United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Adventure Voyage)私掠船(III-1
ジョン・ホーキンス船長
1562
カリブ海の私掠船航海
サンホワンデウルーアの戦い サンフアンの戦い マリア・ピタ
大航海物語
 イギリス編

BAHAMAS
ジョン・ホーキンス船長

バハマ 2003/3/18 発行

Saint Kitts and Nevis Anguilla
ホ|キンス船長 ドレ|ク船長
セントクリストファー・ネヴィス・アンギラ 1970/2/1 発行
Correos del Ecuador
海賊船の旗印

エクアドル  2006/12/29 発行


女王エリザベス1世 と アルマダの海戦

セントヘレナ 2005/9/7 発行

イングランド・プリマス生まれのホーキンス船長はカリブ海でのポルトガル・スペインに対する私掠船という名の海賊大遠征航海で大儲けをしましたが、3回目の時に「サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い」が勃発して、ほうほうのていで故国に生還しました。その後、英国海軍の財務官になって、その体験を生かして海軍の整備に貢献しました。スペイン無敵艦隊「アルマダ」の来襲では、フランスのカレーを襲撃して戦果を挙げました。戦後もカリブ海への私掠船航海をなし、プエルト・リコの「サン・ファンの戦い」で傷つき、故国へ帰ることも無くカリブ海の藻屑と消え去りました。
提督ジョン・ホーキンス卿
 Admiral Sir John Hawkins(1532〜1595/11/12)
ホーキンス船長はイングランド王ヘンリー8世の寵臣の父ウィリアム・ホーキンス船長(William Hawkins、1562-1563)の子供として、英国デヴォン州(#1@6)プリマス(Plymouth)で1532年に生まれたイングランドの海賊、私掠船船長、奴隷商人、海軍提督で、フランシス・ドレーク船長の従弟(いとこ)でした。プリマスで父の事業を手伝ってアフリカ奴隷貿易にたづ触りましたが、1560年にロンドンへ移りました。

ホーキンス船長の大航海:〜
第1回航海(1562-1563)〜ロンドン〜アフリカ〜カリブ海〜ロンドン
第2回航海(1564-1565)〜ロンドン〜アフリカ〜カリブ海〜ロンドン
第3回航海(1567-1569)〜サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い

▼第1回航海(1562-1563)
1562/10にロンドンで3隻の船団
・サロマン号(Saloman)
・ジョナス号(Jonas)
・スワロー号( Swallow)
を仕立てて、アフリカのシエラレオーネを経て、カリブ海への航海に出帆。シエラレオーネに到着して奴隷を獲得しました。カリブ海ではポルトガル船を襲って301人の奴隷を分捕り、さらに2隻のスペイン船を襲いました。イスパニョーラ島サントドミンゴ(Santo Domingo、現:ドミニカ共和国首都)で奴隷を売り払い、ロンドンの出資者に利益を分けました。1563/8には最初のアフリカからカリブ海とアメリカ南海岸方面への奴隷貿易に従事しました。

▼第2回航海(1564-1565)
1564/10月に女王エリザベス1世から大型の古い戦列艦
・ジーザス・オブ・ルーベック号(English carrack Jesus of Lubeck、700-ton ship)の提供を受け、
・持ち船〜小型船3隻
と4隻の船団を組んで、1564/10/18にプリマスを出帆。アフリカへと向かい、アフリカで黒人奴隷を船積みして、1565/1/29にアフリカを出帆。1565/4/3にヴェネズエラ・カラボボ州(Carabobo, #7)海岸の町で1548年に建設されていたバルブラタ(Borburata)に到着。ところが、スペインのペルー総督カストロ(在任1564-1569)の許可なしには取引できないと通告されたので、船の負担を軽減し、病人を回復させるために、痩せて病気の黒人の一部を売却する許可を求めました。何日にもわたる交渉の末、地元の役人はついに、総督の決定を待つ間、数人の奴隷を購入することに同意しました。その後、コロンビアのランチェリア川(Rio Rancheria, 150km)河口の町リオ・デ・ラ・ハチャ(Rio de la Hacha)へ向かい、そこで奴隷を売ろうとしましたが、スペインは法外な税金を要求して妨害しました。そこで武力を行使しょうと、ホーキンス船長は「町を燃やすぞ!」と脅して、やっと売り切りました。それは、奴隷300人・衣類・リネン・ワインを売り、対価に金・銀・その他の貴重な品々を受けとる取引となりました。帰国の準備で飲料水が必要になったので、フロリダフランスの植民地フォートキャロライン砦(Fort Caroline, 1564-1565)へと出帆。そこでフランスの植民者が物質不足で困っているのを見つけると、自分の最小の船と大量の食料を提供し、フランスに戻る準備をしていた彼らがもはや必要としなかった大砲、火薬、砲弾と交換しました。ホーキンス船長から得た食料で、フランスの植民者は生き残って帰国する準備をすることができました。1566/9月にホーキンス船長はイギリスに戻りました。遠征は成功したので援助者達には多額の配当金が分配(60%?)されて支払われました。

1567年にホーキンズ船長は英海軍会計官(Treasurer of the Navy)で海軍初代測量士(Navy Surveyor)ゴンソン(Benjamin Gonson, 1525頃-1577)の娘キャサリン(Katherine Gonson, 1591没)とロンドンで結婚しました。キャサリン夫人没後に女王エリザベス1世の側近チャールズ・ヴォーン(Charles Vaughan, 1529頃-1574頃)の娘マーガレット・ヴォーン(Margaret Vaughan , 1619没)と再婚しました。

▼第3回航海(1567-1569)
  サン・ファン・デ・ウルーアの戦い(於:ベラクルス, 1568/9/23)
1567/10/2に従兄のフランシス・ドレーク船長と共に
カラック船ジーザス・オブ・ルーベック号(Englishl carrack Jesus of Lubeck, John Hawkins)
・ミニオン号(Minion、John Hampton)
・ジョン号(John、Thomas Bolton)
・ウィリアム号(William)
バーク船ジュディス号(Barques Judith、Francis Drake)
・バーク船エンジェル号(Barques Angel)
・バーク船スワロー号(Barques Swallow)
の7隻で構成してプリマスを出帆。1567/10月にポルトガルの奴隷船マドレ・デ・デウス号(Madre de Deus、神の母=Mother of God)を襲い、400人の奴隷をガーナ沖の洋上で奪い、カリブ海方面で売り払いました。1568/9月アフリカで奴隷を積み込みカリブ海へ向かい、カリブ海で大嵐にあってサン・ファン・デ・ウルーアにジーザス・オブ・ルーベック号の修理に寄港するも、スペインのヌエバ・エスパーニャ副王マルティン・エンリケス(1510頃-在任1568-1580-1583/3/12)は許可せず、海賊船だとしてスペイン軍が攻撃。船団7隻の内4隻が沈没、500人が死亡、2隻だけが脱出に成功し、ホーキンス船長のミニオン号とドレーク船長のジュディス号はみじめな航海の後、イギリスへ帰港しました。1569/2月にもアフリカの奴隷貿易に航海しました。

サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い
 
(Battle of San Juan de Ulua、1568/9/23、現メキシコ(Veracruz)ベラクルス)
1568/9月に再びカリブ海に現れたホーキンズ船長の船団7隻は嵐のためスペイン領の”サン・ホワン・デ・ウルーア島”の港に退避しました。そこに、スペインの船団12隻がやってきました。ホーキンズ船長はあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだのですが……スペイン側の指揮官はホーキンズ船長を「海賊」と決めつけて、攻撃してきました。ホーキンズ船長たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走しました。うち1隻は夜中に黙って姿を消し、ホーキンズ船長の手元に残った小型船1隻は逃走の時に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員過剰になっていました。食糧の不足に苦しんだ船員の内100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリスに生還したのは、ホーキンズ船長以下15人だけで、メキシコで降りた連中は原住民かスペイン人に捕まって殺されるか、運が良くてもガレー船の漕ぎて奴隷にされてしまいました。ホーキンス船長の砲手ハートップ(Job Hartop)の悲惨な生還物語などが生まれました。

▼その後(1570-1587)
1571年のリドルフィ策略事件(Ridolfi plot、Roberto Ridolfi or di Ridolfo 1531-1612)でエリザベス1世の花婿候補にもなったノーフォーク侯爵の陰謀がホーキンズ船長らの通報で発覚して、ノーフォーク侯は9ヵ月の自宅軟禁後、1571/9/7にロンドン塔に投獄されました。ホーキンズ船長はその褒美に英国議会の議員に登用され、義父ゴンソンの没後に跡を継ぎ、英海軍財務官(1577/11/26-1595/11/12)になり、サン・ファン・デ・ウルーアの体験を生かして英国海軍を整備しました。

▼スペイン無敵艦隊「アルマダ」の来襲(Spanish Armada, 1588)
1588年に海軍中将(vice admiral)になりヴィクトリー号(Victory)に乗船、ドレーク船長、フロビジャー船長とドーバー海峡(カレー海峡)にあるフランス北部オー=ド=フランス地域圏(#9)パ・ド・カレー県のカレー(Calais)を火船で攻撃しました。1588/7月スペイン無敵艦隊の来襲に勝利して、1588/7/26にエリザベス1世女王に爵位(Sir)を叙勲されナイト(騎士)に叙せられました。

1589年にエリザベス女王の命でドレーク・ノリス遠征艦隊(Drake-Norris Expedition Fleet)で、ノリス将軍(Sir General John Norris 1547-1597)の軍隊と共に、スペイン北部のア・コルーニャ(A Coruna, #12-40)を攻撃しました。
爵位(ナイト)親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行
イギリス軍は戦列艦(Ships of the line)6隻、私掠船(Armed merchant vessels)60隻、オランダの補助船フライボート(Flyboat、70-200t)60隻、補給船ピンネス(Pinnace)20隻、兵士23,000人という編成での襲撃でしたが、ア・コルーニャの町は兵士15,000人、ガレオン船4隻と、マリア・ピタ(Maria Pita、1565-1643)を先頭に市民達がイギリスの侵略に対抗し、イギリス軍は修道院を焼いた後、沈没30隻、戦死13,000人、行方不明5,000人という損害を出して撤退しました。なお、記録されているスペイン軍側の戦死は900人で、その他多数の市民の犠牲が有りました。

1590年にはドレーク船長と、「病気と老齢の船乗り」を救済する「チャリティーの会」を開催し、1592年にその資金で病院を造り、1594年はに「ホーキンス病院」と名付けられました。救済のチャリティーは現在に引き継がれて継続されています。

▼ジャガイモ・タバコ・サメ
1563年頃にホーキンス船長がジャガイモ(Potatoes)をイングランドアイルランドに輸入しました。
1569年頃にホーキンス船長がタバコ(Tobacco)をイギリスに輸入しました。
1569年にホーキンス船長の乗組員(メキシコのユカタン半島(Yucatan, #30)のマヤ人)がサメ(sharks)の皮をイギリスに輸入しロンドンで展示販売。1593年にホーキンス船長がイギリス人として最初にガラパゴス諸島に寄港しました。

▼ホーキンス船長の最後
1595/1/25にプエルト・リコのサン・ファン(#65)にてサンフアンの戦い(Battle of San Juan 1595、Fort San Felipe del Morro、Puerto Rico)でサン・ファンのモーロ要塞を27隻の艦隊と2500人で襲撃、街を焼き払うも占領できずに、要塞からの砲撃でかなりの損害を受けました。ドレーク船長は乗船が命中弾を受けて負傷しました。ホーキンス船長はプエルト・リコ(Puerto Rico)の海上にて熱病で亡くなりました。ホーキンス船長の息子リチャード(Admiral Sir Richard Hawkins, 1562-1622)は父親の仕事を引き継ぎ提督になりました。

・サン・フアンの戦い
 (Battle of San Juan、1595/11/22-11/25)
 (於:サン・フェリペ・デル・モロ要塞、Fort San Felipe del Morro、Puerto Rico)
 (対戦国:イギリス・スペイン、結果:スペイン勝利)
1595/11月にホーキンス船長とドレーク船長は27隻の船団に兵士2,500人で、プエルトリコのサン・フアンに侵攻。11/22にドレーク艦隊は27隻でプエルトリコ沖に到着し、ボケロン海峡に停泊。サン・フアンへ侵攻しようとサン・ファン島の東端のエンセナーダ・デル・エスカンブロンに進出。11/23に上陸しょうと、スペイン防衛艦隊を攻撃して炎上させるも、スペイン砲兵隊の反撃で、ドレイク船長のディファイアンス号が命中弾をあびて多数の死傷者をだし大破。11/23にドレーク船長は艦隊をサン・ファン湾のイスラ・デ・カブラス付近に移動させ、11/25にドレーク艦隊はサン・ファンを放棄してパナマへ向けて出帆し撤退しました。
モーロ要塞

USA 1971 発行発行
・スペイン艦隊〜フリゲート艦5隻
 ・サンタ・イサベル号(Sta.Ysabel)消火
 ・マグダレーナ号(Magdalena)炎上
 ・サンクタ・クララ号(Sancta Clara)消火
 ・カピターナ号(Capitana)消火
 ・他1隻。
なお、ホーキンス船長は1595/11/12にプエルトリコの沖合の海上で亡くなっていたので戦いには参加できませんでした。

・マリア・フェルナンデス・デ・カマラ・イ・ピタ
(Maria Fernandez de Camara y Pita, 1565-1643/2/21)
マリアはマリア・ピタ(Maria Pita)とも呼ばれ、1589年にスペイン本土に対するイギリス艦隊の攻撃に対して、スペイン北部ガリシア州ア・コルーニャ(#12-40)を防衛したヒロインでした。
<コルーニャの防衛>スペイン勝利
1589/5/4、イギリス軍12,000人が下町を占領し、旧市街の防衛線を突破・攻撃してきました。マリア・ピタはスペイン防衛隊の陸軍大尉の夫を補佐していたので、夫が致命傷を負うと怒って、丁度そこに来たイギリス大尉の「旗付き槍」を奪い取り、それでイギリス大尉を倒しました。それを見たイギリス軍は士気を喪失して撤退し始めました。
コルーニャの民族衣装

スペイン 1970 発行
その後、マリア・ピタが城壁の上に現れて「街を守りたい人は誰でも私についてきなさい!」と叫んで、他の女性たちもコルーニャの防衛に直接参加したと伝えられています。イギリス軍は包囲を放棄して艦隊で撤退しました。マリア・ピタはその英雄的な功績を、国王フェリペ2世に称賛されて褒美に陸軍大尉の年金を授与されました。

参考HP〜
スペイン北部ア・コルーニャの戦い地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2009/7/17、12/7/13、12/9/17、令和7年 2025/9/25
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