★イギリス セバスチャン・カボット
1526
ラプラタ河上流を探検
大航海物語

MAGYARORSZAG
ニューファウンドランド到達

コロンブスのアメリカ発見500年記念
ハンガリー 1992 発行
Uruguay Correos
セヴァスチャン・カボットと
ラプラタ河上流の地図


ウルグアイ 1992 発行

Canada

カナダと付近の地図
カナダ 1981 発行

←グリーンランド

←パフィン島
←プロビジャー湾
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
←ラプラドル半島
←ニューファウンドランド

←ケベック



REPUBLICA ARGENTINA
ホンデュウス・メルカトル世界図、1610年、南アメリカの拡大図
←アマゾン河






←ラプラタ河


アルぜンチン 1988 発行

セバスチャン・カボットは父ジョヴァンニ・カボットの意思を次いで、北米へ探検航海してハドソン湾やハドソン海峡を発見しました。その後スペインに移住して、1525年南米方面へ探検航海し、翌年ラプラタ河に到達、その上流を探検しました。
セバスチャン・カボット
  Sebastian Cabot (1476頃〜1557)

セバスチャン・カボットはイタリイのヴェネツィアの航海者ジョヴァンニ・カボットの子として、ヴェネツィアで生まれました。1484年8才で父親のジョヴァンニ(ジョン)・カボットと共にイギリスに移住して帰化したので、イギリスの教育を受けました。

1497年5月21才でイギリスのヘンリー7世の命でブリストル港を父と共に小型船マッソー号で出帆してアジア航路を開拓する航海(北西航路発見)に出発しました。彼らはカナダ東南部のノバ・スコシア地方ケープ・ブレトン島付近に到達し、上陸してイギリスの領有を宣言しました。その後、沿岸沿いに北方へ航海してニューファウンドランドの海岸に到達しましたが、そこが中国だと信じたと伝えられています。後世に、そこをアメリカと呼んだのは、同行していたイギリス人商人でブリストル税関士官の”リチャード・アメリキ”(Richard Amerike 1445-1503)にちなんだとの説も有ります。1487/8/6にカボット父子はイギリス・ブリストル港に凱旋しました。

国王に年金を貰ったジョヴァンニは翌1498年、今度は5隻の船団を率いて再び北大西洋に乗り出しました。この航海については詳細不明で、アイルランドに戻った1隻以外の全部が遭難したと見られていて、父のジョヴァンニは48才で亡くなったと伝えられています。

1508年にセバスチャンは父ジョヴァンニの遺志を継ぎ、北アメリカの東海岸を探検航海し、そこでは後のハドソン湾やハドソン海峡を発見し、南北をなぞるようにフロリダまで達しました。父子ともども庇護を受けたヘンリー7世の没後、後を継いだヘンリー8世は、以前の航海ではさしたる収穫もなかったので、その後の航海は沙汰やみになり、出資に消極的であったので、イギリスでの活動を諦め、1513年に英国王の使節として赴いたスペインにそのまま移住しました。宮廷に仕えて主席水先案内人になりました。

1525/3/4スペイン国王に艦隊を託されて、準備できた4/5にカディス港から3隻の艦隊に150人の乗組員で、アジアのカタイやモルッカ香料諸島への新航路を発見する探検航海に出帆しました。しかし、ラプラタ河までしか行けませんでした。というのは、彼がラプラタ河の上流の、パラナ河とウルグアイ河の合流地点より上流付近まで探検調査している間に、残してきた乗組員が闘争を始めていたからです。1530年8月スペインに戻ってきました。彼が成果を挙げられずに帰国したためスペインのカルロス1世の怒りをかって投獄され、次いで1532/2/1モロッコのオラン(アルジェリアの北西海岸)へ追放されました。1533年に赦免された後はイギリスへ戻り、船会社の総支配人や製図業者として晩年を過ごし、81才で亡くなりました。1544年製作の彼の「世界地図」がパリの博物館に現存しているようです。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2006/10/10、 07/3/15
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