オランダ Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages)No.3
第3次 蘭英戦争
1672〜1674
3rd Anglo-Dutch War

United Kingdom

国連 1983 発行
大航海物語

NEDERLAND
M.A. De Ruyter

1607 ロイテル生誕300年記念 1907
オランダ 明治40年 1907 発行
NEDERLAND
デ・ロイテル提督

オランダ 1607-1676 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970 発行

・第3次蘭英戦争
  3rd Anglo-Dutch War(1672/3/27〜1674/2/19)
<第3次蘭英戦争の主な海戦>
(0)ビーチーヘッド沖の海戦 (1672/3/12) 蘭勝利
(1)ワイト島沖の海戦 (1672/3/12) 引分
(2)ソールベー沖の海戦 (1672/6/07) 引分
(3)セントヘレナ侵攻 (1673/5/05) 蘭降伏
(4)スホーネヴェルトの海戦 (1673/6/07) 蘭勝利
(5)テクセルの海戦 (1673/8/21) 蘭勝利
(6)マスリパトナムの戦い (1673/9/01) 蘭勝利
(7)ロナス・ヴォーの海戦 (1674/3/14) 英勝利
(8)第2次ジェームズ川沖の海戦 (1673/7/12) 蘭勝利
イギリスの海軍提督
第3次蘭英戦争はフランスルイ14世と盟約したイングランド王チャールズ2世(1630-在位1660-1685、スコットランド王在位1649-1685)が1672-74年に、フランスの始めたオランダ戦争(1672-1678)に協力する形で始まり、オランダ戦争の局地戦とも言えます。当初フランスの侵略意図が明らかになると、ヨハン(ヤン)デ・ウィッテ(Johan(Jan) de Witt, 1625-1672)は1668年にイングランドと同盟を結びました。しかしルイ14世は1671/9月にチャールズ2世に絶世の美女ルイーズ・ルネ・ケルアイユ(Louise Renee de Penancoet de Kerouaille, 1649-1734、チャールズ2世の愛人、ポーツマス公爵夫人)を与えて籠絡し、イングランドを味方につけました。1672年にフランス軍はオランダに侵攻して国土の大部分 チャールズ2世

バーブダ 1970 発行
を占領しましたが、オランダ側は堤防を決壊させて何とかフランス軍によるアムステルダム占領を防ぎました。危機に瀕した国内ではオラニエ・ナッサウ家統領の総督職復帰を望む声が強まり、若いオラニエ公ナッサウ伯(在位1650-1702)ウィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau,1650-1702、オランダ総督(在任1672/6/28-1702/3/8)、イングランド王・スコットランド王ウィリアム2世・アイルランド王(在位1689-1702)が軍最高司令官となり、次いで統領に就任しました。その後の暴動で、デ・ウィッテ兄弟は民衆に惨殺されました。ウィレム3世はオーストリア・スペインと同盟を結んでフランス軍を包囲し、フランス軍を撤退させました。戦争末期にイングランドは大艦隊を組織してオランダを襲うもオランダの名提督デ・ロイテルなどに撃退されました。

第3次英蘭戦争は、1672年にイギリスがフランスのルイ14世によるオランダ侵略戦争に加担して開戦しました。3月には英仏海峡を航行中のオランダ商船が突如イギリス艦隊から攻撃を受けました(ワイト島沖の海戦)。イギリスはこの時、オランダ船が抵抗したことを理由として三たびオランダに宣戦して、「第三次英蘭戦争」の勃発となりました。フランスがイギリス側に立って参戦し、フランス陸軍十数万がオランダ国内へと侵入し、海上からはイギリス・フランス連合軍がオランダへの上陸を試みましたが、名提督のデ・ロイテル提督率いるオランダ艦隊の活躍での海戦で撃退され、第3次ウェストミンスター条約で講和が成立しました。

一方、イングランド議会では「オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフランス重商主義によって経済的に屈服させられる」と言う声が高まり、チャールズ2世に親仏路線撤回を求めるようになりました。このため、1677年にチャールズ2世は弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の娘メアリー(後のメアリー2世)をウィレム3世に嫁がせて同盟を結び、国内の不満の沈静化に努めることになりました。

・講和条約:第3次ウェストミンスター条約
 (Treaty of Westminster, 1674/2/19)
第3次ウェストミンスター条約で講和が成立。1674年に締結され、第3次英蘭戦争を終結させた講和条約で、敗北したオランダはイギリス・フランスに賠償金を支払うと共に、入植していたニューアムステルダムニューヨーク)、ニュージャージーなどの北アメリカ植民地をイギリスへ割譲することで合意しました。
・結末について、
イングランドは3回もオランダと開戦し、オランダ経済に大打撃を与えましたが、皮肉にも1688年の名誉革命で、かつて敵対したオランダ統領オレンジ(オラニエ)公ナッサウ伯ウィレム3世(William III of Orange, 在位オラニエ公:1650/11/4-1702/3/8, オランダ統領:1672/6/28-1702/3/8)を、イングランド王ウィリアム3世(William III, 在位1689-1702, イングランド王・スコットランド王:1689/2/13-1702/3/8)として迎えることとなりました。名誉革命は国際関係からみれば、クロムウェルが提唱した英蘭合邦案の実現と言えなくもないという説も有。
ウィリアム3世

バーブダ 1970 発行

<第3次蘭英戦争の主な海戦>
オランダは第3次蘭英戦争(1672〜74)では英仏を敵にまわして戦い、1673年には英仏連合軍がオランダへの上陸を試みましたが、ロイテル提督の率いるオランダ艦隊が撃退して、オランダ上陸を阻止しました。

(1)ワイト島沖の海戦
 (Battle of Wight, 1672/3/12-13)引分
  別名:1672/3/12の海戦
 (Action of 12 March 1672, 1672/3/12-13)
  戦場:英仏海峡のハンプシャー海岸沖3.2〜8.0km離れたワイト島沖
     (Off Isle of Wight, Off coast Hampshire, English Channel)
ワイト島沖の海戦は、第三次英蘭戦争が正式に開始される前に勃発したので、イギリスは1672/3/27にオランダ共和国に宣戦布告しました。
オランダの船団
南アフリカ 1952 発行
海戦は、英提督ロバート・ホームズ卿(Sir Robert Holmes, c1622-1692)の戦列艦隊9隻がワイト島沖にて、オランダ輸送船団を発見。遭遇戦となるも、英攻撃艦隊は1 隻の輸送船を拿捕することもできず、戦列艦セント・ミカエル号1隻が大破、他の船も深刻な損傷を受けて敗退。オランダの護送船団スマーナ艦隊(Smyrna convoy)は提督エイドリアン・デ・ハーゼ(Adriaan de Haaze,  1672/3/12没)とエバツェン提督の弟コーネリアス・エバツェン提督(Cornelis Evertsen the Youngest, 1642-1706、ソールベー沖の海戦でズワネンブルグ号座乗)の護衛戦列艦隊5隻と輸送船66隻でした。
<ワイト島沖の海戦、艦隊戦闘序列>
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
 (Order of Battle at the Battle of the Action of 12 March 1672's Fleet)
蘭英艦隊 主 力 その他 総司令官 損害
・オランダ艦隊 戦列艦5隻 輸送船66隻 デ・ハーゼ提督 戦列艦1隻、商船4隻の喪失
・イギリス艦隊 戦列艦9隻  - - - ホームズ提督 戦列艦1隻の喪失
オランダ艦隊 (Ship) メモ
・フリシンゲン号 Vlissinge 50 デ・ハーゼ提督
・ユトレヒト号 Utrecht 48
・クライン・ホランディア号 Klein Hollandia 44 拿捕
・ドルドレヒト号 Dordrecht 44
・デルフト号 Delft 36
イギリス艦隊 (HMS)
・セイント・ミカエル号 Saint Michael 90 ホームズ卿、喪失
・レゾリューション号 Resolution 70
・ケンブリッジ号 Cambridge 70
・グロスター号 Gloucester 62 蘭クラインホランディア号を拿捕
  蘭艦は拿捕後にイーストボーン沖(Eastbourne, East Sussex, England)沈没
・ヨーク号 York 60
・フェアファックス号 Fairfax 60
・ダイヤモンド号 Diamond 48
・サクセス号 Success 32
・など。
ジェームズ2世(James VII of Scotland and James II of England, 1633-1701、在位:1685-1688)イングランド・スコットランド・アイルランドの王。


(2)ソールベー沖の海戦
 (Battle of Solebay, 1672/6/7)引分
 戦場:ソールベイ沖
    (Sole Bay, Southwold town, East Suffolk, Suffolk district, England)
     英仏海峡の北で北海沿岸サフォークの
     イーストサフォーク地区にある海辺サウスウォルド町のソール湾
ソールベイ沖の海戦は第3次蘭英戦争の海戦で、英艦隊が停泊し、戦闘の準備ができていないソールベイ港へのオランダ艦隊の襲撃として始まり、激しい戦いの後に引き分けで終了。
Cデ・ロイテル提督

オランダ 1607 発行
しかし、この戦いは計画された連合国のオランダ共和国への海軍侵攻を防ぎ、オランダ国民の士気を高めるも、蘭英双方が勝利を主張しました。
<ソールベイ沖の海戦、艦隊戦闘序列>
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
 (Order of Battle at the Battle of Solebay's Fleet)
・蘭英艦隊 主 力 その他 総司令官 乗艦 損害
オランダ艦隊 戦列艦75隻 フリゲート14隻、火船36隻等 デ・ロイテル提督 デゼーヴェンプロヴァンシエン号 沈没1隻、拿捕1隻
英仏連合艦隊 戦列艦93隻 火船30隻等 ヨーク=オールバニ公 プリンス号 沈没1隻
・蘭戦列艦61隻、フリゲート艦14隻、火船36隻、多数の小型船、沈没1隻、拿捕1隻
・英戦列艦85-95隻、火船30隻、沈没1隻、の説有。

オランダ艦隊(Netherlands Fleets, Michiel de Ruyter)
アムステルダム海軍本部艦隊(Admiralty of Amsterdam Squadron
 艦 名 (Ship)  メ モ
・エイカーブーム号 Akerboom 60
・ウールデン号 Woerden 70
・ジャースフェルド号 Jaersveld 48
・スタッド・ユトレヒト号 Stad Utrecht 66
・カラントソーグ号 Callantsoog 70
・スタヴォレン号 Stavoren 48
・アムステルダム号 Amsterdam 60
・プロバンス・バン・ユトレヒト号 Provincie van Utrecht 60
・ドルフィン号 Dolphijn 82 ヨーゼフ少将(Lt-Adm Willem Joseph)ガント提督戦死
・ゴーダ号 Gouda 72
・レーウェン号 Leeuwen 50
・ライガースベルゲン号 Reigersbergen 72
・ギデオン号 Gideon 58
・エッセン号 Essen 50
・ウェースドルプ号 Waesdorp 72
・スティーンベルゲン号 Steenbergen 68
・デーベンター号 Deventer 60 艦長エンゲル・デ・ロイテル負傷
・アガサ号 Agatha 50
・オーステルワイク号 Oosterwijk 60
・オリファント号 Olifant 82 スワーズ中将(Vice-Admiral Isaac Sweers,1622-73)
・ベッシャーマー号 Beschermer 50
・オードショーン号 Oudshoorn 70
・コミートスター号 Komeetstar 70
・クルーニンゲン号 Kruiningen 56
・エダム号 Edam 32 フリゲート艦(Frigate)
・ボンメル号 Bommel 24  ”
・アスペレン号 Asperen 30  ”
・ダミアテン号 Damiaten 34  ”
・ポッケンズバーグ号 Popkensburg 24  ”
・ハース号 Haas 24  ”
・オーバーアイセル号 Overijssel 30  ”
・ポスティリオン号 Postijljon 24  ”
・ブラク号 Brak 24  ”
・エグモンド号 Egmond 10 アドバイスヨット(Advice Yacht)
・トライトン号 Triton 12  ”
・ケーター号 Kater 8  ”
・ウォルビス号 Walvis 12  ”
・イーンホールン号 Eenhoorn 10  ”
・ケーット号 Kat 12  ”
・ガレイ号 Galei 12  ”
・フェルセン号 Velsen ? 火船(Fireship)
・ウィンドホンド号 Windhond ?  ”
・ベームスター号 Beemster ?  ”
・ソレンブルグ号 Sollenburg ?  ”
・ドラク号 Draak ?  ”
・レイトスター号 Leydtstar ?  ”
・サン・サルバドール号 St. Salvador ?  ”
・ソレンバラ号 Sollenburgh ?  ”
デ・マゼ海軍本部艦隊、ロッテルダム(Admiralty of de Maze Squadron, Rotterdam)
・デ ゼーヴェン プロヴァンシエン号 De Zeven Provincien 80 C提督デ・ロイテル中将、旗艦
・ワッセナー号 Wassenaer 56
・グルート・ホランディア号 Groot Hollandia 60
・ヘルダーランド号 Gelderland 64
・ゼーランディア号 Zeelandia 44
・マールド・ファン・ドルドレヒト号 Maagd van Dordrecht 68 I弟リーフデ少将(Lt-Admiral Johan de Liefde, c1619-73)
・ライガースベルゲン号 Reigersbergen 72
・シーラント号 Schieland 60
・エーンドラハト号 Eendracht 76 弟ヤンスゾーン少将(Lt-Admiral Janszoon van Nes,1631-c80)
・リッダーシャップヴァンホランド号 Ridderschap van Holland 66 夜間艦長ヤンスゾーン少将(Schout-bij-Nacht Jan Janszoon,1626-93)
・ドルドレヒト号 Dordrecht 50
・デルフト号 Delft 62
・ユトレヒト号 Utrecht 36 フリゲート艦
・スキーダム号 Schiedam 20  ”
・ハーダーウェイク号 Harderwijk 24  ”
・ファーム号 Faam 12 アドバイスヨット
・ロッテルダム号 Rotterdam 5  ”
・ホリンヘム号 Gorinchem 4 火船
・ヴレーデ号 Vrede 2  ”
・スウォル号 Swol ?  ”
・イーンホールン号 Eenhoorn ?  ”
ノーオーダークワーティエ海軍本部艦隊(Admiralty of Noorderkwartier Squadron
・アルクマール号 Alkmaar 62
・ワーペン ヴァン ホランド号 Wapen van Holland 44
・ジュピター号 Jupiter 40
・ヘルダーランド号 Gelderland 56
・ジョズア号 Jozua 54
・ジャスティナ・ヴァン・ナッソー号 Justina van Nassau 64
・ウェストフリースラント号 Westfriesland 78
・ワペン ヴァン ナッソー号 Wapen van Nassau 62
・カレブ号 Caleb 48
・ヌールダークウォーティエ号 Noorderkwartier 60
・パシフィカティー号 Pacificatie 76 シュラム中将(Vice-Admiral Volckert Schram,1620-73)
・ドリー・ヘルデン・デイビッド号 Drie Helden Davids 50
・ワーペンヴァンメーデンブリック号 Wapen van Medemblick 46
・ワーペンヴァンエンクハイゼン号 Wapen van Enkhuizen 72
・ワペン・ヴァン・ホーン号 Wapen van Hoorn 62
・ヘレナ・レオノーラ号 Helena Leonora ? (Fireship)
ゼーランド海軍本部艦隊(Admiralty of Zeeland Squadron
・ワルヘレン号 Walcheren 70 (Lt-Admiral Adriaen Banckert, 1615-1684)
・カンプヴェーレ号 Kampveere 50
・ジーリクジー号 Zierikzee 60 (Vice-Admiral Cornelis Evertsen de Jonge, 1628-1679)
・ズワネンブルグ号 Zwanenburg 44 G(Cornellis Evertsen de Jongste. 1642-1706)
・ミデルバーグ号 Middelburg 50
・オランジェ号 Oranje 70
・フリシンゲン号 Vlissingen 50
・フィッシャーハーダー号 Visscher Harder 26 フリゲート艦
・デルフト号 Delft 34  ”
・テル・ゴース号 Ter Goes 34  ”
・ブルインヴィッシュ号 Bruinvisch 6 アドバイスヨット
・ジーホンド号 Zeehond ?  ”
・ミデルバーグ号 Middelburgh 火船
・プリンシェ号 Prinsje  ”
・フープ号 Hoop  ”
フリースランド海軍本部艦隊(Admiralty of Friesland Squadron
・エルフ・ステーデン号 Elf Steden 54
・プリンスヘンドリックカシミール号 Prins Hendrik Casimir 70
・ウェスターゴ号 Westergo 56
・フローニンゲン号 Groningen 70 スター中将(Vice Admiral Enno Doedes Star,1631-1708)
・フレデウォルド号 Vredewold 60
・オースターグ号 Oosterg 62
・ウィンドホーン号 Windhond 34 フリゲート艦
・?号 ? ? アドバイスヨット
など。

英仏連合艦隊(England & France Fleet、ヨーク=オールバニ公爵:Duke of York & Albany)
 白色艦隊(White Squadron) (French)
・テリブル号 Terrible 70 デュケイン少将(Rear Admiral Abraham Duquesne,c1610-88)
・イラストル号 Illustre 70
・コンカラント号 Conquerant 70
・アドミラブル号 Admirable 68
・テレメール号 Temeraire 50
・プリンス号 Prince 50
・ブルボン号 Bourbon 50
・ヴァイラント号 Vaillant 50
・アルシオン号 Alcion 46
・ハサルドゥ号 Hasardeux 38
・セイント・フィリップ号 Saint Phillippe 78 ジャン2世デストレ伯(Jean, Comte d'Estrees, 1624-1707)
・フードロイヤント号 Foudroyant 70
・グランド号 Grand 70
・トナン号 Tonnant 58
・ブラーブ号 Brave 54
・アクイロン号 Aquilon 50
・ダック号 Duc 50
・オリフラム号 Oriflamme 50
・エクセレント号 Excellent 50
・エオレ号 Eole 38
・アロガント号 Arrogant 38
・スペルブ号 Superbe 70 艦長戦死
・インヴィンシブル号 Invincible 70
・サン・パレイル号 Sans-Pareil 66
・フォート号 Fort 60
・サージ号 Sage 50
・ウールー号 Heureux 50
・ルビス号 Rubis 46
・ギャラン号 Galant 46
・ハーディ号 Hardi 38
 赤色艦隊(Red Squadron) (English)
・ロンドン号 London 96 スプラージ中将(Vice Admiral Edward Spragge,1620-73)
・オールド・ジェームズ号 Old James 70
・レゾリューション号 Resolution 70
・ダンケルク号 Dunkirk 60
・モンク号 Monck 60 艦長戦死
・モンマス号 Monmouth 70
・ロイヤル・キャサリン号 Royal Katherine 86
・ドレッドノート号 Dreadnought 62
・アドベンチャー号 Adventure 44
・ダートマス号 Dartmouth 32
・サプライ号 Supply 6
・プリンス号 Prince 100 大将ヨーク・アルバニー公、艦長戦死
・セント・マイケル号 St. Michael 96
・ヴィクトリー号 Victory 82
・ケンブリッジ号 Cambridge 70 艦長戦死
・ヨーク号 York 64 ホームズ艦長戦死
・フェアファックス号 Fairfax 60
・ヤーマス号 Yarmouth 54
・ポートランド号 Portland 50
・ダイアモンド号 Diamond 50
・フェニックス号 Phoenix 40
・ロバート号 Robert 26
・チャールズ号 Charles 96 少将ハーマン卿(Rear Admiral Sir John Harman,c1625-73)
・レインボー号 Rainbow 64
・リベンジ号 Revenge 62
・グリニッジ号 Greenwich 60
・アン号 Anne 58
・アドバイス号 Advice 50
・ドーバー号 Dover 48
・フォレスター号 Forester 40
 青色艦隊(Blue Squadron) (English)
・セント・アンドリュー号 St. Andrew 96 ケンプソーン少将(Rear Admiral John Kempthorne,c1620-79)
・フレンチ・ルビー号 French Ruby 80
・セント・ジョージ号 St. George 70 艦長戦死
・ウォースパイト号 Warspite 70
・グロスター号 Gloucester 62
・ボナベンチャー号 Bonaventure 48
・アンテロープ号 Antelope 48
・サクセス号 Success 32
・ロイヤル・ジェームズ号 Royal James 100 サンドウィッチ伯爵46才戦死
・ヘンリー号 Henry 82 艦長戦死
・エドガー号 Edgar 72
・ルパート号 Rupert 66
・モンタギュー号 Montagu 62
・レオパード号 Leopard 54
・クラウン号 Crown 48
・ファルコン号 Falcon 40
・アリス・フランシス号 Alice & Francis 26 艦長戦死
・ロイヤル・ソブリン号 Royal Sovereign 100 中将ジョーダン卿(Vice Admiral Sir Joseph Jordan,c1603-85)
・トライアンフ号 Triumph 74 艦長戦死
・ユニコーン号 Unicorn 68
・メアリー号 Mary 62
・プリマス号 Plymouth 60
・プリンセス号 Princesse 54
・ルビー号 Ruby 48
・メアリー・ローズ号 Mary Rose 48
・タイガー号 Tyger 44
・など。
クック船長を援助した第4代サンドウィッチ伯爵(John Montagu, 4th Earl of Sandwich, 1718-1792)の先祖の英提督初代サンドウィッチ伯爵(Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich, KG, 1625-1672)戦死。

(6)マスリパトナムの海戦
 (Battle of Masulipatnam, 1673/9/1)蘭の勝利
 戦場:印度アーンドラ・プラデーシュ州クリシュナ地区コロマンデル海岸マスリパトナム沖
  (Coromandel Coast, Masulipatnam, Krishna District, Andhra Pradesh State, India)
コロマンデル海岸はインド南東部の海岸。クリシュナ河(Krishna river 1,300m)の河口からカリメール岬(Cape Calimale)に至る海岸、全長約720km。港湾都市チェンナイ(Chennai)近郊の
インドの地図

自由インド 1964 発行
マイラポール(Mylapole)のポルトガル交易拠点名から日本ではこの地方をサントメ(桟留:Sao Tome)と呼称。
マスリパトナムの戦いは、仏蘭戦争(Franco Dutch War, 1672-1678)中にインドのマチリパトナム近郊で行われたオランダ東インド会社 (VOC:Dutch East India Co) とイギリス東インド会社 (EIC:English East India Co.) の間の戦い。サントメの包囲(Siege of Sao Tome, 1672/夏-1674/8/下旬)中にオランダ船13隻が、イギリス船10隻と衝突し、オランダの勝利に終わりました。
さて仏蘭戦争勃発前の1671年にフランスは、翌年オランダ共和国へ宣戦布告がなされるので、敵対行為が始まったとの知らせが届いた時に強力な艦隊をアジアに派遣して攻撃態勢を整えるのが好機と判断して、デ・ラ・ヘイ提督(Admiral de la Haye)指揮下の強力な艦隊をフランス東インド会社(French East India Co.)の管理下に置きました。フランスのヘイ提督は強化と防御のためにアジアに確固たる足場を求めて、1672/3月にセイロン東海岸の重要な戦略湾のトリンコマリーを占領。1672/7月にオランダ領サントメ島を占領。サントメ島は、以前はポルトガルの町だったので、ポルトガルは町が返還されることを望んでいた。インドのマドラスに近いこの町をフランスが制圧したことは、インドで最も重要な英東インド会社入植地のすぐ目の前に強力な商業ライバルを置いたため、同盟国の英国は激怒しました。 セイロン島
O印:トリンコマリー

スリランカ 1981 発行
さらにフランスは都市を征服することで、都市の主権者であるゴルコンダのスルタン(Golconda Sultan)のアブル・ハサン・クトゥブ・シャー(Abul Hasan Qutb Shah, 在位1672-1686)の敵意をかいました。ゴルコンダは軍隊を挙兵し、1672/夏から町の包囲(Siege of Trincomalee, 1672/夏-1674/8/下旬)を開始しました。この最初の包囲は実際にはフランスによって破られるも、1673/6月までに蘭東インド会社はトリンコマリーに残されたフランス守備隊を破って東南アジアでの地位を確保し、クトゥブ・シャヒと同盟を結び、町は再び包囲されました。ゴルコンダ軍が上陸して、海側は蘭東インド会社のライクロフ・ファン・ゴエンス(Rijcklof van Goens, 1619-1682)指揮下の艦隊が封鎖して包囲。オランダのインド総督ライクロフ・フォルケルツ・ファン・ゴエンス(Rijcklof Volckertsz van Goens, 1619-1682/11/14)はオランダ東インド会社の艦隊13隻をサントメ島北のコロマンデル沿岸の重要拠点マスリパトナムに派遣して防備を固めていました。
<マスリパトナム沖の海戦、艦隊戦闘序列>
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
 (Order of Battle at the Battle of Masulipatnam's Fleet)
蘭英艦隊 主 力 損害
・オランダ艦隊 戦列艦13隻
・イギリス艦隊 戦列艦10隻 捕獲3隻
そこへイギリス東インド会社のイギリス艦隊10隻がコロマンデル海岸に現れ、1673/9/1に海戦が勃発。オランダ艦隊の激しい攻撃で、イギリス艦隊の砲40門艦、砲36門艦、砲34門艦を捕獲。残りは追い払ってインドから完全に去り、オランダの勝利になりました。なお、サントメの包囲は1674/8月下旬まで続き、フランス守備隊はは食料と火薬の不足で、オランダのファン・ゴエンス総督に降伏しました。
参考HP:〜
マスリパトナムの地図(Masulipatnam, 1759)
ポルトガル領サントメ付近の地図ゴアなどポルトガル領インドの地図)



(7)ロナス・ヴォーの海戦
 (Battle of Ronas Voe, 1674/3/14)英勝利
  戦場:シェトランド諸島のロナス・ヴォー・フィヨルド
    (Ronas Voe Fjord, Shetland, Scotland, UK
ロナス・ヴォーの海戦は第3次蘭英戦争(1672-1674)で、英国の北東にてフェロー諸島南東約280kmのシェトランド諸島のロナス・ヴォー・フィヨルドでの海戦。1667年のブレダ条約を更新した第3次蘭英戦争の終結のウェストミンスター条約(1674/2/19)の調印から 23 日後に発生したこの戦いは、第三次蘭英戦争の最後の戦いになりました。
オランダ船東インド会社VOC船

セントヘレナ 1978 発行
1673/12/16に蘭VOC私掠船ワペン・ヴァン・ロッテルダム号が交易品とオランダ東インド会社の私兵部隊の兵士を満載してテクセルをオランダ領東インド(現インドネシア)へと出帆した直後、大嵐でマストと舵を失い、ロナス・ヴォーに何ヵ月も避難することを余儀なくされました。当時は第三次英蘭戦争のためにオランダはイギリスと戦争状態にあったので、イギリスとの衝突を避けるため にイギリス海峡を通過するのではなく、船は北に向かって北周りを航行していました。イギリス諸島 (当時、オランダの東インド船で一般的に行われていた「北上」として知られている) から、再び南に向かうと極端な気象条件のために大嵐に遭遇して難破しました。シェトランド諸島からイギリス当局にオランダ船の存在を知らせると、それに応じて1674/2/11に英海軍本部が艦隊派遣を決定。4隻の艦隊がオランダ船を追討するために派遣されました。1673/3/14に短い戦闘の後、蘭船は拿捕され、積み荷は戦争の戦利品としてイギリスに持ち帰られました。この戦闘で最大300人の船員が死亡し、近くのヘイラー(Harwich、シェトランドで最も高い山ロナスヒル(Ronas Hill)の真向かいに有)に埋葬されました。オランダ人乗組員が埋葬されたと思われる場所に「オランダ人の墓」と刻まれた近代的な記念碑が建てられています。

<ロナス・ヴォーの海戦、艦隊戦闘序列>
(Battle of Ronas Voe, 1674/3/14)英の勝利
・蘭英艦隊:〜(Dutch & British fleet)
 (Order of Battle at the Battles of Ronas Voe's Fleet)
蘭英艦隊 主 力 その他 総司令官 損害
・オランダ VOC船1隻  --- ヤコブ・クローエ船長 積荷、兵など
・イギリス 戦列艦1隻 フリゲート艦2隻 ピープス長官

<オランダ>
蘭艦隊 主 力 その他 司令官 乗艦 損害
・オランダ VOC船1隻  --- 拿捕される
・蘭VOC私掠船ワペン・ヴァン・ロッテルダム号
  (East Indiaman, Wapen van Rotterdam 70gn 1,124tn)
  船長ヤコブ・マルテンス・クローエ(Jacob Martens Cloet, 1621-1694)

<イギリス>
英艦隊 主 力 その他 司令官 乗艦 損害
・イギリス 戦列艦1隻 フリゲート艦2隻 ピープス長官 ロンドン海軍本部 総司令官
戦列艦 ハーバート艦長 ケンブリッジ号
フリゲート カーター艦長 クラウン号
フリゲート ウェットワング艦長 ニューキャッスル号 VOC船捕獲
小型ケッチ船 ハイアット艦長 ドガー艦ドーブ号 途中で難破
 総司令官:海軍管理官サミュエル・ピープス海軍本部長官
 (Royal Navay Administrator Chief Secretary Samuel Pepys 1633-1703)
・英3等戦列艦ケンブリッジ号(3rd-rate ship-of-the-line, HMS Cambridge 70gn)
  艦長アーサー・ハーバート(Admiral Arthur Herbert, 1st Earl of Torrington, c1648-1716)
・英4等フリゲート艦クラウン号(4th-rate ships-of-the-line, HMS Crown 54gn, Frigate)
  艦長リチャード・カーター(Captain Richard Carter)
・英4等フリゲート艦ニューキャッスル(HMS New Castle 44gn, Frigate)VOC船を拿捕捕獲
  艦長ジョン・ウェットワング(Captain Sir John Wetwang)
・小型ケッチ船ドガー艦ドーブ号(Dove, Doggar 1.3tn)
  艦長エイブラハム・ハイアット(Captain Abraham Hyatt)
   1674/3/6英ノーサンバーランド州海岸で難破

※VOC船を拿捕して捕獲された積み荷の商品の多くが、1674/5/24にシティオブロンドンのイーストインディアハウス(East India House, City of London)で売却されました。なお、オランダ船を拿捕して積み荷をテムズ川へ安全に帰還したウェットワン艦長は£500(2021年£77,000約1,200万円相当)の賞金を授与されました。


※イギリスの海軍提督 (British Admiral) 生年没年 没才
@ワーデン卿ロバート・ブレーク総統 Sea General Robert Blake, Lord Warden of the Cinque Ports 1599/9/27-1657/8/17 51
Aアルベマール公ジョージ・モンク Captain general George Monck, 1st Duke of Albemarle,KGPC 1608/12/6-1670/1/3 61
Bカンバーランド公ルパート王子 Prince Rupert of the Rhine, Duke of Cumberland, KG,PC, FRS 1619/12/17-1682/11/29 62
C大将 ウィリアム・ペン卿(父) Admiral Sir William Penn 1621/4/23-1670/9/16 49
D中将トーマス・テデマン卿 Vice Admiral Sir Thomas Teddeman ?-1668/5/13、病没
E大将 エドワード・スプラージ卿 Admiral Sir Edward Spragg, 戦死 c1620-1673/8/21 c53
F大将 ロバート・ホームズ卿 Admiral Sir Robert Holmes c1622-1692/11/18 c70
G大将 初代准男爵トーマス・アリン卿 Admiral Sir Thomas Allin, 1st Baronet 1612-1685 c73
H中将 クリストファー・ミングス卿 Vice Admiral Sir Christphr Myngs 1625-1666 c41
I大将ヨーク=オールバニ公(ジェームス2世王) Admiral Duke of York & Albany (James II of England, 1685-1688) 1633-1701 67

※c=頃

参考HP:〜
オランダの地図(1672)
オランダの区分地図(フランスの進撃図、1672)

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
(0)ビーチーヘッド沖の海戦 (1672/3/12)
(1)ワイト島沖の海戦 (1672/3/12)
(2)ソールベー沖の海戦 (1672/6/07)
(3)セントヘレナ侵攻 (1673/5/05)
(4)スホーネヴェルトの海戦 (1673/6/07)
(5)テクセルの海戦 (1673/8/21)
(6)マスリパトナムの戦い (1673/9/01)
(7)ロナス・ヴォーの海戦 (1674/3/14)
(8)第2次ジェームズ川沖の海戦 (1673/7/12)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
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法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成23年2011/1/23、令和5年2023/3/20
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