★イギリス ジョン・カボット
1497
ニューファウンドランド島を発見
大航海物語★

NEWFOUNDLAND
ジョン・カボット

英領ニューファウンドランド
明治30年 1897 発行
マッソウ号上のカボット

CABOT IN THE MATTHAW
OFF CAPE BONAVISTA 1497
マッソウ号からボナヴィスタ岬を見るカボット
探検家カボットのカナダ到達500年記念

ニューファウンドランド 1947/4/21 発行
島の地図

ニューファウンドランド
大正16年
1928/1/3発行
ラプラドル半島

ニューファウンドランド島

NEWFOUNDLAND イギリスからの航海地図
カナダ




イギリス
マン島 2007 発行
ボナヴィスタ岬
タラ(鱈)
英領ニューファウンドランド 明治20年 1887 発行

Grenadines of St.Vincent Canada
ジョン・カボットと四分儀
マッソウ号
カナダ付近の地図
中央がハドソン

カナダ 1981 発行

ケーン水路
グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
←ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック
セントヴィンセント 1992 発行

ヴェネチア生れのカボットはイギリスへ移住して、北西航路の発見を目指して、イギリスのブリストル港を出帆、1497年に北アメリカのニューファウンドランド島に到達、発見しました。
ジョン・カボット (1450頃〜1498)
 John Cabot
 (Giovanni Caboto )
ジョン・カボットは1455年頃イタリアのジェノバ(Genoa)で生まれたようですが詳細は不明です。1461年にはヴェニス(Venice)に住んでいてヴェネチアの市民権を取得しました。1482年にヴェネチア人のマッテア(Mattea)と結婚し、3人の男の子(Ludovico, Sebastiano Sancio)が生まれました。,父親はヴェネティアで香料(スパイス)などを取り扱う貿易商人でしたので、彼も東方地中海から、遠くアジアとスパイス、シルク、宝石やその他の商品を商う貿易商人になりました。1490年ごろにはスペインのヴァレンシア(Valencia)へ家族を連れて移住しました。そしてコロンブスと同じように香料(スパイス)を手に入れる新航路の探検航海について、スペインとポルトガルに提案しましたが、聞き入れられませんでした。それで、1494年に17才の息子セバスチャンを連れてアイルランドとの貿易港として繁栄していたイングランド南西部のブリストル(Bristol)に移住しました。1497年にはイングランド国王ヘンリー7世からアジア・インドへ行くための別ルート「北西航路(Northwest Passage)の探検・発見」の特許状を受け取りました。

ジョン・カボットの大航海
・1497〜:マッソウ号でラブラドルに到達、ニューファンドランド島を発見。
・1499〜:5隻でグリーンランド方面へ探検航海後、遭難、1隻だけ帰還。

1497年5月にジョン・カボットは息子セヴァスチャンを伴い、一行約20人と共にマッソウ”Matthew”号に乗船、ブリストル港を出帆。海上52日後にカナダ東南部のノバ・スコシア地方ケープ・ブレトン島とみられるところに到着、その正式な領有をイギリス国王の名前において宣言しました。さらに北上、ラブラドル半島(Labrador)沿いに約900マイルを帆走したところで北に変針、2つの小さな島とニューファンドランド島を発見しました。そして同年8月6日、ブリストルに帰港しました。しかし、その航海ではさしたる収穫もなかったので、その後イングランドは大西洋を横断してジパンゴやアジアを発見しようという話しは取りやめとなり、手っ取り早く先進国の財宝輸送船を襲撃・掠奪する”私掠船”(ドレーク船長など)を派遣するようになりました。

1499年にも5隻の船団で探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行いましたが、困難な航海の連続で乗組員が叛乱を起こしましたので、南下を余儀なくされました。そして帰国の途上で亡くなりました。探検船団は1隻だけが帰港出来ました。

なお、ニューファウンドランド島はその沖合いでのタラ・ニシン・その他の漁業が繁栄し、その歴史は、1497年のカボットによる探検で発見されて始まり、後に世界中に広がった英国の海外領土(英領地域)の第1号の名誉を得ました。このことが1949年までカナダに加盟しなかったこだわりだと言われています。英国領有はハンフリー・ギルバートエリザベスT世の命を受け、1583年にこの地に赴き、英領を宣言したことに始まります。ギルバートは帰路遭難して亡くなりました。

・参考HP:〜カナダ東南部の地図 (ニューファウンドランド島、ケープブレトン島)
参考:〜(別の説)
ヘンリー7世はコロンブスが第3回目の航海に出発する前の1496年、イギリス西部の港町ブリストルに住むカボットという船乗りに次の許可証を与えました。「東部・西部・北部のあらゆる方面で、「国」や「海」に、未知の島や国や地域、地方を何なりと求め、発見し、見つけること」。カボットはアジア産の香料がアラビアやヨーロッパ大陸の商人を経由してイギリスに着いた時に非常な高値になっていることに注目し、大西洋を西に進んでアラビア等を経由せずにアジアに乗り込み香料を直接買い入れて安値でイギリス人に売れば大儲け出来ると考えていました。

カボットはイタリア人です。1490年頃イギリスに住み着いたといわれています。ナポリ生まれのジェノヴァ育ちで、同じジェノヴァ生まれのコロンブス(ほぼ同世代人)と会ったことがあるともされています。カボットはアラビアのメッカに行ったこともあります。

彼に航海の許可を与えたヘンリー7世は、実は以前コロンブスに出資を求められて断ったという前歴があり、自分の先見のなさのせいでスペイン・ポルトガルに出し抜かれたことを後悔していたようです。 かくして1497年5月、カボット一行はアイルランドのダーズィー港を出帆しました。船は「マッソー」号という名の小型船1隻だけ。乗組員はたったの18人であったのでした
この航海の詳しい記録は残っていません。6月24日にカナダ沖のニューファウンドランド島に到達して鱈の大群を見い出し、原住民には遭遇しませんでしたが、その魚網を拾って帰ってきました。彼は現地の気候温暖なことを報告し、ここは亜熱帯であると考えましたが、それは勿論、勘違いで冬がとてつもなく寒いことには思い至らりませんでした。この誤解はその後多くの航海者や植民者を苦しめることとなりました。

実は現在のニューファウンドランド島ではなく、カナダ本土に到達していたとする説もあります。とすると、アメリカ「大陸」にこの時代の白人として最も早く到達したのはコロンブスの第3回航海(1498年)ではなくカボットであることになります。しかしその一方で、アメリゴ・ヴェスプッチの第1回航海(97〜98年)の方が先に大陸に到達していたという説もあります。ただし、ヴェスプッチの第1回航海は全くの創作であるとの説もあり、結局誰が一番早かったのかは今もって謎のままです。

カボットは1498/8/6にイギリスに凱旋しました。国王に年金を貰った彼は翌99年、今度は5隻の艦隊を率いて再び北大西洋に乗り出しました。この航海については更に詳細不明です。アイルランドに戻った1隻以外、全部が遭難したと見られています。

なお、1501年にポルトガル出身のジョアン・フェルナンデスの子孫のフェルナンデスJr.なる男とその一行がイギリス西部の港町ブリストルを出帆し、カナダ本土に到達しました。フェルナンデスJr.は昔ラヴラドル(農夫)をしていたことがあり、彼が報告した土地はそのまま「ラブラドル」と名付けられました。彼はイギリス国王に現地で捕まえた鷲と鸚鵡を献上し、褒美を頂きました。この地域はポルトガルがトルデシラス条約 に基づく領有権を主張していました。1500年にポルトガル王の命を受けたコルト・レアルがニューファウンドランド島に到達し、翌年の第2回航海の時には、カボットが捨てていったと思われるヨーロッパ製品を持ち帰ってきました。ニューファウンドランド近海で大量にとれる鱈は保存食として最高であり、ポルトガルやフランスの漁師がかなり頻繁に立ち寄るようになっていました。ニューファウンドランド島には現在でもポルトガル人が名付けた地名が残っているといわれています。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。

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