★スペイン マヌエル・ド・アマット
1761
ペルー総督
大航海物語★

ESPANA

スペイン 1976/3/1 発行
スペインの戦列艦

スペイン 発行

アマットはスペイン貴族の出身で、少年時代から戦争に従軍し若くして軍歴を上り詰め、その功により新大陸の総督を歴任しました。ペルー総督時代には豊かな富をスペイン本国へと積み出し、粋な恋の浮名を流したことでも有名になりました。

マヌエル・ド・アマット・イ・ユニェント
  Manuel de Amat y Junyent (1704〜1782)

アマットはスペイン・バルセロナでカタロニア貴族の家に生れました。15才でアラゴン王国の対仏戦争に従軍しました。17才でマルタ島ナイト騎士団に入り、サグント竜騎兵連帯の対アフリカ戦争に4年間従軍し連隊長になりました。1734年5月25日シシリー島ベイプル王国での”ビトントの戦い”でオーストリア派遣軍に勝利するという手柄を立てました。そしてガエタ包囲攻撃での手柄で陸軍元帥に昇進しました。

1755年、51才でチリ知事(1755−1761)として大西洋を越えて新大陸へ渡りました。サンタバーバラ(Santa Barbara)のようなマプチュ(mapuche)族国との境界や海岸に武装地帯を構築しました。ナシメント(Talcamavida, Hualqui and Nacimiento)などに都市を建設しました。マプチュ議会を召集しました。1758年にはサルト・デル・ラジャ、1760年2月にはサンチャゴ。それはコンセプシオンとチロ(Concepcio'n and Chiloe)の安全の話し合いの合意のためでした。最後には一方的な合意となりました。彼はサンティアゴでは重要な公共事業、および管理タスクを引き受けました。マポチョ川の支流の延長工事とか、公設市場、1757年のサンフェリペ大学の再建、1758年10月12日チリ警察の創設、レイナ竜輝兵(Dragoons of Reina)と呼ばれた警察で1812年まで続いた。チリの竜騎兵とも呼ばれましたが、それが好意を持って彼の功績と認められた最後でした。

1761年、マンソ・ド・ヴェラスコの後を受けて、第44代ペルー総督(1761−1776)となりました。彼の時代のペルーは金銀財宝をスペインへと積み出したのですが、その富の豊かさはインカ時代をしのいだとされています。内政では、リマ市街のインフラの整備を行いました。また、リマック(Rimac)地方の水散歩道や大通りの並木道などの整備は、そこに居た愛人のマリア・ペリチョリ(Maria Micaela Stolen Villegas Perricholi、18世紀ペルーで有名な女優)のために作ったということは、良く知られていると伝えられています。

アマットはスペインに帰国後の1782年バルセロナで78才で亡くなりました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       

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