United Kingdom![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Great Adventure
Voyage)初期(II-1)
ジョン・カボット船長 1497 ニューファウンドランド島を発見 |
大航海物語 イギリス編★ |
NEWFOUNDLAND | |||
ジョン・カボット船長![]() 英領ニューファウンドランド 明治30年 1897 発行 |
マッソウ号上のカボット船長![]() CABOT IN THE MATTHAW OFF CAPE BONAVISTA 1497 マッソウ号からボナヴィスタ岬を見るカボット 探検家カボットのカナダ到達500年記念 ニューファウンドランド 1947/4/21 発行 |
島の地図![]() ニューファウンドランド 大正16年 1928/1/3 発行 |
←ラプラドル半島 ←ニューファウンドランド島 |
ISLAND カナダ・グリーンランド・アイスランド・イギリス |
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ニューファウンドランド島 |
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イギリス |
アイスランド 1962 発行
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Grenadeen of St. Vincent |
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ジョン・カボットと四分儀![]() |
マッソウ号![]() |
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セントヴィンセント 1992 発行 |
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Isle of Man イギリスからの航海地図
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ヴェネチア生れのカボット船長はイギリスへ移住して、北西航路の発見を目指して、イギリスのブリストル港を出帆。1497年に北アメリカのニューファウンドランド島に到達、発見しました。 |
ジョン・カボット船長 (1450頃〜1498) John Cabot (ジョヴァンニ・カボート(伊語)Giovanni Caboto) ジョン・カボット船長は1455年頃イタリアのジェノバ(Genoa)で生まれたようですが詳細は不明です。1461年にはヴェニス(Venice)に住んでいてヴェネチアの市民権を取得しました。1482年にヴェネチア人のマッテア(Mattea)と結婚し、3人の男の子ルイス(Ludovico)、セバスチャン(Sebastiano)、サンチョ(Sancio)が生まれました。父親はヴェネティアで香料(スパイス)などを取り扱う貿易商人だったので、カボット船長も東方地中海から、遠くアジアへとスパイス、シルク、宝石やその他の商品を商う貿易商人になりました。1490年頃にはスペインのヴァレンシア(#17-49)へ家族を連れて移住しました。そしてコロンブスと同じように香料を手に入れる新航路の探検航海について、スペインとポルトガルに提案しましたが、聞き入れられませんでした。それで、1494年に17才の息子セバスチャンを連れてアイルランドとの貿易港として繁栄していたイングランド南西部のブリストル(#1-2)に移住しました。1497年にはイングランド国王ヘンリー7世からアジア・インドへ行くための別ルート北西航路(Northwest Passage)の探検・発見の特許状を受け取りました。 ジョン・カボット船長の大航海 ・1497〜:マッソウ号でラブラドルに到達、ニューファンドランド島を発見。 ・1499〜:5隻でグリーンランド方面へ探検航海後、遭難、1隻だけ帰還。 1497/5月にカボット船長は息子セヴァスチャンを伴い、一行約20人と共にマッソウ”Matthew”号に乗船、ブリストル港を出帆。海上52日後にカナダ東南部のノバ・スコシア地方のケープ・ブレトン島とみられるところに到着、その正式な領有をイギリス国王の名前において宣言しました。さらに北上、ラブラドル半島(Labrador)沿いに約1,450km(900マイル)を帆走したところで北に変針、2つの小さな島とニューファンドランド島を発見しました。そして同年8/6、ブリストルに帰港しました。しかし、その航海ではさしたる収穫もなかったので、その後イングランドは大西洋を横断してジパンゴやアジアを発見しようという話しは取りやめとなり、手っ取り早く先進国の財宝輸送船を襲撃・掠奪する”私掠船”(ドレーク船長など)を派遣するようになりました。 1499年にも5隻の船団で探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行うも、困難な航海の連続で乗組員が叛乱を起こしたので、南下を余儀なくされました。そして帰国の途上で亡くなりました。探検船団は1隻だけが帰港出来ました。
(※)年月日などには諸説有。 参考:〜(別の説) ヘンリー7世(在位1485-1509)はコロンブスが第3回目の航海に出発する前の1496年、イギリス西部の港町ブリストルに住むカボットという船乗りに次の許可証を与えました。「東部・西部・北部のあらゆる方面で、「国」や「海」に、未知の島や国や地域、地方を何なりと求め、発見し、見つけること」。カボットはアジア産の香料がアラビアやヨーロッパ大陸の商人を経由してイギリスに着いた時に非常な高値になっていることに注目し、大西洋を西に進んでアラビア等を経由せずにアジアに乗り込み、香料を直接買い入れて安値でイギリス人に売れば大儲け出来ると考えていました。 カボットはイタリア人です。1490年頃イギリスに住み着いたといわれています。ナポリ生まれのジェノヴァ育ちで、同じジェノヴァ生まれのコロンブス(ほぼ同世代人)と会ったことがあるともされています。カボットはアラビアのメッカに行ったこともあります。 彼に航海の許可を与えたヘンリー7世は、実は以前コロンブスに出資を求められて断ったという前歴があり、自分の先見のなさのせいでスペイン・ポルトガルに出し抜かれたことを後悔していたようです。 かくして1497年5月、カボット一行はアイルランドのダーズィー港(ダブリン#1)を出帆しました。船は「マッソー」号という名の小型船1隻だけ。乗組員はたったの18人であったのでした。この航海の詳しい記録は残っていません。6/24にカナダ沖のニューファウンドランド島に到達して鱈(タラ)の大群を見い出し、原住民には遭遇しませんでしたが、その魚網を拾って帰ってきました。彼は現地の気候温暖なことを報告し、ここは亜熱帯であると考えましたが、それは勿論、勘違いで、冬がとてつもなく寒いことには思い至らりませんでした。この誤解はその後多くの航海者や植民者を苦しめることとなりました。 実は現在のニューファウンドランド島ではなく、カナダ本土に到達していたとする説もあります。とすると、アメリカ「大陸」にこの時代の白人として最も早く到達したのはコロンブスの第3回航海(1498年)ではなくカボットであることになります。しかしその一方で、アメリゴ・ヴェスプッチの第1回航海(1497〜1498年)の方が先に大陸に到達していたという説もあります。ただし、ヴェスプッチの第1回航海は全くの創作であるとの説もあり、結局誰が一番早かったのかは今もって謎のままです。 カボットは1498/8/6にイギリスに凱旋しました。国王に年金を貰った彼は翌99年、今度は5隻の艦隊を率いて再び北大西洋に乗り出しました。この航海については更に詳細不明です。アイルランドに戻った1隻以外、全部が遭難したと見られています。 なお、1501年にポルトガル出身のジョアン・フェルナンデスの子孫の”フェルナンデスJr”なる男とその一行がイギリス西部の港町ブリストルを出帆し、カナダ本土に到達しました。”フェルナンデスJr”は昔ラヴラドル(農夫)をしていたことがあり、彼が報告した土地はそのまま「ラブラドル」と名付けられました。彼はイギリス国王に現地で捕まえた鷲と鸚鵡を献上し、褒美を頂きました。この地域はポルトガルがトルデシラス条約 に基づく領有権を主張していました。
”O Buon Vista !” おー、ボナヴィスタ!(ああ、幸せな光景!)と言ったという、この歴史的な岬にちなんで名付けられました。 参考HP〜 ![]() ・カボットのヨーロッパ旅行の地図(1488-1495) ・ブリストルの場所地図 ・ヴァレンシアの場所地図 ・ノバ・スコシア地方の場所地図 ・イギリスからニューファンドランド島への航海地図(1497) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和7年 2025/6/25追記 |