★スペイン
インカ征服の戦い
15世紀
スペイン征服者
大航海物語★
ピサロのインカ征服


スペイン船




ピサロ
インカの街


スペイン人
ハンガリー 1992 発行
Peru
インカ皇帝アタワルパ

ペルー 1998/7/17 発行
Peru
インカ皇帝マンコ2世

ペルー 1998/7/17 発行

RPUBULICA DOMINICANA
スペイン兵の進撃

ドミニカ共和国 1992 発行
現地人の戦い

ドミニカ共和国 1992 発行

PERU
FRANCE
インカの空中都市マチュピチュ遺跡

ユネスコ世界遺産に登録記念
フランス 2008/12/04 発行
南アメリカの地図



ペルー
ペルーの 200海里
排他的経済水域を表す地図
ペルー 1983/3/25 発行

GRENADINES St.VINCENT
現地人の平和な暮らし、道具は石器(図案はカリブ海地方の部族)
狩猟 タバコ 住居 ハンモック
 
火起こし 酒造り パン焼き 粉挽き
ハンモックなど多くの物がヨーロッパへ伝わる
グレナディーン・セント・ヴィンセント 1992 発行

ピサロのインカ帝国征服の主な戦い:〜16世紀
 
プンタ・ケマーダの戦いプンタの戦いカハマルカの戦い
ヴィルカコンガの戦い第1次クスコの戦いマライカラの戦い
第2次チンボラソ山の戦い第2次クスコの戦い(サクサイワマン)
オリャンタイタンボの戦い

スペイン人が来航してきた当時のインカ帝国では、ヨーロッパの探検家が持ち込んだ天然痘(はしか説有)に感染した皇帝ワイナ・カパックが突然、亡くなり(1526)、帝国は一人の後継者に受け継がれず、二人の子孫によって分断された後、冷酷な権力争いが起こり、それは後に内乱にまで発展していました。クスコのワスカルはキトーのアタワルパを一時は捕らえたものの、逃げられ内戦となり、オリャンタイタンボの戦いでアタワルパが勝利して、クスコへと進軍の途中で温泉に逗留して戦いの戦傷を癒しているところで、内乱は終了したものの、インカ帝国はキトー派とクスコ派に2分化されたまま弱体化しており、スペイン人征服者に対して、何の準備もされていない状態でした。スペイン人はインカ人に反発する現地人部族を懐柔して味方にし、インカ帝国の都クスコへと、ヒタヒタと近づいて来ていました。
▼主な戦い:〜
  (インカ征服)
プンタ・ケマーダの戦い (1525/1月)
  Battle of Punta Quemada
、ピサロの辛勝で撤退
  場所:カウカ(Cauca)南
プンタ・ケマーダの戦いはピサロの第1次ビルー探検航海(1524-1525)で、コロンビア南西部の太平洋に面するカウカ県(Cauca department)プンタ・ケマーダの現地人集落で食糧を見つけた翌日、現地の住民300人が襲撃してきて、戦い(Battle of Punta Quemada)となって負傷21人、内5人が亡くなり、船に撤退して帰途についた戦闘でした。
1525/1 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 フランシスコ・ピサロ キトー・インカ族 第1次ビルー探検
兵 力 スペイン人70人 現地人300人 .
損 害 戦死5人、負傷16人 約100人 .
場 所 コロンビアのカウカ南の集落付近

プンタの戦い (1531/4月)
  Battle of Puna
、ピサロの勝利
  場所:プナ島(Isla Puna、Bahia Guayaquil)
プンタの戦いはピサロの第3次ビルー探検航海(1529-1531)で、エクアドルのグアヤキル湾プナ島にスペイン人遠征隊160人が甲冑にパイク(pike)という長槍・大砲・鉄砲(マスケット銃:Musket)・石弓(ボウガン)に馬37頭で武装して上陸。当初はここでも歓迎されましたが、スペイン人の非道な扱いに怒った現地人が石斧・石刀・尖った石の槍・弓矢・投石・棍棒などで襲撃してくるも、スペイン人が反撃して勝利しました。その後、プナ島を出帆して対岸に上陸。トウンペスへと進軍して、やがてインカ帝国を征服することになった戦いでした。
1531/4 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 フランシスコ・ピサロ
エルナンド・ピサロ
プナ族 第3次ビルー探検
兵 力 スペイン人歩兵160人
騎兵:27騎
プナ族約3000人 .
損 害 戦死3人、負傷26人 約400人 .
場 所 エクアドルのグワヤキル湾プナ島

カハマルカの戦い (1532/11/16)
  Battle of Cajamarca
、ピサロの勝利
  場所:カハマルカ近郷
カハマルカの戦いはペルーに上陸したスペイン人が、1532/5/16にトゥンベスを発ってサンミゲルを経てペルー内陸部へと進軍して、インカ帝国皇帝アタワルパ(Atahualpa, 1497-1533/8/29)がインカ内戦での戦傷を癒すため、数万の兵(2万人説と8万人説有)と共に、現ペルー北部の山に囲まれた盆地(標高2750m)にあるカハマルカ県々都で温泉のあるインカの街カハマルカに滞在していて、インカの伝令網チャスキで外国人(スペイン人)が近づいて来ていることを知っていました。200人足らずの少数部隊の外国人からの使者の口上を、謁見申し込みだと思った皇帝はスペイン人
カハマルカのクンベ・マヨ遺跡

ペルー 2011 発行
をカハマルカに招待しました。1532/11/15にピサロ一行スペイン人部隊168人が皇帝アタワルパの招待を受け、カハマルカ盆地に入りました。翌11/16に街の大広場にスペイン人使者のエルナンド・ド・ソト、宣教師ビセンテ・ド・バルベルデ神父、現地人通訳フェリピロが到着すると、皇帝アタワルパは輿に乗り、僅かの付き人と共に現われ、周りを7,000人以上の丸腰で非武装の皇帝側近インカ衛兵が取り巻きました。宣教師バルベルデ神父がキリスト教の聖書を示して皇帝を説諭し、皇帝に渡した聖書を皇帝が投げ捨てたのを合図に、それまで隠れていたスペイン人が大広場にマスケット銃12丁と大砲2門を打ちかけると、その轟音にインカ人は恐れ慄き大パニックに陥りました。そこへ鉄の甲冑と剣で完全武装した歩兵106人と騎兵62騎が、歩兵はハンドルで弦を巻き上げられる大弓(バジェスタ)で強力な殺傷力のある石弓で高所から狙い撃ち剣で刺殺し、騎兵隊は怪獣の「馬」に乗ってパイク長槍を持つ完全武装で突撃して、皇帝を輿から引摺り下ろして生け捕りで捕虜にし、太陽の神殿に投獄・幽閉しました(1533/8/29:処刑)。こうしてカハマルカの戦いはスペイン人の一方的勝利となりました。
1532/11/16 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 フランシスコ・ピサロ
ピサロ3兄弟
(エルナンド、ゴンサロフアン
エルナンド・ド・ソト
(騎兵隊長)
皇帝アタワルパ .
兵 力 歩兵106人・騎兵62騎
マスケット銃12丁・大砲4門
3,000〜8,000人 アタワルパ捕虜
損 害 戦死約5人、負傷1人 約2000人戦死傷
約5000人捕虜・投獄
.
場 所 ペルーのカハマルカ近郷
・参考HP:〜
 ピサロのインカ遠征の行軍地図

ヴィルカコンガの戦い (1533/8〜11)
  Battle of Vilcaconga
、スペイン人の勝利
  場所:ヴィカコンガ近郷
ヴィルカコンガの戦いは、カハマルカの戦い後にスペイン軍168人が、7/26に一端解散してクスコの南へと山越えした後、アルマグロ軍100人と合流、再編成したところに、アタワルパの将軍の一人キズキズ将軍(Quizquiz、1535没)の数千人と衝突した戦いで、スペイン軍が勝利して、1533/11月にクスコを再占領することになりました。
1533/8-11 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 フランシスコ・ピサロ、
ピサロ3兄弟軍(200)
アルマグロ1世軍(100)
地人部族
キズキズ将軍 .
兵 力 スペイン人300人
現地人数百人
数千人 .
損 害 かなりな損害 そうとうな損害 .
場 所 ペルーのクスコ南方ヴィルカコンガ近郷

第1次クスコの戦い
  (1533/11/15)
  Battle of Cuzco

  場所:クスコ
  スペイン人の勝利
  別名:クスコの包囲攻撃
  (Siege of Cuzco)
1533/8/29に皇帝アタワルパをカハマルカで処刑した後、フランシスコ・ピサロに率いられたスペイン軍、といってもい168人が味方になった現地人部族部隊とインカ帝国の首都クスコへと進軍。ピサロはクスコに近づくと、1533/11/8にエルナンド・ピサロと騎馬の名手ソトの率いる60騎の先発隊がハウハを出
インカの土器とインカ道地図





カハマルカ

←チャヴィン

クスコ

←プカラ
発してクスコに向かい、アプリマック川に沿ってビルカクンガ山地に入った所で、アタワルパ派キズキズ将軍の待ち伏せ攻撃に会い苦戦するも、アルマグロ軍の応援でインカ軍を撃破。1533/11/15にクスコのアタワルパ派が、マンコ2世を連れたピサロの前に無血開城。その夜にキズキズ将軍は残残存部隊を連れて、キトーに退却。ピサロはベラルカサール指揮のスペイン軍歩兵2百人と騎兵80騎で追撃させました。また、ピサロはマンコ2世がインカ皇帝に即位させ、スペイン人征服者はスペイン国王から統治の全権を委任されて、エンコミエンダ制が発足してヌエバ・カスティーリャ(Nueva Castilla:新カスティーリャ)と命名しました。戦いは11月末に終わり、スペイン人がクスコを徹底的に略奪、金銀を奪い、クスコはは翌年3月にスペイン方式で再建されました。なお、1532/4にキパンパンの戦い(Battle of Quipaipan)でインカ内戦に勝利したアタワルパ派チャルクチマック将軍(Chalcuchimac, カハマルカ1533没)が、クスコを焼いて撤退した説有。
1533/11/15 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 フランシスコ・ピサロ
ピサロ3兄弟
アルマグロ1世軍
現地人の部族
 ケチュア系ワンカ族(Huancas)
 エクアドルのカニャリ族(Canari)
 アンデスのチャチャポヤ族(Chachapoya)
キズキズ将軍 .
兵 力 スペイン250-300人、大砲3
現地人部族:数千人
10万人説有 .
損 害 スペイン人:ほとんど無
現地人:軽微
数千人 .
場 所 ペルーのクスコ

マライカラの戦い (1534)
  Battle of Maraycalla
、スペイン軍の勝利
  場所:マライカラ
マライカラの戦いでスペイン人がインカの将軍キズキズに勝利すると、インカ最後の将軍キズキズが山に逃げ込みました。翌1535年にキズキズ将軍は迫り来るスペイン人の恐怖に怯えた部下に殺害され、インカ軍の有力な将軍はいなくなりました。数年後にマンコ2世による大反乱(サクサイワマンの戦い)が起りました。
1534 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 ピサロ3兄弟
現地人の部族
キズキズ将軍 .
兵 力 不明 不明 .
損 害 不明 不明 .
場 所 ペルーのマライカラ

第2次チンボラソ山の戦い (1534)
  Battle of Mount Chimborazo
、スペイン軍の勝利
  場所:チンボラソ山の谷
第2次チンボラソ山の戦いはピサロの命でベラルカザールがインカ将軍ルミニャウイ(Ruminahui, 1535/6/25没)を追撃して、キトーに迫って、一方のインカ将軍ルミニャウイがエクアドルでキトー・インカ族を結集して南へと進軍してきて、エクアドル中央チンボラソ県にあるアンデス山脈の火山で、キトー南南西150kmにあるエクアドル最高峰のチンボラソ山(Volcan Chimborazo, 6,310m)の谷で出会って起こった戦いでした。当初はインカ軍が優勢で、スペイン軍は撤退を始めた時に、火山が爆発。インカ軍は神の怒りの前兆だと、恐れおののいて逃げ去りました。スペイン軍はキトーを占領して、黄金を探し求めました。その後、ルミニャウイ将軍は捕らえられて黄金の在処を拷問されましたが、言わなかったので、6/25に処刑されました。
1534 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 ベラルカザール キトー・インカ族 .
兵 力 スペイン人70人 現地人300人 .
損 害 戦死5人、負傷16人 約100人 .
場 所 キト南南西150kmにあるエクアドル最高峰チンボラソ火山の谷

サクサイワマンの戦い (1536/5/6〜1537/3上旬)
  Battle of Saksaq Waman
、ペイン軍の勝利
  (第2次クスコの戦い、Siege of Cuzco)〜スペイン軍の勝利
  場所:クスコを包囲するも、リマなど広範囲
サクサイワマンの戦いは、1534年にピサロとアルマグロが即位させたマンコ2世がスペイン人の傀儡に過ぎないことに気付き、1536年にピサロが新首都となったリマに行き、アルマグロがチリ方面の探検に出ている間に、宗教儀式の実行に見せかけてクスコを脱出し、カヒュイデ(Cahuide)と共にインカ軍を10〜20万人も動員してクスコ北のサクサイワマン(Saksaq Waman)を拠点に、1536/5月にマンコ2世が挙兵・蜂起。クスコ、リマなどは圧倒的多数のインカ軍に包囲されるも、8月にはインカ軍は食料が不足して、さらに作物の種まきをする必要があったため、クスコの包囲を解き、クスコ北方を流れるウルバンバ川近辺のオリャンタイタンボ砦に退却。フランシスコ・ピサロの弟エルナンド・ピサロが砦を攻撃するも守りが堅いため失敗に終わりクスコへ退却。この戦役は10ヵ月続くもクスコは落ちず、その間インカの戦士の多くが天然痘で死亡して、仕舞にはスペイン軍が勝利しました。
サクサイワマンのインカ遺跡

ペルー 1961/9/11 発行
10ヵ月 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 ピサロ3兄弟
(エルナンドとゴンサロは一時捕虜)
アルマグロ1世軍
ロドリゴ・オルガネス
ピサロ(リマ援軍300)
現地人の部族
 ケチュア系ワンカ族
 エクアドルのカニャリ族
 アンデスのチャチャポヤ族
マンコ2世
カヒュイデ
.
兵 力 スペイン人190人(騎兵80)
援軍300人、1537年700人
現地人部族:約3万人
インカ兵
10-20万人
.
損 害 軽微な損害 病没数万人説有 .
場 所 スペイン支配クスコの包囲攻撃戦

オリャンタイタンボの戦い (1537/1)
  Battle of Ollantaytambo
、インカ軍の勝利、後にビルカバンバへ退却
  場所:オリャンタイタンボ
オリャンタイタンボはペルーのクスコ県ウルバンバ郡オリャンタイタンボ遺跡(Ollantaytambo district, Urubamba province, Cusco region, (Inca Empire), Peru)で、ピルカノータ・ウルバンバ川(Rio Urubamba)沿いの町ビサクの北方50kmのウルバンバ川支流パタカンチャ川が流れ込む谷間のオリャンタイタンボの町にあって、川岸の平地と急な斜面に築かれたインカの都市建設物と、標高2846mにあるオリャンタイタンボ砦は正面に6枚岩の壁を備え、21世紀の今なおその威容を誇っています。1536/8月にインカ軍がクスコから撤退してきて、そのためフランシスコ・ピサロの弟エルナンド・ピサロが砦を攻撃するも、険しい地形に阻まれて騎兵隊の活動が妨げられ、また砦の守りが堅いため失敗に終わりクスコへ退却しました。
1525/1 ピサロ軍 インカ軍 メモ
司令官 エルナンド・ピサロ マンコ2世 .
兵 力 スペイン人100人
現地人部族:約3万人
約3万人 .
損 害 不明 不明 .
場 所 ペルーのクスコ州ウルバンバ県オリャンタイタンボ街

クスコでは、ピサロ派とアルマグロ派の争いが起っていたためエルナンド・ピサロはチリから戻ったアルマグロ1世と戦って敗れ、捕らえられ捕虜になりました。アルマグロはその余勢をかってオリャンタイタンボ砦を攻撃すると、マンコ2世は篭城するも結局、スペイン軍500人の前に戦わずして、ウルバンバ川下流のビルカバンバへ撤退し、川流域の幻の都ビルカバンバ(Vilcabamba)に逃れ、インカ政権を成立(-1572)させました。なお、スペイン支配下となったオリャンタイタンボは太陽神殿などの全てがスペイン人によって略奪され、現在は当時の姿をとどめていません。

こちらで、
・インカ最後の皇帝アタワルパ
・インカの名目皇帝マンコ2世
・スペイン人の新世界制服者コンキスタドール
・ピサロ13人とカンディア
を、お楽しみください。

▼参考HP:〜
ピサロのインカ遠征の行軍地図
グアヤキル湾プナ島の場所地図
カハマルカの場所地図(Tumbes、Cajamarca、Cusco有)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
キトー付近のアンデス山脈の高低差を表示地図
アマゾン河水系の地図(日本語、ペルーの地図、アマゾン河はアンデス山脈から東流)
エクアドルの地域別地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/12/7
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