集権国家建設に反しているとして、フェルナンド2世を処刑して滅しぼした。コンスタンチノは、まさにその遠縁でした。

コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザの大冒険:〜
・1547年(19才)〜慶祝大使でフランスに渡航
・1558年(30才)〜インド副王でゴアへ大航海、ダマンの割譲
・1560年(32才)〜マンナール諸島の占領
・1561年(33才)〜リスボン帰国
・1562年(34才)〜カーボベルデ諸島の総督
・1575年(47才)〜ポルトガルで没

ジョアン3世が亡くなると、その孫のセバスティアン1世が3才で王位を継承したので、ジョアン3世の未亡人カタリナ・デ・アウストリア(Catalina de Austria, 1507-1578)が摂政に就任しました。なお、セバスティアン1世は1567年、南アメリカで、ポルトガル軍は砦を築いていたフランス軍を撃退し、リオ・デ・ジャネイロを占領。1570年にはアンゴラの植民地化を開始。インド、アフリカ、ブラジルの植民地拡大が進み、ジョアン3世が熟慮の末放棄したモロッコの要塞の再征服を夢見て、1578/8/4にモロッコの(1572)アルカセル・キビールの戦い(Battle of Alcacer-Quibir、ルイス・デ・アタイデが従軍)でポルトガル軍は惨敗、セバスティアン1世は21才で戦死し、ジョアン3世の弟で大叔父の大司教エンリケ枢機卿の摂政がエンリケ1世として王位を継承しました。

1558年にカタリナ・デ・アウストリア摂政がコンスタンチノをインド副王(20th Governor & 7th Viceroy)に任命しましたので、1558/4/7にリスボンを出帆、9/2にインドのゴアに到着しました。コンスタンチノ副王はダマンセイロン島への支配に力を注ぎました。

1558年にコンスタンチノ副王はゴアからダマンへ遠征軍を送り、クジャラートのサルタン(Gujarat Sultanate)からダマンが正式に割譲されました。

1560年にコンスタンチノ副王はセイロン島北部のジャフナ王国(Jaffna kingdom 1215-1619)を攻撃しましたが、激しい抵抗にあって占領は出来ませんでしたが、インドとセイロン島の間のパーク海峡のマンナール諸島(Mannar Island)を占領して、海峡の制海権を奪取しました。

なお、ジャフナ王国は1619年にポルトガルの再度の攻撃を受け、一隊はパーク海峡から攻め込み、もう一隊5000人は陸上からジャフナ王国を攻撃し、1619/6月にカンキリ2世王(Cankili II 1619没)が降伏したので捕え、ゴアで絞首刑にして、王国が征服されました。

コンスタンチノ副王のインドでの業績は、ルイス・デ・カモンイスが抒情詩”ウス・ルジ−アダス”で高らかに歌いあげました。1561年にリスボンに戻り、1562年にカーボベルデ諸島の総督になり、サント・アンタン島のリベイラ・グランデ(Ribeira Grande, Santo Antao,Cape Verde)に、1562/12/22に着任しました。カーボベルデ諸島の任期が終わるとポルトガルに帰国、47才で一人寂しく亡くなりました。

参考HP:〜
 ・ダマンとディウの場所地図(広域)
 ・ダマンとディウの場所地図
 ・ダマンの地図 (DADRA、NAGAR HARVELI 有)
 ・インドの地図 (日本語)
 ・パーク海峡とマンナール諸島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      10/10/16

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