★ダンピール物語 第1回 ロジャース私掠船(海賊)遠征隊
1708〜1711
第4回世界一周大航海
大航海物語
イギリス★
第2回
第3回
第4回

Correos del Ecuador
スペイン系のエクアドルでは
ダンピール船長を海賊と認定して切手を発行
ガラパゴス諸島への航海、デューク号
ガラパゴス諸島の地図 ダンピ|ル船長
エクアドル  2006/12/29 発行
Bahamas
ロジャース船長

バハマ 1987/6/2 発行
ガラパゴス諸島への航海
海賊島ガラパゴス諸島 (アシカと海賊船)
(スペインでは私掠船は海賊船)


エクアドル  2006/12/29 発行
Correos del ECUADOR
ガラパゴス諸島の地図

エクアドル 1936 発行 (200%)

Correos de CHILE
フアン・フェルナンデス諸島


セルカーク島→


サンタ・クララ島→


ロビンソン・クルーソー島
      フアン・フェルナンデス諸島発見400年記念
チリ 1974/11/22 発行 (200%)

第4回世界一周:〜
  ロジャース遠征隊 (1708〜1711)
   Rogers Expedition

1708年にダンピールはブリストル港の商人たちが準備した私拿捕船(私掠船)のウッズ・ロジャース船長(Woodes Rogers 1679-1732、後のバハマ総督)デューク号遠征隊のパイロット(水先案内人)となってブリストル港を出帆しました。3年間にわたり新大陸のスペイン領(カリブ海方面や新大陸の太平洋岸)を荒らしまわりました。

・セルカークの救出:〜
この航海で、南アメリカ太平洋岸のエクアドル沖の西約900kmにあるガラパゴス諸島へと航海してから、1704年に島に置き去りにされていて、ロビン・ソン・クルーソーのモデルとなった船員の”アレクサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk 1676-1721)”をチリ沖の南太平洋上のファン・フェルナンデス諸島の孤島から1709/2/2に救出したといわれています。

1711/10/14に3年2ヵ月の航海の後、第4回目の世界周航を果たして母国に帰港し、帰国を果たしました。この遠征航海は大成功を収め、獲得した利益は約£200,000ポンドにのぼりましたが、それは1719年まで分配されませんでした。ダンピール船長は分け前を受け取る前に、ロンドンのコールマン街セント・スティーヴン教区で税官吏の仕事に戻って静かな余生を送って、1715/3月にロンドンにて64才で亡くなりました。なお、ダンピール船長の第4回目の世界周航は、ロジャーズ船長のデューク号遠征隊の航海日誌に詳述しています。

ダンピール船長は著名な人や物に影響を与えました。博物学に関する彼の観測と分析はチャールズ・ダーウィンアレクサンダー・フォン・フンボルトの理論構築を助成し、ジェームス・クック船長ホレーショ・ネルソン提督がダンピール船長の航海術に関する工夫を学んだとされています。ダンピール船長の航海に乗り組んだアレクサンダー・セルカークの体験が、ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーの基になり、パンノキに関する報告はウィリアム・ブライ船長バウンティ号の不幸な航海につながりました(バウンティ号の反乱)。

ダンピール船長の著作(体験談など)
・「最新世界周航記」1698年春に最初の第1巻を出版
 (A New Voyage Round the World 1697)
・「航海の詳細」1699年出版
 (Voyages and Descriptions 1699)
・「世界周航記捕捉」1699出版
 (A Supplement of the Voyage Round the World)
・「カンペチェ湾への2度の航海」1699出版
 (The Campeachy Voyages)
・「風についての論考」1699出版
 (A Discourse of Winds)
・「ニューホランド航海記 第1部」
 (A Continuation of a Voyage to New Holland 1703)
・「ニューホランド航海記 第2部」
 (A Continuation of a Voyage to New Holland 1709)

参考HP〜
クリッパートン島の場所地図    08/12/12追記、11/11/11






★ダンピール物語 ダンピール海峡
1700
発 見
大航海物語★

AUSTRALIA
ダンピール船長

オーストラリア 1963-65 発行
PAPUA & NEWGUNIA
ニューギニアの東がニューブリテン島
ニューギニア島→



オーストラリア
ポートダーウィン→
ニューブリテン島
←ラバウル


ニューギニア島
←ラエ
←ポートモレスビー

パプアニューギニア 1952/10/30 発行
(赤丸印はPCで加工追加)

ラバウル

パプアニューギニア 1963/2/13 発行
ダンピール海峡

(1)ブーゲンヴィル島
(2)ニューアイルランド島
(3)ニューブリテン島
(4)ニューギニア島

・ダンピ−ル海峡
  Dampier Strait

ニューギニア島の東、ニュー・ブリテン島とその西のウンボイ島との間の海峡です。1700年にイギリスの航海者ダンピールがこの海峡を通過し、ニューブリテン島がニュー・ギニア島と陸続きではなく、別個の島であることを確認しました。

太平洋戦争中の1943年3月にラバウル基地からニューブリテン島北回りコースでビスマルク海から、ダンピール海峡を通過、ニューギニアのラエへ駆逐艦8隻で護衛された大日本帝国輸送船団(約7千の兵と物資を積んだ輸送船8隻)が米軍の空襲攻撃を受けて、ほぼ全滅するという海戦が起こり「ダンピール海峡の悲劇」と言われています。
参考HP〜
 ・ダンピール海峡(衛星写真)
 ・ ポートモレスビーからソロモン諸島の地図(日本語)

・ダンピア水道
  Selet Dampier
インドネシア東部、ニューギニアとワイゲオ島との間の海峡。ほぼ東西に150Km,幅50km,太平洋とハルマヘラ海とを結ぶ。ハルマヘラ海側には大小の島々が散在しています。1699年にイギリスの航海者ダンピアによって発見され命名されました。ニューギニア島側のドム島に海峡最大のと都市ソロン(Sorong)が有り、航海の要地となっています。クラモノ油田の原油積出港として栄えています。

参考:〜
スク−ンヴェルドの海戦 (1673/6/14-7/7)
  Battle of Schooneveld

スク−ンヴェルドの海戦は第3次英蘭戦争(Third Anglo-Dutch War、1672-1674)のオランダ海岸の沖で、カンバーランド公ルパート(Rupert,Duke of Cumberland:Prince Rupert of the Rhine, 1619-1682)に率いられたイギリス・フランス連合艦隊と、ロイテル提督に率いられたオランダ(ネーデルラント連邦共和国, Seven United Provinces)艦隊が戦った海戦で、英仏連合軍がオランダへの上陸を試みましたが、ロイテル提督の率いるオランダ艦隊が撃退して、オランダ上陸を阻止しました。
デ・ゼーヴェン・
プロヴィンシェン号



・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       08/12/12追記、10/1/23、11/11/11、12/9/11

★ダンピール物語:第1回第2回第3回、第4回、海峡
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