New Zealand

国連 1984 発行
切手で綴る 絶海の孤島(Lonly Island) No.12
ペンリン環礁島
Penrhyn Atoll

大航海物語
  地図編

PENRHYN
ペンリン環礁

ペンリン環礁の場所地図
英エリザベスU世女王とペンリン環礁の地図
ペンリン 1974−75 発行

Palau
クック諸島はタラワ島南東方の海上の南太平洋に有(赤丸印)、諸島北端にペンリンが有

パラオ 1991 発行 (小型シートより)




←赤丸


ペンリン環礁島
 Penrhyn Atoll
 
Northern Cook Islands
 別名:トンガレヴァ環礁島(Tongareva)
ペンリン環礁島は南太平洋の1901年にニュージーランドの属領となったクック諸島(15 Cook Islands)北方・北クック諸島(Northern Cook Islands)の最北端に浮かぶ絶海の孤島です。トンガレヴァ(Tongareva, Mangarongaro, Hararanga, and Te Pitaka)などとも呼ばれています。ラロトンガ島(Rarotonga)の北々東1,365km、赤道(equator)の9度南。クック諸島で最高峰の海底火山(4876m)。77kmのサンゴ礁に囲まれ、礁湖(lagoon)面積:233ku、内62ku:珊瑚礁(pearlshell)、陸上部分:9.84ku、最高地点:5m、人口:357(2001)、2006年: 200人に減少、最西端の小島(Moananui Islet)のオモカ村(Omoka)に役所と飛行場(第2次世界大戦中に建設)が有、最東端の小島ポケレネ(Pokerere Islet)にテ・タウツゥア村(Te Tautua)が有。宗教:75%がクック諸島の教会に所属、25%がカトリック。一時期、グアノ生産で奴隷が送り込まれたことが有。現在は黒真珠(Black pearl)が唯一の島の産物。1番切手:1902年ニュージランド切手に”PENRYHN ISLAND”加刷発行、1920年より”PENRYHN”切手発行。
ペンリン環礁の面積(233ku)は小豆島(153.30ku)より大きく、徳之島(247.77 ku)より小さい。

1788/8/8、レディー・ペンリン号ウィリアム・セヴァー船長がペンリン環礁島に寄航
    上陸してペンリン島と命名。その後ベネット島(Bennett Island)とも呼ばれる
1864年、スペイン領ペルー(Peruvian-Spanish)のブラックバーディング(blackbirding)で、
    奴隷1000人が連れ込まれる
1854年、ラロトンガ島からロンドン・ミッショナリー協会(London Missionary Society)から
    宣教師が来島して布教
1863年、住民500人中410人がブラックバーディングで誘拐され$5ドル売られてきた子供と
    4人の宣教師が報告して保護。さらにペルーへ売られる者もいた
1856-1980年、1856/8/18に米国連邦議会で可決されたグアノ島法で米国が主権を主張
1980年、米国との条約でクック諸島(Cook Islands)に帰属。
ココナッツの繊維で編んだリト・ハット(Rito hats:麦わら帽子?)と小さなカゴ(small baskets)が有(土産物)。クック諸島のラロトンガ島から3ヵ月ごとにタイヨーシッピング会社(Taio shipping company)の便船が有。第2次世界大戦中に建設された飛行場から島巡り観光と、ラグーン観光船が有。パナマニュージランド間太平洋横断ヨットが寄航。主食はココナッツパンノキの実と男が毎日ボートで海から捕ってくる魚。米(rice)と小麦粉(flour)はラロトンガ島から輸入。 ラロトンガ島

クック諸島 1965 発行

参考:〜
グアノ
  guano

グアノは島の珊瑚礁に、海鳥の死骸・糞・エサの魚・卵の殻などが長期間(数千年〜数万年)堆積して化石化したもので、肥料の資源として利用されました。主要な産地は南米(チリ、ペルー、エクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)。グアノの語源はケチュア語の「糞」でスペイン語経由で英語になったといわれています。リン鉱石が発見されるまで、最も主要なリン資源で、南洋の島々に多く、資源としては大量に存在するものではないため、かつての採掘地の多くはすでに掘り尽くされ、枯渇しました。かつては、グアノをめぐって戦争が起こったり(グアノ戦争:チリ対ボリビアの太平洋戦争)、米国は1856年に米国連邦議会で可決されたグアノ島法で海外侵略に乗り出しました。

・グアノ島法(アメリカ合衆国
  Guano Islands Act(1856/8/18)
「グアノ島法第1条」
あらゆる島、岩、珊瑚礁に堆積するグアノを米国市民が発見した際は、他国政府による法的管理下になく、他国政府の市民に占領されておらず、平和裡に占有してその島、岩、珊瑚礁を占領したときはいつでも、米国大統領の裁量で米国が領有したと判断して差し支えない。

・アメリカ合衆国が100以上の島の領有を宣言。
  今日でも管理下に置かれているのは:〜
・ベーカー島(Baker Island)、北太平洋にあるアメリカ領の無人島
  1857年、米国がグアノ島法を利用して領有
  19世紀後半、アメリカ、イギリスの会社により、グアノの採掘がおこなわれる
  1935年、ハウランド島、ジャービス島と共に入植が試みられるも、
  第2次世界大戦が開始されると島民は島外へ脱出し入植は結局放棄される。

・ジャービス島(Jarvis Island)、(中央ライン諸島
  1821/8/21、イギリスのエリザ・フランシス号(Eliza Francis)ブラウン船長(Brown)が発見
       船主のウィリアム・ジャービス(William Jarvis)に因んで命名
  1858年、グアノ島法で米国が併合
  1879年、グアノの採掘が中止となる
  1889年、イギリスが領土に編入するも、何も開発をせず30 August
  1913/8/30、イギリスの石炭輸送船ベルガンティン型アマランス号(barquentine Amaranth)
       ニールセン船長(C.W. Nielson)がニューカッスル(Newcastle, New South Wales)から
       サンフランシスコへの航海の途上、嵐で島の南部海岸で遭難、船員はボート2隻で
       パゴパゴ(Pago Pago, American Samoa)とアピア(Apia in Western Samoa)に辿り着く
  1935年、アメリカが再度領有を宣言。北西部のミラーズヴィル(Millersville)に測候所を設置、
       第二次世界大戦まで観測
  1942年、大日本帝国海軍の潜水艦が来襲、施設を破壊・焼却後ミラーズヴィル測候所職員
       が沿岸警備隊のテイニー号で避難
  1957-1958年、国際地球観測年の期間中、科学者の一団が訪問。19世紀のグアノ採掘跡や
       ミラーズヴィル施設などは嵐などで流出が確認される
  1974年、合衆国魚類野生生物局の管轄の元、ジャーヴィス島国立野生保護区となる
       (現在は合衆国太平洋離島海洋ナショナルモニュメントの一部)。

・ハウランド島(Howland Island)、ベーカー島に同じ。

・キングマン・リーフ(キングマン岩礁、Kingman Reef)、(北ライン諸島
        北太平洋の北ライン諸島最北端、パルミラ環礁の北北西約 65kmに有
        底辺15km、高さ7km程の三角形の環礁。東端部の僅かな部分(海抜:1m未満)の他
        は水没状態か波に洗われている。中央部の礁湖(最大水深70m位)を含めた
        環礁面積:60ku位。米国の非自治的未編入領域であり、米軍が統轄
        無人で、現在は上陸禁止。
  1798/06/14、アメリカのエドモンド・ファニング船長が発見
  1853/11/29、キングマン船長(W. E. Kingman)が再発見、
        アメリカの領土と宣言、環礁名はキングマン船長に因む。

・ジョンストン環礁(Johnston Atoll)、
        アメリカ合衆国領の北太平洋の環礁。ハワイ諸島オアフ島から西に約1500km、
        ミッドウェー島からは南に約1000kmに有。無人島
  1796/9/2、米国のブリッグ船サリー号(brig Sally)ジョセフ・ピアポイント船長(Joseph Pierpont)
       が偶然に島近くの浅瀬に到着、後日に著作で島の発見を主張
  1807/12/4、イギリス軍艦コーンウォリス号(HMS Cornwallis)の艦長チャールズ・ジョンストン
       (Charles J. Johnston)が発見。艦長自ら自分の名を付けジョンストン島と名付ける
  1858年、ハワイ王国とアメリカがそれぞれ領有を宣言
  1890年頃まで、アメリカがグアノ島法を適用しグアノの採掘を行う
  1898年、ハワイ王国がアメリカに併合される
  1934年、北太平洋の戦略上の要衝のため、アメリカ海軍が基地を設置
  1950-1960年、高高度核爆発などの核実験を行なうための地域、
        また偵察衛星の打ち上げ基地として使用される
  2000年まで、化学兵器の保管庫(ジョンストン環礁化学物質廃棄施設、JACADS)として使用
  2001年、アメリカの太平洋化学兵器計画(USACAP)終了、
        兵器の廃棄処理と施設の撤去作業が始まる
  2004年、空港が閉鎖され、無人島となる。〜滑走路(airstrip)が有
・ジョンストン環礁の島々:〜ジョンストン島と他3つの小島
  ・ジョンストン島(Johnston):珊瑚礁浚渫・埋立で拡張
  ・サンド島(Sand)
  ・アカウ島(Akau):人工島
  ・ヒキナ島(Hikina):人工島。

・パルミラ環礁(Palmyra Atoll)、(北ライン諸島
        ハワイ諸島の南南西約1600kmに有、北ライン諸島に属し、環礁の周囲:約14.5kmで、
        ウェストラグーン (West Lagoon) と呼ばれる礁湖は唯一停泊が可能。広大な暗礁、
        2つの浅い礁湖、50余の砂やリーフの小島や砂洲で、そのほとんどはココヤシ(外来
        種)、スカエボラ、ピソニアなどの植生に覆われ、西端のサンド島と東端のバレン島を
        除き、全ての小島は繋がっている。最大の島は北側のクーパー島で、次は南側のカ
        ウラ島。年間降水量は4445mm、日中の平均気温は年間を通じて摂氏29.4度
  1798年、アメリカのエドモンド・ファニング船長が発見
  1802/11/7、 アメリカのパルミラ号(U.S.S. Palmyra)が環礁で座礁、ソール船長(Captain
      Sawle)が上陸して「パルミラ」と命名
  1816年、アメリカの捕鯨船が筏で漂流していたスペイン人船乗りを救助。船乗りはインカ帝国
      の黄金の財宝を積んだ海賊船エスペランサ号だと話し、エスペランサ号は
      パルミラ環礁で座礁し、仲間と略奪品を島に隠したと話す
  1859年、米国グアノ会社がグアノ島法でグアノ採掘のため、島を領有するもグアノは無し
  1862年、ハワイ王国に併合される
  1866年、ウィルキンソン夫妻(Johnson Beswick Kalama Wilkinson)が1862−1885の間に渡る
  1898年、アメリカがハワイを併合してアメリカ領となる
  1889年、英国のコーモラント号(HMS Cormorant)ニコルス船長(Nichols)が英国の領有を宣言
  1911年、ヘンリー・クーパー(Henry Ernest Cooper 1857-1929)が島を買い取る
      島での短距離離着陸機のため2年間(後に$15,000で売却)
  1922年、ハワイ人のフラード・レオ家がクーパーから島を買い取り、島を所有する。レオ家は
      パルミラ・コプラ・カンパニーを設立し、家族でコプラのため環礁でココヤシを育てる
      も、レオ家もこの島を第2次世界大戦(1940-1945)中にアメリカ海軍に接収される
  1934年、ジョンストン島とキングマン・リーフと共に海軍管理下に置かれ、米海軍は太平洋横断
      の輸送機用の滑走路や港を環礁に建設。米海軍は戦後に放置するも、軍は手放さず
      フラード・レオ家(Leslie & Ellen Fullard-Leo)は返還を求めて訴訟を起こす
  1947年、アメリカ連邦最高裁が所有権を認める
  1959年、ハワイが州に昇格した時、パルミラ環礁はハワイ州の領域に含まれず
  1974年、アメリカ人夫婦の殺害事件が発生、それを元にした実話小説「And the Sea Will Tell」
      (法律家ビンセント・ブリオーシ、ブルース・B・ヘンダーソン共著)が発表されヒット
  1992年、「美しき容疑者(And the Sea Will Tell)」としてテレビドラマ化される
  1990/7、ピーター・サビオがホノルルでパルミラ開発会社を設立
      2065年までの期間でパルミラ開発会社パルミラ環礁を賃貸借契約。観光でリゾート地
      や複合住宅地、ミサイルや衛星の発射場などの建設、さらにアメリカ政府が核貯蔵
      所としての目的などで環礁を買い取りたい申し入れがあるも
      最終的に、レオ家との3年間に及ぶ交渉の末、
  2000/11、米国自然保護団体ネイチャー・コンサーバンシーがパルミラ環礁の所有権を3000万
      ドルで買取り、パルミラ環礁を所有してパルミラ環礁一帯の保護に努め、ラグーンと
      領海はアメリカ政府魚類野生生物局に移管される
  2001/01、パルミラ環礁は国指定野生生物保護区に指定。
・パルミラ環礁の主な島々:〜
  ・サンド島(Sand Island)
  ・バレン島(Barren Island)
  ・クーパー島(Cooper Island)〜滑走路(airstrip)が有
  ・カウラ島(Kaula Island)
  ・ストロウン島(Strawn Island)
  ・アヴィエイション島(Aviation Island)
  ・クゥアイル島(Quail Island)
  ・ウィッポーウィル島(Whippoorwill Island)
  ・イースターン島(Eastern Island)
  ・パパラ島(Papala Island)
  ・ペリカン島(Pelican Island)
  ・バード島(Bird Island)
  ・ホレイ島(Holei Island)
  ・エンジニーア島(Engineer Island)
  ・タナジャー島(Tanager Island)
  ・マリネ島(Marine Island)
  ・カウラ島(Kaula Island)
  ・パラヂス島(Paradise Island)。

・ミッドウェイ環礁(Midway Atoll)、
  北太平洋のハワイ諸島北西にある島(環礁)。面積は6.2ku。アメリカ領太平洋諸島に属する
  環礁で、環状の礁と幾つかの島(大きいものはサンド島、イースタン島の2つ)から構成される。
  1859/7/5、米国の捕鯨船ガンビア号(sealing ship Gambia)ブルックス船長(Captain Brooks:
      N.C. Middlebrooks)が発見、ミドルブルック島(Middlebrook Islands)と命名
  1867/8/28、米軍艦ラッカワナ号(USS Lackawanna)レイノルド船長(Captain William Reynolds)
      が、アメリカ合衆国による領有を宣言し、ミッドウェー(Midway)島と命名
  1871年、太平洋郵便船会社(Pacific Mail and Steamship Company)がアメリカ議会の仕事で
      ハワイの高額な出費を伴う港湾の使用を避ける給炭所を作るためサンゴ礁を発破・
      浚渫して水道を開く航路工事を開始。
  1871/10、計画は失敗に終わり、人員は撤退
  1903年、電信ケーブル会社(Commercial Pacific Cable Company)が太平洋横断の電信ケーブ
      ル敷設のため上陸、後にアメリカ海軍の管理下におかれ、21人の海兵隊員が駐留
  1935年、パンアメリカン航空の飛行艇が米国〜中国航路を開設後、中継地となるミッドウェー
      島の場所は軍事的に重要な場所でもあり太平洋を横断する航空機の給油地となる
  1940年初め頃、ハワイ防衛の拠点として、軍事基地化が進む
  1942/6/4、ミッドウェー海戦
  1996年、冷戦期にアメリカ海軍の基地が置かれていたが、冷戦終結後、島は自然保護区
      (ミッドウェー環礁国立自然保護区)となることが決定され、軍事基地は閉鎖され、
      その後はエコツーリズムの場として観光客の受け入れが行われる
  2002年、エコツーリズムが中止となる
  2010年、アメリカ内務省魚類野生生物局の管理となり、担当官が数十名駐在するだけの
      島。一般人には無縁の島となったが、その地理的環境から、稀に太平洋横断航空機
      が緊急着陸することがある他、島内にミッドウェー海戦の慰霊碑がある関係から、
      日本の自衛隊の艦船が立ち寄ることがある。
・ミッドウェー環礁の島々:〜
  ・サンド島(Sand Island)〜飛行場が有
  ・スピット島(Spits Island)
  ・イースタン島(Easter Island)〜滑走路(airstrip)が有
  ・サンド小島(Sand Islet)

その他は全て資源枯渇後に放棄されるも、ナバッサ島は現在ハイチとアメリカ合衆国の2国がその領有を主張しあっている。セラニャ・バンクとバホ・ヌエボ・バンクは更に複雑で、アメリカ合衆国を含めて3カ国以上が領有の主張を行っている。1971年に、米国はホンデュラスと条約を結びスワン諸島がホンデュラスの領土であることを確認。

なお、太平洋のメキシコ沖に浮かぶクリッパートン島は、1858年にフランスが当時のハワイ政府に対し領有を宣言してフランス領となるも、メキシコが領有権を主張して「帰属問題の裁判」となり、1931年の判決で正式にフランス領と認定され、その後クリッパートン事件が国際法上の慣例になる。
クリッパートン島

フランス 2011 発行

ナヴァッサ島
  英: Navassa Island,
  仏: La Navase
ナヴァッサ島は、カリブ海は大アンティル諸島に属する島で、キューバハイチとジャマイカの間にある。アメリカ合衆国が領有を宣言し実効支配中だが、ハイチも領有権を主張している。岩肌が露出した面積5.2kuの島。
ナヴァッサ島は1504年にジャマイカで座礁し動けなくなったクリストファー・コロンブスが助けを得るため、カヌーでイスパニョーラ島に何人かの船員を送った時に発見された。淡水もなく、「ナヴァーザ島(Navaza)」と名付けその後航海者たちからは350年の間振り返られることもなかった。 その以前からハイチが領有を主張していたにもかかわらず、
1857年にピーター・ダンカンというアメリカ人が再「発見」したとし、アメリカ合衆国連邦法のグアノ島法を利用しグアノ採掘のためアメリカ合衆国領有とされる。ダンカンは島の私有権をジャマイカのグアノ商人に譲渡し、その商人はボルチモアのナヴァッサ燐鉱会社(Navassa Phosphate Company)に譲渡した。南北戦争後、メリーランド州の黒人契約労働者140人の飯場、白人監督者用住居、設備工房、倉庫、教会を含む大規模な採掘施設を建設。グアノ採掘は1865年から開始。ダイナマイトとツルハシで採掘し、会社のバーク船「S.S.ロマンス」に載せるルル・ベイの船積み場までトロッコで運搬した。ルル・ベイの居住区はルル・タウンと呼ばれ、古地図に記されている。線路はその後内陸部にまで敷設された。 南国で人力でのトロッコ輸送は過酷で、島の労働環境への不満が高まり、1889年に暴動が起き5人の監督者が死亡。アメリカの軍艦が18人の労働者を連れ帰り、ボルチモアにて殺人罪のため起訴した。黒人友愛団体やキリスト教系漁師団体などが資金を募り、起訴された黒人たちの行動は自己防衛であり、また当地はアメリカ合衆国の法治地域でないとして弁護した。裁判は1890年に連邦最高裁にまで行き、3人が死刑判決となったが黒人教会を中心とした草の根運動が当時の大統領ベンジャミン・ハリソンを動かし無期懲役刑に減刑された。
グアノ採掘はその後も小規模だが継続したが、1898年の米西戦争でナヴァッサ燐鉱会社は島からの退去を命じられ倒産した。 ナヴァッサはその後1914年のパナマ運河完成により再び脚光を浴びる。アメリカ東海岸からパナマ運河への航路はキューバとハイチの間をウィンドワード海峡を通過するため、ナヴァッサは航路上障壁となり灯台が必要となった。
1917年にアメリカ合衆国灯台運営所は海抜120m、46m高のナヴァッサ島灯台を建設。
1929年に自動灯台となるまで灯台守1人とアシスタント2人が常駐した。灯台運営所がアメリカ沿岸警備隊に吸収され、1939年以降は 年2回維持作業を行った。第二次大戦中はアメリカ海軍は観測所を設置。その後は無人島となっていた。第二次大戦後はアマチュア無線愛好家が時々、この島にアメリカ・アマチュア無線連盟(ARRL)によって与えられた地域コード(コールサイン)でのDX運用のため訪れている。現在、島周辺の海域はハイチ人の漁場となっている。またハイチ人が、島にいるヤギの狩猟も行っている。
行政としては
1903年から1917年の間、ナヴァッサ島はグァンタナモ米軍基地の一部としてアメリカ海軍の管轄下に置かれていたが、1917年よりアメリカ沿岸警備隊の管轄下となり、1996年からはアメリカ合衆国内務省の管轄下となって、1996年8月には沿岸警備隊はナヴァッサ島灯台を廃止した。内務省は合衆国領有小離島のひとつとして分類した。さらに
1999年よりアメリカ合衆国魚類野生生物局の管轄に移譲され、国指定野生保護区(National Wildlife Refuge)に指定された。但し政治及び法務的には内務省島嶼局が引き続き管轄している。一般人のナヴァッサ島への上陸は危険とされ、プエルトリコのボケロン(Boqueron)にある魚類野生生物局事務所に上陸許可を得る必要がある。その後アマチュア無線愛好家の立ち入りは許可が下りていない。現在でもハイチがアメリカへの併合に対して抗議し、島の領有権を主張しているが、アメリカ合衆国はそれを退け、1857年から合衆国未編入地域で現在は領有小離島であるとしている。

セラニャ礁(セラニャしょう)
  Serranilla Bank

  別名:セラニャ・バンク
セラニャ礁はニカラグアから北東の方のカリブ海に浮かぶ、小さな岩礁とウェスト・ブレーカー(West Breaker)、ミドル・キー(Middle Cay)、ビーコン・キー(Beacon Cay)などの小礁の島からなる礁で、最も大きい礁はビーコン・キー。 1510年にスペインの地図上で最初に掲載。アメリカ合衆国はグアノ島法を利用して1879〜1880年の間に礁を領有。1962年のキューバ危機(The Cuban Missile Crisis)の際に、アメリカは海兵隊の軍事基地と灯台を建設して使用。1982年に幾つかの礁がコロンビアに返還されるも、米国はセラニャ礁がそれらには含まれていないと、米国未編入地域かつ領有小離島として実効支配。特にウェスト・ブレーカー、ミドル・キー、ビーコン・キー、イースト・キーについて領有権を主張。現在コロンビアは自国のサンアンドレス・プロビデンシア県に所属するとして領有権を主張。 しばしばロブスター漁師が礁に訪れるが、上陸には特別な許可が必要。

バホ・ヌエボ礁 (バホ・ヌエボしょう)
  Bajo Nuevo Bank

  別名:ペトロール諸島、Petrel Islands
バホ・ヌエボ礁は西カリブ海にある無人礁群のうちの一で、一部アメリカ合衆国の領土でも、コロンビアなどと領有問題が有。バホ・ヌエボ礁は長さ約26km、幅約9kmで、衛星写真では2つの環礁が最もせまいところで幅1.4kmの深い水路を隔てて並んでいるのを確認。大きい方は南西のロー・キー(Low Cay)という小礁で1980年に建てられた21m高の灯台が有。バホ・ヌエボ礁は1634年にオランダの地図に初めて登場。1654年に現在の名前で記される。1660年にはイギリスの海賊ジョン・グラバー(John Glover)が礁を再「発見」。今日ではロブスター漁の漁師が頻繁に来礁。1856/8/18に米国がペトロール諸島の名で、グアノ島法を利用して領有権を主張。サン・アンドレス島とプロビデンシア島周辺の島で、グアノ法で領有したほとんどの島嶼は1981年にコロンビアに返還されるも、バホ・ヌエボ礁がこれらに含まれるか否かは不明確。米国はアメリカ領であり未編入領域としている。コロンビアは自国のサン・アンドレス・イ・プロビデンシア県に所属するとしても領有権を主張。またジャマイカ、ニカラグア、ホンジュラスも領有権を主張。

参考HP:〜
ペンリン環礁島の地図
ペンリン環礁島の場所地図
ブラックバーディング(blackbirding)の拡大地図
中央太平洋の地図(Cook Islands、Jarvis I、Kingman R、Palmyra A、など有)
キングマン・リーフの地図
ジョンストン環礁の地図
ミッドウェイ環礁島の地図(日本語)
ナヴァッサ島の場所地図(ジャマイカ島とハイチの間に有)
セラニャ・バンクの場所地図
サンアンドレス・プロビデンシア県の地図(島)
サンアンドレス・プロビデンシア県の場所地図
アメリカ領リーフの場所地図(太平洋)

こちらで世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/6/5、12/6/15, 2021/9/13

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