United Kingdom

国連 1983 発行
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
(IV)イギリス人の殖民大航海
Great Voyage of Britain
大航海物語
 イギリス編

U S A
失われた植民地
(Lost Colony)

ロワノーク島殖民
1584 Roanork Voyage, North Carolina 1984
エリザベス号 1584

USA 1984/7/13 発行

イギリス人の殖民大航海
このような歴史的背景の中で、新大陸では、1500年前後にニューファウンドランド島を訪れたイギリスの船乗り達がニューヨークからヴァージニア付近にまで足を伸ばしたと考えられています。はっきりした記録としては、1524年4月にフランスからやって来たジョヴァンニ・デ・ヴェラザーノの一行がニューヨーク湾に侵入しつつも植民地を築くには至らなかったとされています。独立を勝ち取ったオランダ人は1609年にニュージャージーに登場。この年、イギリス人のヘンリー・ハドソンが、やはりニューヨーク湾を訪れ、翌年毛皮を積んで帰国しました。そして1624年、オランダは内陸部のフォート・オラニエ(現オルバニー市)に30家族を入植させ、翌年インディアンから24ドル相当の商品でマンハッタン島を買い取ったと記録されています。こうして出来たのが「ニューアムステルダム」植民地でした。この植民地の港は北のニューイングランドと南のヴァージニアという2つのイギリス領を結ぶ中継連絡地点としていつも賑わっており、さらに一部のインディアン部族との毛皮(主にビーバー)取引を熱心に行いました。しかし植民者はインディアン全部と仲良くしていた訳ではなく、それどころか一部の部族との戦闘を繰り返したため、常にその反撃に怯えなければなりませんでした。インディアンや野獣の襲撃を防ぐために造られた城壁(というほど大したものではない)は現在も「ウォール(壁)・ストリート」という地名としてその痕跡を残しています。「ブルックリン」「ハーレム」もオランダ起源の地名であると伝えられています。

新大陸でのイギリスの事情は、ヴァージニアは1607年のジェームズタウン建設に端を発しており、ニューイングランドは1620年に誕生した”ピルグリム・ファーザーズ”の「プリマス植民地」から発展していました。

1624年、同地で「荘園地主に対する特権の特許状」が発行されました。50人以上の人間を連れてきた者に「荘園地主」として領地を与え、漁業・狩猟の独占権、民事裁判権等を与えるとのものでした。これらの特権を持つ「荘園地主」は、この植民地がイギリス領となって以降、さらにアメリカ合衆国独立後も、1840年代まで存続しました。ただし、オランダ本国人はイギリス本国人ほどには経済的・宗教的な圧迫を感じていなかったため、移民は少数に限られ、1660年頃でやっと5000人程度でした。ちなみに合衆国第8代大統領ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren, 1782-在任1837-1841-1862)の祖先はオランダ植民地の借地人であり、2人の大統領を出すルーズベルト家はもともとオランダ系の小売商人としてニューアムステルダムに居住し、18世紀になって大商人に成り上がったと言われています。

1640年頃のイギリス海軍(Loyal Navy)にはたった42隻の軍艦しかありませんでした。対してこの頃盛んに海上勢力を増強していたのがオランダでした。オランダ本国は穀物生産が不足気味だったことから、他国から穀物を買ったり、魚をとったりするための船舶運用が早くから重視され、さらには他国の物産を安値で買い入れてはそれをまた違う国に高く売る中継貿易で巨万の富を得ていました。オランダ商船は1595年には東南アジアのジャワへ、1600年には日本に到達しました。オランダは全ヨーロッパの商船のうち4分の3を握って全世界へと盛んに進出し、1642年頃には150隻の艦隊を保持して一大海洋帝国の名をほしいままにしていました。そもそもオランダは海運業で栄える都市貴族が動かす共和国であり、ピューリタン革命前のイギリスのような、王様が恣意的な政治をする国よりもはるかに商売第一主義を採り易かったと言われています。ところが、海上覇権をめぐって、三次に渡るイギリス・オランダ戦争が勃発しました。

・イギリスの航海条例が原因で英蘭戦争が勃発。1651年、イギリス議会に「航海条令」が提出され、それは「イギリス及びその植民地の産品はイギリス船でなければ輸出できない」「イギリスに輸入する貨物はイギリスまたはその産出国の船でなければ入港を許さない」「イギリス近海で取れる魚類及びその製造品はイギリス船でなければ輸入を許さない」「この規定に反する船は貨物とともに没収する」などというものでした。要するに、オランダの中継貿易をイギリスから全面的に締め出し、かわりにイギリス海運業をバックアップしようとの目論みでした。ともあれ、イギリス官憲はたちまち200隻のオランダ商船を拿捕し、さらに英仏海峡を航行する他国の軍艦にイギリス艦への敬礼を義務付けました。 そのイギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で、三次に渡わたって戦われた戦争がイギリス・オランダ戦争です。
第1次:1652〜54年
第2次:1665〜67年
第3次:1672〜74年
これに勝利したイギリスの海上支配が確立し、敗れたオランダは衰退へと向かいました。第1次英蘭戦争ではイギリスのブレーク提督、オランダのトロンプ提督ロイテル提督が幾多の海戦を戦いました。英国側ではピューリタン革命の際に海軍がおおむねピューリタン側に立っていたことから共和政府は海軍増強に力を入れていました。それまで戦闘用の船といえば商船に重武装を施していたものを、戦闘のためだけに建造した専用の軍艦が登場してくる時代となりました。

・ニューヨークはオランダ領のニューアムステルダムに起源を発しています。1664年8月26日、北米ニューアムステルダムの沖に4隻のイギリス艦が姿を現し、降伏を要求しました。現地のオランダ総督スタイヴサンドは以前からこのことあるを予測して本国に対し増援を求めていましたが、本国は「チャールズ2世は親オランダ的」と根拠もなしに考えて何もしていませんでした。それでも、ニューアムステルダム総督は降伏勧告を断固拒絶しました。しかしこの総督スタイヴサンドは市民に対して厳しい態度で望んでいたことから人望がなく、彼自身の息子を含む市民代表93名からの請願を受けてやむなく降伏しました。イギリス軍は市民に対して生命と自由と財産を保証しました。チャールズ2世は自分の味方になる者にはとにかく気前がよかったのです。弟のヨーク公にニューヨークを与えました。かくして、現地は新しい支配者にちなんで、1664年に「ニューヨーク」と改名されました。なお上記の切手では1653年となっています。メリーランドに次いで北米で2番目のイギリス領主植民地の誕生でした。その領域は現在のニューヨーク州よりもはるかに広いものでした。名前の変わった「ニューヨーク」の住民はイギリスから以前通りの生活を保証され、たいした混乱もなく市政の引き継ぎがなされました。既に土地と財産を手に入れているオランダ人で故国に戻る者はほとんどなく、最後のオランダ総督スタイヴサンドも3年後にはこちらの私有農園に戻ってきて亡くなるまで暮らすことになります。

ニューヨークの新しい支配者ヨーク公は、自分が貰った広大な領地のかなりの部分を友人のジョージ・カートレット卿とジョン・バークリー卿に与えることにしました(2人の領主による共同統治)。これが「ニュージャージー植民地」の始まりとなりました。”ニュージャージー”とはカートレット卿が英仏海峡のジャージー島の出身であったことにちなんで名づけられました。

・イギリス人によるプランテーションの創設は、1612年ジェームスタウンのジョン・ロルフ(ポカホンタスの夫)が煙草の栽培を始めたことにより始まりました。現地産の煙草はあまり美味しくなかったが、カリブ海の島で栽培されたものと交配してつくった新種が本国で大評判となったので、大規模なプランテーションを始めてドンドン輸出しました。これと歩調をあわせる形で1618年、以前からの株主に1人100エーカーの土地が与えられ、新たに自費で渡航してくる者には1人50エーカーの土地を支給するとの「ヘッドライト制」が実施にうつされました。ここではさらに、年季契約奉公人を連れてくればその奉公人1人につき50エーカーが与えられることとなり、大農園「プランテーション」が始まりました。

・1675年に”ベーコンの反乱”が起こりました。それは1675年夏、3人の植民者がインディアンに殺害され、ヴァージニアとメリーランドから民兵が出動したことに始まります。彼等はインディアンの代表と話し合いを持ったが殺してしまいました。ここにヴァージニア植民地とインディアンとの大規模な戦争が勃発しました。総督バークレー卿(70才)は積極的な攻撃を控え、防御に徹しようとしました。ところがナサニエル・ベーコン(28才)という人物が群集に担がれ、勝手にインディアン討伐軍を組織して大勢のインディアンを虐殺しました。やむなく総督バークレー卿は正式に対インディアンとの宣戦布告を行い、新しい議会も招集されました。しかし総督はインディアンと戦わなかったので、ベーコンは同調者を率いてジェームスタウンに進撃、町を焼き払って総督を追い出し、各地で総督派の部隊との戦いを続けました。ところが、ベーコンは1676年10月に赤痢に罹って死亡し、その軍隊は四散して反乱は終りました。総督バークレー卿はベーコン派の幹部23人を処刑。本国から艦隊と調査委員会が到着してバークレー卿は本国に召還されました。今回の反乱ではベーコン側に年季明け奉公人が多く参加していたため、プランターたちは年季が明ければ自分たちに対抗してくる白人の年季契約奉公人よりも、基本的に死ぬまでその身柄を拘束出来る黒人奴隷の獲得の方が大局的に都合がよいと考えるに至ったと伝えられています。

・1675年にはフィリップ王戦争が勃発しました。「ベーコンの反乱」の直接の契機となったのはインディアンとの土地をめぐる抗争でしたが、全く同じことは同時期のニューイングランド植民地でも起こっていました。1675年6月25日、これまで土地を侵食され続けてきたワンパノアグ族の首長メタコム(イギリス人は「フィリップ王」と呼んだ)が、プリマス植民地を攻撃しました。インディアンはニプマック族やナラガンセット族を、植民地側はマサチューセッツ植民地とコネティカット植民地を巻き込んでの大戦争「フィリップ王戦争」が開始されました。イギリス本国は援軍を派遣せず、ニューヨーク総督はこの機会にニューイングランドの一部を削りとろうとさえしました。インディアン軍は当時90存在したタウンのうち12を破壊し40を攻撃しました。ニューイングランド始まって以来の危機の到来でした。 しかし、インディアン側の足並みも揃っていませんでした。植民地軍は11月19日には1000人の兵でナラガンセット族の本営を強襲・攻撃し大戦果をあげました。1676年4月3日インディアン軍の指導者の1人カノンチェットが逮捕・処刑されました。4ヵ月後の8月12日にはフィリップ王ことメタコムが戦死を遂げ、ここに「フィリップ王戦争」は終結しました。戦争全体の白人死者は約1000人。その報復として、捕虜になったインディアンは奴隷としてカリブ海植民地に売り飛ばされ、ニューイングランド南部のインディアン人口は1500人程度に落ち込んだと伝えられています。そして敵対部族も友好部族も指定集落(アメリカの西部劇で有名なインディアン居留地)に押し込められ、やがては白人社会の中に埋没していったのでした。

・こうして1689年に始まるのが「ファルツ継承戦争」です。1692年、「ファルツ継承戦争」の植民地における戦争は国王の名をとって「ウィリアム王戦争」と呼ばれました。これが、その後100年以上に渡って断続的に続く「第二次英仏百年戦争」の始まりとなりました。ヨーロッパ方面の戦闘は1697年の「ライスワイク条約」によって終結しました。勝敗はつかなかったが双方ともに10年近い戦争で疲弊しており、フランスは占領地の大半を返還してウィリアム3世のイギリス王位を認めるという譲歩に同意しました。しかし、北米での決着は現地の裁量に任され、その後2年間もズルズルと戦い続け、ニューイングランド史では「悲惨な10年」といわれています。

・1702年、ウィリアム3世が亡くなりました。妻のメアリも既に故人となっており、子供もいないことからメアリの妹アンが即位しました。5月、イギリスはフランスに宣戦布告し、ここに「スペイン継承戦争」が始まりました。「ファルツ継承戦争」と同じくこの戦争も植民地に波及し、こちらでは「アン女王戦争1702-1713」と呼称されています。この頃フランスは北米のミシシッピー河々口付近に拠点を設置し、現イリノイ州付近に3ケ所の交易所、さらに五大湖の要地に「デトロイト」の町を建設しました。デトロイトというのは現在の合衆国の自動車産業が集中しているあのデトロイトです。1700年頃の「ヌーヴェル・フランス」全域の植民者人口は1万以下、対してイギリス人の植民者はニューイングランドで13万、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴァニア・デラウェアで6万5000、チェサピーク湾(ヴァージニア・メリーランド)で9万、南北カロライナで1万2000、計約30万人に達していました。

・1704年、ルック提督率いるイギリス・オランダ連合艦隊がスペインの南の端の要地ジブラルタルに奇襲攻撃をかけてこれを占領し、そのすぐ後に起こった海戦でもイギリス艦隊が勝利しました。ジブラルタルは海からは攻め易いが陸からの攻撃には難攻不落を誇り、1704、05年のスペイン陸軍の攻撃を退けました。以後、現在に至るまでジブラルタルはイギリス領となっています。ファルツ継承戦争で打撃を被ったフランス海軍は、膨大な経費を注ぎ込んで本格的な艦隊を維持するよりも、個人や会社の所有する武装船に免許を与えて通商破壊に従事させる(私掠船戦術)という方針に切り替えていきました。これは確かに効率はよいが、海外植民地に援軍や物資を大量に輸送するのは無理であり、しかも予算が減ったせいでイギリスとくらべて弱体化する正規の海軍は母港を敵艦隊に封鎖されれば文字どおり手も足も出なくなりました。おかげでフランスの植民地は戦争の最中にもロクな援助が受けられず、そのまま窒息していきました。

1713年4月、「ユトレヒト講和条約」が結ばれました。結局スペイン王位はルイ14世の孫フィリップに与えられるが、フランス王位とスペイン王位は決して合体しない、イギリスはフランスからカナダのノヴァ・スコシア地方を、スペインからジブラルタルとミノルカを譲られ、北米植民地の南部(カロライナとルイジアナ)は基本的に開戦前の状況に戻し、それまで帰属が不明確だったニューファウンドランド島をイギリス領として確定しました。だいぶ以前からイギリスの「ハドソン湾会社」によって毛皮の採取が行われていたカナダ北部のハドソン湾沿岸もイギリス領として確定。さらにスペインから30年の期限でアシエント(スペイン植民地への黒人奴隷供給権)を貸与……となりました。George

北米植民地ではこの戦争は「ジェンキンズの耳戦争」と合体し、例によって国王の名を冠して「ジョージ王戦争」1740〜48年)と呼ばれました。1748年10月、「アーヘンの和約」が結ばれて戦争が終結。むしろアメリカ史にかんして重要なのは、「アン女王戦争」においてイギリス領となりつつもフランス系住民の居住と自治が認められていたカナダのノヴァ・スコシア地方の住民が強制退去(1749年)となったことです。フランス人の一部は本国へ、一部はカナダの他のフランス領地域へ、残りはルイジアナへと移って行きました。ルイジアナに移住した連中、いわゆる「ケージャン」の子孫は現在の合衆国においてもフランス語を用いての生活を維持し続けています

フレンチ・インディアン戦争は次章(V)探検大航海へ。

参考HP〜
シニック港の場所地図

こちらで
(I)
(II)
(III)
序章イギリス
初期大航海
私掠船団
(IV) 殖民大航海 ローリー
ギルバート
グレンヴィル
デイヴィス
スミス船長
キーリング
ソマーズ
ゲイツ
ガイ総督
ワーナー
パウェル船長
マイノーズ
ブレーク提督
カートレット
アンドロス
チャールス2世
ペ ン
ダンピ-ル
ロジャース
セルカーク
アンソン
ウォルフ
ロドニー
フッド
(V)
(VI)
探検大航海
南極探検
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/14(2020)追記
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (IV)
スタンプ・メイツ
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