United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
ジョージ・ロドニー提督
1782
セインツの海戦、勝利

大航海物語
 イギリス編

POLYNESE FRANCAISE
帆船の海戦図
セインツの海戦
ロドニ
|
提督
ラペル
|
ズ船
1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976
ポリネシア 1976 発行

Saint Lucia
ロドニー提督 と グラス提督

セントルシア 1982/4/13 発行
ANTIGUA
ロド二ー提督と英戦艦”フォーミタブル号

HMS Formidable
アンチグア 1970/8/19 発行


イギリス&フランスの艦隊
 グアドループ島→
  バステール

マリーガラント 島→



「セインツの海戦」地図



←マルティニーク島
 ポートロイアル

←セントルシア島
 カストリーズ
1782 セインツの海戦200年記念 1982
セントルシア 1982/4/13 発行

イングランド生まれのロドニー提督は13才で海に出て、1762年の「マルティニークの戦い」でフォート・ロイアル包囲攻撃に勝利し、1780年「サン・ビセンテ岬の月光の海戦」でスペインのランガラ提督艦隊を撃破、1782年「セインツの海戦」でフランスのグラス提督艦隊に勝利などで目覚しい活躍をし、1782/8月に63才で故国イギリスに帰って国中から大歓迎を受け、男爵となってロンドンで静かな余生を送りました。
提督ジョージ・ブリッジス・ロドニー、初代ロドニー子爵 (1719/2/13〜1792/5/24)
 Admiral George Brydges Rodney, 1st Baron Rodney, RN
(naval officer), KB(バス勲爵士)
・年 表:生涯リスト
・従 軍:従軍の海戦歴
ルイスバーグの戦い
スペイン護送船団との遭遇戦
仏ル・アーヴル襲撃

ロドニー提督はイングランドのサリー州エルムブリッジ・ウォルトン町(Walton-On-Thames 、Elmbridge district、Surrey county、England)で生まれました。家族はサマーセット州のロドニー・ストーク町(Rodney Stoke, Somerset county、England)に住んでいました。父親はピーターバラ伯爵のもとでスペインに従軍して1713年解散した海兵隊で大尉として退役。ロドニー提督はハーロー校(Harrow School)に寄宿、1732/6/21に志願兵で少尉候補生(warrant、volunteer)としてサンダーランド号(Sunderland)に乗組みました。地中海艦隊(Mediterranean station)でドルフィン号(HMS Dolphin、20-gun sixth-rate,Frigates)乗組み中の1739/2/15に海軍大尉(lieutenant)に昇進。プリマス号(HMS Plymouth 、60-gun fourth rate ship)乗組み中の1739/11/9に海軍大佐(post-captain)。1747/10/14にはイーグル号(HMS Eagle 58-gun fourth rate ship of the line、1130t)艦長となり、フィニステレ岬はスペイン北東端のフィニステレ岬沖での「第二次フィニステレ岬の海戦、1747/10/25」で、ホーク提督艦隊に所属して、フランス艦隊に勝利し、勇猛果敢さを発揮して最初の栄冠勲章を勝ち取りました。

1749/5/9に代将(Commodore)に昇進、ニューファウンドランドの第16代総督(Governor 1749-1749)での艦隊司令官に任命され、主にイギリスの漁業権益の確保に努めましました。1751年コーンウォール州サルタッシュ町(Saltash、Cornwall, England)選出の国会議会議員(MP、Members of Parliament)に選ばれ、1752年にコンプトン伯爵(Charles Compton, 7th Earl of Northampton 1737-1763)の姉ジェーン・コンプトン(Jane Compton, 1730-1757)と最初の結婚。7年戦争(Seven Years' War 1756-1763)の1757年にフランスのシャラント・マリティーム県ロシュフォールで戦列艦ダブリン号(HMS Dublin was a 74-gun third rate ship of the line、1562t)に乗艦して活躍。 1758年にボスコーウェン提督の下でカナダのケープブレトン島での「ルイスバーグの戦い」を闘い勝利。1759/5/19に海軍少将(rear-admiral)に昇進した直後に、イギリス海岸侵略のために仏ル・アーヴル(Le Havre、northwest region France, 1759)に終結していたフランス艦隊などをロドニー小艦隊が2昼夜に渡って艦砲射撃で撃破して、イギリス海岸侵略を阻止しました。
ロドニー艦隊の構成:〜(詳細
・60門戦列艦アキリーズ号(旗艦)、50門戦列艦4隻、フリゲート艦5隻、スループ艦1隻、爆弾ケッチ艦6隻。

1760/7には小艦隊でフランスのディエップ(Dieppe、Seine-Maritime departmen、Haute-Normandie region、France)を封鎖して多数の平底船を捕獲しました。
1761年にコーンウォールのペンリンから下院議員(Penryn、MP)に選ばれました。
1761/10にカリブ海のリーワード諸島基地司令官(Leeward Islands station)となり大西洋を横断してドミニカ島の艦隊基地に渡り、1762/1〜3はマルティニーク作戦(British expedition against Martinique)を指揮して勝利しました。マルティニーク作戦は、1762/1/5にロドニー艦隊に支援されたイギリス軍がフランスのマルチニーク島首都フォート・ロイアル(Fort Royal)を攻撃して「マルチニークの戦い」が起こり、イギリス軍がフォート・ロイアルを囲んで、海からは艦砲射撃。2/3にフォート・ロイアル降伏。さらにセントルシア島の首都カストリーズとグレナダ島を攻略しました。パリ和平条約(Treaty of Paris 1763)で終結しました。

1763年に平和が戻りイギリスへ帰国して青色艦隊中将(Vice-Admiral of the Blue、中将では3番目の階級)となり、議会から感謝の勲章を授与されました。1764年に準男爵(baronet)、同じ年にリスボンのジョン・クリーズの令嬢ヘンリエッタ(Henrietta、daughter of John Clies of Lisbon)と2度目の結婚をしました。1765〜1770は名誉職のグリニッジ海軍病院の院長(Greenwich Hospital in London)。1768年の議会解散のときに莫大な費用を掛けてノーサンプトンの議席を獲得。1771年ジャマイカ島派遣艦隊(Jamaica station 1771-1774)総司令官となり、平和な時期だったので海軍基地の改良に携わりました。大ブリテン海軍中将(Vice-Admiral of Great Britain=Vice-Admiral of the United Kingdom)名誉職を受領。ロドニー提督はジャマイカの総督になれなかったことに失望を感じて職を退き、選挙費用の借金でイギリスへ帰国できずフランスへ渡りパリに住み、流行の先端を行く社交界での贅沢な浪費で財産を使い果たし、大ブリテン海軍少将の給料も確保できませんでした。1778/2月に白色艦隊の大将(大将では2番目)に昇進。パリの友人である仏陸軍元帥バイロン公爵(ルイ・アントワーヌ・デ・ゴントー=バイロン:Marshal Louis Antoine de Gontaut-Biron, duc de Biron, 1700-1788)が借金を肩代わりしてくれるなどによってなんとか財政の問題を片付け、子供達を連れて5月までにロンドンに帰国。負債は帰還の時に未払い分給与から返済しました。

1779年にリーワード諸島派遣艦隊の総司令官(commander-in-chief of the Leeward Islands)に再度任命されドミニカ島基地へ艦隊と共に向かう途中、ロドニー艦隊18隻はスペインによって封鎖されていたジブラルタルの救援に赴く命を受け急行中の1780/1/8に、スペインのフィニステレ岬(Cabo Finisterre)沖でスペインから出撃した戦列艦9隻からなるランガラ提督指揮の小艦隊を捕捉して追跡、1780/1/16の月夜にポルトガルのサン・ビセンテ岬沖で「サン・ビセンテ岬の月光の海戦」を戦いました。この海戦はアメリカの独立戦争(1775-1783)の一部としてイギリス艦隊とスペイン艦隊の間で闘われ、イギリス艦隊が勝利しました。
イギリス〜ジブラルタルの航路地図

Geral Elliot 1717-1790 & Great Siege 1779-1783
ジブラルタル 1967 発行
エリオ

ト提




西インド諸島では、1780/4/17にフランスのグッシェン提督とマルティニーク島沖で戦った「マルティニーク島の海戦」が起こりましたが、ロドニーの部下の艦長の命令誤解のせいで決着は着きませんでした。ロドニー提督がその年の早くにオランダ参戦(第四次英蘭戦争)の報を聞いていて、1781/2/3に戦時禁制品の大きな保管場所(そこはオランダ領で中立国貿易の大きな貨物集散地)であったセント・ユースタティウス島を占領。ロドニー提督は戦利品の確保と売却を独り占めし、新しく着任した副将フッド提督にも係わらせなかったとして告発され、しかもそれらの多くはイギリス商人のものだったので、金の掛かる一連の訴訟に巻き込まれました。

1781/8に健康を害して帰国していたロドニー提督に代わって、指揮を取っていた副司令官フッド提督は劣勢の艦隊を率いながら、セントクリストファー・ネイビス島のバセテール(Basseterre)を根拠地としてフランス艦隊と何度も戦いました。フランスの次の目標はスペインと連合してジャマイカ島を攻撃することでした。ロドニー提督が援軍を連れてイギリスから戻り、1782/4/9にフランス艦隊と遭遇して追跡し、1782/4/12のドミニカ島沖でのセインツの海戦でイギリス艦隊35隻でグラス提督のフランス艦隊33隻を撃破し、決定的な勝利を勝ち取りました。この重要な戦闘の結果ジャマイカ島は守備されフランスの優位は失われ、これ以後、西インド諸島では特別な作戦行動はありませんでした。

ロドニー提督は1782/8に故国に帰還し、国中から絶大な賞賛を受けました。その前の1782/6/19の勅許でサマセット州ロドニー・ストーク(Rodney Stoke parish, Somerset county, South West England region, England)のロドニー男爵となっており、イギリスの議会は投票によってロドニーに年2,000ポンドの年金を与えることを決定。その後、ロンドンで静かな余生を送り73才で亡くなりました。男爵位は息子のジョージ(1753-1802)に受け継がれ現在も続いています。 08/9/29

・ロドニー提督の略年表:〜
 記  事 座乗艦
1719/02/13  0 イングランドのサリー州エルムブリッジ・ウォルトン町で誕生
1732/06/21 13 志願兵で、准士官 サンダーランド号
1739/02/15 20 地中海方面で従軍中、海軍大尉に昇進 ドルフィン号
1739/11/09 20 海軍大佐 プリマス号
1742/09/09 23 本国海域での従軍後に勅任艦長 プリマス号
1747/10/25 28 フィニステレ岬の海戦を艦長でフランス艦隊に勝利、初叙勲 イーグル号
1749/05/09 30 ニューファウンドランド島総督兼司令長官、代将に昇進し漁業権益確保
1751 32 サルタシュ選出の国会議員
1753 34 ジェーン・コンプトンと最初の結婚
1756 37 七年戦争の勃発(〜1763)
1757 38 フランスのロシュフォール攻撃遠征 ダブリン号
1757 38 ジェーン夫人が逝去
1758 39 ケープ・ブレトン島のルイブール要塞攻略戦、勝利 ダブリン号
1759/05/19 40 海軍少将、小戦艦隊でル・アーヴル攻撃でフランス艦隊のイギリス侵攻を阻止 アキレス号
1760/07 41 小戦艦隊でフランス戦闘船隊を捕獲、ディエップまでの海岸を封鎖
1761 42 コーンウォールのペンリン選出の下院議員
1761/10 42 リーワード派遣艦隊の総司令官
1762/01/05 42 フランスの重要な拠点「マルティニークの戦い」勃発 マールボロ号
1762/02/03 42 マルティニークのフォート・ロイアルが降伏、セントルシア島とグレナダ島を攻略、勝利
1762/03/03 43 モンクトン将軍のセントルシア、グレナダ、セントヴィンセントからの引き上げ支援完了
1763 44 青色艦隊の中将、休戦で帰国、両院議会から感謝状受領
1764 45 準男爵、リスボンのジョン・クリーズの娘ヘンリエッタと2度目の結婚
1765 46 グリニッジ海軍病院の院長(〜1770)
1768 49 議会解散で莫大な費用を掛けてノーサンプトンの国会議員の議席を得た
1771 52 ジャマイカ基地の総司令官(〜1774)、グリニッジを失職、数ヵ月後に名誉職大ブリテン海軍中将
1774 55 ジャマイカ総司令官退職,、その後しばらくパリに在住、社交界で散在
1775 56 アメリカ独立戦争勃発(〜1783、1783年のパリ条約)
1778/02 58 白色艦隊の大将(大将では2番目)
1778/05 59 パリの友人ド・ベロン元帥が借金を肩代わり、子供達を連れてロンドンに帰国
1779 60 この年遅く、再びリーワード諸島派遣艦隊の総司令官、途上にジブラルタル包囲の解放命令
1780/01/08 60 フィニステレ岬沖でスペインの船団を捕獲 サンドイッチ号
1780/01/16 60 サンビセンテ岬の月光の海戦でランガラ提督を破り, 6隻の戦列艦を捕獲,1隻を破壊, サンドイッチ号
1780/04/17 61 フランスのグッシェン提督とマルティニーク島の海戦、決着は着かず サンドイッチ号
1781/02/03 61 シント・ユースタティウス島を占領、莫大な戦利品を没収、イギリス商人と一連の訴訟
1782/02 62 数ヵ月間の帰国後、議会で弁明し、西インド諸島の指揮に戻る
1782/04/09 63 フランス艦隊と遭遇してこれを追跡
1782/04/12 63 セインツの海戦で勝利 フォーミタブル号
1782/06/19 63 勅許でサマセット州ロドニー・ストークのロドニー男爵に叙任
1782/08 63 帰国し、国中から大歓迎(絶大な賞賛)を受けた
1792/05/24 73 ロンドンで73才逝去。

・ロドニー提督の従軍略年表:〜
オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession, 1740-1748) 座乗艦 Ship(砲)
フィニステレ岬の海戦 Second Battle of Cape Finisterre(1747) イーグル号 Eagle(60)
七年戦争(Seven Years' War, 1756-1763)
ロシュフォール襲撃 Raid on Rochefort(1759/9) ダブリン号 Dublin(74)
ル・アーヴル襲撃 Raid on Le Havre(1759/7/3-7/5) アキリーズ号 Achilles(60)
ルイブール要塞攻略戦 Siege of Louisbourg(1758/6/8-7/26) ダブリン号
マルティニーク島侵攻 British expedition against Martinique (1762)  マールボロ号 Marlborough(68)
グレナダ島侵攻 British expedition against Grenada (1762) マールボロ号
セントルシア島侵攻 British expedition against St Lucia (1762) マールボロ号
キューバ島侵攻ハバナの戦い Siege of Havana1762)戦後洋上マールボロ号沈没 アンテロープ号 Antelope(50)
アメリカ独立戦争(American War of Independence, 1775-1783)
スペイン護送船団との遭遇戦 Cape Finisterre (Action of 8 January 1780)  サンドイッチ号 Sandwich(90)
サンビセンテ岬の月光の海戦 Battle of Cape St. Vincent (1780/1/16) サンドイッチ号
ジブラルタル包囲戦 Relief of Gibraltar(Great Siege of Gibraltar,1779-1783) Sandwich(90)
マルティニーク島の海戦 Battle of Martinique (1780) サンドイッチ号
フランスのトバゴ島侵攻 French invasion of Tobago (1781/6/2) ?号 (?)
セインツの海戦 Battle of the Saintes (1782) フォーミタブル号 Formidable(98)
第四次英蘭戦争 Fourth Anglo-Dutch War (1780-1784)
シントユースタティウス島侵攻 Capture of Sint Eustatius (1781) ?号 (?)
など。

・フォーミダブル号の装備:〜
  HMS Formidable
、1777
船 型 イギリス2等戦列艦
(98-gun Second-rate ship of the line)
イギリス戦列艦
フォーミタブル号
帆 柱 3本
全 長 54m
全 幅 15m
喫 水 6.4m
重 量 1,965屯
進 水 1777年、チャタム(Chatham, Kent, England)
乗組員 750人(officers & men)
最 後 1813年、解体処分
武 装
艦首甲板 9ポンド砲 2門 (艦首の甲板) (Forecastle)
上部砲列甲板 12ポンド砲 30門 (上甲板の砲列甲板) (Upper gundeck)
ミドルガンデッキ 18ポンド砲 30門 (中甲板の砲列甲板) (Middle gundeck)
ガンデッキ 32ポンド砲 28門 (下甲板の砲列甲板) (Gundeck)
クォーターデッキ 12ポンド砲 8門 (後甲板の砲列甲板) (Quarter deck) 合計:砲98門


第二次ルイスバーグの戦い
(Siege of Louisbourg、Cape Breton Island, 1758/6/8-7/26)
於:ノバスコシア州ケープブレトン地域ケープブレトン島東部ルイスバーグ
(Cape Breton Regional Municipality、Canada、略称:CBRM)
1758年にロドニー提督はルイブール要塞包囲戦(第二次, 1758/6/8-7/26)を支援するため、ボスコーウェン提督のもとでカナダのケープブレトン島沖でルイスバーグの海戦をダブリン号(HMS Dublin 74-gun third rate ship of the line of the Royal Navy 1587t)を指揮して闘い勝利。
ルイズバーグ要塞

カナダ 1985/6/28 発行
・ルイスバーグの戦い、戦力と損害
イギリス軍 フランス軍 1749 ハリファックス200年 1949

ノバスコシア半島のハリファックスが
1749年に建設されました

カナダ 1949/6/21 発行

兵士 14,000 soldiers 3,500 soldiers
海兵隊 12,000 sailors and marines 3,500 sailors and marines
船舶 150 transport vessels 5 ships of the line
カラック船 40 men-o-war

戦死 172 killed 102 killed
負傷 355 wounded 303 wounded
降伏 6,600 surrendered
炎上 4 ships of the line burned
拿捕 1 taken
※ルイスバーグの海戦はこちら


・スペイン護送船団とイギリス艦隊の遭遇戦
 (Action of 8 January、1780/1/8)
 別名:フィニステレ岬1月8日海戦、イギリスの勝利
 戦場:スペイン北西部フィニステレ岬沖(フィニステレ岬はスペイン北西端に有)
  (英:フィニステレ岬:Cape St. Vincent、ポ:サン・ヴィセンテ岬:Cabo de Sao Vicente)

フィニステレ岬の場所地図
.(Cape Finisterre, Galicia, Spain)

CABO VERDE
スペインの場所地図(茶色)

トルデシリャス条約 500年 記念
カーボ・ヴェルデ 1993 発行


.
ESPANA.




フィニステレ岬→



スペイン北西フィニステレ岬
サンチャゴ巡礼路の地図
スペイン 1971 発行

スペイン護送船団との遭遇戦は、スペイン北西フィニステレ岬沖で、ジブラルタル救援に向かう途中のロドニー提督イギリス艦隊と、司令官ドン・ファン・オーガスティン・デ・ヤルディ提督(Don Juan Augustin de Yardi, Captain Don Tomas de Malay)のスペイン艦隊7隻に守られたカラカスの王立ギプスコア会社(Royal Guipuzcoan Company of Caracas, 1728-1785)輸送船15隻の護送船団との遭遇海戦で、海戦中にスペインの護送船団全体が捕獲されました。
その数日後に ロドニー艦隊はサンビセンテ岬沖の海戦(サン・ビセンテ岬「月光の海戦」, 1780/1/16)で、再びスペイン艦隊と交戦しました。
スペイン戦列艦
サンテズマ・トリニダード号

スペイン 1964 発行
・序章
1779年にアメリカ独立戦争に突入したスペインの主要な目標の1つは、1704年にイギリスに奪われていたジブラルタルの回復でした。その結果、それはスペインが、イギリスのジブラルタルの駐屯軍を封鎖して飢えさせてのジブラルタル奪還計画でした。包囲は1779/6月に開始され、スペインはロック周辺の土地を封鎖しました。海上封鎖は比較的弱く、イギリスは小型高速船が封鎖を回避できるのに対し、低速で大型の補給船は回避できないことを発見しました。しかし、1779年後半までに、ジブラルタルの物資は深刻に枯渇し、初代ヒースフィールド男爵エリオット将軍(General George Augustus Eliott, 1st Baron Heathfield, KB, PC,1717-1790)はロンドンに救援を求めました。イギリスで補給船団が組織され、1779/12月下旬にロドニー提督の大規模な艦隊がイギリスから出帆しました。ロドニー提督の最終目的地は西インド諸島でしたが、ロドニー提督は最初にジブラルタルとバレアレス諸島北東部メノルカに補給する密命を受けていました。
・海戦
サン・ヴィセンテ岬1月8日海戦は、1779/12月下旬にイギリスを出帆したロドニー艦隊は、
1/4に西インド諸島行きのイギリス輸送船団を護衛するフリゲート艦隊(frigates Fleet)
・戦列艦ヘクター号艦長ジョンハミルトン卿(HMS Hector, Capt. Sir John Hamilton)、旗艦
・フリゲート艦フェニックス号艦長パーカー大尉(HMS Phoenix, Capt. Hyde Parker,1739-1807)
・フリゲート艦隊アンドロメダ号ブリン艦長(HMS Andromeda, Capt. H. Bryne)
・フリゲート艦隊グレイハウンド号ディクソン艦長(HMS Greyhound, Capt. William Dickson)
を分離して別れました。
翌日の1/5にロドニー艦隊は、スペインのバスク州ギプスコア県サン・セバスティアン(San Sebastian, Guipuzcoa, Basque, Spain)からカディスに向かうスペインの護送船団22隻に遭遇。銅板張り(Copper sheathing)のロドニー艦隊は速度が速くてスペイン船団を追跡して追いつき、商船の輸送船1隻を取り逃がしたものの、その他21隻の護送船団全体を捕獲しました。カディスのスペイン艦隊とロイヤル・カラカス・カンパニーの輸送梱包品積載の輸送船は、HMSアメリカ号とHMSパール号に護衛させてイギリスに送り返しました。
・その後
ロドニー艦隊はスペイン船団の積載していた食料をジブラルタルのイギリス軍へ輸送して救援しました。ロドニー提督は捕獲したスペイン艦隊の旗艦64門戦列艦ギプスコアナ号を、皇太子ウィリアム王子(ウィリアム4世 (William IV, (William Henry)、1765-在位:1830-1837)の婚約式典に列席したのに敬意を表して、プリンス・ウィリアム号(HMS Prince William)と改名しました。
・イギリス・スペイン艦隊の編成:〜
英スの艦隊 主力 その他 司令官
・イギリス 戦列艦20隻 フリゲート艦6隻 ロドニー提督
・スペイン 戦列艦1隻
小戦艦2隻
フリゲート艦4隻、商船15隻 ヤルディ提督
イギリス艦隊の編成:〜
イギリス艦隊 戦列艦(Ship:HMS) メモ
・サンドイッチ号 Sandwich 90 ロドニー提督
・プリンスジョージ号 Prince George 98 イギリスの戦列艦 ロイアル・ジョージ号

BIOT 1999 発行
ロイアルジョージ号 Royal George 100
・アルサイド号 Alcide 74
エイジャックス号 Ajax 74
・ベッドフォード号 Bedford 74
・カローデン号 Culloden 74
・カンバーランド号 Cumberland 74
・エドガー号 Edgar 74
・モンターギュー号 Montagu 74
モナーク号 Monarch 74 イギリスの戦列艦 ”エイジャックス号

リベリア 1972 発行
・シュルーズベリー号 Shrewsbury 74
・テリブル号 Terrible 74
・レゾリューション号 Resolution 74
・インヴィンシブル号 Invincible 74
・ディフェンス号 Defence 74
・マールバラ号 Marlborough 74
・ダブリン号 Dublin 74
・アメリカ号 America 64
・ビエンファイザント号 Bienfaisant 64 マクブライド艦長
・コンヴァート号 Convert 32 フリゲート艦
・パール号 Pearl 28 フリゲート艦
・トライトン号 Triton 24 フリゲート艦
・ペガサス号 Pegasus 24 フリゲート艦
・ポーキュパイン号 Porcupine 24 フリゲート艦
・ヒャエナ号 Hyaena 24 フリゲート艦
スペイン艦隊の編成:〜
カラカス社艦隊(Caracas Co) 戦列艦(Ship) メモ
・ギプスコア号 Guipuzcoano 64 ヤーディ提督
・サン・カルロス号 San Carlos 32 小戦艦
・サン・ラファエル号 San Rafael 30 小戦艦
・サン・タテレサ号 Santa Teresa 28 フリゲート艦
・サン・ブルーノ号 San Bruno 26 フリゲート艦
・サン・フェルミン号 San Fermin 16 フリゲート艦
・サン・ビセンテ号 San Vicente 10 フリゲート艦
・商船 Merchant Vessel 輸 送船, 15隻。
参考HP:〜
フィニステレ岬岬の場所地図(スペインの地図、フィニステレ岬はスペイン北西端)


・仏ル・アーヴル襲撃
(Raid on Le Havre 1759/7/3-5)
フランスでは1759年の夏までに公爵ショワズール将軍の侵攻計画が進行中で、大西洋のフランスの港に沿ってブレスト(Brest)、ルアーブル(Le Havre)、ロシュフォール(Rochefort)、トゥーロン(Toulon)で集中的な準備が行われていました。襲撃軍は主にダンケルク(Dunkirk)、サントメール(Saint-Omer)、オステンド(Ostend)、リール(Lille)、ヴァンヌ(Vannes)の多くの地点に集結。チョイスル(Choiseul)は、ルアーブルがセーヌ川(Seine river、780km)にあり、軍隊移動が他のどのフランス
帆船ブルーノーズ号

(schooner Bluenose)
カナダ 1929/1/8 発行
の港よりもはるかに容易だったため、ルアーブルがイングランド襲撃での主要基地になることを決定しました。イギリス軍は、フランス軍が軍隊を乗船させる目的でルアーブルに多数の平底船(ボート:flat bottomed boat)を用意していたという情報を受け取っていた。
1759/7/2にロドニー艦隊16隻がスピットヘッド(Spithead)を出帆し、ルアーブル沖に到着・停泊して、ホンフルール(Honfleur)につながる川の狭い水路に爆弾艦を配置。翌7/3にその狭い水路に集められていた平底船と物資への攻撃を開始。3,000発以上の砲弾を主要な標的の砲台、ボート、そして町に50時間連続で発射。砲撃はフランスに甚大な被害をもたらしました。多数のフランス軍が岸に降りてきて、塹壕と砲台から反撃して活発に銃砲撃するも、ロドニー艦隊はほとんど無傷。町は何ヵ所かで火事になり、住民が逃げまどう間に激しく炎上しました。ロドニー艦隊は港外で数々の戦利品を獲得しました。
・ロドニー小艦隊の構成:〜(Rodney's Small Squadron) 帆船ケッチ型船

カナダ 1977 発行
戦列艦、5隻 (Ships of the line)
・アキリーズ号 Achilles 60 旗艦、ロドニー座乗
・チャタム号 Chatham 50
・デプトフォード号 Deptford 50
・イシス号 Isis 50
・ノリッジ号 Norwich 50
フリゲート艦、5隻 (Frigates)
・ブリリアント号 Brilliant 36
・ジュノー号 Juno 36
・ヴェスタル号 Vestal 32 フッド艦長
・ボレアス号 Boreas 28
・ユニコーン号 Unicorn 28 グレイブス艦長
スループ艦、1隻 (Sloop)
・ウォルフ号 Wolf 8
爆弾ケッチ艦、6隻 (Bomb Ketches)
・フルネイス号 Furnace
・ファイアドレイク号 Firedrake
・バジリスク号 Basilisk
・モルタル号 Mortar
・カルカス号 Carcass
・ブラスト号 Blast 合計17隻。
参考HP:〜
ル・アーヴルの場所地図(フランスの地図)
ル・アーヴル港の場所地図(ル・アーヴル市街地の地図)

こちらで
サフレン提督
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/7/7 令和 R.4/2/13(2022)
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