France

国連 1980 発行
切手で綴る サフレン提督の従軍戦歴 (1)
オーストリア継承戦争
1740-1748
海 戦
大航海物語
フランス編

ORDINE DI MALTA
サフレン提督

1788 サフレン提督没後200年記念 1988
マルタ騎士団 1989 発行
MARSHALL ISLANDS
フランス海軍の戦列艦

マーシャル諸島 1998 発行

ITALY
ヨーロッパ&地中海の地図


イタリア 1999 発行


Nevis
帆船の包囲攻撃海戦図

Siege of Castle Cornet , 1643
ガーンジー 1993 発行

海軍中将ピエール・アンドレ・ド・サフレン・ド・サン・トロペ伯爵
 Vice Admiral Comte Pierre Andre de Suffren de Saint Tropez, bailli de Suffren, 1729~1788
サフレン提督の従軍戦歴>(1)

オーストリア継承戦争(1740-1748) 勝者 メモ 戦場
(1) 1744/2/22 ツーロンの海戦 ソリデ号 地中海
(2) 1747/10/25 フィニステレ岬の海戦 モナーク号 大西洋
1747/5/14 一次フィニステレ岬の海戦 アンソン提督の勝利 大西洋
1748 休戦条約:二次アーヘンの和約 Treaty of Aachen 独アーヘン
1780-1784 第四次英蘭戦争 エロース号 大西洋
1781/8/5 ドッガー・バンク海戦 引分 エロース号 北海

など
<海戦>:~
(1)ツーロンの海戦
 (Battle of Toulon, 1744/2/22)フランスの勝利
 別名:シシエ岬の海戦(Battle of Cape Sicie)
ツーロンの海戦は、1744/2/22と23日に、南マルセイユ港の東方にあるツーロン南西シシエ岬沖の地中海で、スペイン護送船団がイギリスの地中海艦隊を退けた戦い。フランス艦隊は海戦の終わりの頃に戦闘に参加し、それによってイギリス艦隊は撤収。
海戦の図

Battle of Samos 150th
ギリシャ 1971 発行
仏ス英の艦隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・仏スペイン 戦列艦27隻、フリゲート艦3隻、その他1隻 ブリュイエール提督
ス:ナバロ提督
ソリデ号
・イギリス 戦列艦30隻、フリゲート艦3隻、その他6隻 マシューズ提督
<仏ス英の艦隊編成>:~参加艦船名
仏スペイン連合の艦隊編成:~(Franco-Spanish fleet) フランス戦列艦
ヴィル・ド・パリ号


セント・ヴィンセント 1989 発行
前衛(Van)仏艦隊 戦列艦
・エスポワール号 Espoirl 74 旗艦
・ボレー号 Boree 60
・トロサ号 Tolosa 60
・ティーグル号 Tigre 50
・エオル号 Eole 64
・アルシヨン号 Alcion 56
・デュク・ドルレアン号 Duc d'Orleans 68
主力(Centre)仏艦隊 戦列艦 フランスのブリガンティン艦
レキシントン号, ラファイエット将軍


マダガスカル 1975 発行
・テリブル号 Terrible 74 旗艦
・トリダン号 Trident 64
・ウールー号 Heureux 60
・アキロン号 Aquilon 44
ソリデ号 Solide 64 サフレン乗艦
ディヤマン号 Diamant 50 グラス乗艦
・フィルム号 Firme 70
サンクティ・スピリトゥス号 Sancti Spiritus 68
・セリユー号 Serieux 64
後衛(Rear)ス艦隊 戦列艦
・レアル・フェリペ号 Real Felipe 114 旗艦
・オリエンテ号 Oriente 60
・アメリカ号 America 60
・ネプトゥーノ号 Neptuno 60
・ポデル号 Poder 50 大破、捕獲されるも奪還、翌日沈没処分
・コンスタンテ号 Constante 70 スペイン戦列艦
サン・ホセ号

キューバ 1989 発行
・エルクレス号 Hércules 64
・ブリリャンテ号 Brillante 60
・アルコン号 Halcón 60
・サン・フェルナンド号 San Fernando 64
・ソベルビオ号 Soberbio 60
・サンタ・イザベル号 Santa Isabel 80
・フリゲート艦 Frigate 4
・火船艦 fire ship 4
艦 隊 前衛 主力 後衛 その他
仏スペイン連合 戦列艦7隻 仏戦列艦9隻 ス戦列艦12隻 フリゲート艦スペイン4隻、スペイン火船4隻
イギリス 戦列艦9隻 戦列艦10隻 戦列艦12隻 フリゲート艦3隻、火船3隻、ブリガンティン3隻。
イギリスの艦隊編成:~(British Fleet) イギリス戦列艦
メアリー・ローズ号


マーシャル 1998 発行
前衛(Van)艦隊 戦列艦
・バーフラー号 HMS Barfleur 90 旗艦
・チャタム号 HMS Chatham 50
・ナッソー号 HMS Nassau 70
・チチェスター号 HMS Chichester 80
・ボイン号 HMS Boyne 80
・プリンセス・キャロライナ号 HMS Princess Carolina 80
・バーウィック号 HMS Berwick 70
・スターリング・カースル号 HMS Stirling Castle 70
・ベッドフォード号 HMS Bedford 70
主力(Centre)艦隊 戦列艦
・ネイマー号 HMS Namur 90 旗艦
・ドラゴン号 HMS Dragon 60
・ロイヤル・オーク号 HMS Royal Oak 70
・プリンセス号 HMS Princess 70
・サマセット号 HMS Somerset 80
・ノーフォーク号 HMS Norfolk 80
・マールバラ号 HMS Marlborough 90
・ドーセットシャー号 HMS Dorsetshire 80
・エセックス号 HMS Essex 70
・ルパート号 HMS Rupert 60
後衛(Rear)艦隊 戦列艦 ブリガンティン艦

ツバル 1981 発行
・ネプチューン号 HMS Neptun 90 旗艦
・ソールズベリー号 HMS Salisbury 50
・ロムニー号 HMS Romney 50
・ダンケルク号 HMS Dunkirk 60
・リヴェンジ号 HMS Revenge 70
・ケンブリッジ号 HMS Cambridge 80
・トーベイ号 HMS Torbay 80
・ラッセル号 HMS Russell 80
・バッキンガム号 HMS Buckingham 70
・エリザベス号 HMS Elizabeth 70
・キングストン号 HMS Kingston 60
・オックスフォード号 HMS Oxford 50
・ウォーウィック号 HMS Warwick 60
・フリゲート艦 Frigate 3
・火船艦 Fire ship 3
・ブリガンティン艦 Brigantine 3
・フランス革命初期のツーロン包囲攻撃戦 (Siege of Toulon 1793/9/18-1793/12/18)はこちら
参考HP~
ツーロンの場所地図
シシエ岬の場所地図(Google map)

(2)第二次フィニステレ岬の海戦、イギリスの勝利
 (Second Battle of Cape Finisterre、1747/10/25)
第二次フィニステレ岬の海戦は、オーストリア継承戦争の一部としてスペイン北西部のフィニステレ岬沖でイギリス艦隊とフランス艦隊の間で戦われた海戦。その年の5/14にイギリス艦隊とフランス輸送船団によって同海域で行われた海戦(第一次フィニステレ岬の海戦)があるため「第二次」という。イギリス艦隊はホーク提督の準備の整った戦列艦14隻からなり、フランス側はレステンデュエール侯爵の戦列艦10隻に護衛された輸送船団252隻の商船だった。海戦は船団を待ち受けたイギリス艦隊の決定的な勝利に終わり、以後、戦争の終了までフランス海軍は活動することができず。
スペイン北西フィニステレ岬   

サンチャゴ巡礼路の地図
スペイン 1971 発行
仏英の艦隊 戦列艦 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 10隻 --- 英に捕獲6隻 レステンデュエール提督 モナーク号
・イギリス 14隻 フリゲート艦数隻
スループ艦1隻
--- ホーク提督
<仏英の艦隊編成>:~参加艦船名
フランス艦隊 戦列艦 18世紀の輸送船(貿易船)

スウェーデン 2003 発行
・トナン号 Tonnant 80 旗艦
・アントレピード号 Intrépide 74
・トリダン号 Trident 64 捕獲
・テリブル号 Terrible 74 捕獲
モナーク号 Monarque 74 サフレン乗艦、捕獲後、HMS Monarch
・セヴェルン号 Severn 50 捕獲
・フグー号 Fougueux 64 捕獲
・ネプチュルヌ号 Neptune 70 捕獲
・カストール号 Castor 26
・コンタン号 Content 64
・輸送船団 252隻
イギリス艦隊

イギリス戦列艦
アーク・ロイヤル号


セントヘレナ 2005/9/7 発行
・デヴォンシャー号 HMS Devonshire 64 旗艦
・ケント号 HMS Kent 74
・エディンバラ号 HMS Edinburgh 70
・ヤーマス号 HMS Yarmouth 64
・モンマス号 HMS Monmouth 64
・プリンセス・ルイーザ号 HMS Princess Louisa 60
・ウィンザー号 HMS Windsor 60
・ライオン号 HMS Lion 60
・ティルベリー号 HMS Tilbury 60
・ノッティンガム号 HMS Nottingham 60
・ディファイアンス号 HMS Defiance 60
・イーグル号 HMS Eagle 60 ロドニー艦長
・グロスター号 HMS Gloucester 50
・ポートランド号 HMS Portland 50
・ウィーズル号 HMS Weazel 16 スループ艦
・フリゲート艦 Frigate 数隻。
参考HP~
フィニステレ岬の地図

・第一次フィニステレ岬の海戦
 (First Battle of Cape Finisterre, 1747/5/14)イギリスの勝利
第一次フィニステレ岬の海戦オーストリア継承戦争の一部として、イギリス艦隊とフランス艦隊がスペイン北西ガリシア州のフィニステレ岬沖で戦った海戦。1747/10月にもイギリス艦隊とフランス輸送船団との戦い(第二次フィニステレ岬の海戦)があったため、区別して「第一次」という。英ジョージ・アンソン提督の戦列艦14隻からなる艦隊が、仏ジョンキエール提督のフランス船団30隻を攻撃。
アンソン提督

ガーンジイ 1990 発行
スペインの北西フィニステレ岬沖のビスケー湾で5時間にわたって行われた戦いで、イギリスはフランスの戦列艦4隻、フリゲート艦2隻および商船7隻を捕獲。その他の輸送船は捕獲を免れる。
仏英の艦隊 戦列艦 その他 司令官
・フランス 14隻 商船 30隻 ジョンキエール提督
・イギリス 14隻 フリゲート艦など3隻 アンソン提督
英仏両軍の艦隊編成はこちら
・ナポレオン戦争(1803-1815)中のフィニステレ岬の海戦はこちら
参考HP~
フィニステレ岬の場所地図

・参考:~
▼<オーストリア継承戦争>
 (War of the Austrian Succession, 1740-1748)
オーストリア継承戦争はマリア・テレジア(Maria Theresa Walburga Amalia Christina, 1717-在位1740-1780)がハプスブルク君主国(オーストリア(ハプスブルク家)1526-1804)を継承したために1740年に起こったハプスブルク家の家督相続の戦争。オーストリアとプロイセン(1701-1918)の対立を軸としてイギリスが前者を、フランス・スペインなどが後者を支援した絶対王政国家間の領土をめぐる戦争で、並行して
野戦砲(砲兵)

フランス 2004/6/28 発行
イギリスとフランスの植民地戦争がアメリカ新大陸(フレンチインディアン戦争)とインドで勃発。オーストリアとプロイセンの対立から、ヨーロッパ諸国が二つの陣営に分かれて戦った。戦争の原因(開戦の口実)は、王位継承の問題なるも、次第にそれにとどまらないヨーロッパ諸国を二分する国際的な戦争に拡大した。
<主な戦争>:~
①第一次シュレージエン戦争
 (First Silesian War, 1740/12/16-1742/6/11)プロイセン王国の勝利
第一次シュレージエン戦争は、シュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、18世紀中期に戦われた一連のシュレージエン戦争の始まりである。訳の違いからシレジア戦争とも呼ばれるも、「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。主戦場はシュレージエンのほか、モラヴィアとボヘミア(ボヘミア王冠領)も含まれる。プロイセンは開戦事由に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げるも、戦争勃発にはレアルポリティークと地政戦略上の影響もみられる。女性であるマリア・テレジアがハプスブルク帝国(オーストリア)を継承することに異議を唱えられたため、プロイセンがザクセン選帝侯領やバイエルン選帝侯領を出し抜いて勢力を増す機会となった。戦争は1740年末にプロイセンがオーストリア領シュレージエンに侵攻したことで始まり、1742年のベルリン条約(Treaty of Berlin, 1742)で終結。ベルリン条約で、プロイセンはシュレージエンの大半とボヘミアの一部を奪取するも、一方でオーストリア継承戦争は終結せず、わずか2年後にはプロイセン・オーストリア間の紛争が再発し第二次シュレージエン戦争が勃発。オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことで普墺角逐が始まり、以降1世紀以上のドイツ史に大きな影響を与えることとなった。

②オーストリア・ザクセン戦争
 (Electorate of Saxony Austrian War, 1741)和平交渉、ザクセン領主撤退
1741年、ザクセン選帝侯領(Electorate of Saxony, 1356-1806)領主兼ポーランド国王アウグスト3世は、ハプスブルク家領の相続権(妃マリア・ヨーゼファはヨーゼフ1世の長女)を主張してボヘミア(Bohemia、独:ベーメン:Bohmen)に侵入するも、和平交渉で間もなく撤退した。

③オーストリア・バイエルン戦争
 (Electorate of Bavaria Austrian War, 1742)オーストリア・ハンガリー連合軍の勝利
1742年に皇帝カール7世として戴冠したバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスの後援で、前年の1741年にチロル地方など上オーストリアとボヘミア(ベーメン)を占領。それをオーストリアのマリア・テレジアがハンガリーの支援で反撃に出たオーストリア・ハンガリー連合軍は上オーストリアとボヘミアからバイエルン・フランス連合軍を撃退した上、ボヘミアまで占領。領地を奪われたカール7世は1745年、失意のうちに死去し、代わってフランツ・シュテファンが即位。

④第二次シュレージエン戦争
 (Second Silesian War, 1744/8/7-1745/12/25)プロイセン王国の勝利
第二次シュレージエン戦争は、シュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、2度目のシュレージエン戦争。

⑤フランス・オーストリア戦争
 (French Austrian War, 1744/5-1748)フランスがアーヘンの和約で撤兵
フランスはイギリス・オランダの参戦を抑えるため、両国には1744年まで宣戦布告せず、オーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)に侵攻し、オーストリア・イギリス・オランダ連合軍を撃破するも、1748年のアーヘンの和約で撤兵。

⑥オーストリア・スペイン戦争
 (Spanish Austrian War, 1744)、オーストリア側の勝利
当時スペインはフランスから迎えたブルボン家の王フェリペ5世を戴いており、先のスペイン継承戦争でオーストリアに割譲した北イタリアのミラノ公国を奪回すべく、1744年に参戦。スペイン軍は一時ミラノを占領するも、サルデーニャ王国がオーストリア側で参戦したため、目的を達成できず。

<ヨーロッパ外での戦争>オーストリア継承戦争:~
⑦ジョージ王戦争
 (King George's War, 1744-1748)和約締結、元の状態に復帰
ジョージ王戦争は、オーストリア継承戦争に対応する北アメリカの植民地戦争で、当時イギリスを統治していたジョージ2世王の名にちなむ。北米植民地戦争の1つで、ニューヨーク、マサチューセッツ湾、ニューハンプシャー、ノバスコシアを主戦場とした。最も重要な戦闘は1745年にマサチューセッツ植民地総督ウィリアム・シャーリーが組織したケープ・ブレトン島のルイブール要塞への遠征で要塞は包囲ののち陥落するも、他の戦場が膠着状態となって手詰まりになったので、アーヘンの和約で戦争は終結し、ルイブールはフランスに返還(1748)されるも、領土問題は解決されなかった。

⑧ルイブール要塞第一次包囲戦
 (Siege of Louisbourg, 1745/5/11-6/28)陥落、イギリスの勝利
第一次包囲戦はイギリス海軍に支援されたニューイングランドの部隊の攻撃隊がルイブール要塞
ジョージ王戦争で、カナダのノヴァスコシア州ケープブレトン地方ケープ・ブレトン島ルイスバーグ(Louisbourg, Cape Breton Regional Municipality, Nova Scotia, Canada)のフランス側ルイブール要塞(Fortress of Louisbourg)を陥落させた。翌年、ジャン=バティスト・ド・ロイ・ド・ラ・ロシュフーコー・ダック・ダンビル()が指揮する要塞奪還のためのフランス軍大遠征隊は、嵐、病気および要塞に到着する前のイギリス海軍の攻撃によって破壊された。ニューイングランド軍の勝利は、1748/10/18に調印されたアーヘンの和約でオーストリア継承戦争を終わらせ、ルイブール要塞がイギリス占領軍からフランスに返還されることになった。
1745年のルイブールの戦いは、ジョージ王戦争中の戦闘で、イギリスの支配下にあったノバスコシアの奪還をフランスが企て、アナポリスロイヤル(Annapolis Royal)を包囲したため、イギリス領であったニューイングランドの民兵が中心となって、ロワイヤル島(現ケープ・ブレトン島)のフランス砦のルイブール要塞に攻め入ったもの。この戦闘でニューイングランド軍は、フランス側の砲台を奪って勝利するも、戦後のアーヘンの和約で、ルイブールはフランスに返還されることになった。ニューイングランドの英行政官はこれに怒り、また、守備を強化する意味から、ノバスコシアにハリファックス(Halifax)を建設(1749)した。 ハリファックス

ノバスコシア半島
カナダ 1949 発行
参考HP:~
ルイブールの場所地図

・第二次ルイブール要塞包囲戦
 (Second Siege of Louisbourg, 1758/6/8-7/26)陥落、イギリスの勝利
第二次包囲戦は、1758年になるとイギリス領北アメリカ植民地は次第に落ち着きが無くなり、フランス軍が先住民族の助けを借りて、アメリカ人植民者が西へ移動できる経路を封鎖してしまう行動に出たことで、小競り合いが起こり、それが1754年のフレンチ・インディアン戦争に発展し、1756年にはヨーロッパ主要強国も全て巻き込む七年戦争になった。1757年には大規模なフランス海軍を動員してイギリス軍によるルイブールを襲撃する試みを排除するも、翌1758年には仏海軍の支援が不十分で、大規模なイギリス軍の共同作戦でルイブール包囲を許し、フランス軍降伏で終わった。この要塞はフランス軍が将来利用することのないよう1760年にイギリス軍工兵隊によって破壊された。
ロドニー提督艦隊支援のルイスバーグの戦いはこちら
参考HP:~
ルイブールの場所地図(ケープ・ブレトン島)

第一次カーナティック戦争
  (First Carnatic Wars, 1744-1748)
・などが勃発。

・結末、一連の戦争は1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)で終結。オーストリアはシュレージエンと北イタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われるも、上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどはすべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保。相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し、イギリスとの植民地戦争も中途半端に終わった。プロイセンのフリードリヒ2世のみがシェレージエンをオーストリアから奪い、数々の戦闘で軍事的才能を発揮し、「大王」と謳われることになった。しかし、ヨーロッパの勢力均衡はこの戦争で決着したわけではなく、フリードリヒ大王が意図しなかったにもかかわらず、やがて七年戦争で再び同じ場所が戦場となった。

・休戦条約:~オーストリア継承戦争の講和条約
 ・第二次アーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)
   (Treaty of Aix-la-Chapelle (Treaty of Aachen), 1748/10/18)
 イギリス、フランス、オランダ、ボヘミア、ハンガリー、スペイン、モデナ、ジェノヴァ共和国
1)占領地の返還
ニューイングランド植民地軍が占領したロワイヤル島(現ケープ・ブレトン島)のルイブール要塞がフランスに返還され、またマドラスがフランスからイギリスに、防壁条約で定められた要塞都市がフランスからオランダに返還された
2)フェリペ王子はスペインのパルマ公国・ピアチェンツァ公国・グアスタッラ公国を獲得
3)モデナ公とジェノヴァ共和国はその地位を回復
4)1713/3/16に締結されたイギリスのアシエント契約が更新される
5)1718年の条約で定められたプロテスタントによるイギリス王位継承の条項を更新
6)神聖ローマ皇帝フランツ1世の承認
7)国事詔書の承認。すなわち、マリア・テレジアのハプスブルク家相続権を容認
8)プロイセン王国のシュレージエン(シュレージエン公国とグラーツ伯領)領有を確認。
参考HP:~
ヨーロッパ 1738年の勢力地地図
 (ウィーン条約(1738)後のヨーロッパ、ハプスブルク家などの勢力地図)


・第4次英蘭戦争の記
 (Fourth Anglo-Dutch War, 1780-1784)イギリスの勝利
  ・ジョージ3世(George III、1738-1820)
   ハノーヴァー家第3代イギリス国王(在位:1760-1820)
  ・オラニエ公ウィレム5世
   (Willem V van Oranje-Nassau, 1748-1806)
   最後のオランダ総督(在位1751-1795)
  ・第1次英蘭戦争第2次英蘭戦争第3次英蘭戦争
オランダの地図

オランダ  1972 発行
第4次英蘭戦争はイギリスネーデルラント連邦共和国(オランダ)の戦争で、アメリカ独立戦争(1775-1783)とほぼ同時期の戦争。オランダがイギリスの敵国との貿易を継続したこととその適法性をめぐる英蘭間の紛争に起因。オランダは正式にはアメリカ合衆国とその同盟国と同盟を締結せずも、米国のジョン・アダムズ大使(John Adams、1735-1826、後の第2代(1797-1801)米国大統領)は1782/4/19にオランダとの外交関係の樹立に成功、オランダは大陸会議を承認する外国としては2番目の国となった。 イギリス艦隊

ガーンジイ 1990 発行
10月には友好通商条約も締結された。戦争の大半はイギリスによるオランダ植民地への軍事行動に終始したが、ヨーロッパ水域ではオランダ沖で一度戦っただけにとどまった。戦争はオランダにとって災難的な結果に終わり、同国の政治と経済基盤の脆弱さが露呈した。 戦場は北海、オランダ領インド(現インドネシア)、オランダ領セイロン島スマトラ島カリブ海オランダ領ケープ植民地など。
オランダ国内のアメリカ独立戦争支持派やオランダ商人、特にアムステルダムの商人はアメリカ独立戦争の開戦直後から反乱軍への武器と弾薬の提供に関わる貿易をしていた
ジョン・アダムズ

USA 1938 発行
ので、イギリスの軍事援助の要請を拒否して、オランダ政府は七年戦争で中立を守ったのと同様に中立政策をとった。その結果として陸軍と海軍の整備を怠っていた。なお、この貿易は主にオランダ西インド会社のカリブ海植民地であるシント・ユースタティウス島の積替港(Entrepot:集散地)を経由して行われた。たばこやインディゴなどアメリカ植民地の産物は(イギリスの航海条例に反して)シント・ユースタティウス島に輸出された後、ヨーロッパに再輸出される。戻りの便ではオランダやフランス商人がシント・ユースタティウス島に運んだ武器、弾薬、船用需品が運ばれた。1778年にはオランダがイギリス側で参戦することを拒否。フランスがイギリスに宣戦布告した後、アムステルダムの商人は船用需品をフランスにも売るようになった。

イギリスは1780年12月にオランダに宣戦布告。開戦から数週間で、オランダ艦隊の貧弱さと北海の制海権をそのままイギリスの海上封鎖艦隊に譲った結果、オランダ商船200隻がイギリスに拿捕され、さらに300隻が外国の港に封鎖された。戦争自体は主に3つの戦場で戦われた。イギリスはヨーロッパにおけるオランダの港口を海上封鎖、世界中のオランダ植民地に遠征してそれを占領した。アフリカのオランダ領黄金海岸(現ガーナ)にあるエルミナ城への遠征攻撃のみ失敗した。西インドでも多くのオランダ領土がイギリスに奪取されるも、キュラソー島などは守備の堅さにより攻撃されなかった。

(1)ヨーロッパの戦闘
ドッガー・バンクの海戦を除き、ヨーロッパ水域では大規模な海戦が起こらず、イギリスによる海上封鎖はオランダ艦隊からほとんど挑戦されずも、海上封鎖自体はイギリスの海員に悪影響を及ぼした。すなわち、イギリスの海員は海上封鎖を維持するために長期間海上に残る必要があり(ときには壊血病の危機にも晒された)、船体も消耗していた。また、北海の制海権を保つ必要があるため、すでにあちこちで戦わなければならなかったイギリス海軍は1781年以降さらに緊迫した状態になった。オランダ海岸の海上封鎖を維持するために使った船は対フランス、アメリカ、スペインで使えず、1781年以降のイギリス海軍の敗北の一因となった可能性がある。
オランダ船

USA  1924 発行

(2)西インドの戦闘(カリブ海
オランダにとって、西インド諸島における戦争はほぼ開戦前に終結していた。イギリス海軍のリーワード諸島駐屯地の指揮官であるジョージ・ロドニー提督は宣戦布告の報せが届くと即座に出撃、まだ開戦を知らない多くのオランダ軍艦や商船を驚かしつつカリブ海のオランダ植民地、すなわちシント・ユースタティウス島、サバ島、シント・マールテンを攻撃した。シント・ユースタティウス島は1781/2/3に占領され、それまでアメリカ反乱軍への武器提供に重要な役割を果たしていただけあってロドニー提督に完全に破壊された。ロドニー提督は特にシント・ユースタティウス島のユダヤ人商人に報復した。島にあった全ての貨物は
西インド諸島の地図

アンチグア  1972 発行
没収され、オランダ人、アメリカ人、フランス人、イギリス人にかかわらず商人全員が追放された。戦利品の一部はその場で競売にかけられるも、多くがイギリス行きの護送船団に載せられた。この護送船団の多くは後に英仏海峡でフランス艦隊に拿捕されるも、フランスは貨物をオランダに返還せず。オランダ領リーワード・アンティル諸島とオランダ領スリナムは攻撃されるもオランダ領に留まり、一方近隣のエセキボ植民地(Essequibo)、ベルビセ植民地(Berbice)、デメララ植民地(Demerara)は1781年にイギリスに占領された。これらの植民地は1782年にフランスのアルマン・ド・ケルサン(Armand de Kersaint, 1742-1793)に奪回され、戦後にオランダに返還された。

(3)アジアの戦闘
オランダ東インド会社はそれまで、ケープ植民地より東にある自身の植民地を自分で守る責任を負ったが、第四次英蘭戦争ではじめてオランダ海軍からの援助を必要とした。しかし、最初は船が不足し、使える海軍だけではイギリスがオランダ植民地を実効支配することを防げなかった(例えば、インドのオランダ植民地は全て占領された)。1782/1/11にイギリスのヒューズ提督はセイロン島東海岸ベンガル湾港口のトリンコマリーを占領した。1781/3月にイギリスのジョンストン提督はケープ植民地を占領すべく派遣された。すでにインドに艦隊を派遣することを計画していたフランスはケープ植民地侵攻に関する情報を得て、インドに派遣される予定のサフレン提督艦隊に
インドの地図

インド 1943 発行
ジョンストン提督よりも早くケープ植民地に到着することを試みるよう命じた。ジョンストン提督とサフレン提督がポルト・プラヤの海戦を戦った後、サフレン提督はエロース号に乗艦してジョンストン提督よりも早く到着することに成功。フランス軍の実力でジョンストン提督に植民地攻撃を取りやめさせた。サルダーニャ湾の海戦(Battle of Saldanha Bay, 1781/7/21)でオランダ東インド会社の船を5隻拿捕した後、ジョンストン提督は北大西洋水域に戻った。サフレン提督はそのままイル・ド・フランス(現モーリシャス)、続いてインドに向かった。インドに到着すると、ヒューズ提督に対し軍事行動を起こした。例えば、1781年にイギリスに占領されたインド南部タミル・ナードゥ州のオランダ領ナーガパッティナムの奪回を試みるも、ヒューズ提督に阻まれ失敗。8月にはトリンコマリの海戦トリンコマリーを再占領、海戦ではヒューズ提督と膠着に持ち込むことに成功。その後は両艦隊とも撤退。イギリスはボンベイで、フランスはオランダ植民地のスマトラ島で艦隊の修理を行った。両艦隊は1783年のカッダロールの海戦で再び交戦、またしても決着せずも、このときには講和交渉が進んでいるとの報せがインドにも届いた。スマトラでは1781/8月に開戦の報せが届いた。オランダとイギリスの東インド会社ともスマトラに交易所を設けているも、イギリス側のマールバラ砦(Fort Marlborough)へはスマトラ西海岸にある全てのオランダ交易地を破壊せよとの命令が届いた。イギリス東インド会社当局は行動を起こし、オランダ東インド会社の総督ヤコブ・ファン・ヘームスケルク(Jacob van Heemskerk)は、戦わないままスマトラ西海岸全ての交易地を代表して降伏。パダンは1784年にオランダ東インド会社に返還されるも、パダンの要塞は返還の前に破壊された。戦争はオランダにとって壊滅的な結果に終わり、特に経済で大打撃を受けた。また18世紀におけるオランダの勢力の衰退を証明した形となった。
休戦条約(1748二次アーヘン)、パリ条約(1763北アメリカ)、パリ条約(1763インド)。

・ナーガパッティナム包囲戦
 (Siege of Nagapattinam、1781/10/21-11/11)
ナーガパッティナム包囲戦は第四次英蘭戦争で、イギリスがオランダに宣戦布告したという報せがインドに届いた後のはじめての戦い。イギリス軍がインド東海岸にあるオランダ領コロマンデル(Dutch Coromandel)の首都ナーガパッティナム港を包囲した後、要塞に穴を開けて降伏させた戦い。
インドの地図

インド 1957/4/1 発行
オランダの籠城軍はヨーロッパ人が500人、現地人が5,500人で、マイソール王国のハイダル・アリーが2,000人の援軍を派遣。多くのイギリス陸軍が第二次マイソール戦争でハイダル・アリーに釘付けにされ、イギリス東インド会社のエア・クート中将(Lieutenant-General Sir Eyre Coote, KB, 1726-1783)はオランダへの攻撃に反対している中、マドラス総督ジョージ・マカートニー(George Macartney, 1st Earl Macartney, KB, 1737-1806)は4千人以上の兵士を募ることに成功し、ヒューズ提督の支援も得てオランダとマイソールの守備軍を撃破して占領。

・ドッガー・バンクの海戦
 (Battle of the Dogger Bank、1781/8/5)、引分
イギリスの東方約100km沖合いにある北海の浅瀬の広大な砂堆であるドッガー・バンクの海戦は、第4次英蘭戦争中にアメリカ独立戦争の一部として北海のドッガーバンク海域で行われた海戦。イギリスのハイド・パーカー中将(Vice-Admiral Sir Hyde Parker, 5th Baronet, 1714-1782)艦隊とオランダのヨハン・ゾウトマン中将(Johan Arnold Zoutman, 1724-1793)艦隊とが、船団護送任務を遂行中に遭遇して激しい戦いを繰りひろげた。
オランダ・ガレオン船
ハーフムーン号

ドミニカ 2009 発行
オランダが対英同盟に加わったため、イギリス政府は、北海での通商を保護するために他方面から艦隊の一部を引き上げるなどのやりくりをせざるを得なかった。パーカー艦隊は戦列艦7隻、そのうち旗艦フォーティテュード号とバーウィック号の2隻以外は廃棄寸前の老朽艦を急遽再装備したもので、砲数を減らすなどの措置が取られた艦だった。バルト海から戻る船団を護衛するパーカー提督艦隊と、バルト海に向かう船団を護衛するゾウトマン提督艦隊は8/5朝にドッガーバンクで遭遇し、ただちに戦闘に突入。戦闘は昼近くまで続き、双方ともに喪失艦はなかったものの、おびただしい死傷者を出した。ゾウトマン提督は艦隊をまとめるとテッセル島方面に避退。一方、パーカー艦隊は老朽艦に著しい損害が出ていたため、これを追跡することができなかった。戦闘後のオランダ艦隊は船団とともに自国に戻った。オランダは戦勝を祝うも、オランダ艦隊はその後、戦争が終わるまで港を出ようとはしなかった。そしてオランダの通商貿易はイギリスの巡航艦(海上を哨戒して敵艦を拿捕または攻撃する軍艦)によって海から一掃されてしまった。イギリス艦隊は任務を果し、バルト海からの船団を無事本国に連れ帰った。パーカー提督は勝利を称えられるも、自分の任務のために十分な装備が与えられなかったと考え、堅い辞意を表明。
艦 隊 主力 その他 司令官
・オランダ 7隻 6隻 ゾウトマン提督
・イギリス 7隻 フリゲート艦6隻
カッター艦1隻
パーカー提督
艦隊の編成:~
イギリス艦隊 戦列艦 イギリス・フリゲート艦
ドルフィン号(右)

セントヘレナ 1998 発行
・バーウィック号 Berwick 74
ドルフィン号 Dolphin 44
・バッファロー号 Buffalo 60
・フォーティテュード号 Fortitude 74 旗艦
・プリンセス・アミリア号 Princess Amelia 80
・プレストン号 Preston 50
・ビヤンフザン号 Bienfaisant 64
・ベル・ポール号 Belle Poule 36 ブライ航海長
・クレオパトラ号 Cleopatra 32
アルトワ号 Artois 40 マクブライド艦長
・ラトナ号 Latona 38
・ベルプーレ号 Belle Poule 36
・クレオパトラ号 Cleopatra 32
・サプライズ号 Surprise 14
オランダ艦隊
オランダ戦列艦
デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン号

オランダ 1957 発行
・エルププリンツ号 Erfprins 54
・アドミラル・ジェネラル号 Admiraal Generaal 74
・アルゴ号 Argo 40
・バタビア号 Batavier 50
・アドミラル・デ・ロイテル号 Admiraal de Ruijter 68 旗艦
・アドミラル・ピート・ハイン号 Admiraal Piet Hein 56
・ホラント号 Holland 68
・その他
・ベローナ号 Bellona 36
・ドルフィン号 Dolfijn 24
・アヤックス号 Ajax 20
・エンクホイゼン号 Eensgezindheit 36
・ゼファー号 Zephijr 36
・アンフィトリテ号 Amphitrite 36

フリゲート艦、c:カッター艦
参考HP:~
ドッガー・バンクの場所地地図

こちらで
サフレン提督
・戦歴(2):七年戦争(海戦)
・戦歴(3):アメリカ独立支援戦争
・戦歴(4):アメリカ独立革命戦争
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.3/12/2(2021)
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