★ポルトガル ジョアン・デ・カストロ
1547〜1548
インド副王
大航海物語★

PORTUGAL
ポルトガルの航海者カストロ

ポルトガル 1990-94 発行
MOZAMBIQUE
ポルトガル・ナオ船、1520

ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行

ESTADO da INDIA
ドン・カストロ副王

ポ領インド 1956/3/24 発行
カストロ副王の紋章

ポ領インド 1958/4/3 発行

ESTADO da INDIA
ドン・カストロ副王

ポ領インド 1948 発行
SULTANATE of OMAN
インド洋の地図


オマーン 1981/11/23 発行

カモンイスから「ストロング・カストロ」(Castro Forte)と呼ばれたポルトガルの海軍士官ドン・カストロは、1547年にインド副王となり、ポルトガル領インドのゴアで48才で亡くなりました。
ドン・ジョアン・デ・カストロ (1500/2/7〜1548/6/6、インド副王在位1547〜1548)
 Don Joao de Castro
ジョアン・デ・カストロはアルバロ・デ・カストロの息子として、1500年にポルトガルのリスボンで生まれました。18才でタンジールに渡りペドロ・ヌーニェス(Pedro Nunes)に師事して数学(天文学、航海術)を学び、そこで数年を過ごしました。1535年にエマヌエル1世の王子ルイス(Dom Luis )指揮下でチュニス(Tunis)の包囲攻撃に従軍して、見事に神聖ローマ皇帝カルロス5世(Charles V)の手によって騎士叙任を果たしました。

1538年にリスボンからインド・ゴアへインド遠征艦隊の指揮を執って航海しました。1539年にトルコ艦隊が封鎖していたディウ要塞の攻撃に参加しました。1540年にゴアから紅海をスエズまで航海しました。リスボンに帰国後、小なりといえどもサオトメ(Sao Paulo de Salvaterra)の総督になりましたが極貧に陥り、ガルシア・デ・ノローニャ(Garcia de Noronha)の伝手(つて)でインドへ渡りました。1543年にエステヴァン・ダ・ガマ(Estevao da Gama)の遠征に従軍し、ディウ(Diu)へ援軍として駆けつけて活躍し、その手柄で彼の13才の息子アルバロ(Alvaro de Castro)が騎士叙任を授けられました。

1543年にポルトガルに帰国し、ヨーロッパ海域の海賊退治の艦隊司令官に任命され、近海から海賊を一掃しました。

1545年にインド副王の座を逃したソーサ(Martin de Sousa)に代って、6隻の艦隊を伴ってインドへ赴任しました。その後の数年間は多忙を極め、ディウの攻防戦で栄光と息子のフェルマオ(Fernao)を亡くすという悲哀を味わいながら、クジャラート藩王(Mahmud, king of Gujarat)と闘いました。1546/11月にビジャープルのサルタン(Sultan of Bijapur)アディル・カーン(Adil Khan)の大軍と第2次ディウ包囲攻撃の戦いでイスラム教徒を撃破、占領しました。1547年にもアディル・カーンの攻撃を撃退し、セイロン海峡(Antonio Moniz、ポーク海峡)を制圧、マラッカ(Malacca)の完全征服を果たし、ゴアからセイロン ディウの地図
を経てのインド・マラッカ海路を確保しました。1547年にジョアン3世(Joao III,、1502-1557)によって、この偉大なドン・カストロ艦長がインド副王に任じられました。

1548/6/6にドン・カストロは48才で亡くなり、聖フランシコ・ザビエル(St Francis Xavier)の手によって、ゴアのボン・ジェス教会に葬られました.

その後、遺体が掘り返されてポルトガルに運ばれました。

参考HP:〜:セイロン島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/8/5
ゴア・ボンジェス教会

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