United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)バウンティ号航海(V3-17
ウィリアム・マッコイ水兵
1789
バウンティ号の反乱、ピトケーン島で酒を造
大航海物語
バウンティ号編

PITCAIRN ISLANDS
ピトケーン島到着後、島内を探検するマッコイたち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行

パンの木の苗木を船外へ投げ捨て

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988 発行

Portugal
ワインボトルとワイン樽

ポートワインの輸出
ポルトガル 1970/12/20 発行

ピトケ−ン島

ピトケーン 1969/9/17 発行
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の場所地図(中央付近)
ノーオークフィジートンガサモアタヒチ島ピトケーンイースターの島々
ジョージ6世
英領ピトケーン 1940-51 発行(200%)


我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?
Where have we come from ? What are we ? Where are we going ?
Gaugin (1848-1903)

ポール・ゴーギャン 1897-1898年作 ボストン美術館)蔵
仏領ポリネシア 1985/5/17 発行

マッコイ水兵はバウンティ号の反乱に加わって、ピトケーン島へ移住して、生き残った4人の内の一人になりましたが、酒を造って泥酔のうえ、断崖から足を滑らせて若くして亡くなりました。
ウィリアム・マッコイ水兵 (1763〜1798/4/20)
 William McCoy(上等水兵:Able Seaman)
マッコイ水兵はイギリスのスコットランド出身で、酒類の蒸留所の従業員だったといわれていてますが、若いころのことは詳細不詳です。長じてからは、あご髭を生やし腹部を刺された傷跡があり身体に入れ墨を入れていたとも伝えられています。

1787年にブライ艦長西インド諸島のプランテーション(Plantation:大農園)で働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられ、「パンの木の苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆する艦長に与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、マッコイ水兵は友人であるクィンタル水兵と一緒にバウンティ号の乗組員として志願した最後の乗組員の中の1人でした。

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港(#1B21)を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン一等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタル水兵がその横柄で反抗的な態度に、艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。バウンティ号はさらに西へ帆走して、出港から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。

それから約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、クィンタルはサラ(Sarah)と呼んでいたタヒチ女性テヴァルア(Tevarua)と結婚し、タヒチに益々に魅了されて愛着をもち、イギリスに戻りたがらなくなっていきました。その他の多くの船員も現地生活を楽しみました。島での約6ヶ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭 タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン 1891作オルセー美術館蔵


仏領ポリネシア 1958/11/3 発行
打ちの刑を科しました。そして、”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。

1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789/4/28早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(Longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。

その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に定住しようと覚悟を決め、1789/9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、17人のタヒチ人男女(男6人、女11人)を連れて、隠れ住むための未知の無人島探しの航海へとタヒチ島を後に、マッコイも一緒に出帆しました。1790/1/15にマッコイたちは絶海の孤島で、イギリス海軍の海図にも正確には載っていない無人島”ピトケーン島”にたどり着きました。ピトケーン島に到着した後、入植者の間でバウンティ号を破壊するかどうかの議論がおき、議論している間に、クィンタルが船を燃やしたと言われています。

ピトケーン島に住み着いてから、一緒に連れて来たタヒチ(ポリネシア)人との間に争い(反乱)が起こり、反乱から4年後には、マッコイの他にネッド・ヤング、マシュー・クィンタル、ジョン・アダムズの合計4人のみとなりました。ピトケーン島に住んでからのマッコイは比較的静かに配偶者のタイタウ(Teio)というタヒチから連れてきたポリネシア人女性と一夫一婦の暮しを送って、2人の子供(ダニエル, Daniel(1792-1832)、キャサリン Catherine)をもうけました。短気でトラブルメーカーであるクィンタルとは生涯のパートナーシップを結んでいました。
1796年にマッコイは若い時に学んだ酒造技術を使用し、木の根の甘いシロップを蒸留して「強い酒」を造り、ピトケーン島で酒を蒸留した最初の人物となりました。ところが、彼は強い酒に酔って狂い、泥酔したある時(1798/4/20)に崖から転落(投身自殺の説有)して、35才で亡くなりました。 火薬樽

バーミューダ 1975 発行
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/1/28、令和7年 2025/12/5
スタンプ・メイツ
Copyright(C):StmpMate
無断転載禁止