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★スペイン | 副王 ラ・ガスカ 1548 ゴンサロ・ピサロを処刑 |
大航海物語★ |
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ESPANA ペドロ・デ・ラ・ガスカ副王 新世界の建設者 Builders of the New World スペイン 1962/10/12 発行 |
BOLIVIA ペドロ・デ・ラ・ガスカ副王 ペルーの調停者 Pacificador del Peru ボリヴィア 1962 発行 |
CORREOS de BOLIVIA ラ・パス市建設、完成 1548/10/20 メンドーザに街の建設を命じるガスカ副王 1548 ラパズ市建設400年記念 1948 ボリビア 1951/3 発行に 料金改訂 1957/2/14 加刷発行 |
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ESPANA 新大陸からスペインへお宝を運んだ スパニッシュ・キャラック船 Spanish Carrack スペインから新大陸へは人と物資を輸送 スペイン 1964/7/16 発行 |
REPUBLICA ARGENTINA 南アメリカの地図 アルゼンチン 1935〜51 発行 |
ラ・ガスカは1546年51才で反乱鎮圧のため第2代ペルー副王として大西洋を横断して新大陸に渡りました。1548年反乱軍を打ち破りペルーを平定しました。1550年スペインへ帰国し、巨額の財宝を国王への土産として持ち帰りました。帰国後は国王の良き助言者として活躍、82才でスペイン・バリャドリードで亡くなりました。 |
ペドロ・デ・ラ・ガスカ (1485〜1567、副王在位1547〜1550) Pedro de La Gasca 生地:カスティーリャ・イ・レオン州アビラ県サンタ・マリア・デ・ロス・カヴァリョス生 没地:カスティーリャ・ラ・マンチャ州グアダラハラ県シグエンサ、82才没 ラ・ガスカはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州アビラ県サンタ・マリア・デ・ロス・カヴァリョス(Santa Maria de los Caballeros, Provincia de Avila, Castilla y Leon, Spain)で生れ、サラマンカ大学で神学を学びました。彼が歴史に登場するのは55才で1540年頃のことです。異端審問所の一員となって、スペイン・バレンシア地方へ派遣された時からです。当地の異端者の状況調査や財政、司法の査察を行い、ベルベル人海賊の侵入、フランスやトルコの侵入に備え、地中海沿岸防備の強化を指導し手腕を発揮しました。 ラ・ガスカはゴンサロ・ピサロがペルーで反乱を起し、前任の副王ブラスコ・ヌニェス・べラがゴンサロとの戦いに敗れて殺害されたため、その反乱鎮圧のため、1547年62才でペルーに副王として派遣されました。 スペイン人コンキスタドール(征服者)達はエンコミエンダを下賜されたエンコメンデロとして、新世界に定着しょうとしていましたが、国王はエンコミエンダを極力制限しました。1543年8月「インディアス新法」を公布してエンコミエンダの新設と世襲を禁止しました。この新法はメキシコやペルーのエンコメンデロ、すなわち新世界の実力者達を大いに刺激し、スペインのアメリカ植民地に大きな動揺を引き起こしました。ペルーには”新法”を布告するためと、スペイン人コンキスタドール同士の内紛を収拾しアウディエンシア統治(最高司法行政機関)を実施するため、副王べラが派遣されました。副王べラが”新法”の実施をあせったため、ゴンサロが”新法”に反対するエンコメンデロの先頭に立って抵抗しました。1546/1/18にエクアドルのアニャキートで副王軍を破り、副王べラを殺害しました。そして北はパナマから、南はチリに至る南アメリカ大陸西側の支配権が反乱軍に味方するエンコミエンダ所有者達に握られました。その後、スペイン人エンコメンデロ達はゴンサロをペルー総督に選び、ゴンサロは2年余にわたってアンデスから西側地方の実質上の支配者として君臨し、あたかも独立国の様相を呈しました。しかし、ゴンサロは行政的手腕に欠けており、その施政は専制的、かつ残忍でした。反対する者達を容赦なく処刑しましたので、人心はだんだんと離れてゆきました。ゴンサロはフランシスコ・ピサロとは異母弟で、ピサロに誘われて1531年に新世界のペルーに来ていました。彼は兄フランシコがペルーのリマでアルマグロの残党に1541/8/26暗殺されましたので、兄の築いた新大陸での財産を引き継ぐ形となっていました。 ヨーロッパ最強を誇るスペイン国王カルロス1世は、神聖ローマ帝国では皇帝カール5世でもあり、この新大陸での反乱に激怒、反乱軍鎮圧に最もふさわしい人物として、60才のラ・ガスカを選任しました。ラ・ガスカは引き受ける条件として無制限の権限を国王から与えられ、1546年ペルーへ出発しました。随行員は秘書と召使一人ずつで肩書きはアウディエンシア議長でしたが、彼はゴンサロやペルーの有力者に宛てた国王の手紙、”新法”によるエンコミエンダ制廃止を撤回する勅令、国庫金を自由に裁量できる権限、死刑から大赦に至るまでの完全な司法権を与えられていました。さらに国王のサインだけが書かれた羊皮紙を多数持参していました。 パナマ一帯が反乱軍の支配下にあったため、ガスカ副王はコロンビアのサンタマルタ港(Santa Marta)に上陸しました。彼が少数の部下しか連れていなかったため、現地の人々は警戒を解き”新法”の部分的撤回を表明したためもあり、パナマの有力者と軍隊を味方にすることに成功しました。その後ペルーの反乱軍の有力者へ「なだめたり、すかしたり」の手紙作戦での懐柔策をとりました。1547年中頃ペルー北部に上陸、現地の国王忠誠派スペイン人と合流。こうしてペルーに到着したガスカは”新法”の修正の布告と反逆者の特赦を打ち出し、ゴンサロの組織の切り崩しを行いましたので、ゴンサロの現地での不人気ともあいまって十分な味方兵力の集結に成功しました。 1548/4/9に両軍はクスコ近くの平原”サクサワナ”(ハキハワナ)で対決、ガスカ副王軍がゴンサロ・ピサロ軍を打ち破りました。お互いに小部隊で両軍あわせて1500人位であったといわれています。反乱軍は敗走し、ゴンサロは腹心の重臣フランシスコ・ド・カルバハ−ルと共に捕えられ、ガスカ副王が任命した2人の裁判官によって反逆罪での有罪を宣告され、翌朝処刑されました。ガスカ副王はその後の2年間、陣頭指揮にあたって、ペルーでの国王の権威の回復に努めました。
1550年1月スペインへ帰国し、国王への土産として、巨額の財宝を贈りました。国王カルロス1世はバレンシア、その後シグエンサの司教職を彼に手に入れてやって、その功に報いました。ラ・ガスカは聖職者として、またペルーをはじめ新世界の良き助言者として国王に仕え、異端審問所の一員としても活躍しました。ラ・ガスカは1567年にカスティーリャ・ラ・マンチャ州グアダラハラ県シグエンサ(Siguenza, Guadalajara, Castilla-La Mancha)で亡くなると、多大の財政的援助をしていたバリャドリードのマグダレ−ナ教会に埋葬されました。 参考地図HP:〜 ・サンタ・マルタの場所地図(コロンビアのマグダレーナ県の地図) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/6/23追記 |