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★ポルトガル | アルブケルケ将軍
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大航海物語★ | |
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MOZAMBIQUE ポルトガルからインドへの航海地図 ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念 ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行 |
Mozambique ポルトガル船 Nau de 800tones, 1520 モザンビーク1963/12/1発行 |
アルプケルケ将軍は50才で第5次インド遠征艦隊9隻の総司令官としてインドに向かい、翌年2隻でリスボンに帰国しました。さらに1506年にインドを再訪して、1510年にゴアを占拠し要塞を築きました。その後、二度と本国に帰ることなく、インドで亡くなりました。 |
アファンソ・デ・アルプケルケ (1453〜1515/12/16) Afonso de Alebuquerque アルプケルケ将軍は下級貴族の家に生まれ、若い時から軍人として、地中海や北アフリカで活躍し、ポルトガルの第2代インド副王(身分:初代総督)になりました。
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経て、1507年アデン湾口のソコトラ島を攻撃、ペルシャ湾口のホルムズ海峡に至り、ホルムズをポルトガル朝貢国としました。1509年インド・カリカットを攻撃しましたが、占領には至りませんでした。1510年にはインドのゴアを占領して艦隊の基地としました。 1511年7月には東西貿易の中心地としで栄えていたマレー半島のマラッカへ16隻の大艦隊を派遣して攻め入り占領しました。この占領航海には31才のマゼランが参加していました。この3大拠点を機軸にして東アフリカのソファラとモザンビーク、インド・クジャラートのディウなどに商館を置き、1511〜12年にはマルク諸島(香料諸島)のテルナテ島に艦隊を派遣して通商路を確保しました。こうしてインド洋を支配統制するのに成功しました。 1513年にはアデンを攻撃しましたが占領には至りませんでした。 1515年に再びホルムズを攻撃し要塞を建設しました。ホルムズの支配は非常に重要で、それまでイスラム商人の手によって香料がイタリ−のヴェネティアへと交易されていたのをポルトガルの独占へと替えることとなりました。しかし彼は同地で発病、ゴアに戻りましたが、同港内の船上で病状が悪化して亡くなりました。62才でした。
・アフリカの地図、インド付近の地図 07/11/05&12/30 |
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第5次インド遠征艦隊 1503〜1504 総司令官アルプケルケ将軍 |
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CABO VERDE 甲冑姿のアルブケルケ将軍 ポ領ヴェルデ岬諸島 1938 発行 |
PORTUGAL ポルトガルからインドへの航海地図 ポルトガル 1969/12/30 発行 |
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Mozambique ポルトガル船、1500 モザンビーク1963/12/1発行 |
ESTADO da INDIA マヌエル要塞(コーチン)建設、1503 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
・第5次インド遠征艦隊10隻の編成(船長):総司令官アルプケルケ将軍 5th Portuguese India Armada (Albuquerque, 1503/4/6〜1504/7下旬):〜?人 ・第1艦隊4隻:〜 総司令官アルブケルケ将軍(Afonso de Albuquerque)、50才 01)旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)、300屯、大型ナオ船、 アルブケルケ将軍 02)エスピリトサント号(Espirito Santo)、350屯、大型ナオ船、コーチン駐留 ドアルテ・パチェコ・ペレイラ船長(Duarte Pacheco Pereira) 03)サンクリストバン号(Sao Cristovao)、 150屯、ナオ船、喜望峰で遭難・沈没 フェルナン・マルチン・デ・アルメイダ船長(Fernao Martins de Almada) 04)カタリナディアス号(Catharina Dias)、400屯、大型ナオ船 ジバンニ・ダ・エンポリ船長(Giovanni da Empoli) ・第2艦隊3隻:〜 司令官フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(Francisco de Albuquerque) 05)レイニャ号(Rainha)、カラヴェル船、帰路に遭難・沈没 フランシススコ・デ・アルブケルケ船長(アルブケルケ将軍の甥) 06)ファイアル号(Faial)、カラヴェル船、帰路に遭難・沈没 ニコラウ・コエルホ船長(Nicolau Coelho 1460-1504) 07)ペドロ・ヴァス・ダ・ヴェイガ船長(Pedro Vaz da Veiga)、カラヴェル船、喜望峰で遭難・沈没 ・第3艦隊3隻:〜 司令官アントニオ・ダ・サルダーニャ船長(Antonio de Saldanha) 08)アントニオ・ダ・サルダーニャ船長 09)ルイ・ロレンソ・ラヴァスコ船長(Rui Lourenco Ravasco) 10)ディオゴ・フェルナンデス・ペレイラ船長(Diogo Fernandes Pereira) ・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、24才のガルシア・デ・ノローニャが乗組み。 ・第5次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜 1503年 04/06、第1艦隊4隻がリスボンを出帆 04/16、第2艦隊3隻がリスボンを出帆 5月中旬、第1艦隊4隻が、カーボヴェルデ諸島着、 第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長発見のアセンション島着、
10月、アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)が救援を求めてきたので、 カリカット王軍の30隻を迎え撃つべく、アルブケルケ将軍はキロンへ出帆して、 インドで3番目のファクトリー(Factory in Quilon、商館)をキロンに建設して、 アントニオ・デ・サ(Antonio de Sa)を残留軍司令官として駐留させる 1504年 01/12、アルブケルケ将軍がコーチン着 コーチンに戻ると地元サルタンの協力なしには香料取引が成り立たないことを悟り、 帰国を急ぐので、カリカット王国のイタリア人協力者引き渡しは棚上げして、 平和裏に講和条約を締結 1月下旬、アルブケルケ将軍がコーチンを帰国のため出帆、コーチン要塞の司令官として ペレイラ船長に兵150人と、カラヴェル船2隻:エスピリトサント号、ラファエル船長の ガリダ号、そしてナオ船コンセプション号(Concepcao)を残留軍として駐留させました 01/30、カナノールでレイニャ号がスパイスを船積み中なので、 サンチャゴ号、サンクリストバン号とカリカット残留艦隊フラデサ号の3隻が出帆 02/05、カナノールをレイニャ号とファイアル号が出帆 2月下旬、サンチャゴ号とサンクリストバン号がモザンビーク島着 フラデサ号がキルワで遭難して多くの乗組員を失い、アタイデ船長と数人が 地元のボートに救出されてモザンビーク島に着くも、重病で残留 レイニャ号とファイアル号がモザンビーク海峡で遭難 3月中旬、サンチャゴ号、サンクリストバン号がリスボンへとモザンビーク島を出帆 サンクリストバン号がトラブったので、両船がモッセルベイ(Sao Bras)着 アルブケルケ将軍が第3艦隊のサルダーニャ船長の手紙「10月通過」を受け取る 05/01、サンチャゴ号ともう1隻が喜望峰を回航 カーボヴェルデ諸島着、修理、補給 6月、サンチャゴ号がモーリタニア沖で水漏れを起こし、カーボヴェルデに戻って修理、補給 7月下旬、アルブケルケ将軍のサンチャゴ号と、もう1隻がリスボンに帰港 ・第3艦隊3隻の航海:〜 1503年 5月上旬、第3艦隊3隻がリスボンを出帆 6月下旬、カーボヴェルデでサルダーニャ船長とラヴァスコ船長の2隻が 嵐で航路を誤り、ギニア湾奥のサントメ島へ漂着 ディオゴ・ペレイラ船長の行動は不明となる 7月中旬、第3艦隊の2隻が喜望峰で嵐に遭遇、 サルダーニャ船長が喜望峰のテーブル湾を発見、 上陸して場所確認でテーブル山に登る、その上陸がヨーロッパ人最初となるも、 現地人と戦い、サルダーニャ船長が負傷
04月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長がソコトラ島を出帆、 05月、第3艦隊ディオゴ・ペレイラ船長が第1次コーチン包囲攻撃戦の最中のアンジャディプ島着 07月、第3艦隊サルダーニャ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流 09月、第3艦隊ラヴァスコ船長がアンジャディプ島着、第6次艦隊に合流 参考HP〜 ・アフリカ南部海岸の地図 ・アフリカ東海岸の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/10/10追記 |
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第8次インド遠征艦隊・第1艦隊 1506〜1515 司令官インド副王(総督)アルプケルケ将軍 |
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Estad da India インド総督・アルブケルケ ポ領インド 1956/3/24 発行 |
Estad da India アルブケルケ将軍の紋章 ポ領インド 1958/4/3 発行 |
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Mozambique フロードマー号、1502 モザンビーク1963/12/1発行 |
SULTANATE of OMAN インド洋からアジアへの地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
・第8次インド遠征艦隊16隻の編成(船長):総司令官トリスタン・ダ・クーニャ船長 8th Portuguese India Armada (Cunha, 1506):〜?人 ・第1艦隊5隻:〜(総司令官のダ・クーニャ船長はアルブケルケ将軍の従兄弟) 司令官アルブケルケ将軍(Afonso de Albuquerque)、53才 01)旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)、300屯、大型ナオ船、他4隻 06)フロードマー号、ノーヴァ船長、モザンビーク海峡で合流 アルブケルケ将軍と第1艦隊の大冒険:〜(第8次インド遠征艦隊と共同作戦) ・1506年(53才)〜リスボンを出帆、モザンビーク海峡でフロードマー号と合流 ・1507年(54才)〜ソコトラ島を占領、ホルムズ島を占領・要塞を建設、 ・1508年(55才)〜アデン湾を平定 ・1509年(56才)〜アルメイダ提督がカナノールで監禁するも、開放後にインド副王に就任 ・1510年(57才)〜ゴアを占領、要塞化する ・1511年(58才)〜マラッカの戦い勝利・占領、マラッカ王国が滅亡 ・1512年(59才)〜セケイラ船長の艦隊を香料諸島に派遣、アルヴァレス船長を中国に派遣 ・1513年(60才)〜紅海作戦でバブエルマンデブ海峡を突破 ・1514年(61才)〜インドサイをマヌエル1世に届ける ・1515年(62才)〜ホルムズを再占領、発病、ゴアで亡くなる 1506年、アルブケルケ将軍は国王マヌエル1世の要請で、アフリカ東岸、アラビア海、 アデン湾から、はては紅海までのイスラム勢力の平定のために出帆することになり 6才の息子のために遺言状をしたためていました。 04/06、ダ・クーニャ船長の第8次インド遠征艦隊11隻と共に、アルブケルケ将軍は 第1艦隊5隻を率いてリスボンを出帆、 パイロットがいなかったので、自ら水先案内して航海 モザンビーク海峡で、インドの帰りに喜望峰で水漏れを起こして孤立していた ノーヴァ船長のフロードマー号を見つけて合流し、アデン湾へと航海、 ダ・クーニャ船長は大使をエチオピアに派遣するためマリンディに寄航、 アフリカ東岸のイスラム都市を攻撃
1月上旬、ホルムズ王がホルムズ島を攻撃してくるも、数日間の戦いで撃退 4月、カラヴェル船2隻をホルムズ島に残して出帆、 ソコトラ島へ戻ると駐留軍が飢えていたので救助 アデン湾へ行きイスラム船を襲撃し、バーレーン要塞(Bahrain Fort)を焼打ち
セケイラ船長(Diogo Lopes de Sequeira)をマラッカ遠征に派遣 09/11、セケイラ船長がマラッカに到着するも、占領はならず、 ポルトガル人19人の捕虜を残してインドへ撤退 11/04、アルブケルケ将軍が第2代インド副王(身分:初代総督)となる
と同盟軍カナノールのマラバル船300隻で攻撃 12/10、6000人の犠牲者を出してイスマイル・アディ・シャー国王と援軍のオスマン帝国が降伏 ゴアの完全支配がなり、ゴアの要塞化を始める、 クジャラート王国とカリカット王国が大使を派遣してくる 新しいコイン(Mint:coin)を発行、天球儀(Armillary sphere)を作成 1511年 02月、マラッカで1508年に捕えられたアラウジョ(Rui de Araujo)から救助の手紙を受け取る 04月、アルブケルケ将軍がヴァスコンセロス艦隊などの18隻に 兵900人ヒンズー同盟200人を率いてゴアを出帆、フェルディナンド・マゼランが従軍 マラッカで捕虜の救出交渉を始め、マラッカを攻撃、現地軍20,000に援軍2,000と交戦 マラッカの戦い(Battle of Malacca)が始まる 07/25、マラッカに上陸するも、一時撤退 08/24、マラッカの戦いで市内に突入、激戦に勝利 11月、マラッカの戦いに勝利、マラッカの街を占領、アファモウサ要塞(A Famosa)を建設、 マラッカ王国が滅亡、 ビルマのペグー(Pegu)、スマトラ(Sumatra)、シャム(Siam)へ大使を派遣 11/20、将軍がマラッカ占領支援のフロードマー号で出帆、マラバールへ向うも遭難、 かろうじて助かるがシャム王からポルトガル王への献上品などの積荷を失う 1512年 セケイラ船長の艦隊を香料諸島に派遣、ナツメグやクローブなどを購入して帰還 01月、アルブケルケ将軍がコーチンに凱旋、帰港するも、 アディ・シャーの反乱が起っていたので、鎮圧 05月、アルヴァレス船長を中国に派遣、 アルヴァレス船長はパタリン船長(Rui de Brito Patalim)のジャンク船6隻でマラッカ着、 パタリン船長の6隻とポルトガル船2隻で広東省(Guangdong)着、 ホンコン近郷の珠江デルタのリンチン島に上陸、 その後に明時代の中国との交易路が開かれる 09/10、アルブケルケ将軍がコーチンを14隻に兵1,700人で出帆、ゴアへ向い反乱を鎮圧し、 ゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取、ゴアに病院と教会を建設 12月、エチオピアからの使者がゴアに到着、イスラムの不穏な状勢を伝える 1513年 カブラルがカリカットで1500年に手掛けた砦が1513年にカリカット要塞として完成 02月、将軍が兵1000人マラバル同盟400人でゴアを出帆、紅海へ向い、イスラムのスエズ艦隊と アデン攻防戦後、バブエルマンデブ海峡(Strait of Bab el Mandeb)を突破、紅海へ侵入 これは欧州人の初の快挙となる 05月、イェーメンのカマラン島(Kamaran)着、風待ちしてジェッダ(Jeddah)へ向おうとするも 飲料水の不足と病人の発生で撤退 08月、アデン再攻撃を企図するも発病者多数で中止して、何の成果も無くインドへ撤退 1514年 初頭、グジャラート王ムザファル2世(Muzafar II)にディウ島要塞承認の使者を派遣、 承認は却下されるも、交渉時の外交儀礼で互いに交わした贈答品中にインドサイがいた 1515年
04/01、ホルムズ島を27隻、兵1,500人とマラバル兵700人で再占領(〜1622) ホルムズ要塞をコンセプション砦(Fort of Our Lady of the Conception)として再建 09/08、アルブケルケ将軍の副王後任者アルベリガリア船長(身分:2代総督)がゴアに到着 11月、アルブケルケ将軍がホルムズをインドへ向けて出帆 12月、インド・サイをマヌエル1世がローマ教皇レオ10世(Pope Leo 在位:1513-1521)へ送るも、 途中で船が遭難して積荷もろともサイも海の藻屑となる 12/16、アルブケルケ将軍がゴアに戻って病状が悪化(ホルムズ攻撃中に発病)して、 船上にて62才で亡くなりました。 参考:〜
参考HP:〜 ・アフリカ東岸からインドへの地図 ・ソコトラ島の場所地図(日本語) ・ホルムズ海峡の地図 ・ホルムズ島の場所地図 ・オマーン半島の地図(詳細) ・バーレーン島の地図 ・インド西岸の地図 ・マラッカの地図 ・マラッカ海峡の地図 ・紅海の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/11追記 |