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★ポルトガル | ジョアン・デ・リスボア船長 1525 アズマールの戦いに航海従軍 |
大航海物語★ |
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PORTUGAL ポルトガルの航海者リスボア ポルトガル 1990−94 発行 |
PORTUGAL 16世紀ポルトガル・カラベル船 ポルトガル 1943 発行 |
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モロッコ→ |
アフリカの地図 セネガル川4ヵ国会議記念 ギニア 1970/2/3 発行 |
インド洋の地図 SULTANATE of OMAN オマーン 1981/11/23 発行 |
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ジョアン・デ・リスボア (生年没年不詳、15〜16世紀頃) Joao de Lisboa ジョアン・リスボアはポルトガルで帆船に乗組んでいました。そして、航海の経験をつんでパイロット(水先案内人)となり、インドへ向かうポルトガルの遠征船団に参加しました。1497年にリスボンを出帆したバスコ・ダ・ガマのインド遠征艦隊のパイロットの一人だったという説もあります。 1506年にリスボアは、トリスタン・ダ・クーニャがインド対岸の東アフリカ海岸への遠征作戦を指揮した15隻の船隊に水先案内人として参加して出帆しました。その遠征航海は急な国王の命令でホルムズ(Ormuz、Strait of Hormuz)攻撃の隠密航海となり、その途中、嵐で南アフリカ西方へと流され、南大西洋上に有るトリスタン・ダ・クーニャ諸島を発見した航海となりました。 1415年にセウタがポルトガルに征服されると、1513/8/28〜29にポルトガルとフェズ王国(ワッタース朝モロッコ(Wattasid dynasty、1472〜1554))との「アズマールの戦い」(Battle of Azamor、1513/8/23-39)が起こり、ポルトガルの戦勝で大西洋岸の港がことごとくポルトガルに占領されました。リスボアはそのアズマール攻撃戦にパイロット(水先案内人)として従軍しました。 1518年にディオゴ・ロペス・デ・セケイラ(Diogo Lopes de Sequeira、第4代インド副王:1518-1522)のパイロットとして東アフリカ海岸からインドへ航海。1525年にフィリップ・デ・カストロ(Filipe de Castro)のパイロットとして東アフリカ海岸を航海、などでポルトガルからインドへのパイロットとして、16世紀に活躍しました。 参考:〜 ・アズマールの戦い (1513/8/28-29) Battle of Azamor アズマールの戦いはポルトガルとムーア人(ベルベル人)の王国で、マリーン朝モロッコ(1195〜1470 首都:フェズ)の次のフェズを首都としたワッタース朝モロッコ(Wattasid dynasty、1472〜1554)が戦った戦い。この戦いにはフェルディナンド・マゼランも従軍していて膝に重傷を負いました。なお、ワッタース朝モロッコは1472年に建国するも、サアド朝が1509年にモロッコ南部に成立してモロッコの南部を支配し、ワッタース朝はモロッコの北部のみを支配することになり、1554年にサアド朝がモロッコ全土を支配して滅亡。
王母は到着後に亡くなる 1502年、ポルトガルがアル・ジャディーダ(El Jadida)を占領 入植したポルトガル人が建造した城塞に囲まれた旧市街が 2004年にユネスコの世界遺産に登録 1505年、ポルトガルがアガディール(Agadir)を占領 1506年、ポルトガルがグーリミーヌ(Souira Guedima)を占領 1522年、フェズで地震が起こり多大な被害を受ける 1511年、サアド朝がラバト(Rabat、現:モロッコの首都)を占領 1524年、サアド朝がマラケシュ(marrakish、北アフリカ最高峰トゥブカル山 4165m有)を占領 1541年、ワッタース朝がアガディール(Agadir)をポルトガルから奪還、再占領 1545年、サアド朝がムハンマド・アッ=シャイフがフェズを急襲、ワッタース家はオスマン帝国の スレイマン1世に救援とし和睦の仲介をもとめるが不調 1549年、サアド朝勢力がフェズに入城、最後の国王ワッタース王を捕らえる 1550年、サアド朝が首都フェズを占領ワッタース朝滅亡 1554年、逃亡した王弟アブー・ハサンがスペイン王フェリペ2世とオスマン帝国の後ろ盾のあるアルジェー海賊の支援でフェズを占領するも、オスマン帝国の介入を嫌った占領地のモロッコ人が謀反したため、同年中にサアド朝にフェズを奪還されワッタース朝が消滅 参考HP:〜 ・1525:フェズ王国とポルトガル支配地の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/8/5 |