★ポルトガル ヌーノ・ダ・クーニャ
1529〜1538

インド副王(総督)
大航海物語★

ESTADO da INDIA
ヌーノ・ダ・クーニャ

ポ領インド 1956/3/24 発行
クーニャ副王の紋章

ポ領インド 1958/4/3 発行

Mozambique
15世紀ポルトガル・ナオ船

モザンビーク 1963/12/1 発行
PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行

ヌーノ・ダ・クーニャはアルメイダ提督のもとで戦い、その勇猛さを認められ、インドへ派遣される途中のアフリカ東岸で海賊を退治し、インドでは副王として10年以上の長期政権を維持しましたが、裏切りと陰謀で故国へ送還される途中、船が喜望峰で難破して亡くなりました。
ヌーノ・ダ・クーニャ (生年不詳1487?〜1539/3/5)
 Nuno da Cunha (インド副王(第7代総督)在任:1529/11/18〜1538/9)

ヌーノ・ダ・クーニャは、ポルトガルの有名な航海者で提督、そしてレオ10世(Leo X 1475-1521、ルネサンス期のローマ教皇、在位:1513-1521)の大使だった父トリスタン・ダ・クーニャ(Tristao da Cunha)とアントーニャ・パイス(Antonia Pais)の子供としてリスボンで、1487年頃に生まれました。そして、1505年にアルメイダ提督指揮の第7次インド遠征艦隊21隻に乗組んでインドへ赴き、オハ川(battles at rio de Oja and Brava)の戦い、そしてパナマ港の占拠(capture of Panane)で勇猛さを認められました。1528年から1539年の11年間に渡り、インド副王を務めました

1528/4から1538年までジョアン3世のもと、インドで第9代インド副王(身分:第7代総督)として活躍しました。ゴアへの航海の途中、モザンビーク海岸一帯を荒らしまわっていた海賊をモンバサで平定しました。モザンビークはインド航路の重要な飲料水の補給地でライフラインの一角となっていました。ヌーノ・ダ・クーニャの兄弟のペロ(Pero)、シマオ(Simao)が縁故主義(ネポティズム、nepotism)でインドで重用される予定だったのが、航海の途中で亡くなりましたので、現地ゴアの縁者に頼ることになりました。 モザンビーク地図

クーニャ副王は1529年にクジャラートのダマン河々口のダマンへ遠征軍を侵攻させて包囲し、街を焼き討ちしました。またムンバイ(旧ボンベイ)にも侵攻しました。1533/1/20にクジャラートのムスリム(Muslim イスラム教徒)バハデュール・シャー(Bahadur Shah)支配下のバサイン(Baxay、now Vasai)を占領し、翌年バサイン(Bassein)と改名し、北部の中心都市として建設に着手し繁栄しました。街は1548年に完成しました。 バサイン地図

1538年に陰謀でポルトガルへ強制送還される途中、ケープタウンで船が難破して海中に沈んで、62才頃に亡くなりました。

最初はマリア(Maria da Cunha)と結婚し、イザベル(Isabel da Silveira)と再婚しました。彼の経歴はポルトガルの作家バロス(Joao de Barros 1496-1570)が書き残しています。    08/7/28







ヌーノ・ダ・クーニャ
1505、インド・オハ川の戦い

第7次インド遠征艦隊に参加

ESTADO da INDIA
ヌーノ・ダ・クーニャ

ポ領インド 1956/3/24 発行
Mozambique
ポルトガル船、1511

モザンビーク 1963/12/1 発行

MOZAMBIQUE
ポルトガルからインドへの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念
ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行

第7次インド遠征艦隊22隻の編成:総司令官アルメイダ提督:〜
  
7th Portuguese India Armada (Almeida, 1505/3/25〜1506/5/23)
・1505年の第7次インド遠征艦隊22隻の中に、18才のヌーノ・ダ・クーニャが乗組んで参加、ポルトガルのテージョ河リスボン港を出帆しました。

・ヌーノ・ダ・クーニャの大航海:〜
1505年
03/25、ドン・アルメイダ提督が国王から初代インド副王の宣旨を受けて、
     22隻の艦隊がリスボン港を出帆するも、
     サンチャゴ号がテージョ河々口(Tagus)で座礁して出帆できずにリスボン港へ戻って修理、
     1ヵ月後に司令官アナイア船長の後続艦隊に加わり、ソファラ要塞の建設に向う
04/06、艦隊がカーボヴェルデ諸島に到着、
     セネガルルのヴェルデ岬半島にあるポルト・デ・アレ(Porto de Ale)港に寄港・補給後、
     艦隊の編成がえが行われる、
      ・第1艦隊〜速度が遅い船舶13隻で編成〜司令官アルメイダ提督
      ・第2艦隊〜速度が早い船舶7隻で編成〜司令官ドン・マヌエル・パサンハ提督
      ・ゴンサロ・デ・パルヴァ船長のカラヴェル船は第1艦隊の水先案内船に使用
05/05、赤道を通過
     ペロ・フェレイラ・フォガサ船長のベラ号が水漏れで遭難、乗組員は他の船に乗換える
06/25、喜望峰を回航するも大嵐で艦隊がバラバラになってモザンビーク海峡へ、アルメイダ提督は
     アンゴシェ(Angoche)沖のプリメイラス島(Primeiras)で修理しながら艦隊の集合を待ち、
     便りを取りにパイヴァ船長をモザンビーク島へ行かせる
07/18、ボタフォゴ号とサンガブリエル号の2隻を見失い、パイヴァ船長がモザンビーク島から
     戻らないまま、タンザニアのキルワ(Kilwa)へと出帆、
     途中でフェルナン・ベルムデス船長をパイヴァ船長の消息を探しにモザンビーク島へ急派
     第2艦隊は喜望峰を
     コンセパン号、アンタン・ヴァズ船長、ゴンサロ・ヴァズ・デ・ゴース船長の3隻が回航し、
     他の4隻は遭難
07/23、キルワに第1艦隊13隻の内、8隻が到着、
     第4次艦隊が建設した砦に向かって号砲を放つも返事が無く、ノーヴァ船長を偵察にやるも
     首長イブラヒム(Emir Ibrahim)が応答しないので、攻撃を決意して、兵500人をアルメイダ提督
     と息子のロレンゾ(Lourenco de Almeida、1488-1508)との2手に分けて上陸、宮殿へ行軍、
     首長イブラヒムは街から逃亡、新首長にムハンマド・イブン(Muhammad ibn Rukn ad Din )擁立
     キルワ島にサンチャゴ要塞(Fort Sant'Iago)建設、遭難したベラ号フォガサ船長と兵550人が
     駐留し、カウチンホ船長(Francisco Coutinho)が行政長官として奥地の金の取引を探求する
     ベルムデス船長とパイヴァ船長が到着して第6次艦隊アルヴェルガリア船長の便りが届き、
     1503年の第5次艦隊第3艦隊ラヴァスコ船長とサルダーニャ船長によるマリンディ攻撃と
     インド情勢が伝えられる
     ボタフォゴ号が到着、サンガブリエル号と第2艦隊は依然として不明
     ゴンサロ・ヴァズ・デ・ゴース船長のカラヴェル船はキルワ(Kilwa)の沿岸パトロール隊で残留
08/08、パサンハ船長(Manuel Pacanha)のカラヴェル船1隻を残留とし、
     季節風の都合で第1艦隊がキルワを出帆
08/13、ケニヤのモンバサ(Mombaca)に到着、
     パイヴァ船長が港の水深を調査中に海岸の砲台から砲撃されて炎上、ポルトガル艦隊による
     キルワの攻撃を知ったモンバサは多数のバンツー人(Bantu)射手を街の周りに配置
     街を砲撃して上陸、味方にも死傷者が出る激戦の後にサルタンを捕え占領、虐殺が起るが、
     海岸に船の修理場所を確保、
     ロポ・チャノサ船長とジョアン・ホーメン船長がマリンディから合流
08/27、モンバサを14隻が出帆、インド洋の横断航海へ
09/13、インドの南ゴアのアンジャディプ島(Anjediva)に到着、
     直ちにサンミゲル要塞(Fort Sao Miguel of Anjediva)を建設し、
     教会(Church of Our Lady of Springs、ポ:Nossa Senhora da Brotas)を建設
     カナノール、コーチン、キロンへ艦隊を派遣
09月下旬、コンセパン号、パサンハ船長(Pacanha)乗船と
       アンタン・ヴァズ船長がアンジャディプ島に到着
10月上旬、ホーメン船長とロポ・チャノサ船長がアンジャディプ島に到着するも、
       ロポ・サンチェス船長(ケリマネQuelimane)近郷にあり)と
       ルーカス・ダ・フォンセカ船長(モザンビークにあり)の消息は無い
       要塞の建設が終わるとパサンハ船長と兵80人を駐留
10/16、アンジャディプを出帆、
     シャラヴァチ川(Sharavathi River、128km)河口のオノール(Onor:Honnavar)へ向う
     オノールはヴィジャヤナガル帝国(Vijayanagara Empire、1336-1649)の支配下に有って、
     無数のアラブ船とアディル・シャヒ王家(Adil Shahi dynasty)のチモジャ(Timoja)海賊が寄港し、
     ポルトガルに反抗していたので、これを攻撃し、帝国のオノール総督とチモジャ海賊が恭順して
     ポルトガルへの忠誠を誓う
10/24、オノールを出帆、南のカナノールへ向う
     カナノールで古いファクトリーを訊ね、ゴンサロ・ギル・バルボサ(Goncalo Gil Barbosa)商館長に
     カナノールのコラチリ王(Kolathiri Raja)が要塞の建設を認めたことを聞き、要塞の建設を開始
     11月にサンアンジェロ要塞(Fort Sant' Angelo)が完成、兵150人と沿岸警備(patrol ships)に
     ナヴェタ船2隻、サンミゲル号とフェルナン・バルムデズ船長が駐留
     これで、ゴアのアンジャディプ要塞とカナノール要塞が完成し、アルメイダ提督は初代インド副王
     として、ヴィジャヤナガル帝国と安全保障条約を取り交わす
10月、ホーメン船長のサンジョルジョ号がキロン着、
    キロン商館長アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)がキロン政庁にイスラム香料商人の船を港から
    締め出す様に交渉しているところにホーメン船長が着いたので、イスラム船を追い払いました
    サンジョルジョ号がキロンを離れると、キロンのイスラム勢力が暴動を起し、商館や教会を焼き
    其処に居たポルトガル人が虐殺される事件が起る
10/30、アルメイダ副王がカナノールを出帆、コーチンへ向うも
     キロンの暴動とポルトガル人虐殺を聞きキロンへ急行、アルメイダ副王の怒りにふれた
     ホーメン船長はサンジョルジョ号追われ、その交代でヌーノ・ヴァズ・ペレイラ(Nuno Vaz
     Pereira)が船長として乗組む
12月、アルメイダ副王がコーチン着、
    キロンとの関係改善を願って20才の息子ロレンソの艦隊をキロンへ派遣
    コーチン要塞フォート・マヌエル(Fort Manuel)を強化
    ドン・アルヴァロ・デ・ノローニャ(D. Alvaro de Noronha)を守備隊長とし、
    第6次艦隊のヴァスコンサロス船長(Manuel Telles de Vasconcelos)をコーチン市長官に、
    ディオゴ・フェルナンデス・コレイア(Diogo Fernandes Correia)を帰国、
    ロレンソ・モレノ(Lourenco Moreno)を抜擢して商館長に昇格
1506年
01/02、帰国の第1艦隊5隻がコーチンを出帆
01/21、帰国の第2艦隊3隻がカナノールを出帆
02月、帰国の第3艦隊2隻が出帆

05/23、帰国の第1艦隊がリスボンに4隻が帰港、1隻は6月に帰港
11/15、帰国の第2艦隊がリスボンに2隻が帰港、1隻は翌年1月に帰港
12月、帰国の第3艦隊がリスボンに1隻が帰港、
    1隻はザンジバル付近で第8次艦隊に合流(フロードマー号)

1506年、ヌーノ・ダ・クーニャは帰国の艦隊に乗船して、リスボンに到着・帰国しました。

参考HP:〜
 ・アフリカ東岸の航海地図
 ・インド西岸の航海地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      10/11/11追記
スタンプ・メイツ
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