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★ポルトガル | ガルシア・デ・ノローニャ 1538〜1540 インド副王 |
大航海物語★ |
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ESTADO da INDIA ノローニャ副王の紋章 ポルトガル領インド 1958/4/3 発行 |
MOZAMBIQUE ポルトガル・ナオ船、1520 ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行 |
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SULTANATE of OMAN インド洋の地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
ESTADO da INDIA ゴアの地図 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
ガルシア・デ・ノローニャは24才でアルブケルケ将軍率いる第5次インド遠征艦隊に参加してインドに航海。その後、ポルトガルの北アフリカ攻撃戦に従軍、インド・カリカットへ航海後に国王の顧問官となり、北アフリカ攻撃戦に再度従軍、1538年にインド副王に任じられインドのゴアに航海し、再び故国に帰ることも無く、インドのコーチンで亡くなりました。 |
ガルシア・デ・ノローニャ (1479〜1540/4/3) Garucia de Noronha (第3代インド副王在任:1538/9/14〜1540/4) 1503年にノロ−ニャはアルブケルケ将軍のインド遠征艦隊で、ゴア、ホルムズ、カリカット(Calicut)攻撃に参加しました。 1511年のポルトガルによる北アフリカ攻撃戦に従軍して戦いました。 1513年にはインド・カリカットへ航海しました。 1516年にはポルトガルに帰国して、国王の顧問官として22年間働きました。 1534年のポルトガルによる北アフリカ攻撃戦に従軍して戦いました。 1537年インド副王に任命されてインド遠征艦隊を率いてゴアに航海して、 1538年にインド副王になりました。 1538/11/14にノロ−ニャ副王は、同年9月からイスラムの包囲攻撃を受けているディウ要塞の救援のために、オール(櫂)の無い高舷側船のナオ船、ガレオン船、カラベル船が83隻、 その他はガレー船、ベルガンティン船、フォイスト船が142隻に、 1万人の兵士と3万人の水夫、操船員、キリスト教徒奴隷などの乗組員が乗船した 225隻のポルトガル艦隊を編成、準備しました。 乗船後5日目に、ディウ要塞アントニオ・ダ・シルヴァ司令官からのカトォール船便がディウから到着、「ゴアにポルトガルの大艦隊が集結している」とのカリカットのサモリン王の通報でイスラムの軍船が包囲を解いて撤退したことが伝えられて来ました。ノロ−ニャ副王は、なお、5日間ゴアに留まって、マルティン・デ・アフォンゾ船長とヴィセンテ・ヴェガード船長の2隻のナオ船をコーチンで胡椒を船積みさせて母国へ帰国させるかたわら、コーチンでサンタ・クルス号に乗船していた前副王ヌーノ・ダ・クーニャを追い払う使者に財務官フェルナン・デ・ロドリゲス・デ・カステルブランコを派遣し、ク−ニャ前副王は母国ポルトガルへ強制送還となりコーチンを出帆しました。 1538/12/6(木)にノロ−ニャ副王はゴアを出帆、4日目にシャウルに投錨。3日間滞在して、艦隊に補給を施し、ディウへと出帆。ダヌ山脈付近の湾を横断中に大嵐に遭遇、艦隊は散り散りになり、副王令息ドン・アルヴァロ・デ・ノローニャ提督坐上の24漕座ガレー船、ジョアン・デ・ソーザ船長の茨号を含む数隻がダブル港口に流され難破し、令息は帰らぬ人となり、その他7隻が遭難しました。1ヵ月かかって再編された艦隊を率いて、1539/1/16にディウに到着。イスラムが撤退する時に破壊しつくしたディウ要塞を再建しました。ノロ−ニャ副王は1540/4/3に61才でコーチン没となりました。 ノロ−ニャ副王はルイス・デ・カモンイスの作品・叙事詩「ウス・ルジ−アダス」とメンデス・ピントの「東洋遍歴記」に登場しています。 08/8/9、 09/9/29追記 |
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ガルシア・デ・ノローニャ 1503〜1504 第5次インド遠征艦隊に参加 |
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ESTADO da INDIA ノローニャ副王の紋章 ポルトガル領インド 1958/4/3 発行 |
MOZAMBIQUE 15世紀ポルトガル・ナオ船 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
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・第5次インド遠征艦隊10隻の編成:総司令官アルプケルケ将軍 5th Portuguese India Armada (Albuquerque, 1503/4/6〜1504/7下旬) ・第1艦隊4隻:〜総司令官アルブケルケ将軍 ・第2艦隊3隻、 ・第3艦隊3隻、計10隻。 ・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、24才のガルシア・デ・ノローニャが乗組み参加、1503年にポルトガルのテージョ河リスボン港を出帆しました。 ・ガルシア・デ・ノローニャの大航海:〜 1503年 04/06、第1艦隊4隻がリスボン港を出帆 04/16、第2艦隊3隻がリスボン港を出帆 5月上旬、第3艦隊3隻がリスボン港を出帆 5月中旬、第1艦隊4隻が、カーボヴェルデ諸島着 第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長発見のアセンション島着
1504年 01/12、アルブケルケ将軍がコーチン着 コーチンに戻ると地元サルタンの協力なしには香料取引が成り立たないことを悟り、 帰国を急ぐので、カリカット王国のイタリア人協力者引き渡しは棚上げして、 平和裏に講和条約を締結。スパイスを初めとするインドの産物を船積みできました。 1月下旬、アルブケルケ将軍がコーチンを帰国のため出帆、コーチン要塞の司令官として ペレイラ船長に兵150人と、カラヴェル船2隻:エスピリトサント号、ラファエル船長の ガリダ号、そしてナオ船コンセプション号(Concepcao)を残留軍として駐留させました 01/30、カナノールでレイニャ号がスパイス(香料)を船積み中なので、 サンチャゴ号、サンクリストバン号とカリカット残留艦隊フラデサ号の3隻が出帆 02/05、カナノールをレイニャ号とファイアル号が出帆 2月下旬、サンチャゴ号とサンクリストバン号がモザンビーク島着 フラデサ号がキルワで遭難して多くの乗組員を失い、アタイデ船長と数人が 地元のボートに救出されてモザンビーク島に着くも、重病で残留 レイニャ号とファイアル号がモザンビーク海峡で遭難 03/16、司令官ペレイラ船長が守るコーチンにカリカット王国連合軍が攻撃を始める コーチンの戦い(1504)が勃発 3月中旬、サンチャゴ号、サンクリストバン号がリスボンへとモザンビーク島を出帆 サンクリストバン号がトラブったので、両船がモッセルベイ(Sao Bras)着 アルブケルケ将軍が第3艦隊のサルダーニャ船長の手紙「10月通過」を受け取る 05/01、サンチャゴ号ともう1隻が喜望峰を回航 カーボヴェルデ諸島着、修理、補給 6月、サンチャゴ号がモーリタニア沖で水漏れを起こし、カーボヴェルデに戻って修理、補給 07/03、ペレイラ船長がコーチンの戦いで、アルブケルケ将軍艦隊の支援のもとで、コーチンを 守り抜き勝利、カリカット王国連合軍が撤退、ファクトリー(貿易拠点・商館)を建設 7月下旬、アルブケルケ将軍のサンチャゴ号と、もう1隻がリスボンに帰港 1504年、ガルシア・デ・ノローニャが帰国の艦隊で、ポルトガルのリスボン港に帰国しました。 参考HP〜 ・インド西岸の地図 ・カンバラオ水路の地図(Pass of Cambalao、コーチンの戦い1504) ・アフリカ南部海岸の地図 ・アフリカ東海岸の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/15追記 |