United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る 殖民大航海(Colonial Voyages)
ウィリアム・ぺン
1682
フィラデルフィア建設

大 航 海 物 語
 イギリス編

UNITED STAES POSTAGE
ウィリアム・ペン

アメリカ 1932 発行

ST.CHRISTPHER NEVIS ANGUILA
English Two Decker


1600年代当時の2層甲板軍艦
砲列甲板が2重構造
セント・クリストファー・ネヴィス・アンギラ 1970 発行
BARBUDA
チャールズ2世

バーブーダ 1970 発行

イギリスのクエーカー教徒ウィリアム・ペンは、1682年にはペンシルベニアに入植してフィラデルフィア市を建設し、ペンが示した民主主義重視はアメリカ合衆国憲法に取り入られました。生涯に2度大西洋を越えて大航海して新大陸アメリカに渡り、イギリスで74才で亡くなりました。
・ウィリアム・ペン
 (William Penn, 1644/10/14-1718/7/30)
ペンの父親ウィリアム・ペン(Sir William Penn、1621-1670)はイングランドの提督で、第一次英蘭戦争ではイングランド海軍に従軍してグッドウィン・サンズの海戦(1652/5/29, Battle of Goodwin Sands)、ケンティッシュノックの海戦(1652/10、Battle of Kentish Knock)、ブレーク提督旗下のポートランドの海戦(1653/2、Battle of Portland)、ガバードの海戦(1653/6、Battle of Gabbard)、シェヴェニンゲンの海戦(1653/8、Battle of Scheveningen)で戦隊を指揮しました。 1655年艦隊を指揮してジャマイカ島を占領してイングランド領としました。1660年の王政復古の際にはネーズビーに馳せ参じ、亡命中だったチャールズ2世をイングランドに迎え入れ、王政復古で地位を守り通した「穏健な」議会派でした。第二次英蘭戦争では、王弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の旗下、ローウェストフトの海戦(1665/6、Battle of Lowestoft)で艦隊長を務めていました。王政復古後にチャールス2世からアイルランドに土地を得ていた裕福なイングランド国教会信徒の家でペンは生まれました。

1666年に22才でクエーカー教徒(キリスト友会徒)になりました。クエーカーは内なる光に従い、その光は神から直接来ると信じ、国王の権威を否定し、平和主義を掲げていますので、宗教裁判にかけられ迫害を受けました。時はオリバー・クロムウェル(1599-1658)が没して間もない騒乱の時期で、クエーカーは異端の考えと、国王への忠誠を拒否したことで裁判にかけられ、1668年に24才のペンは「三位一体の教え」を攻撃する小冊子「揺れる砂上の楼閣」を書いて投獄されました。ペンは少年期に宗教教育を受けたエセックスのチグウェル校で教育を受けました。その後自身の宗教観の故に事実上イングランド社会から追放され、クエーカーであるがためにオックスフォードのクライストチャーチ大聖堂から破門され、数回逮捕されました。クエーカーに対する迫害が厳しくなり、ペンは北アメリカに新しい自由な新天地を求める気持ちが強くなりました。既に北米に移住したクエーカーもいましたが、特にニューイングランドのピューリタンは、クエーカーの移住に否定的で、帰国を要求し、カリブ海地域への立ち入りが禁止される者もいました。

1677年にペンたちは著名なクエーカーとして新大陸の西ニュージャージー地区(現在のニュージャージー州西部)を受領する機会に恵まれました。同じ年にイギリスのハートフォードシャー州のチョーリーウッドとリックマンスワースとバッキンガムシャー州から200人の開拓者が大西洋を越えて、新大陸のペンシルバニアに到着しバーリントンに入植しました。ペンはこの計画に関わったもののイングランドに残り、開拓のための自由憲章の草稿を書き上げ、自由で公平な裁判、信教の自由、不当に収監されない自由、自由選挙を保証し、これがアメリカの民主主義の元祖となりました。チャールズ2世はペンの父親に借金があり、1681/3/4にニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を保証することで弁済に当てました。
ペンはこの領地をシルバニア(Sylvania、ラテン語で「森」)と名付けましたが、チャールズ2世はペンの父親に敬意を表してこれを「ペンシルバニア」と改めました。ペンシルバニア最初の郡のひとつは、ペンの家族の出身地のイングランドのバッキンガムシャー州に因んでバックス郡と名付けられ、そこから初期の開拓者がきました。地域におけるペンの権力は、公式には国王に従ってはいたが、「政府の枠組み」を通して信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立(後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えであることを再度指摘する)と共に民主的な制度を実行ましした。 Charles II

1649-1685
ペンシルバニアの信教の自由(神を信じる者全てに対する完全な信教の自由)は、、この地に来るイギリスのイングランドやウェールズ、ドイツ、オランダのクエーカーだけでなく、カトリックのドイツルター派同様ユグノーにも与えられました。ペンはペンシルバニアが自分と家族が儲けられる土地になることを望んでいましたが、ペンはヨーロッパ中に様々な言語でペンシルバニアを売り込んだ結果、移民が大挙して押し寄せ、ペンシルバニアが急激に成長し変化した割には、ペンや家族が潤うことはありませんでした。ペンは後にイングランドで借金のために収監され、死んだ1718年には無一文でした。

1682年にペンは大西洋を越えて、新大陸ペンシルバニアに渡りました。フィラデルフィア(Philadelphia city、Pennsylvania state、USA)建設計画が完成し政策案が実行に移されると、各地を巡視に出かけました。先住民と(最初はレニレナペ族、別名デラウェア族)友好関係を結び、土地への支払いは公正に行うことを確約しました。ペンは通訳を用いずに交渉する中で先住民に数種類の方言があることを知りました。ペンはヨーロッパ人が先住民に不法行為をすると双方から同数の人が出て公平な審理を行う法を紹介しました。この方法は成功し、後の植民者がペンたち最初の植民者のように公平に先住民を扱わなくても、植民者と先住民は他のイングランド植民地より長くペンシルバニアで共存しました。ペンはフィラデルフィアのケンジントン近くのシャカマクソンの先住民とも楡の木の下で協定を結びました。ペンは征服より事業を通じて植民地を得ることを選択し、条約に基づき適正と思う金額1200ポンドを先住民に支払いました。仏のヴォルテールはこの「大協定」を「この人達(先住民とヨーロッパ人)の間で唯一口約束でもなく破られもしなかった協定」と賞賛しました。1684年にイギリスに帰国しました。

ペンは1699年にアメリカをもう一度訪れ、アメリカの全イングランド植民地を連邦化する計画を推し進めました。奴隷制との闘いを訴えましたが、自分が奴隷を所有し取引していたので成功しませんでした。しかし、奴隷の処遇を向上させ、他にペンシルバニアのクエーカーが初期の奴隷制反対運動に加わりました。ペンは自分もフィラデルフィアに移住を欲するも、金銭問題で1701年に帰国を余儀なくされました。資産アドバイザーのフィリップ・フォードが大きな借金をペンに作り、フォードの陰謀でペンはペンシルバニアを失いかけていました。次の10年は主としてフォードとの法廷闘争に明け暮れました。ペンはイングランドにペンシルバニアを売却しようとしましたが、交渉が行われているうちに、1712年に人事不省になる発作を起こし、 ペンは1718年に74才で亡くなり、イングランドのバッキンガムシャー州チョーフォントのジョーダンズ村クエーカー集会所の墓地で最初の妻の隣に葬られました。家族はアメリカ独立戦争までペンシルバニアの所有権を持ち続けました。

1987/11/28に米国ロナルド・レーガン大統領は、大統領布告第5284号により、ウィリアム・ペンと二番目の妻ハナ・カロウィル・ペンをそれぞれアメリカ合衆国名誉市民にすると発表しました。なお、1821年にはノールウェイのクーカー教徒ペアソンニューヨークに入植しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        08/1/5
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