United Kingdom

国連 1983 発行
United Kingdom of Great Britain and Northern Irelan
(U)イギリス人の初期大航海
Great Voyage of Britain
大航海物語
 イギリス編

   NEWFOUNDLAND
 ニューファウンドランド島の地図


ラプラドル半島

ニューファンドランド島
英領ニューファウンドランド 大正16年 1928/1/3 発行

NEWFOUNDLAND
ニューファウンドランド島の地図

英領ニューファウンドランド 明治41年 1908/1/3 発行
Canada
中央がハドソン湾
(カナダと付近の地図)

カナダ 1981 発行



グリーンランド


パフィン島
←ラプラドル湾
←ハドソン海峡
←ラプラドル半島
←ニューファンドランド島
ガスペ半島
プリンスエドワード島

←ケベック

イギリスの初期の大航海
コロンブスがインド到達の新航路発見のためにイギリス(当時のイングランド王国)へ援助を申し出ましたが、時の国王ヘンリー7世は断りました。それでイギリスは、ポルトガル、スペインと比べて新大陸への進出がとても出遅れとなりました。なお、その上にコロンブスが第3回航海に出発しようとしていた頃の1497年にジョン・カボットがヘンリー7世の命でインドへの、コロンブスとは別ルート「北西航路の発見」のため、イギリスのブリストル(Bristol Harbour, South West Region, England, UK)を出帆、カナダのニューファウンドランド島へ到達しました。そして無事帰港することができましたが、その航海では金銀財宝などの収穫もなかったので、その後大西洋を横断してジパンゴ(日本)やアジアを発見しようという話はイギリスでは沙汰やみとなりました。1517年には、ヘンリー8世の離婚問題に反対して処刑されたトマス・モア(Thomas More, 1478-1535:ユートピアの作者)の義弟ジョン・ラステル(John Rastell, 1475-1536)がアメリカ渡航を企てるも準備段階で頓挫した経緯もありましたし、1527年にはジョン・ラット(John Ratt)が大西洋を北に進み、北緯64度から針路を南に変えてスペイン領のサント・ドミンゴ島(現ハイチドミニカのあるイスパニョーラ島)まで航海しました。これがイギリス船のカリブ海に入った最初であるとされています。ただ、この頃のイギリスはスペインと友好関係にあったことからカリブ海の島や大陸部のスペイン領にスペイン船に乗って出かけるイギリス人もかなりいました。

1509年ヘンリ7世が亡くなり、その子ヘンリ8世が即位しました。1534年ヘンリ8世は王妃との離婚をカトリック教会の総本山であるローマ教皇に認めて貰えなかったことから、ローマと絶縁、独自のキリスト教会である「イギリス国教会」を創設しました。このことがローマ教皇に忠実なスペインを怒らせ、英西両国の関係は次第に悪化していったのでした。ただ、この時代には未だ全面戦争といった事態には至っていませんが、ヘンリ8世はフランスとの戦いに備えて海軍を創設し、港湾設備を整備しました。

ヘンリ8世後の1553年エドワード6世の時代にはスカンジナヴィア半島の北、すなわち北極海を通って「北西航路の発見」で中国に到達しようとの再度の試みがなされ、リチャード・チャンセラー(Richard Chancellor, 1556没)が出帆しました。航海そのものは失敗に終ったものの、なんとかモスクワ公国(後のロシア帝国)にたどり着いて通商の許可を得ることはできました。1555年には「ロシア株式会社」が創設され、チャンセラーが終身司令官となりました。1563年にはプロビジャーがカナダ北部を探検航海してプロビシャー湾を発見したり、また、この前後数年間には多くの冒険航海者が西アフリカやアジアへと繰り出し、交易や略奪で金銀財宝や胡椒などを手に入れました。この頃からイギリス商人による貿易や交易が盛かんとなり、先発国のポルトガル・スペインとの間で西アフリカやカリブ海で摩擦が起ってきました。中には先発国の船から掠奪を働く”私掠船”という海賊まがいの武装商船(国王が免許状を与えたものもありました)も活発に出没してきました。「北西航路の発見」のための試みは1777年にキャップテン・クックが帆船での通過可能な航路が存在しないことを確認して証明するまで続けられました。

・1568年には”サン・ファン・デ・ウルーア島の戦い”が起こりました。イギリス商人のジョン・ホーキンス船長が1568年カリブ海で、嵐のためスペイン領のサン・ファン・デ・ウルーア島(San Juan de Ulua Island, Port of Veracruz, Mexico)に退避しました。スペイン側の指揮官はホーキンス船長を「海賊」と決めつけて攻撃し、ほとんど全滅に近い状態となりました。この事件を契機にイギリスの船乗り達は「サン・ファン・デ・ウルーアを忘れるな」を合言葉としてスペインへ襲い掛かるようになったと伝えられています。イギリス私掠船の出没が激しくなり、1587年にはドレーク船長によるスペイン・カデイス港の報復襲撃などが起こりました。

・1581年オランダがスペインから独立し「ネーデルランド連邦共和国」の設立を宣言しました。これがオランダの始まりとなり、1585年には正式にイギリス・オランダ同盟が締結されるに至り、同年の年末にはオランダに派遣されたイギリス軍がスペイン軍と交戦し、ここにイギリスとスペインは正式の戦争状態に突入し、歴史に名高い”アルマダの海戦”が起こることと成りました。

・1588年スペイン無敵艦隊がイギリス海峡へ進攻して、”アルマダの海戦”が勃発するも、イギリスの勝利となり、スペインは制海権を失って、やがて衰退してゆきました。

こちらで
(I) 序章イギリス
(II) 初期大航海 ジョン・カボット船長
セバスチャン・カボット船長
マーチン・フロビシャー艦長
(III)
(IV)
(V)
(VI)
私掠船団
殖民大航海
探検大航海
南極探検
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/12(2020)追記
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (U)
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