| 切手で綴る 太平洋戦争 物語 第2部 <帝国の侵攻> 第8章 ビルマ攻略 38 <ビルマ・ロード> 1942/4/29 帝国軍、延蒋ルートを遮断 | 

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| ビルマの地図  ビルマ 1979/12 発行 | 連合軍・帝国軍  Burma Road Conflict 1940-1945 第2次世界大戦勝利50周年記念シリーズ マーシャル諸島 1992 発行 | 
| ビルマ(現ミャンマー)は帝国にとって南方資源地帯の西側防壁であると共に、ラングーン〜ラシオ〜昆明と続く援蒋ルート(ビルマ・ロード、蒋介石政府援助ルート)の拠点でもありました。 一方英国にとってビルマの失陥は、印度・中近東への脅威となるものであり、果てはドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせる危険を招くものでした。事実、帝国軍は1944(昭和19)/3/8、インパール作戦を開始、インドへと進軍を始めました。 1940年 
 参考HP〜 ・ビルマ侵攻の地図(帝国のビルマ攻略地図) ・ミャンマーの地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/11 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 39 <ラングーン占領> 1942/3/8 帝国軍のビルマ攻略 | 
| 帝国軍がビルマの首都ラングーン占領 ラングーンに入る帝国の戦車と帝国兵  Rangoon Falls to Japanese 1942 第2次世界大戦勝利50周年記念シリーズ マーシャル諸島 1992 発行 | 
| 昭和17年2月17日、進攻作戦を開始した第15軍(飯田中将)は、まずビルマ南部を攻略することとし、シッタン河を渡りべグー山系に突進、3月8日には首都ラングーン(Rangoon、現ヤンゴン:Yangon)を占領。シンガポールの占領に伴い、大本営は第25軍と第3飛行集団の多くをビルマに転用、ビルマ全域の攻略を開始。既に大きな損害を出し軍司令官が3人交代していた英印軍は、支那軍と連携して防戦しようとするも、蒋介石将軍は軍の南下を許さず、両軍の指揮関係に混乱が生じて、英軍の増援はもはやビルマではなく、セイロンやインド東部に向けられていました。 昭和17年3月30日、トングーを占領した第55、56師団に続くべく、4月3日には全軍挙げての攻勢となり、連合軍は各所で頑強に抵抗し激戦。帝国軍は要地を占領、4月29日にはラシオで支那軍の退路を遮断。引き続き追撃にうつり、5月18日、ビルマ方面主要作戦終了を報告。英印軍は多くの捕虜を残してインドに退却、退路を断たれた支那軍の多くは疲労と飢餓に倒れつつ、フーコン河川を経て逃れました。 参考HP〜 ・ラングーンの場所地図(GoogleMap、日本語) | 
| 40 <占領地切手を発行> 1942/5/18 帝国軍、ビルマの攻略を完了 | 
| ビルマ郵便切手 | ビルマ独立記念として 1943 発行 | |
| 「水牛で耕作」  ビルマ通常切手 1942〜43 発行 | 「国旗をかつぐ少年」  ビルマ語表示 1943発行 | 「彫刻する兵士」  ビルマ語表示 1943発行 | 
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| ビルマ | シャン州 ビルマ語加刷 | |
|  「働く象」 |  「シャンの女性」 |  「荷馬車」 | 
| ビルマ 通常切手 1943 発行 | シャン州切手 1944 発行 | |
| 南東方面の情勢悪化によりビルマ方面への反攻も予想されるようになると、第15軍のみでは手薄なので、昭和18年3月ビルマ方面軍が新設され、逐次兵力は増加。連合軍はカサブランカ会談で昭和18年(1943)11月からビルマへの本格的反攻を開始することとなりました。 こちらで占領地切手 ・シンガポール陥落「加刷」切手 ・マライ占領地切手 ・フィリピン占領地切手 ・ボルネオ占領地切手 ・ブルネイ占領地切手 ・ジャワ・スマトラ占領地切手 ・ビルマ占領地切手・・・・・・・・・<↑上記↑> お楽しみください。 こちらで ・インド洋作戦 ・スラバヤ沖海戦 をお楽しみください。 参考:〜 ・航空母艦 冲鷹(ちゅうよう)の装備:〜就役:1942/11/25(昭和17年) 大日本帝国海軍の特設空母 冲鷹、大鷹型航空母艦の三番艦 竣工:1940/03/23、日本郵船の客船 新田丸(17,149屯)、三菱長崎造船所 改造:1942/11/25、航空母艦 冲鷹 
 参考HP〜 ・ビルマの地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/11、16/3/26 | |||||||||||||||||||||||||||