★フランクリン物語 幼少期
第1回
第2回
タスマニア
第3回

サー・ジョン・フランクリン
1824、第二回北極探検、北西航路の探検
1836、タスマニア島副総督
1845、第三回北極探検、北西航路の探検航海

大航海物語
イギリス★
RWANDA
サー・ジョン・フランクリン

ルワンダ 2009 発行

氷海を航海した後
氷に閉じ込められた機帆船


図案はシャックルトン隊のもの
ロス地域 2002/11/6 発行
TERRES AUSTRALES
ET ANTARCTIQUES FRANCAISES

氷海を航海する
エレパス号

フランス領南極地方 1984/1/1 発行


カナダ→



ハドソン湾→




パフィン湾→

グリーンランド→
SWEEDEN
北極の地図
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより

ユ|ラシア大陸


アラスカ


カナダ


U
S
A
CANADA
中央がハドソン

カナダ 1981/6/30 発行

ケーン水路

グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック

(現在の北西航路はパフィン湾から北極海を通ってベーリング海峡を抜けるコース)

第二回北極探検
  マッケンジー川の探検
  MacKenzie River & Arctic Expedition、1824-1827
1823/秋にイギリス海軍はフランクリンにその提案通りのマッケンジー川北極探検を認可しました。このカナダ北極探検(1825-1827)はマッケンジー川を下ってボーフォート海(Beaufort sea)沿岸を調査するもので、前回より十分な補給を受け、成功裡に終わりました。すなわち補給の問題を解決し、毛皮商人トレーダー(traders)、カヌー運搬業者ヴォエジャー(voyageurs)、現地人(Indians)の不測の事態に対処することや、北西会社(NWC)とハドソン湾会社(HBC)の協力関係などに配慮を怠りませんでした。
マッケンジー川

カナダ 1994 発行
1824年春に3隻の特別建造のボートに補給物資を十分に積んでヨーク・ファクトリーから、奥地北部へ先発させました。1825年にフランクリン隊長とリチャードソン副隊長などの探検隊はイギリスから、便船(packet)でニューヨーク(New York)に着くと、陸路でオルバニー(Albany)、ナイアガラ(Niagara)、サンダー湾のウィリアム砦(Fort William、Thunder Bay, Ont.)、チペワイアン砦(Fort Chipewyan)、グレート・スレーヴ湖(Great Slave Lake)、マッケンジー河(Mackenzie River)を下って北極海岸を探検後、グレートベア湖畔のフランクリン砦(Fort Franklin、Great Bear Lake)で越冬しました。 ヨーク・ファクトリー

図案は同一形式の星型要塞
ペルー 1936/8/27 発行
主な随行者:〜
・ジョン・リチャードソン副隊長、医師・博物学者(第1回随行)
・ジョージ・バック士官候補生(第1回随行)
・エドワード・ニコラス・ケンダル候補生(midshipman Edward Nicholas Kendall, 1800-1845)
・他

1825年
02/16、フランクリンはニューヨークからリチャードソンなどと出発。毛皮取引ルートを北方へ進み、
     先発ボート隊にメシー・ポルテージ(Methy Portage、現:ラ・ロシュ:La Loche, SK.)で会う
08月、早くにノーマン砦(Fort Norman, NT)着
    フランクリンはケンダルとマッケンジー川を下って海へと偵察。他はグレート・ベア湖(Great Bear
    Lake, NT)へ向い、グレート・ベア川(Great Bear River, 113km, NT)湖畔西に越冬基地を建設
08/16、欧州人の二番乗りでマッケンジー川河口に到達、パリー船長への手紙を残す
09/05、フランクリンとケンダルが其処に合流して、フランクリン砦(Fort Franklin)と命名して越冬
1826年
06/22、越冬後に砦を出発
07/04、マッケンジー川河口のセパレーション岬(Point Separation)で2チームに分かれる。フランクリン、
     バック他12人のチームがボート2舟(7.92m)ライオン号(Lion)とリライアンス号(Reliance)でベー
     リング海峡でブロッサムム号(HMS Blossom)船長フレデリック・ビーチェイ(Capt. Frederick W.
     Beechey)と落ち合うために西方へと、リチャードソンとケンダル他9人のチームはボート2舟
     (7.32m)ドルフィン号(Dolphin)とユニオン号(Union)でコパーマイン川河口へと東方にと、それ
     ぞれ探検に出発。ところがフランクリンのチームはボートを奪われる
08/18、あと一息でアラスカのアイシー岬(Icy Cape, Alaska)という所で霧と氷に阻まれて、バロー岬
     (Point Barrow)から257kmの(リターン・リーフ(Return Reef)という最遠地)で引返す
09/21、フランクリンのチームは河口から西方へ595kmを踏破してフランクリン砦着
11/02、リチャードソンのチームがコパーマイン川河口まで1,450kmを作図してフランクリン砦着
1827年
春ごろ、チペワイアン砦に到着
09/26、イギリスのリヴァプール港に帰国。
1828年、第2回マッケンジー河探検の物語を出版。

参考HP:〜
マッケンジー河水系の場所地図(Great Slave lake、Lake Athabasca など有)
フランクリン北西航路の探検地図(第二回探検地図)

1828/4/29にジョージ4世(George IV)から爵位(knighted)を叙勲されてナイトに列せられました。パリ地理学協会(Geographical Society of Paris)から金賞(gold medal)を受賞。7月にオックスフォード大学から博士(D.C.L. Oxford)とする栄誉を受賞。帰国するとエリナー夫人が1825/7/22に亡くなっており、1828/11/5にジェーン・グリフィン(Jane Griffin, Lady Jane 1791-1875)とロドンで再婚するも子供は無しでした。

1830年にロンドン議定書が締結されたことでギリシャの独立が決定されるも、1830〜1833年の間、フランクリンはレインボー号(HMS Rainbow)艦長として、ギリシャ独立戦争後の紛争でギリシャ沿岸にて従軍しました。帰国後、ウィリアム4世からグールフィック勲章2等級(.C.H.:Royal Guelphic Order、KCH:Knight Commander)を叙勲され、艦隊司令官(commander-in-chief)に任命されました。1833年に終戦となると、1834/1/8に予備役(paid off)になるも、1836/4月にタスマニア総督ジョージ・アーサー卿(Sir George Arthur, 1784-在任1823:1837-1854)副総督の後任に指名されました。
爵位(ナイト)親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行

タスマニア島へ航海 (副総督として赴任、1836)
  Lieutenant-Governor of Van Diemen's Land:Tasmania、1837-1843
1836/4月、流刑植民地タスマニア副総督を受託
1837/1/5、副総督に就任
1837/1/6、ジェーン夫人と共にタスマニア島に到着
     流刑植民地を改革しようとの試みなど実施
1843年、1802/4月にインヴェスティゲーター号で訪れたポートフィリップ湾
     アーサーズ・シート(Arthurs Seat, Victoria)に旅行
08/21、失脚して帰国の途につく
1844/6月、疲れきってロンドンに帰国。
     没後にタスマニア島ホバートのフランクリン・スクエアに銅像が建立され、
     ヒューロン川(Huon River174km)河畔にフランクリン村(village of Franklin)
オーストラリア

オランダ 1988 発行
タスマニア島
     フランクリン川(Franklin River)、ゴードン川(Gordon River, 193km)のフランクリンダム
     (Franklin Dam)にその名をタスマニア島に残しています。
参考HP:〜
タスマニア島の地図
オーストラリアの地図
第三回北極探検、(1845-1847)
  最期の探検大航海、
  北西航路を求めて、129人
   エレバス号、ロス南極探検(1841)に使用
   テラー号、ロス南極探検(1841)に使用
   Franklin's Lost Voyage of Arctic Expedition
フランクリンの第2回北極遠征によって、北極沿岸の調査は未踏の海岸線を500km足らず残すのみとなっていました。いよいよ北西航路を完成するため、十分な装備を持った北極探検隊が送られることが決まり、探検隊の指揮官を熱望していたフランクリン卿が、1845/2/7にそれを拝命しました。
カナダ北極の島々
中央の白い所


カナダ 1980 発行
フランクリン探検隊には、サー・ジェームズ・C・ロス大尉(Sir James Clark Ross)の南極探検(1839-1843)に使用された鉄製の強力な竜骨と鉄板で装備された船体の蒸気式機帆船軍艦エレバス号
(steam engine HMS Erebus 380t 67m 2(mortar 330 & 250mm)迫撃砲)船長ジェームス・フィッツジェラルド(James Fitzjames 1813-1848)と、テラー号(steam engine HMS Terror 350t 67m 2迫撃砲)が準備されました。テラー号の船長フランシス・クローツィー(Francis Rawdon Moira Crozier 1796-1848)はロス南極探検の時も同船の船長でした。2隻は頑丈な作りの船で、精選された134人の隊員(士官24人、下士官兵110人)のために、快適な船員生活用スチーム暖房が備えられ、大量の読み物や学習資料、3年分相当の保存食料が準備されていました。その保存食には伝統的な保存方法によるものと缶詰で、缶詰は特価販売業者のステファン・ゴールドナーから購入された物でした。 エレパス号 と 氷山

ニュージランド・ロス海属領 1957 発行

1845/5/19に船隊はイギリスのケント州グリーンハイス(Greenhithe, Dartford District of Kent, England)を出帆。グリーンハイスからスコットランド北東部アバディーン(Aberdeen, Scotland)へ北上し補給品を積載。スコットランドからグリーンランドへ向かい、この間は軍艦ラトラー号(HMS Rattler)と輸送船バレット・ジュニア号(transport ship, Barretto Junior)も同行。グリーンランドのディスコ島ホワイトフィッシュ湾(Whitefish Bay, Disko Island, Greenland)の場所を誤認したため、一時航路を引き返すなどするも、終いに極北の同地に碇泊。そこで輸送船から物資を降ろし、新鮮な肉を得るために連れて来られていた家畜を屠殺し、科学的観測を行い(フランクリン卿が険しい岩山を登るのを若い士官達が助ける)、新型の膨張式ゴムボートを試験し、故郷に宛てた最後の手紙を書きました。5人の隊員が任務を解かれ、ラトラー号とバレット・ジュニア号で帰国。それで海軍が高級で雇った優秀な隊員は合計129人となりました。1845/7月にバッフィン湾(Baffin Bay)で捕鯨船エンタープライズ号(whaler Enterprise)のロバートマーチン船長(Cpt. Robert Martin)が両船に遭遇し、1845/7/26にメルヴィル湾で捕鯨船プリンス・オブ・ウェールズ号(whaler Prince of Wales)のダネット船長(Cpt. Dannett)がランカスター海峡の氷山(iceberg)に良好な状態でもやい付けした船隊を目撃したのが、ヨーロッパ人が一行を見た最後となりました。

その後2年経っても探検隊からの連絡はなく、フランクリン夫人は海軍省に捜索隊の派遣を要請しました。海軍にとってはかつて失った最も大きな探検隊となるも、一行が3年分の物資を持っていたことから捜索隊の派遣は1年間見送られ、北西航路の発見の探検の成功に2万ポンドの賞金が用意されました。これは当時としては破格であり、フランクリン探検隊の行方不明はさらに大衆の想像力をかき立てイギリス中で話題となりました。一時は10隻ものイギリス艦、2隻のアメリカ艦が北極に向かうも、フランクリン隊よりかえって多くの船と人命が捜索のために失われることになりました。

後に推定されたフランクリン探検隊の探検航海:〜
  フランクリンの失われた航海の推定ルート
  (Franklin's lost expedition, 1845-1848)
1845/5/19、ケント州グリーンハイス港を出帆
       スコットランドのアバディーン港で補給品を積載
       グリーンランドのディスコ島ホワイトフィッシュ湾沖の
       デービス海峡から
       バフィン湾に進入
       グリーンランド西岸ディスコ島ホワイトフィッシュ湾着
1845/7/26、ランカスター海峡のメルヴィル湾に停泊
       捕鯨船プリンス・オブ・ウェールズ号が視認
1845/8月、メルヴィル湾を出帆
氷に閉じ込められた機帆船
       デヴォン島南西沖のバロー海峡近くのビーチー島
       (Beechey Island)に向かい南下、
       ビーチー島の北緯74度43分28秒、西経91.39.15で越冬
       結核で亡くなった3人を埋葬して墓石3つを置く
1846年春、コーンウォリス島(Cornwallis Island)を周廻
1846年夏、プリンスオブウェールズ島とサマーセット島(Somerset
       Island)間のピール湾(Peel Sound)を下ってブーシア半
       島(Boothia Peninsula)の西へ出る
09月、キングウィリアム島北西端近くに至るも
       マクリントク海峡(McClintock Strait)南東付近で
09/12、2隻とも氷に閉じ込められて越冬、
       食糧不足や壊血病の出血障害で衰弱
1847年
氷上での越冬

図案はシャックルトン隊のもの
ロス地域 2002/11/6 発行
05/24、ビーチー島の船から7人が離れる
06/11、14年(1859)後に発見されたノートで、
     氷に閉じ込められた所付近にてフランクリン卿が亡くなり(6/11)、
09/22、キングウィリアム島の北東海岸沖で生存者が船を捨てて離れ
     やがて、探検隊が全滅したことが判明し、その途中でのカニバリズム(共食い)の跡が見つかる
     その後、船は北西岸に氷と共に流され、氷に破壊され沈没
     ペリー湾の北西で30人の遺体と墓石の発見を、後にジョン・レイ博士が報告

フランクリン捜索隊派遣の概要:〜
1848年の捜索
・東からの捜索
(1)ジェームス・ロス隊〜
     最初の捜索に大尉ロス卿がエンタープライズ号(Arctic Discovery Ship HMS
      Enterprise 471t)とインヴェスティゲーター号(SurveyVessel HMS Investigator
      480t)船長ロバート・マックル(Sir Robert John Le Mesurier McClure 1807-
      1873)で出帆するも、1849年にサマーセット島(Somerset Island)で氷に阻ま
     れて何の手がかりも無くイギリスに帰港
・中央からの捜索
(2)レイ&リチャードソン隊〜(Rae-Richardson Arctic Expedition)
    ・スコットランドの医師ジョン・レイ(Scottish doctor John Rae 1813-1893)
ジェームス・ロス

英南極地域 1975 発行
    ・サー・ジョン・リチャードソン(Sir John Richardson 1787-1865)
    マッケンジー河から海岸沿いに捜索、1854年にフランクリン隊の全滅を確認
・西からの捜索
(3)ウィリアム・ピューレン隊〜
    (William John Samuel Pullen 1813-1887)
    9/29にプロヴァー号(HMS Plover)船長トーマス・ムーア(Thomas Moore)とヘラルド号(HMS
    Herald 499t)船長ヘンリー・ケレット(Vice Admiral Sir Henry Kellett KCB 1806-1875)で、
    アラスカのコツェブー・サウンド(Kotzebue Sound)に到達、、ベーリング海峡から捕鯨ボートで
    マッケンジー河へ到着して、太平洋に抜けるも手がかりは無し
1850年の捜索:〜
    1848年の捜索で3隊とも何の手がかりも無く帰国(1849)したので、英海軍が救助者に
    2万ポンドの懸賞金を賭け、フランクリンの捜索に15隻と数百人が動員されました。
・西からの捜索
(4)コリンソン&マックルーア隊
   (Sir Richard Collinson KCB 1811-1883)〜(HMS Enterprise)
   (Sir Robert John Le Mesurier McClure 1807-1873)〜(HMS Investigator)
   エンタープライズ号のリチャード・コリンソンと
   インヴェスティゲーター号のロバート・マックルーアがベーリング海峡へ向う
    ・エンタープライズ号はバンクス島で氷に阻まれて、ベーリング海峡へ戻るも手掛りは無し
    ・インヴェスティゲーター号が3年間氷漬けとなる(McClure Arctic Expedition 1850-1853)、
     レゾリュート号に救出されるも、レゾリュート号も氷に閉じ込められて、
     マックルーアは手がかりはなく虚しく、1854年に帰国
・東からの捜索
(5)ホレイショー・オースティン大佐隊〜
   (Sir Horatio Thomas Austin 1801-1865)〜(HMS Resolute 1850)
   (Admiral Sir Erasmus Ommanney KCB, FRS, FRGS, JP 1814-1904)〜(HMS Assistance 1850)
   レゾリュート号とアシスタンス号船長オマニーと蒸気船2隻他の船隊9隻で、オマニー船長が
   ビーチー島(Beechey Island)でフランクリン隊のキャンプを発見するも氷漬けとなり、そこで越冬、
   1851年の春にソリで脱出、
   1851/10月にロンドンに帰国
・東からの捜索:〜
(6)チャールズ・フォーサイス隊〜フランクリン夫人の要請(アルバート公(Prince Albert)の援助)
     (Charles Forsyth)
     フォーサイスがサマーセット島をフューリービーチ(Fury Beach)へとソリで捜索
(7)ウィリアム・ペニー隊〜フランクリン夫人の要請(アルバート公(Prince Albert)の援助)
     (William Penny 1809-1892)
     1850/4月にペニーが出帆。コーンウォリス島アシスタンス湾アシスタンス港(Assistance Harbour,
     Cornwallis Island)で越冬。5月にソリとボートで出発して7月までウェィリントン海峡(Wellington
     Channel)を探検・搜索し、クィーンズ海峡(Queens Channel)を発見して、1851/9/2に帰国。
(8)ジョン・ロス隊〜
     3回目の北極探検にスクーナー船フェリックス号(schooner Felix)で捜索
(9)アメリカ海軍エドウィン・デ・ヘブン大尉(Edwin Jesse De Haven 1816-1865)の捜索隊〜2隻
    (米の第1回グリンネル探検隊:First Grinnell Expedition 1850-1851)
      ・アドヴァンス号(USS Advance 146t、氷で1855年に放棄)
      ・レスキュー号(brig USS Rescue 92t)、
     ビーチー島で墓石3個を発見
1851年の捜索:〜
(10)ウィリアム・ケネディ(William Kennedy)隊〜アルバート公の援助
  ベレット海峡(Bellot Strait)を発見してサマーセット島が島だと解るも、手掛りは無し
1852年の捜索:〜
(11)エドワード・イングルフィールド隊(Edward Augustus Inglefield)〜
  バフィン湾の北部を捜索するも、手掛りは無し
(12)エドワード・ベルチャー隊(Admiral Sir Edward Belcher, KCB 1799-1877)〜
  フランクリン隊、コリンソン隊(Richard Collinson)、マックルーア隊(Robert McClure)の救助
  西からの捜索に5隻で、ベーリング海峡から遠征
  ・アシスタンス号(Barque HMS Assistance 1850, 423t)〜
    船長ベルチャー(Belcher)
    1854/8/25にバサースト島沖で氷に閉じ込めれてパイオニーア号と共に放棄
  ・パイオニーア号(steam tenders HMS Pioneer)〜
    船長シェランド・オズボーン(Sherard Osborn)
  ・レゾリュート号(Barque HMS Resolute 1850, 424t)〜
    船長ヘンリー・ケレット(Henry Kellett)にジョージ・ナレス2等航海士が乗組んで出帆
    1854/8/29にビーチー島沖で氷に閉じ込めれてイントレピッド号、ノース・スター号と共に放棄
  ・イントレピッド号(HMS Intrepid)〜
    船長レオポルド・マックリントック(Leopold McClintock)
  ・補給船ノース・スター号(depot ship North Star)〜
    船長ウィリアム・ピューロン(William Pullen)
    氷で4隻を放棄し、主にソリで捜索するも、何の手掛りもなく帰国
  ・商船ブレッダルベーン号(Barque Breadalbane 428t)は、ベルチャー隊への補給で
    1853/春にロンドンをフェニックス号(propeller sloop HMS Phoenix 1832, 812t)に随伴して出帆、
    1853/8/21にビーチー島南のランカスター・サウンドで氷に捕まり破壊されて沈没
    1854年、ベルチャー隊がマックルーア隊を救助して、コリンソン隊と共に
          ノース・スター号とフェニックス号、タルボット号に分散乗船して帰国
1855年の捜索:〜
(13)アンダーソンとスチュワート隊(Anderson and Stewart)
    バック川(Back River)で下船、チャントリィ入江(Chantry Inlet)で遺物を発見
1857年の捜索:〜
(14)フランシス・レオポルド・マックリントック隊(Francis Leopold McClintock)〜陸路の捜索
   キング・ウィリアム島(King William Island)で遺物を発見
   フランクリン夫人はフランシス・レオポルド・マクリントックに新たに捜索隊を任せ、
   レイの報告を調査させる
   マクリントック隊は
   1859/夏、キングウィリアム島で、ケアンの中からフランクリンの死亡日付が記された文書を発見。
   このフランクリン隊の副指揮官による1848/4/25付けの文書は、氷に閉じこめられた船の中で船員
   が多数死亡し、生存者は船を棄ててバック川を目指し南下したことを伝えていました。マクリントッ
   クはさらにいくつかの遺体、驚くべき量の廃棄された装備品を見つけ、イヌイットから探検隊の悲惨
   な最期についてさらに詳しく聞きました。
1869年の捜索:〜(個人)
(15)チャールス・フランシス・ホール隊(Charles Francis Hall 1821-1871)
    キング・ウィリアム島を捜索
    ホールはキングウィリアム島のエスキモーから
    フランクリン隊乗組員100人分の遺体を受取るも、グリーンランドで没
1875年の捜索:〜
(16)アレン・ヤング隊(Allen Young)
   ピール・サウンド(Peel Sound)で氷に阻まれる
1878年の捜索:〜
(17)フレデリック・シュワッカ隊(Frederick Schwatka 1849-1892)〜アメリカ陸軍士官
    1878-1780年の間アメリカ地理学協会の要請で捜索。まずスクーナー船ヨーセン号(schooner
    Eothen)でハドソン湾へ渡航。キング・ウィリアム島を中心に4,360kmをイヌイット族犬ソリで捜索し
    フランクリン隊乗組員の遺骨を1つ発見。後に北極探検記を執筆。

参考:〜
ジョン・レイとジョン・リチャードソン隊の捜索行程
1848年
03/25、レイとリチャードソン隊がリヴァプールを出帆
04/10、ニューヨークに上陸
04/14、モントリオール着、イロコイ族とチペワイアン族のカヌーで出発
06/12、サスカチワンのカンバーランド・ハウス着
06/28、メシー・ポーテージ(Methye Portage)着
     スレーヴ川からグレートスレーヴ湖レゾリューション砦を経て
07/17、マッケンジー河に到着
08/02、北極の森林限界(tree line)を越える
09/05、携帯型ハケットボート(Halkett boat)でリチャードソン川(Richardson River)を渡る
     グレーベア湖北東岸コンフィデンス砦(Fort Confidence)で越冬
1849年
05/07、ジョン・リチャードソン隊がコンフィデンス砦を出発
06/07、レイ博士隊は氷結したジーズ川(Dease River)へとソリでコンフィデンス砦を出発
07/14、マッケンジー岬(Point Mackenzie)に到達し現地人に聞くも手がかり無し
07/16、バックス・インレット(Back's Inlet)着
08/19、氷結の海岸で天候不順となる
08/23、ブラディ・フォール(Bloody Falls)でイヌイットが亡くなる
08/29、ヴィクトリア島北西のウォラストン半島(Wollaston Land)を通過してコパーマイン川河口着
08/31、コンフィデンス砦に辿り着き、越冬
1851年
    コパーマイン河からヴィクトリア島(Victoria Island)を現地人を尋ね歩いて消息を聞いて捜索
1853年
    グレート・フィッシュ川(Back's Great Fish River)へ戻る
    フランクリン隊の全滅の証拠(遺品)を現地人から買い集める
1854年
07/29、レパルス湾(Repulse Bay, NT)のHBC基地から海軍省へ報告書を送る
10/22、レイ博士がイギリスに帰国
    レイ博士の探検隊はフランクリン隊の末路を示す重要な証拠を発見しまし
    た。レイはハドソン湾会社の以来もあって、ブーシア半島(BoothiaPeninsula
    NU)を探検していた時、レイ博士は其処のイヌイットからバック川(Back
    River, NU)河口近くで35〜40人ぐらいの白人集団が餓えて死んだという話
    を聞き、イヌイットはさらにフランクリンや部下たちの持ち物と確認できる多
    くの遺品を示しました。帰国後、フランクリン卿が彼の船の所で亡くなり、フ
    ランクリンの探検隊も全滅し、カニバリズムにまで追い込まれていたことを
    報告。1万ポンドの懸賞金を受領するも、カニバリズムの報告を公表して、
    イギリスで嫌われ者となりました
イヌイット族

グリーンランド 2003 発行
 ・ジョン・リチャードソン隊のその後の捜索行程
1849年
05/07、コンフィデンス砦を出発
06/14、シンプソン砦着
09/25、スー・セント・マリー(Sault Ste. Marie, ON)着
11/06、ハドソン湾からリヴァプールに帰国

コリンソン&マックルーア隊の捜索行程
1850年
01/15、リチャード・コリンソンがエンタープライズ号と
     インヴェスティゲーター号の船長ロバート・マックルーアと共にプリマスを出帆
     両船はチリ太平洋岸沖で別れる
 ・エンタープライズ号の航海(コリンソン隊)
1851年
7/中旬、ベーリング海峡
08/19、コリンソン隊がマッケンジー河近くのワレン岬(Point Warren)着
08/29、バンクス島(Banks Island)沖のプリンス・オブ・ウェールズ海峡(Prince of Wales Strait)着
09/03、フランクリン湾着
09/07、バンクス島で氷に阻まれる、
     ベーリング海峡へ戻って、ホンコンへ航海して越冬
1852年
春、ベーリング海峡からメルヴィル島(Melville Island)へ行き、島をソリで捜索探検
08/05、ヴィクトリア島の南岸コロネーション湾(Coronation Gulf)で氷に閉じ込められる
     ヴィクトリア島の南東岸ケンブリッジ湾(Cambridge Bay)で越冬
1853年
春、ヴィクトリア島の最東端ペリー岬(Point Pelly)へとソリで移動捜索するも手がかり無し
     ベーリング海峡から希望峰回りで帰国
 ・インヴェスティゲーター号の航海(マックルーア隊)
1851年
09/07、バンクス島北東マックルーア海峡(M'Clure Strait)南のマーシー湾(Mercy Bay)でインヴェスティ
     ゲーター号船長ケレット(Vice Admiral Sir Henry Kellett KCB 1806-1875)が氷に閉じ込められる
1853年
06/03、マーシー湾で3年間氷漬けとなったインヴェスティゲーター号が放棄され、乗組員はソリで脱出
     レゾリュート号に救出されるも、
     レゾリュート号も氷に閉じ込められる
1854年
4月、レゾリュート号が放棄される
04/23、ノース・スター号が船隊に合流するも氷に閉じ込められる
05/28、イントレピット号が放棄される
8月中旬、ノース・スター号が氷から解放される
08/25、ベルチャー隊のアシスタンス号、パイオニーア号が放棄される
08/29、ベルチャー隊と共にビーチー島を超満員のノース・スター号から、
     救援のフェニックス号、タルボット号に分散乗船して出帆
10/06、ベルチャー隊とマックルーア隊がグリーンランドをへて、
     イギリスのケント州東サネット島ラムズゲート(Ramsgate, Thanet Island, Kent)着、帰国

フランクリンの第3回探検(1845/5/19〜1847/9/22頃)は、蒸気式帆船で北西航路を発見して大西洋から太平洋に出てアジアに到達する計画だったため、船はスチーム暖房など防寒対策がとられていましたが、ひとたび船を離れると其処は極寒の北極地であったのに、陸上徒歩を前提にした装備の、厚いブーツや防寒服を持っていなかったなど、極地用防寒服装備の準備が十分ではありませんでした。その上に食糧の缶詰が不良品だったため、3年分の筈が実際はその半分も無かったといわれています。そうとは知らず、異常な寒さで2冬の間も氷に閉ざされてしまって船は進まず、氷上で越冬して脱出することになり、遂には共食いまで起こったのに、全滅の憂き目にあってしましました。船を捨てる際に、氷上で生き延びるのに必要ない、銀製の家紋入り食器類一式などの思い装備品を担いでの氷上行軍は、体力を消耗させたことでしょう。生鮮食品欠乏(最初の2年で壊血病を予防するレモンジュースがその機能を失う)で隊員たちは壊血病に特有の黒ずんだ唇、皮膚 氷に閉じ込められた機帆船

図案はベルジカ号
ベルギー 1997/9/22 発行
の爛れを発症しての出血障害に加えて、缶詰接着用ハンダ付け鉛中毒症状の精神的影響で隊員の士気と結束は崩れ、食糧不足による栄養失調症、防寒衣類不足での凍症などなどで疲労困憊して、仕舞いに餓死するという悲惨な結果になったといわれています。そして生生き延びるすべを先住民に学ぶことができなかったともいわれています。また、1850年の夏にウェリントン海峡のビーチー島でフランクリン探検隊の最初の遺物(1846年に死亡した3人の男の墓)を発見。隊員の遺体は凍土の中で保存されており、後の検死によって死因は結核だったことがわかりました。当時のイギリスでは、「フランクリン夫人の哀歌」(Lady Franklin's Lament)という、失った夫を捜し求めるフランクリン夫人を歌った歌(フランクリンと彼の運命を歌った民謡)が、英国で流行しました。

失敗の原因はずさんな計画と装備の不備に尽きると言われましたが、イギリスの王朝時代のメディアは長い間、フランクリン卿を 「隊員を率いて北西航路を探求した英雄」 として描写し続け、フランクリン夫人の働きかけもあって失望させるような死に際の話は抑えられ、フランクリン卿は英雄にまつり上げられました。彼の故郷に建てられた銅像には「ジョン・フランクリン卿、北西航路の発見者」という碑文が刻まれ、ロンドンとタスマニア島にも同様の碑文と共にフランクリン卿の像が建てられました。また、現在のオーストラリア・ドルが導入される以前に流通していたオーストラリア・ポンドの5ポンド紙幣にはフランクリン卿の肖像が使用されていました。一方でフランクリン卿が英雄視されたのは彼の多くの業績によるものという見方もあり、彼が北西航路を完遂しようという勇敢な試みのために死んでいったという事実は、公における彼の立場を守ることになりました。人肉食の可能性を含めた探検隊の末路も、その日の新聞紙上では抑制されることなく広く報じられ、議論の対象にもなりました。フランクリン卿の最後の探検には未だ多くの謎が残されており、その顛末を基に、米国作家ダン・シモンズ(Dan Simmons, 1948-)が「ザ・テラー、極北の恐怖 (The Terror 2007)」という冒険ホラー小説を発表しています。日本の探検家で1984年国民栄誉賞受賞者の植村直己氏(1941-1984)はその著書の中で、フランクリンの大遭難は「フランクリンらが現地のエスキモーが有する狩や生活の知恵に学ばず、西欧的な生活流儀に固執した故に自ら招いた惨事である」と記述。

フランクリン卿に因む地名:〜(タスマニア島の他)
・フランクリン湾(Franklin Bay、NT, Canada)1826年にジョン・リチャードソンが命名
  カナダ北極のビューフォート海(Beaufort Sea)南東でパリー半島(Parry Peninsula)の東
・フランクリン山地(Franklin Mountains、NT, Canada)
  マッケンジー河の東山地で、グレートベア湖の西
・フランクリン・サウンド(Franklin Sound、Flinders Island & Cape Barren Island、Furneaux Group)
  タスマニア島北東のフルノー諸島のフリンダース島とケープ・バレン島の間の砂洲
・フランクリン海峡(Franklin Strait、 Prince of Wales Island & Boothia Peninsula)
  カナダ北極のプリンスオブウェールス島とブーシア半島の間の南寄りの海峡でフランクリン卿の没地
・フランクリン・ディストリクト(District of Franklin、NT, Canada
  カナダの北西準州
・フランクリン夫人フィヨルド(Lady Franklinfjord、Svalbard)スヴァールバル諸島

ステファン・ゴールドナーの缶詰
  (Stefan Goldner、tinned preserved food supplier)
缶詰業者ゴールドナーが本件を受注したのは航海の僅か数ヵ月前(1845/4/1)のことだったため、彼の優れた「特許製法」にも関わらず、8,000個もの缶詰を準備する際の時間不足で内側のハンダ付けが雑になり、ハンダに含まれる鉛(ナマリ)が内容物の食品に溶け込むことになりました。さらに、この缶詰に肉を納入した業者が実は悪徳業者で、納入した内の1,000個以上の缶は、腐った肉やオガくず、小石などを詰めて目方をごまかしたもので、食料としては全く役に立たない代物でした。このため、実際に使える食料は見た目よりも遥かに少なく、食べられても鉛が溶け込んだものが多かったことが、後に証明されました。そのため、探検隊員は鉛中毒で精神状態が不安定になり、異常をきたした者もあったろうと推定されました。

参考HP:〜
フランクリンの探検地図(第三回地図)
 コーンウォリス島(1)、プリンスオブウェールズ島(2)、サマーセット島(3)、
 ブーシア半島(4)、キングウィリアム島(緑色)
 (1:Cornwallis Island)、(2:Prince of Wales Island)、(3:Somerset Island)、
 (4:Boothia Peninsula)、(5:Disko Bay)
フランクリンの失われた航海(Franklin's lost expedition, 1845-1848)の推定ルート。
1845年夏、グリーンランドのディスコ湾(5)からビーチー島に向かい、コーンウォリス島(1)を周回した。翌1846年夏、プリンスオブウェールズ島(2)とサマーセット島(3)の間のピール海峡を下ってブーシア半島(4)の西へ出て、キングウィリアム島(緑色)近くに至ったるも氷に閉じ込めらる。
フランクリンの探検地図(第三回の探検航海ルート地図:2)
フランクリンの探検地図(第三回の探検航海ルート地図:3)

バフィン湾の場所地図(ジョン・ロス北極探検隊の到達場所)
ランカスター海峡の場所地図(ジョン・ロス北極探検隊の到達場所)
ヴァイカウントメルヴィル海峡の場所地図
カナダの州区分地図(10州、3準州)

フランクリン・サウンドの場所地図(タスマニア島北東のフルノー諸島)
フランクリン海峡の場所地図(カナダ北極)
フランクリン・ディストリクトの場所地図(カナダ)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      13/7/13、13/9/15

★フランクリン物語:幼少期第1回、第2回、タスマニア第3回捜索
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