★イギリス ジェームス・ウォルフ将軍
1759
ビーバー戦争・アブラハム平原の戦い
大航海物語★

CANADA
フランス
モンカム将軍
  イギリス
  
ウォルフ将軍
MONTCALM & WOLFE
1608 ケベック300年記念 1908

カナダ 明治41年 1908/7/16 発行
CANADA
中央がハドソン湾

カナダ 1981/6/30 発行





←グリーンランド



←ラプラドル半島
←ニューファウンドランド島
←セントローレンス河
ケベック
←モントリオ−ル
CANADA
ビーバー

カナダ 1954 発行

ウォルフ将軍ははるばる大西洋を横断して新大陸に渡り、ビーバー戦争(フレンチ・インディアン戦争)での対ヌーベルフランス戦のイギリス軍司令官を務めて、イギリスを勝利へと導き、ケベック近くのアブラハム平原の戦いで、フランスのモンカム将軍と戦い、勝利しましたが戦死しました。
ジェームス・ウォルフ将軍 (1727/1/2〜1759/9/13)
 General James Wolfe

ウォルフはイングランドのケント州ウェスターハム(Westerham, Kent)で生まれ、フレンチ・インディアン戦争で、ヌーベル・フランスを敗北させ、イギリスの領土を画定させたイギリス陸軍の将軍です。彼は1746年に19才でスコットランド連隊”RHF”(Royal Highland Fusiliers Glasgow and Ayrshire Regiment)にホーリー(Henry Hawley 1679-1759)将軍の副官として入隊し、1745年のジャコバイト蜂起((Jacobiteは1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称で、チャールズ(3世)が念願のブリテン上陸をはたし政府軍を破りましたが、カロドン・ミュアの戦いでカンバーランド公に惨敗し変装して大陸に逃げ帰った)で、同年にイングランドに呼び戻され、フォルカークの戦い(Battle of Falkirk (1746/1/17)で敗戦し、カロドン・ミュアの戦い(Battle of Culloden、1746/4/16)では勝利しましたが、イギリス側指揮官カンバーランド公の虐殺が後世に残り、スコットランド人の対イングランド感情を悪化させました。ウォルフは敵負傷者の虐殺命令を拒否して昇進が遅れたと伝えられています。ウォルフはドイツでオーストリア継承戦争をモーダント将軍(Gnrl Sir John Mordaunt 1697-1780)のもとで闘いました。ロウフェルドの戦い(Battle of Lauffeld July 2, 1747)では負傷しましたが司令官になりました。1748年21才で7年戦争中はイギリス・スコットランドに戻り守備隊勤務をこなし、1年後少佐となり第20連隊の指揮をとりました。1750年22才で中佐になりました。 1756年のフランス・シャラント=マリティーム県ロchフォート(Rochefort)攻撃に大佐で従軍しましたが戦争は敗戦でした。8年間スコットランドに留まり、フランス語の軍事パンフレットを作成するために何度もパリへ行きフランス語が上達しました。

予想より2年早く1758年に新大陸の7年戦争に従軍すために北アメリカに派遣されました。ピット首相(William Pitt, 1st Earl of Chatham PC 1708-1778)の裁決で、新大陸ヌーベルフランスのケープ・ブレトン島ルイズバーグ要塞(Fortress of Louisbourg)攻撃のため1758/1/23に准将(Brigadier General)に任命されアムハースト少将(Jeffrey Amherst 1717-1797)と共に新大陸へと向かい、同年9月にはフランスを降伏せしめました。ルイズバーグ要塞攻撃(1758/6/8〜7/26)で勝利して少将となり、ピット首相の採決でケベック攻撃の司令官に就任しました。ケベックの包囲攻撃は3ヵ月にも及び、その間に彼はヌーベルフランスに対する「マニフェスト」をフランス植民地の市民(ケベック人)に対して発表しました。

1759年3月にアムハースト将軍が到着する前に、彼にいかなる困難があろうともケベックを奪取すると手紙を書いていました。ケベックの堅い守りの前に、ウォルフ将軍は200隻の船で9000人の歩兵と18000人の水夫をケベック前面のセント・ローレンス河を渡河させ、危険で険しい断崖の上に登らせ、多くの大砲を引張りあげさせました。1759/9/13の早朝、フランス植民地軍司令官のマルケス・ドゥ・モンカム将軍が登れないと思っていた崖の上からの砲撃を開始して、残っていたケベックの城壁を破壊しつくし、引き続きアブラハム平原の戦い(1759/9/13)で両軍は最期の大決戦をして、イギリス軍が勝利しケベックは降伏しました。ウォルフ将軍はマスケット銃で胸を撃たれて戦死しをとげ、享年32才の若く波乱に富んだ生涯を閉じました。ウォルフ将軍のケベック勝利は続く年のイギリス軍のモントリオール勝利(1760年アムハースト将軍が仏軍に勝利)へと繋がり、北アメリカでのフランスの植民地支配は終わりました。ウォルフ将軍の遺体は英国へと運ばれ、彼の父(1750/3死去)と共に、ロンドンのグリニッチ(Greenwich)のセントアルフェジ教会に手厚く葬られました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2007/11/20

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