★スペイン バルトロメ・コロン
1496
サント・ドミンゴ市を建設
大航海物語★

CONGO
バルトメ・コロン、コードラント

コンゴ 1992/10/21 発行
Jamaica
コロンブスの第3回航海地図

ジャマイカ 1992 発行
REPUBLICA DOMINICANA
イスパニョーラ島
西がハイチ


ドミニカ共和国 1900 発行

バルトロメ・コロンはコロンブスの弟で、兄コロンブスを助けインドへの航海を助力し、新世界へ渡り兄と行を共にしました。兄の探検航海中はイスパニョ−ラ島に残り、1496年サント・ドミンゴ市を建設しました。兄がスペインへ戻っている間は兄の政敵と戦いました。

バルトロメ・コロン (1437〜1514)
 Bartolome Colon

クリストフー・コロンブスには2人の弟がいました。次弟はバルトロメ・コロン、末弟はディエゴ・コロンです。コロンブスの名声の影に埋没して歴史にはほとんど登場しませんが重要な役割を果たして兄を助けました。そこで、コロンブスの足跡を追ってみました。

1485年コロンブスがポルトガル・リスボンからスペインに向けて出発した時には、バルトロメ・コロンはジェノバ方式の地図製作者として高度な技術を持っていましたので、ポルトガル国王ジョアン2世の地図工房に残ったと伝えられています。バルトロメが1489年初頭にリスボンを離れる時にはポルトガルで最新情報に基づく地図の写本を作成していたのを持ち出し、それを金に替えて貧窮していた兄コロンブスの所へ届けました、また、地図の写本を持ってスペイン・セヴィーリャで従前の地図にポルトガルでの最新情報を加えて修正して、兄の航海計画を助けました。コロンブスは大航海で大西洋の貿易風を発見したともいわれています。

コロンブスがスペイン・コルドバでイサベラ女王夫妻に初めて謁見し、「西回りでアジアに行く事」を提案したのが1486/4/28でした。アラゴン王国々王フェルナンド王の態度は冷淡なものでしたが、カスティリア王国々王イサベラ女王は興味を示し、委員会に諮問することになりました。タラベーラ神父の主宰する委員会は1486年秋と1487年春に審議しました。否定的な意見が多かったのですが、コロンブスに好意的な、タラベーラとドミニコ会士ディエゴ・デ・デサが結論を出すのを引き延ばしました。その頃のスペインは「レコンキスタ」というイスラム教徒から祖国を取り戻そうという戦争の真っ最中でした。

バルトロメ・コロンは、1488年イサベラ女王のカスティリャ王国の援助が難しくなってきた事を察知して、兄コロンブスにイギリスのヘンリー7世とフランスのシャルル8世のもとへも同様の提案(西回りでアジアに行く事)をすることを申し出て、フランスへと旅立ちました。1490年になって、イサベラ女王の諮問委員会である「タラベーラ委員会」がコロンブスの計画を否決しましたので、コロンブスは1491年の夏ラ・ラビダ修道院を訪れ、フワン・ペレス神父に預けていた息子ディエゴを引き取り、フランスのシャルル8世のもとへ援助を求めに行くことを告げました。フワン・ペレス神父はコロンブスに考え直すよう説得し、女王へ再度の謁見を求めました。1491年イサベラ女王はフワン・ペレス神父にコロンブスを慰留することを求め、若干の支度金を送りました。そして同年秋にイスラム軍と対戦中のサンタ・フェの野戦陣地で再度コロンブスを謁見し、彼の計画を改めて審議に付しました。1492/1/2グラナダが陥落してレコンキスタが終了しましたので、イサベラ女王夫妻は同日グラナダ入城式典を執り行いました。その後、委員会が再び「コロンブスの計画」に対し否定的な結論を出したことを国王夫妻がロンブスに告げましたので、コロンブスはグラナダを発ちフランスへ向いました。ところが、アラゴン王国の経理官ルイス・ド・サンタンヘルが、この計画の費用は「この航海で得られるであろうものに比べると少なく、費用は自分が都合できる」ことを女王に言上しましたので、イサベル女王は夫君のフェルナンド王の同意を得て、コロンブスの提案を実施する事を決定しました。女王の急使がコロンブスを追いかけ、ピノス・プエンテの村で追いつき呼び戻しました。1492/4/17コロンブスはサンタ・フェでスペイン国王夫妻に謁見して「サンタ・フェの協約」を締結しました。それは『コロンブスを新しく発見される島々、大陸の提督とし、副王兼総督にする。これらの職・特権はその子孫に継承される。これらの地で取得する、金・銀・真珠・香料その他の産物の10分の1をコロンブスの免税所得とする。コロンブスが航海の費用の8分の1を負担するときは利益の8分の1をコロンブスに与える』との協定でした。

こうして、コロンブスはスペインのバロス・デ・ラ・フロンテラ港でピンソン三兄弟の協力を得て航海の準備を進めた後に、1492/8/3パロス港をサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の船隊、90人で、インディアス、カタイ・ジパンゴ(インド、中国・日本)に向け出帆しました。

カナリア諸島まで南下してカナリア諸島のゴメラ島で、嵐で傷んだ船の修理をしたり水や食料を積み込んだ船隊は、9/6同島を出帆。北緯28°線上をひたすら西へ向かいました。ゴメラ島とコロンブスが考えていたシパンゴはほぼ同じ緯度にありましたので、 緯度がわかっていれば真西に向かう方が確実に目的地に着けるからでした。星の観察と四分儀を使って緯度を調べました。この時コロンブスは航路に吹く北東貿易風を 発見し利用しました。これはその後の大西洋横断に大変役立ち大航海に大いに貢献した事はよく知られています。しかし当時の世界地図の影響で地球の大きさを小さく考えていたためか、なかなか陸地が見つからず、水夫達が動揺してきて航路の変更をせまり、それに応じないコロンブスに対する乗組員達の反乱直前という状況下で、1492/10/12バハマ諸島中の現在のワットリング島(コロンブスはサンサルバドル島と命名)に到達し上陸しました。原住民の話で東方に大きな島「コルバ」(キューバ)が有ることを知りました.10/27コロンブスはキューバの北岸バリアイ湾に上陸。「人間の目が見たもっとも美しい土地」と航海日誌に記載しました。コロンブスはアジア大陸の一部と考え,イサベラ女王の王女にちなんで「フアナ」と命名しました。バリアイにはバヤティキリを首長とするインディオが住み,みずからの土地を「コルバ」と呼んでいました.コロンブスは原住民の案内でクバナカン(現オルギン)まで使節を派遣しましたが、ジパンゴは発見できませんでした。12/5コロンブスは黄金を求めてキューバ北岸を東進し東端のバラコアに達しました。

ワットリング島を出帆して、キューバ島や数多くの島々を発見しましたが、黄金も香料も見つかりませんでした。11/21にはピンタ号が行方不明になりました。残り2隻の船隊は12/5キューバからイスパニョーラ島へと向かいました。コロンブスの目的は黄金と香料を求めることでしたが、イスパニョーラ島で上陸すると、住民の一部が黄金を装身具にしているのを見て、また「シバオCivao」というところで黄金が採れるという情報を得ました。イスパニョーラ島の北部の酋長グアカナガリのもとへ向かっていたサンタ・マリア号は12/24の夜に座礁してしまいました。そこで残留を申し出た乗組員39人のためにサンタ・マリア号の船体を解体して、その船材で「ナビダーの砦」を造りました。そこへ12/17ピンタ号がイスパニョーラ島にひょっこりと姿を現しました。黄金を探しにいったが無かったというわけでした。サンタ・マリア号が座礁したため、コロンブスはナビダーの砦にスペイン人を残し1493/1/14ピンタ号、ニーニャ号の2隻で帰路につきました。北大西洋で嵐に遭ったので、3/4ポルトガルのテージョ川に寄港しました。ポルトガル王ジョアン2世に発見地の事情を尋ねられ、コロンブスはアルカソヴァス条約(1479)には違反していないのに、ポルトガルの権利を侵害する航海だとして抗議されました。3/15に待望のスペイン・パロス港に無事に帰港しました。バルセロナでイサベラ女王夫妻に報告したのは4月末となりました。

コロンブスの「第一回航海に関する記録」は2種類残されています。航海日誌とコロンブスが帰路、船中でサンタンヘルへ宛てた書簡(ほぼ同じ内容の国王宛と他1通)があります。サンタンヘルへ宛てた書簡は公刊され13版を重ね、当時としてはベストセラーになったと伝えられています。航海日誌の原本は無くなっていて、ラス・カサス神父が要約して書き写したものが「コロンブス航海誌」として残されています。

コロンブスは1493/3/30日付の手紙でスペイン国王夫妻から次の航海の準備に入るよう指示を受けました。国王はコロンブスに直接会う前に次の航海の実施を決めていたわけです。コロンブスの第1回航海が大成功と伝えられたため、1493/9/25に17隻の船に1500人が競って乗り込み、スペイン・カディス港を出帆しました。末弟ディエゴ・コロンも参加していました。多くの人々は大量の金を手に入れる夢を持っていたのですが、彼らに支払われるのは給与だけで交易で得られる利益や採取される金は王室及びコロンブスの取り分になることになっていました。第2回航海ではカナリア諸島から20日間で11/3小アンティル諸島に着きました。いくつかの島を探検しながら、イスパニョ−ラ島ナビダーの砦に着いたのが11/27夕方で、翌日砦が破壊されスペイン人は全て死亡していることを知ったコロンブスは、それまでの“臆病で武器も知らず、まったく危険がない”という住民に対する判断を変更することになりました。イスパニョーラ島で「港があり、良質の水が得られ、シバオにも近い場所」を見つけ、1493/12/8から1500人が定住するための防御を固めた「イサベル市」の建設を始めましたが、まもなく全員の3分の1が病気で倒れてしまいました。翌年3月には一応の完成をみました。

1494/1、コロンブスはイサベラ市からゴルバランをイスパニョ−ラ島ニィティへ、アロンソ・ド・オヘーダをシバオへ派遣しました。2人とも砂金を見つけて帰ってきました。そこで、コロンブスはスペイン国王へ報告書を提出するため、2/2アントニオ・デ・トレースをスペインへ向わせました。このとき第2回航海の17隻中12隻がスペインへ戻ってしまいました。報告書には、砂金が見つかったこと、武器や食料の不足などが書かれていたと伝えられています。

3/16にはシバオに着いたコロンブスは金を採取する拠点として砦を造り「サント・トマス」と名付けました。ペドロ・マルガリーテを長とし56名を配置してコロンブスは3/29イサベル市に戻りました。4/1インディオの動きに不穏なものを感じたマルガリーテはコロンブスに伝令を送り、コロンブスは4/2には70人、4/9には396人を送り、指揮官としてオヘーダを任命しました。マルガリーテには島内の治安を確立するように指示しました。イスパニョーラ島をシパンゴだと思い込んでいたコロンブスは、イサベラ市の統治を弟ディエゴ・コロンに託し、4/24から3隻の船でキューバ南岸を西に向かいました。6/22西端まで90kmのコルテス湾に達したコロンブスは、南に延びる海岸線を見て“黄金の岬”が始まると考え、キューバをインディアス本土のカタイ(中国)だと考えました。帰路についたコロンブスはジャマイカ島を経て、イスパニョーラ島をほぼ一周し9/29イサベル市に戻りました。イスパニョーラ島ではインディオが反乱を起こして混乱していました。しかも、イサベル市の評議院の主要メンバーのブイル修道士とマルガリーテ達は騎士全員と帰国してしまっていました。コロンブスを喜ばせたのは弟のバルトロメ・コロンが6/7に到着していたことでした。そして10月にはスペイン国王からトルデシーリャス条約を伝える書簡が来ました。イスパニョーラ島にはカオナボー、イグアナマー、ベーチエ、グアリオネックス、グアカナガリーの5人の首長がいましたが、コロンブスはグアカナガリーに協力を求め、10ヶ月かけて武力で島を平定しました。

1495/2/24なかなか大量の金を手に入れることができなかったコロンブスは、反乱を起こしたインディオ500人を奴隷としてスペイン・セビリアへ送りました。スペイン国王は4/12インディオの売買を許可しましたが、翌日インディオの売買が適法かどうかを神学者に諮問した結果、一転して許可を取り消しインディオを保護しました。続いて8月末には弟ディエゴ・コロンと共にスペインへ向かうトーレスの艦隊に再び500人を奴隷として積み込み、イサベル女王の不興を被りましたが、反乱を起こし制圧された人間ということで、セビリアで競売にされました。イスパニョーラ島では、シバオ地区の14才以上の住民に3ヶ月毎に大型の鈴1杯の砂金を、その他の地区の住民には毎月1アローバの棉を納めるように命令しました。しかし思うように金が集まらないため、3ヶ月毎の金の量を半分にしましたが、それでも集まらず、金鉱で強制労働をさせるようになり、この地区のインディオは山に逃げ込んでしまいましだ。やがて全てのインディオをヨーロッパ人の農園で働かせるようになっていきました。

1495/4月トーレスがスペインに着き、コロンブスの健在と食料不足を伝えました。スペイン国王は直ちに救援船の出航を命じたが、イスパニョーラ島から帰国を希望する人達を補充するための渡航者が集まらなくなっていました。というのは、イスパニョーラ島から帰ったブイル修道士やマルガリーテ達が悪い評判を流し、それが広がっていたためでした。そこで、1495/4/10付でインディアスへの渡航および発見・交易の自由化令が公布されました。国王は自由化令に加えて、5/5追加の保証措置をとり、さらに5/30に渡航者に特典を追加しましたので、ようやく8月に渡航者を集め、アグアードが率いる4隻の救援船が出帆することが出来、10月にイスパニョーラ島に着きました。国王が派遣したアグアードは国王の指示書をコロンブスに手渡しました。彼は巡察史としてコロンブスの行政を取り締まる役目も負っていました。
1496/3/10コロンブスはアグアードと共にスペインへ向かい、6/11スペイン・カディス港に着きました。こうしてコロンブスの第2回航海は終わりました。ブルゴスで国王に謁見したコロンブスは“インディアス事業”への支援を求め、続く第3回航海のための準備で、1495/4月の自由化令の撤廃と「サンタ・フェ協約」の遵守を求めました。

イスパニョ−ラ島に残留していたコロンブスの弟バルトロメが1496/6/11にサント・ドミンゴ(現ドミニカ共和国の首都)を建設しました。ボナオ砦も建設しましたが、1497年になるとイスパニョーラ島ではロルダンがコロンブスの留守を良い事に権力を独り占めにして、コロンブスの弟バルトロメとことあるごとに対立してきていました。
イスパニョーラ島

1496、ドミンゴ市建設450年
1497/5月スペインでコロンブスは第3回航海の準備をはじめました。コロンブスが求めていた航海自由化令撤廃は1495/4月に公布された分の「提督の利益に反する部分」が撤廃されました。5/30公布のイスパニョーラ島以外の発見、交易航海は残されました。「サンタ・フェ協約」も交渉の中で質的な変更はあったものの守られることとなりました。第3回航海は、渡航者等を王国で決め、コロンブスはそれに従って準備することになりました。予定の渡航者は330人。騎士40人、徒歩兵100人、水夫60人、金の選鉱夫20人、農夫60人、職人20人、女性30人。渡航者を集めることが難しく、6/22にはイスパニョーラ島へ渡る犯罪者の特赦令が出されました。乗船することになった渡航者は287人その内、金の選鉱夫は1人になっていました。

コロンブスの第3回航海は航海の準備がなかなか進まないため、1498/2/6まず先発の2隻がイスパニョーラ島へ向けて出帆しました。5/30にはようやくコロンブスが6隻を率いてマデイラ諸島へ向かって出帆しました。カナリア諸島で3隻をイスパニョーラ島へ向かわせ、コロンブスはさらに南下してヴェルデ岬諸島を過ぎ北緯5度近くで西向きの航路をとりました。7/31トリニダード島を発見し、現在のベネズエラに到達しました。オリノコ川河口の湾が淡水なので大きな陸地があると思いながらイスパニョーラ島へ向かったと伝えられていますが、弟バルトロメが書いたといわれる地図によると、コロンブスは南にのびる巨大な大陸の存在を考えていた事が分かるといわれています。

1498/8/31にコロンブスがイスパニョーラ島サント・ドミンゴに着いてみると、彼が信頼していたイスパニョーラ島の大法官フランシスコ・ロルダンが反乱を起こしていました。コロンブスはスペイン国王夫妻の信任を得てはいましたが、島での兵力は圧倒的にロルダンがにぎっていましたので、ロルダンと会談し、4項目の合意をしました。それは「1).帰国を望む15人を直ちに帰国させる。2).島に残留する者に給料に換えて、土地と住居を分与する。3)今回の出来事はなかったことにする。4)ロルダンをあらためて終身大法官にする」というものでした。翌年3月インディアすで反乱が起こった事を知ったスペイン国王は、ロルダンの反乱を収拾し全容を調べ犯罪者を処罰することが目的で、5月フランシスコ・デ・ボバディリャを「インディアス判事・総督」に任命しました。スペイン国王はボバディリャをインディアスへ派遣しイスパニョ−ラ島に到着しました。島内の国王財産をボバディリャに引き渡すよう指示し、コロンブスにもボバディリャの指示に従うよう通知しました。ボバディリャが着いたときコロンブスは島の内陸部ベガ・レアルへ行っていて、バルトロメとロルダンはハラグア地方にいました。ボバディリャは、コロンブスにボバディリャの指示に従うよう命じた書状を届けさせました。1500/8コロンブスとディエゴ兄弟は捕縛され、10月本国送還となりました。ボバディリャは税率の軽減などで住民の支持を取り付けました。人々の証言からコロンブス兄弟を有罪とし、ディエゴ・コロンを船に閉じこめ、コロンブスは砦に収監し、バルトロメを呼び寄せ逮捕しました。コロンブスは国王の利益を第一に考えていたため住民の評判は悪かったのです。足に鎖を付けられ本国送還となったコロンブス三兄弟は10/20(25日説有)カディスに入港しました。12月12日国王夫妻は鎖を解かせ、王宮に招く書状と2000ドュカートもの支度金を届けました。そして夫妻はボバディリャの独断専行だとして、コロンブスに授与した特権や恩恵は誠実に守ることを約束しました。

なお、この間に1492/4コロンブスの権利を守る「サンタ・フェの協約」がスペイン国王イサベラ女王夫妻と締結されていましたが、スペイン国王はポルトガルの東回りインド到達やイギリスの1497年ヴェネツィア人ジョン・カボットによるカナダ・ニューファウンドランド到達などを知り、1499年インディアスへの航海の自由化令を公布しました。そしてこの航海の自由化で、カスティーリヤ国内でも、自費でのインディアスへの航海の許可を求める要望があり、次々に航海が許可され、コロンブスが第4回航海に出る(1502/5/9)までの間に8つの航海が許可されました。

1500/9/3スペイン国王はインディアス総督にニコラス・ド・オバンドを任命し、1502/4/15オバンドが2500人の入植者を連れてイスパニョ−ラ島サント・ドミンゴに到着しました。

1502/5/9コロンブスは4隻、140人で第4回の航海に出帆しました。弟バルトロメと息子エルナンド・コロンが同行していました。帰路を除きイスパニョーラ島への寄港は禁じられていました。第2回航海とほぼ同じ航路をとりドミニカ島、プエルト・リコ島南岸をへて、イスパニョーラ島へ着きました。6/29コロンブスはハリケーンが近づいていることと代船を探すという理由で入港を求めましたが断られました。7/1に29隻の艦隊がスペイン・カスティーリャへ向け出帆しましたが、ハリケーンに襲われ大部分の船は大破、沈没しました。差し押さえられたコロンブスの財産を積んだ1隻だけがカスティーリャに着くという事件が起こっています。コロンブスの船隊はジャマイカ、キューバをへて7/27ホンジュラス沖のグアナハ島に着きました。ここでコロンブスはマヤ人と出会って、これまで出会った人達の中で格段に優れた文明生活を送っているのを認めています。

1503/2コロンブスはパナマ付近で住民が金を持っていたことからベレン川近くで金鉱を発見しました。ベレン川河口にサンタ・マリア・デ・ベレンと名付けた居留地を造り、バルトロメ・コロンと80人を残す計画をたてました。住民の首長キビオが居留地襲撃の準備をしていることに気づいたバルトロメは77人をつれてキビオを捕らえましたが逃げられてしまいました。このとき300ドゥカート相当の金を持ち帰りました。4月に20人を居留地に残しイスパニョーラ島へ向かいましたが、水の補給をするために居留地へ再び戻ったとき、キビオたちインディオに居留地は攻撃されていました。コロンブスは孤立したバルトロメ達を収容しイスパニョーラ島へ向かいました。このころ状態が悪くなった2隻を放棄してしまいました。キューバをへてジャマイカ島に達したとき残りの2隻も航行不能になり、6/26に2隻を浅瀬に乗り上げ砦として活用しました。近くの集落から物々交換によって116人の食料を得ながら、ディエゴ・メンデス他1人を丸木船でイスパニョーラ島へ送り、救援船を待つことにしました。7月下旬イスパニョーラ島に着いた2人は総督オバンドに救援船の要請をしましたが、オバンドはコロンブスに冷淡でした。メンデスが港に着いた船のうち1隻をジャマイカに派遣できたのは1504/6になりました。その間ジャマイカでは1504/1ポーラス船長が仲間を集め、丸木船でイスパニョーラ島へ行こうとしましたが果たせず、反乱を起こしてジャマイカ島を荒らし回っていました。また住民からの食料の量も少なくなってきていました。2/29が皆既月食であることを知っていたコロンブスはこれを利用して食料危機を乗り切りました。この後オバンドが派遣した小型船が1隻着きましたが、食料とメンデスの手紙を置いて去っていきました。5月バルトロメがポーラスを破り反乱は収束しました。6月末に救援船が着いて8/13にイスパニョーラ島に戻ることができました。その後、捕らえられていたポーラスは総督の命令で釈放されました

イエスパニョーラ島のインディオはカスティーリャ国民として税を労働によって納めることになっていて、それで島の整備を行ったり金の収集をしていました。しかしスペイン人を避けて多くのインディオが山奥へ逃げて命を落としたり、ヨーロッパから伝わった天然痘などの伝染病が広まったことで、インディオの人口が急激に少なくなってしまいました。1503年総督オバンドは国王に、インディオをスペイン人の近くに集住させ強制的に働かせることの許可を求めました。イザベル女王はキリスト教の布教がしやすくなることと島の開発のためにこれを認め1503/12インディオ強制労働令を公布しました。ただし無理のない労働と賃金の支払いを命じてはいました。1497年のロルダンの反乱以降、一部のスペイン人はインディオを私物化していて1500年には330人ほどのスペイン人がインディオを所有し大きな勢力になっていました。オバンドは2500人の入植者を連れて1502年にイスパニョーラ島へ来たので、旧勢力のインディオを再配分して統治しやすくするという目的もありました。

1504/9コロンブスは船を調達しサント・ドミンゴを出港しました。弟のバルトロメ、息子のエルナンドと22名が同行。11/7スペイン・サンルーカルへ入港しました。コロンブスを支持していたイサベル女王が1504/11/26に亡くなり、フェルナンド王に謁見できたのは1505/5になってからでした。コロンブスは「サンタ・フェの協約」の確認を求めましたが、国王との交渉はなかなか進展せず、国王とともにセゴビアからサラマンカ、バリャドリードと移動しました。1506/4コロンブスはフェルナンド王との交渉がなかなか進展しないため、フアナ新女王に自分の権利を主張する書簡を送りましたが、その返事が届く前の1506/5/20にバリャドリードで息を引き取りました。晩年は痛風に苦しんでいたといわれています。ディエゴ・メンデスの記録によると、息子ディエゴ・コロンは提督でエスパニョーラ島副王になっています。エルナンドも、人文主義者として生涯で15,000冊の蔵書を集めています。ディエゴの子、ルイス・コロンも提督、ベラグア公爵になっています(副王は認められなかった)。ということからフェルナンド王がコロンブスの業績を評価していたといわれています。

ドミニカ共和国はコロンブスの弟バルトロメが建設した首都サントドミンゴに由来し”domingo”「安息日」に建設したからという説とコロンブス兄弟の父の名ドメニコ(Domenico)がスペイン語化したものとの説があります。なお、1697/9リュウイック(ライスウェイク)条約締結で、スペインはイスパニョーラ島西半分をフランスに割譲.サン・ドマング(ハイチ)となりました。フランスの支配を嫌うスペイン人はキューバに移住しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       
スタンプ・メイツ
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