United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る 海軍大航海 (Naval Voyage)
ブレーク海軍総統
1651、
1653、
イギリス市民戦争、勝利
ポートランドの海戦、勝利


大航海物語
イギリス編

ブレーク提督とトライアンフ号

イギリス 1982 発行

イギリス市民戦争
ピューリタン革命(清教徒革命)
1642 イギリス市民戦争350年記念 1982
イギリス 1982/6/16 発行

英国イングランドのサマーセット州ブリッジウオーター近郷生れのブレイク卿はイングランド内戦が勃発すると、議会派市民軍に身を投じ、故郷近くのトーントンが王党派の三度に渡る包囲攻撃の防衛隊を指揮して耐え抜いて王党派軍を撃退するなど、王党派と戦って議会派の勝利に貢献しました。イングランド共和国が誕生すると海軍総司令官に指名されて、ブリストルから脱出した王党派ルパート王子の艦隊をシリー諸島沖にて壊滅させました。オランダとの英蘭戦争が勃発すると、オランダ艦隊と戦って勝利して英仏海峡の制海権を勝ち取りました。英西戦争が勃発するとスペイン艦隊と戦っての帰途、旗艦トライアンフ号艦内にて51才で病没しました。
シニック港ワーデン卿 ロバート・ブレーク 海軍総統
 (Sea General Robert Blake, Lord Warden of the Cinque Ports, 1599/9/27〜1657/8/17)
 (海軍総統:イングランド共和国海軍の提督 兼 長官)
ブレイク卿はイギリスのサマーセット州ブリッジウオーター近くのタックスウェル(Tuxwell)の荘園領主の家で生まれ、1625年にオックスフォード大学ウォドム・カレッジ(Wadham College, Oxford)を卒業した後、6年間貿易に従事して、5年はオランダのスキーダム(Schiedam, South Holland Province, Netherlands)に住んで、1638年に母親が亡くなったためにブリッジウォーターに戻って、議会選挙に立候補しました。1640年ブリッジウオーター選出で長期議会(Long Parliament, 1640/11/3-1653/4/20)の庶民院(現 House of Commons of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)議員に選出されました。

イングランド内戦(ピューリタン革命:清教徒革命)の勃発と共に議会派軍に身を投じ(1641-1651)、イングランド西部で戦いました。イングランド内戦(王党派と議会派の戦い)では、不利と思われていた議会派トーントン党側を援護(1644〜45)して勝利。これが、西部の王党派の軍を釘付けにする役割も果たし、戦略上議会派が有利になる展開で戦争の明暗を分け、議会派の勝利に貢献し、イングランド共和国(Commonwealth of England, 1649-1660)が誕生しました。

1641年、ブレーク卿はニューモデル軍アレクサンダー・ポファム連隊(Alexander Popham's regiment, New Model Army)の隊長(Captain)としてイングランド内戦に参戦後、議会派軍を指揮。ブリストルの包囲戦(1643/7)で中佐(Lieutenant colonel)に昇進。ライム・レジスの包囲戦(1644/4)でライム・レジスを保持する上で主導的な役割を果たした後、大佐(Colonel)に昇進。トーントンの包囲戦(1645/7)でトーントンの地を守り切った後、ダンスターの包囲戦に勝利(1645/11)。

<イングランド内戦で議会派軍を指揮>陸戦、1641〜1649
ブリストルの包囲戦(Siege of Bristol, 1643/7)
ライム・レジスの包囲戦(Siege of Lyme Regis, 1644/4)
トーントンの包囲戦(Sieges of Taunton, 1644/9-1645/7)
ダンスターの包囲戦(Siege of Dunster, 1645/11)
など。

1649年に50才で海軍総統(Sea General(General at sea)議会派イングランド共和国海軍の最高司令官)に任命されました。翌1650年にブリストルから脱出した王党派ルパート王子の艦隊をコーンウォール半島の南西まで追撃して撃破し、シリー諸島(Isles of Scilly)を占領しました。これで、王党派艦隊を壊滅させてイギリス海峡の制海権を確保しました。
<イングランド内戦の海戦>1649〜1651
アイルランドのキンセール港封鎖
 (Kinsale, Ireland、1649/5/22〜1649/10嵐で解除)
 クロムウェルのダブリン上陸支援(1649/8/15)
・マラガ沖海戦(ポルトガル艦隊と交戦)
 (Battle of Malaga, 1649/11/3, Malaga, Andalucia, Spain)
・シリー諸島を占領
 (Isles of Scilly)イギリス南西部コーンウォール半島の沖に浮ぶ島々
・など。
シリー諸島の地図

イギリス 2000 発行
1651年には補欠選挙で、イングランド共和国の国務会議(English Council of State)委員(1651-1652, 国会議員)に選出されました。

第一次イギリス・オランダ戦争(1652〜1654)が勃発すると、イギリス艦隊を率いて、オランダのトロンプデ・ロイテル指揮の艦隊とたびたび戦火を交えて戦いました。1653年ポートランドの海戦でトロンプを破って、オランダの海洋支配に終止符を打ち、イギリスの海洋支配に貢献しました。

<英蘭戦争の海戦>
・グッドウィン・サンズの海戦、ドロー(Inconclusive)
  (Battle of Goodwin Sands, 1652/5/19(ドーバーの海戦)
英仏海峡の地図

ジャージー 1988 発行
・ケンティッシュ・ノックの海戦
 (Battle of the Kentish Knock, 1652/9/28)英の勝利
・ダンジュネスの海戦
 (Battle of Dungeness, 1652/11/30)蘭の勝利
・ポートランド沖海戦(Battle of Portland, 1653/2/18-20)英の勝利、重傷を負う
・など。

・1655年チュニス沖でバーバリー海岸の海賊船団を撃破
時には敗戦の苦渋をなめながらも海戦で単縦陣を用いた艦隊戦術を編み出し大きな戦果を得て勝利して、商船と軍艦の混用廃止と艦隊司令長官が軍法会議を召集出来るように規定、また重装備の戦列艦建造を促進、海軍力の充実・強化に努めました。第一次英蘭戦争から身を引いても海軍活動を続け、1653年にベアボーンズ議会で議員に選出されるも、翌1654年に地中海へ派遣されて、1655/4月にバルバリア海賊掃討の任務に就き、海賊の根拠地であるチュニジアのビゼルト県ファリーナ岬南側のポルト・ファリーナ港(現ガールエルメル:Ghar el-Melh)を艦砲射撃で壊滅しました。その後は海軍行政に携わっていましたが、1656年勃発のイギリス・スペイン戦争で、イギリス艦隊を指揮して戦い、同年シニック港ワーデン卿(Lord Warden of the Cinque Ports)の称号を授与されました。翌1657年、カナリア諸島のテネリフ島サンタ・クルス・デ・テネリフェ沖の海戦で、スペイン・西インド艦隊(財宝輸送船団)を襲って撃破。イギリスへの帰航中に旗艦トライアンフ号艦内で病没しました。

<英西戦争の海戦>(Anglo-Spanish War, 1654-1660)
・スペイン海岸で海上封鎖、軍艦・火船・補給船など約40隻
  (Blockade of Cadiz, 1656/4〜1657/2)、総司令官ブレイク郷
・ビーゴ港襲撃、フリゲート艦8隻
  (Raid on Vigo, 1656/6/24)、司令官ブラッグ大尉(Captain Edward Blagg)
・マラガ港襲撃、フリゲート艦5・火船1隻
  (Raid on Malaga, 1656/7/21)、司令官スミス大尉(Captain Smith)
  (HMS Henry (64) , HMS Ruby (40) , HMS Antelope (40) , HMS Greyhound, HMS Bryan)
・カディス港襲撃、フリゲート艦8隻
  (Battle of Cadiz, 1656/9/9)、司令官ステイナー大尉(Captain Richard Stayner)
  ・スピーカー号(HMS Speaker (64gn) 、Cpt. Richard Stayner、旗艦)
  ・トレダー号(HMS Tredagh (52gn) 、Cpt. John Harman)
  ・プリマス号(HMS Plymouth (52gn) 、Cpt. ?)
  ・ブリッジウォーター号(HMS Bridgewater (52gn)、Cpt. Anthony Earning)
  ・ダイアモンド号(HMS Diamond (60gn)、Cpt. Gilbert Gott)
  ・他3隻。
・カナリア諸島サンタ・クルス・デ・テネリフェを襲撃
  (Battle of Santa Cruz de Tenerife, 1657/4/20)、総司令官ブレイク郷
  城塞とスペイン艦隊を攻撃して撃破・勝利
 ・イギリス艦隊22隻:〜
  ・ブリッジウォーター号(HMS Bridgewater, 52gn)
  ・ブリストル号(HMS Bristol, 44gn)
  ・センチュリオン号(HMS Centurion, ?gn)
  ・コルチェスター号(HMS Colchester, ?gn)
  ・コンヴァート号(HMS Convert, ?gn)
  ・フェアファックス号(HMS Fairfax, ?gn)
  ・フォアサイト号(HMS Foresight, 52gn)
  ・ジョージ号(HMS George, 40gn)
  ・ハンプシャー号(HMS Hampshire, 42gn)
  ・ジャージー号(HMS Jersey, 40gn)
  ・ラングポート号(HMS Langport, 50gn)
  ・ライム号(HMS Lyme, 60gn)
  ・メードストン号(HMS Maidstone, 40gn)
  ・ナントウィチ号(HMS Nantwich, 40gn)
  ・ニューベリー号(HMS Newbury, 52gn)
  ・ニューキャッスル号(HMS Newcastle, 44gn)
  ・プリマス号(HMS Plymouth, 60gn)
  ・スピーカー号(HMS Speaker, 62gn)
  ・スゥイフトシャー号(HMS Swiftsure, 42gn)
  ・ユニコーン号(HMS Unicorn, 46gn)
  ・ウィンスビー号(HMS Winsby, 44gn)
  ・ウォーセスター号(HMS Worcester, 60gn)
 ・スペイン艦隊:〜
  ・戦艦ジーザス・マリア号(Jesus Maria)
    司令官ディエゴ・デ・エグエス(D. Diego de Egues)
  ・戦艦コンセプシオン号(Concepcion)
    司令官ホセ・センテノ(D. Jose Centeno)
  の戦艦2隻など。

帰国途上に熱病でプリマス沖にて没、ウェストミンスター寺院に埋葬。
没後、ブレイク郷の功績を称えて幾つかの軍艦名をブレイク郷に因んで命名(HMS Blake)。

・トライアンフ号の装備:〜
  HMS Triumph
、1623
船 型 2等戦列艦(42-gun Great ship) トライアンフ号
帆 柱 3本マスト
長 さ 34m
11.13m
深さ 5.2m
重 量 935.8屯
武 装 各種砲64門、1666年72門
進 水 1623、ロンドン(Deptford Dockyard)
最 後 1688、売却

参考:〜
・第一次ブリストルの包囲戦
  (1st Siege (Storming) of Bristol, 1643/7/26)
ブリストルの包囲戦は、英国イングランドの南西のブリストル市で、第一次イングランド内戦(1642-1646)中に勃発しました。ブリストルは重要な港湾都市で、議会派が抑えていた都市を王党派が包囲攻撃しました。その前哨戦が、1643/7/13にウィルトシャーのデビズ近郊のラウンドウェイ・ダウンでラウンドウェイ・ダウンの戦い(Battle of Roundway Down)が起り、中将ヘンリー・ウィルモット卿の王党派騎兵隊(Royalists Cavalry)がウィリアム・ウォラー卿の議会派軍(Parliamentarian Army)を壊滅させて圧倒的な勝利を収めました。2日後、ウィルモット卿の王党派騎兵隊が北からブリストルへと迫りました。
チャールズ1世

バーブダ 1971 発行
南からは総司令官のルパート王子が王党派軍(Royalists Army)を引きいてブリストルへと迫りました。1643/7/26にルパート王子の王党派軍が南北からブリストルを包囲攻撃。議会派防衛軍(Parliamentarian Garrison)は惨敗してブリストルは占領されました。その戦いでブレイク郷が町の防衛隊を指揮して奮戦し、中佐に昇進してトーントンへ撤退しました。王党派のブリストル占領は、1645/9月に議会派がブリストルを逆包囲(第二次ブリストルの包囲戦, 2nd Siege of Bristol, 1645/8/23〜1645/9/10)して、王党派が降伏するまで続きました。

・ライム・レジスの包囲戦
  (Siege of Lyme Regis, 1644/4/20〜6/16)
ライム・レジス包囲戦は、第一次イングランド内戦中の8週間の封鎖でした。ドーセット州のライム・レジス港は、ブリストルとイギリス海峡を結ぶ主要な輸送ルートに沿った所にあるため、戦略的に重要であると考えられていました。1644/4/20、ルパート王子の弟のモーリス王子が王党派軍6,000人を引きいてライム・レジスに上陸・包囲するも、議会派のトーマス・シーリーとブレイク郷が町の防衛を指揮して撃退。王党派軍は包囲を解き撤退しました。

・トーントンの包囲戦
  (Sieges of Taunton, 1644/9/23〜1645/7/9)
イングランド南西のトーントンはブリストルからデボン、コーンウォールへの幹線道路だったため戦略的に重要で、第一次イングランド内戦中にトーントンの包囲戦が3回も勃発してブレイク郷は、1644/9/23〜1645/7/9までの3つの包囲戦すべてで町の議会派の防衛隊を指揮しました。

(1)最初の包囲戦 (First siege, 1644/9/23〜12/14)
9/23に王党派軍エドモンド・ウィンダム郷がトーントンを包囲攻撃。ブレイク郷の守備隊はトーントン城を中心に防衛するも、食料不足で危機が到来。12/14に議会派ジェームズ・ホルボーン中将が3,000人の援軍を連れて到着・救援。王党派は包囲を解き撤退しました。

(2)2回目の包囲戦 (2nd siege, 1645/3/11〜5/11)
3/11、王党派騎兵中将ゴーリング郷が到着・包囲攻撃。4/2、少将リチャード・グレンビル卿の3,000人が到着・包囲攻撃。5月にはラルフ・ホプトン卿の指揮下で攻撃が激しくなりました。5/10、王党派包囲軍が、さらなる攻撃を敢行して、ブレイク郷に降伏を要求すると、ブレイク卿は「4組のブーツが残っていて、降伏する前に3組を食べる」と返答して籠城を続行。5/11、議会派ラルフ・ウェルダン大佐軍がトーントンに到着し、町を救援。王党派は包囲を解き撤退しました。

(3)3回目の包囲戦 (3rd siege, 1645/5/15〜7/9)
1645/5/15、王党派騎兵中将ゴーリング郷が移動中の議会派ウェルダン大佐と交戦、議会派はトーントンに撤退して、3回目の包囲戦が勃発。王党派包囲は緩く、町への食料の供給を許し、その効果を弱めました。1645/6/14にイングランド中部内陸部のネイズビーで、両派の主力軍が激突するネイズビーの戦い(Battle of Naseby)が勃発。王党派中将ゴーリング郷の軍勢が議会派トーマス・フェアファクス卿に敗れ、王党派は弱体化し第一次イングランド内戦の趨勢が決しました。1645/7/9、勝利した議会派フェアファクス卿がトーントンを救援。王党派は包囲を解き撤退しました。ここに10ヵ月におよぶ包囲戦でブレイク郷が指揮する議会派が、3度の総攻撃に耐え抜き、トーントンを守り切り、議会派勝利で終結しました。

・ダンスターの包囲戦
  (Siege of Dunster, 1645/11)
ダンスターの包囲戦は、英国イングランドの南西ダンスターで勃発しました。王党派の根拠地だったダンスターを、1645/11月にブレイク郷が指揮する議会派軍が包囲攻撃して勝利しました。

・議会派トーントン党
 (Taunton(英国議会の構成員)UK Parliament constituency)
トーントン党は、サマセットのトーントンの町にちなんで名付けられ、1295年から2010年まで英国議会の庶民院(House of Commons of the United Kingdom、下院)とその前身に代表される構成員で、1918年まで議会の構成員であり、1295年から1885年の間に2人の国会議員(Member of parliament)を選出し、1885〜1918年の間に1人を選出(下院議員:Member of Congress)しました。その後、名前は郡の構成員に移され、1人の議員が選出されました。

・ニューモデル・アーミー軍
 (New Model Army, 1645-1660、新模範軍)
ニューモデル軍は、清教徒革命(イングランド内戦)でイングランドにて、1645/4/3に創設されてトーマス・フェアファクス卿が軍司令官に就任した軍隊。各地からの寄せ集めで出来た従来の軍制を一新、議会の指揮下で集められ議会派の新たな軍隊として王党派との内戦を勝利に導きました。王政復古で解散されるも、一部は近衛兵として引き継がれ存続、イギリスにおける国民軍(常備軍)の先駆として評価されています。

<地名>:〜
・ブリッジウオーター町
 英国イングランドの南西イングランド地域サマーセット州セッジムーア県ブリッジウオーター町
 (Bridgwater Town, Sedgemoor District, Somerset County, South West Region, England, UK)
・ブリストル市
 南西イングランド地域ブリストル州ブリストル県ブリストル市
 (Bristol City, Bristol District, Bristol County, South West Region, England, UK)
・デビズ村
 南西イングランド地域ウィルトシャー州ウィルトシャー県デビズ村
 (Devizes Village, Wiltshire District, Wiltshire County, South West Region, England)
・ライム・レジス港 (Lyme Regis Harbour)
 南西イングランド地域ドーセット州西ドーセット県ライム・レジス町
 (Lyme Regis Town, Dorset District, Dorset County, South West Region, England)
・トーントン町
 南西イングランド地域サマセット州西サマセット・トーントン県トーントン町
 (Taunton Town, Somerset West & Taunton District, Somerset County, South West Region, England)
・ダンスター村
 南西イングランド地域サマセット州西サマセット・トーントン県ダンスター村
 (Dunster Village, Somerset West & Taunton District, Somerset County, South West Region, England)
・ネイズビー村
 ノーサンプトンシャー地域ダベントリー州ダヴェントリー県ネイズビー村
 (Naseby Village, Daventry District, Northamptonshire Region, England)イングランド中部の内陸部。

<人名>:〜
---王党派---
・初代カンバーランド公ルパート王子
  (Prince Rupert of the Rhine, Duke of Cumberland, 最高位KG, 1619-1682)総司令官
  独プファルツ・ジンメルン家(Pfalz-Simmern, 1410-1685)
  イングランド王チャールズ1世の甥
・モーリス王子、ルパートの弟
  (Maurice, Prince Palatine of the Rhine KG, 1621-1652/9頃バージン諸島,付近没)
・初代ロチェスター伯ヘンリー・ウィルモット中将
  (Lieutenant-General Henry Wilmot, 1st Earl of Rochester, 1612-1658)
・エドモンド・ウィンダム郷
  (Sir Edmund Wyndham, 1601-1681)
・騎兵中将ジョージ・ゴーリング郷
  (Cavalry Lieutenant-General George Goring, Lord Goring, 1608-1657)
・少将リチャード・グレンビル卿
  (Major General Sir Richard Grenville, 1600-1659)
・ラルフ・ホプトン卿
  (Sir Ralph Hopton, 1st Baron Hopton, JP, KB. 1596 -1652)。

---議会派---
・ウィリアム・ウォラー卿
  (Sir William Waller, 1597頃-1668)
・トーマス・シーリー
  (Thomas Ceeley)
・ジェームズ・ホルボーン中将
  (Major General Sir James Holborne of Menstrie, 1650/5/7刑没)
・ラルフ・ウェルダン大佐
  (Colonel Ralph Weldon, 1606-1676)
・トーマス・フェアファクス卿
  (Sir Thomas Fairfax, 3rd Lord Fairfax of Cameron, 1612-1671)
 フェアファクス卿は、イングランドの貴族で、ピューリタン革命のイングランド内戦で活躍した議会派の指揮官。ニューモデル軍の司令官に就任して議会派の勝利に貢献した軍人で、第一次イングランド内戦では、1642/6/14のネイズビーの戦いで副司令官のクロムウェルとヘンリー・アイアトンと共に、ルパート王子とチャールズ1世が率いる王党派の軍と激突、王党派を壊滅させる大勝利。戦後は西へ向かい王党派の拠点を次々と落とし、反抗する王党派残党も蹴散らし進軍、1645/9/10にはブリストルに籠った王党派ルパート王子を降伏させました。第二次イングランド内戦(1648-1649)にも従軍するも、第三次イングランド内戦(1649-1651)には従軍しませんでした。その不戦理由は諸説有。1671年に59才没
・オリバー・クロムウェル
  (Sir , Oliver Cromwell、1599/4/25-1658/9/3)
  イングランド共和国初代護国卿、イングランド内戦では鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、ニューモデル軍の副司令官。ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導き、護国卿時代には独裁体制をしきました。
・ロバート・ブレーク卿
  シニック港ワーデン卿 ロバート・ブレーク 海軍総統
 (Sea General Robert Blake, Lord Warden of the Cinque Ports, 1599/9/27〜1657/8/17)。

参考HP:〜
イングランド内戦の場所地図

こちらで
第二次蘭英戦争、(1665〜1667)
第三次蘭英戦争、(1672〜1674)
第1次バーバリ戦争、(1801〜1805)
スパイス (香辛料)
ユネスコ (UNESCO:世界遺産の成立理由)
パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産
法隆寺 (日本)世界遺産
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/6/10追記、令和 R.2/12/3 (2020)改訂
スタンプ・メイツ
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